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アメリア・リードがエイベル脳科学研究所の中で一番気に入っているのは自分の居室で、2番目がここ、1階ラウンジだった。
柔らかな午後の陽差しが、白い床に机と椅子の芸術的な陰影を作っている。丁寧にドリップされた珈琲はフィンランドや日本で飲んだのと同じ、雑味のない深い植物性の味わいだ。下腹に残った熱の疼きは、だいぶ和らいでいた。手術後には、この場所とこの珈琲が必要だ。アメリアは毎週金曜日に、バリスタに特別のチップを渡している。できるだけ長くここで働いて欲しいからだ。
「アメリア、ちょっといいかな」
背後から声をかけられて、アメリアは、こっそり溜め息をついた。タク・ブランは思ったよりもせっかちな男のようだ。
タクは、アメリアの許可を待たずに対面に腰をおろした。エスプレッソの小さなカップに、ブラウンシュガーを3つとミルクを2つ入れる。
「どうして、血腫の場所がわかった? CT画像と5cmもズレてたのに一発で当てた。まさか、777(スリーセブン)が出た、なんて言わないよな」
乱暴にかき回すものだから、エスプレッソがこぼれている。その粗雑な様子に、アメリアは眉をひそめた。もう少し繊細な男だと思っていたのだが。
「いや、その、悪い。君の指示にすぐ従わなかったのは謝るよ、悪かった。君の動きが常識とちがったから、とまどったんだ。つぎからは、あんなことはない。かならず、君のいう通りにする。
だから、教えてくれないか。どの所見から、君は宝の位置を知ったんだ? まだ僕が見ていないデータがあるのか? それとも、僕が重大な見落としをしているのか?」
タクの瞳は真っ直ぐで、純粋な好奇心に満ちている。黒い髪、黒い瞳、黄色みがかった滑らかな肌。アメリアの施術への食いつきも含めて、懐かしいあの日本人と似ている。
(でも、医師としての特性は真逆ね。槇則左千夫は、どこまでも臨床医で、日本の患者のために知識と技術を持ち帰ろうという熱意に満ちていたもの)
一方、タクの姿勢は医者というより研究者だ。
アメリアは無言で右手を差し出した。タクは怪訝な顔をしたが、アメリカ人らしく、がっしりと握り返してくる。
「胃に3つ潰瘍がある。悪性じゃないから放っておいてもいいけど、もう少しゆったり物事を考えることが必要ね」
タクは目を細め、顔を斜めにして言った。
「え、なんだって?」
「それと、小腸が大分まいってる。あと半年もすれば糖尿病になる。糖分を厳しく制限して、有酸素運動をはじめなさい」
それだけ言って、アメリアは珈琲カップを持って立ち上がった。
「ねえトム、これお部屋に持って行っていい?」
カウンターの中で、バリスタがにこやかにうなづく。
「ま、待ってくれ。どういうことだ。それに、僕の質問には答えてくれないのか?」
腰を浮かせて、タクが言った。
「だから、いま答えたわ」
「答えたって、君はなにも――」
「わかるの。あなたの身体の様子がわかるのと同じように」
アメリアは、追いすがろうとするタクを手で制した。
「ちゃんと糖質制限するのよ、あと検査ね」
ひんやりした廊下を歩き出す。タクが椅子にかける音が聞こえた。




