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岩瀬絵美は突然、槇則に強く抱き寄せられた。驚いたが、胸を熱くして身を任せる。
「ダメ、傷が開いちゃう……」
唇を塞がれる。下腹の奥に小さな灯がともった。
「ん……ダメ……先生……」
絵美が胸を押すと、槇則は、いっそう唇を押しつけてきた。
「痛むんだ……麻酔が切れるのが恐い……」
「でも、傷が――」
「絵美……」
槇則は、ふたりのときだけの呼び名を使った。
人は来ない。患者や他の看護師がいる待合室から、だいぶ奥まった脳波検査室だから――だけではない。部屋に入るとき、後ろ手で鍵を閉めておいた。――こんなこともあろうかと思って。
(これが不倫の快感。これでいいの。きっと、これで)
血圧が高くなって傷が開きはしないかと心配だったが、キスを続けた。
槇則の全身から力が抜けるのを確認して、口を離す。
「またあとで、ゆっくりね」
絵美は槇則の腰に跨がって、左耳の包帯を調べた。案の定、血が滲んでいる。
「傷、開いてるから、ゼリーと包帯変えないとね」
まとわりつく槇則の手を優しく押しもどして、ワゴンから止血ゼリーと新しい包帯を取る。
「そのアメリカの女医さん、袴田さんを治せるの?」
「……無理だろうな。アメリアは天才だけど、さすがにな」
槇則が女医のファーストネームを口にするのを聞いて、絵美は胸が痛んだ。
(でもアメリカだと、それが普通なのかも。それより――)
「もし、女医さんが袴田さんを治せなかったら、私たち、どうなっちゃうのかな」
槇則の身体が、ぴくりと動いた。自分の手が止まっていることに気づいて、絵美は処置を再開した。槇則の頭に包帯を巻いていく。
と、槇則の身体が小刻みに震えだした。
「先生?」
「もっと早く気づくことはできたかもしれないが、彼女の死自体は俺の責任ではない。それを彼に言ってみよう」
「大丈夫よ、先生――大丈夫」
絵美は槇則の頭を胸に抱いた。柔らかいものに埋もれれば、誰だって柔らかくなる――それが女性の癒しの本質だと絵美は信じている。
槇則は溜め息をついた。
「なんで、こんなことになったんだろうな。親父のあとを継いで地元に貢献してきたのにな。それだけじゃあ、足りなかったかな」
「足りなくないよ、先生は頑張ってる」
絵美は、じっと槇則の頭を抱いていたが、ふと、言った。
「ねえ先生。あいつにとって袴田さんは大切な存在だよね。だって、あんなに必死に助けようとするんだから。だからね、先生。袴田さんを人質にしたら、あいつ困るんじゃないかな。いうこと、聞くんじゃないかな」
槇則が絵美の胸から顔を上げた。絵美は続けた。
「このことを警察の人に言うの。そうして、袴田さんを保護してもらう。あいつには強引に連れて行かれたって言おうよ。そうしたら縁が切れるし、袴田さんはもう難しいんだし、うちで亡くなったら、どんなことされるか分からないよ」
絵美は立ちあがった。
「わたし、お廻りさんに言ってくる」
槇則が絵美の手を掴んだ。
「駄目だ。赤鉄アカムだぞ、無理だ」
「そんなことない」
「お前だって診察室にいたろ? あいつは化け物だ。最後は暴力でひっくり返されるだけだ」
そのとき、脳波検査室の扉を誰かがノックした。急いで身支度をして扉をあけると、ポニーテールの看護師が青い顔をして立っていた。
診察室に近づくと、甲高い声が聞こえた。
「ふざけないで! さっさと私をもどしなさい!」
英語だ。
槇則に続いて、絵美も待合室に入る。がらんとしたフロアの真ん中で、赤鉄アカムに金髪の白人女性が食ってかかっている。
「アメリア」
槇則が言った。
絵美は、そこに赤鉄アカムがいるのが信じられず、腕時計を確認した。赤鉄アカムが発ってから、まだ1時間しか経っていない。この短時間でアメリカに行って帰ってきたのだろうか。
白人女性が振り向く。
「サチオ!? これはなんなの? このモンスターはなに? 説明して!」
英語が苦手な絵美でも、女性がものすごく怒っていることはわかった。しかし、絵美にとってより重要なのは、その女医が30代にしか見えないモデルのような美人だということだった。




