8
インチュアン〈銀川〉は光の奔流の中にいた。修行に打ちこむ若きジンイエ〈金夜〉が見える。
懐かしい。
だが、足りない
心が腹をすかせている。
寂寥感が満ちる。
足りなくて満ちるとは、
若き日とは矛盾おおきものだ。
遠くを見るジンイエ。
焦点の定まらない瞳。
「わたしは赤竜を切らない」と、ジンイエは言った。
インチュアンは、とまどった。
のちに知る。
凄まじき師姐もまた少女だったのだと。
ただ、それだけのことだったのだと。
胸が燃え、光が踊る。
喜び。
悦び。
歓び。
それから、嫉妬。
あの日の笑顔の理由がわかる。
突然、世界の底から黒い触手があらわれる。
光をむしばみ、懐旧をくらう。
かつてのジンイエが消える。
押しよせる狂気。
どす黒い想念が頭の芯をおかし、
手足の先まで染めあげる。
インチュアンは見た。
ジンイエがふるえる手で抱きあげた、
その魂を引き裂いた、痛ましき――。
神気合同から覚醒し、インチュアンは尻餅をついた。血まみれの両手をすり合わせて顔を覆う。呼吸が荒い。
「インチュアン!」
ハンオウ〈韓応〉が呼ぶ。
「こちら側にいるか? インチュアン!」
インチュアンはハンオウを手で制して立ちあがった。
どちらの陽神もすでにない。轟々と燃える炎が森を茜にそめ、樹々は薙ぎたおされ、地面はえぐられて悲鳴のように煙が立ち昇る。炎の熱気と焦げる臭い。
右頬がまだ燻っていたが、ジンイエは人の姿にもどっていた。ずたずたの衣装から見えるのは、木肌ではなく人肌だ。
「ウェンも、シンも、スイルまで……くそう!」
ハンオウが陽気を込めずに手近の岩を殴った。岩がくだけて拳が裂けた。
インチュアンは、ひざまずいてジンイエの肩の下に手を入れて上半身を起こした。
インチュアンの後頭部周辺に光があらわれる。こんどの光はあたたかく、おだやかだ。
ジンイエの目がひらいた。
「インチュアン……ひさしぶり。あいかわらず蘇生は下手ね」
「師姐、ふところのものを出せ」
インチュアンが厳しい表情で言った。
「いや」
ジンイエが子供のように首をふる。
「出すんだ」
「いやよ。だめ……やめて……」
ジンイエは、インチュアンが伸ばした手を振り払った。
インチュアンは刃のならぶ右腕をふるい、爆風で小屋を炎ごと吹き飛ばした。
ジンイエが守るように自分の体を抱く。
「いい加減にしろ、師姐――ジンイエ!」
ジンイエの両手首をつかみ、強引にひらく。血にぬれた刃の腕に、雷に焼かれた細腕があらがう。
インチュアンはジンイエのふところに手を入れ、冬瓜ほどの布の包みを取った。ジンイエは包みを追って手を伸ばし、地に伏した。
インチュアンが包みをひらく。ジンイエはかたく目を閉ざし、涙が頬に黒い筋を引いている。
「あんたらしくない――あまりに、あんたらしくない。向き合え、ジンイエ!」
ジンイエの目がおずおずとひらいた。あの婚礼の日、喜びにかがやいていた瞳が、いまは悲しみと疲労でにごっている。
ジンイエが母猫を呼ぶ子猫のように鳴いた。
インチュアンがそっと差し上げているのは、両手におさまるほどの真っ黒に萎びたミイラだった。
戦いの余韻去らぬ峨眉山麗の森を、ひとりの母親の悲しみが引き裂いた。
インチュアンが天を仰ぐ。夜空には、ただ星影またたくばかり。広成子丹は、ふたたび歴史の闇に消えた。
ハンオウはスイルの亡骸へもどる途中、栗鼠の死骸を見つけ、一緒に葬った。




