78
「袴田さんは亜急性硬化性全脳炎に近い症状でして、難病指定されているんですが、その中でも珍しいというか、類例のない症状です」
たっぷり1時間後、槇則は診察室で待っていた赤鉄アカムに言った。
診断に没頭したお陰で、槇則は医師の心持ちを取り戻していた。PCモニターのある事務机に座る槇則と丸椅子に座る赤鉄アカムは、丸きり医者と患者か、その家族といった体だ。
「原因はなんだ」と、赤鉄アカムが患者にあるまじき態度で言った。
槇則は答えた。
「幼少の頃に麻疹罹患した場合に発症することが多いです。つまり、ウィルスが残っていて、それが脳に感染するわけです」
「なぜ死ぬんだ」
「脳の機能がウィルスに冒されて、最終的には全身が動かなくなってしまいます。最後は食事を摂ることもできなくなって――」
空気が動き、赤鉄アカムの姿が陽炎のように揺らぐ。槇則の全身の筋肉が硬直した。
赤鉄アカムは奇妙に落ち着いた声で言った。
「どうして死期が早まった。お前のミスか?」
槇則は、ごくりと唾を飲んだ。そのとき、岩瀬絵美が待合室から診察室へ入ってきた。絵美は赤鉄アカムの様子を見てこわばったが、声は出さない。槇則の首筋を冷たい汗が滑り落ちた。
「CTスキャンの特徴的な影に気づいたのは最近だったんです。ご連絡したのですが、電話がつながりませんでした。ただ、いずれにせよ処方は変わりません」
この言葉に嘘はない。容態の現状を見ても、進行が異常に速い以外は当初の診断通りだ。
「お前がすぐに気づいていれば放置されることもなかった」
赤鉄アカムの指摘に反論はできないが、あの時点で自分が駄目なら、日本に指摘できる医師はいない。この分野に関して、そのくらいの自負を槇則は持っている。槇則は今日はじめて、赤鉄アカムの目をまっすぐに見た。
「ああ!」と、悲鳴が聞こえ、ガラスの割れる激しい音が診察室に響いた。
「す、すいません! 足を滑らせて」
絵美が泣きそうな声で言った。足下に透明なガラスの破片と、水と、切り花が散らばっている。
(俺のバカラ……)
それは、アメリカから帰国するときに研究所の仲間たちからもらった記念品だった。絵美が欠片を集めているが、もう直らないだろう。
「お前より優秀な医者を紹介しろ」と、赤鉄アカムが言った。
槇則は無残に散ったバカラから目をもどし、言った。
「この病気について私以上に詳しい医師は日本にいません。おそらく誰に頼んでも結果は同じかと……」
「思い上がるな。信用できない」
「いえ、これは本当のことで、連中は論文の上書きが本業で、真の研究なぞはグッ!?」
(しまった、調子に乗ってしまった……)
顔が紅潮していくのが自分でわかる。赤鉄アカムの顔が赤く滲んでいく。目の毛細血管が切れているのだ。
(――まずい、まずい)
喉が細く鳴る。赤鉄アカムが目の前にくる。顔の左側が燃えるように熱くなって、槇則は声にならない悲鳴を上げた。左の頬から首へ、熱いものが流れ落ちる。
(耳が――)
「先生ぇ!」
赤い視界の端で絵美が手足をばたばたさせている。だが、いっこうに近づいてこない。
ごそ、ごそそ、ずぼお、ごりり。
(耳に指を――)
脳髄で鋭い痛みが閃き、暗転。胃が熱くなり、酸っぱい液体が口中に溢れる。腹筋が脈打ち、なんどもえづく。そのたびに鼻血が噴き出す。
「早くしろ。もう待たない」
「やめてぇ、それ以上入れたら脳が……」
絵美の懇願が聞こえる。うなずきたくても、できない。しかし、頭のふるえで意志が伝わったのだろう。槇則は解放された。
早く清潔な布で止血したい。でも情報を渡さないと、また――。
「米国……に……脳感染症の……専門機関……が……あり……ある……」
白衣の左半分を真っ赤に染めて、鼻血と吐瀉物を噴き出しながら、必死で言葉を継ぐ。
「アメリア……リードという女医が……彼女が……世界で一番の権威……」
「お巡りさん!」
絵美が叫んだ。立ち上がってガラスの破片に滑って転び、下着が丸見えになる。槇則は目の端で青い制服姿をとらえた。
「ひどい騒ぎになってますが、どうしました?」
警官がふたり、診察室に入ってきた。若い警官は、丸見えの薄ピンクの布を凝視している。中年の警官が、赤鉄アカムと槇則を認めた。
「動くな!」
若い警官がホルスターのホックを外す。赤鉄アカムは背を向けたまま動かない。
「おい、お前。ゆっくり、こちらを向け」
言いながら、中年警官が右手をあげる。若い警官がうなずき、拳銃を抜く。中年警官が腕をおろす。
破裂音が耳に突き刺さって、槇則は顔をしかめた。天井の破片が落ちてくる。赤鉄アカムが振り向いた。
「お前は――」
若い警官が叫び、つぎの瞬間、血と肉が爆発した。柔らかい重いものが落ちる音や水がしぶく音がする。
床一面に赤い血の海と孤島のような肉と骨が残った。全身に血を浴びて、槇則は呆然と両膝をついた。絵美が顔を蒼白にして倒れる。
「その女の居場所を教えろ」
赤鉄アカムは袴田うりのベッドの脇に立って、昏々と眠る白い額に手を置いた。




