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エレベーターから居室までのあいだ、アメリアは誰にも会わなかった。エイベル脳科学研究所の人口密度は低いので、珍しいことではないが、妙な胸騒ぎがする。階下が騒がしいような気もするし――否、気のせいか。
(心を静めましょう、アメリア)
居室のドアを開けると、心安まる気配が身を包んだ。実家のドアを開けたときの10分の1くらいの安らぎだが、こうなるまでに2年かかった。白衣を脱いで椅子にかける。
アメリアが自分の特殊な能力に気づいたのは、ジュニアハイスクールのときだ。妊娠しているのにバスケットボールをやっている友達を注意した。友達は泣き叫んで家に帰り、両親を巻き込んで大事件になった。だれも、友達本人さえ、妊娠していることを知らなかったのだ。
アメリアは、その能力をヴィジョンと名付けた。ヴィジョンは、様々な病変を発見することができる。
アメリアの能力は地元で有名になり、診察を望む人が増えた。ついに対応できない数になって、困ったアメリアは、ハーバード大学の医学部に通うことを理由に実家を出た。学費は診察の謝礼で賄った。
アメリアは、ヴィジョンを解明し、だれでも使える技術にしたいと考えて研究を続けている。しかし、あと一歩成果が出ない。資金調達が難しいのだ。どうしても、スピリチュアルな内容だと取られてしまう。
マグカップから珈琲をすする。珈琲は冷めはじめていたが、充分に美味しい。よい珈琲は冷めても味が落ちないものだ。
(サチオは、どうしてるかな)
壁に20年前の写真が飾ってある。前列中央に所長、その脇が教授陣で、すぐ隣にアメリア、後列の左端に槇則左千夫が写っている。こうして見ると、左千夫はタクとは似ていない。槇則左千夫のほうがいい男だ、と、アメリアは思う。
(私がゲイじゃなかったら、サチオと付き合っていたかな?)
日本での槇則左千夫の結婚式以来、もう10年は会っていない。昔のような覇気がなくなっていたけど、医師としてしっかり活躍しているだろうか。
珈琲を飲み干して、伸びをする。下腹の熱は去った。3日ほどヴィジョンは使えないだろうが、そのあいだは患者の頭蓋骨内側の形と硬膜の付き方、それに動脈の位置を精密に計測して、症状の仕組みを探るつもりだ。
電話が鳴った。
「ハイ。ああ、シャーラどうしたの……なに、落ち着いて。え? なんでよ、ハハハ、なんのジョーク? ……泣いてるの?」
突然の轟音が、部屋の空気ごとアメリアの体を揺らした。一瞬の暗黒のあと、黄色い光が部屋を斑に染める。
アメリアは受話器を持ったまま尻もちをついた。コードに引かれて床に落ちた電話をコンクリートが押しつぶす。天井から瓦礫が滝のように降って、濛々たる砂塵が舞う。
アメリアは砂を吸い込んでむせながら、しゃがんで机の反対側へまわった。頭を両手で覆って保護し、思考を巡らせる。
(テロ? 私が標的? まさかヴィジョンを狙って。でも、なんでいまさら――)
「エホッ……ング」
油断すると砂を吸い込んでしまう。目にも大量の砂粒が入って、痛くてあけられない。
低身したまま机の上に手を伸ばして、ガスウォーターのペットボトルを取ろうとした。その手首を、なにかが掴んだ。刹那、もの凄い力で引かれて、机のへりに身体をこすりながら、アメリアは机上に引きずり出された。
「あんたが、アメリア・リード? ここ、北西の角で正しい?」
男は、たどたどしい英語で言った。




