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槇則医院は、渋谷道玄坂の頂上・道玄坂2丁目交差点の先を1本裏に入った角地にある。祖父の代から地元密着で堅実に医業を続けてきたが、現院長の槇則左千夫の代になって、脳神経外科内科として知られるようになった。槇則左千夫は米国で脳感染症について研究し、この分野で多くの実績と高い評価を得ていた。
「おはようございます、先生」
診察室に入った槇則に、看護師長の岩瀬絵美がにこやかに挨拶した。
ラジオから朝のニュースが流れている。毎朝、槇則が聞く番組を絵美が先回りして流しているのだ。槇則は絵美に微笑み、ジャケットを脱いだ。絵美が受け取って白衣を差しだす。
アナウンサーのよく通る声が診察室に流れた。
「8時半になりました。天気予報です。7月3日水曜日の天気です。関東甲信地方は梅雨も明けて、全般的によく晴れた爽やかな1日になるでしょう。首都圏各地の天気は……」
シュー、という音が割って入った。絵美が槇則のジャケットに消臭消毒スプレーをかけているのだ。これは絵美の日課だった。
槇則は、よいしょ、と声を出して椅子にかけた。朝一番は家庭の空気を引きずっているせいか、動作が緩慢だ。診療がはじまる9時半までに、医師としての自分をスタートさせなければならない。
「先生、お茶です」
絵美が机に湯飲みを置いた。槇則の妻は紅茶党なので、家では紅茶ばかり飲んでいるが、槇則は緑茶も好きだ。実家では緑茶がメインだった。
アナウンサーが続ける。
「特集です。一昨日の、広尾と八王子でほぼ同時刻に起こったふたつの爆発事故ですが、端境組という暴力団組織で繋がっていることが分かりました。広尾に暴力団組織の本部があり、八王子に組長の自宅があったとのことです。スタジオには、暴力団組織に詳しい、評論家の上坂さんにきて頂いています。上坂さん」
「上坂です。最近の暴力団はですね、仕事と私生活をはっきりと分ける傾向にあるんですね。昔はね、暴力団組長の屋敷といったら和風でね、奥さんや子供や愛人なんかも一緒に住んでいたものですが、いまは分けてるんですね。端境組は実に近代的な組織でしてね。私は広尾に行ったことがありますが、洋風の綺麗な邸宅でしたよ」
(赤鉄アカムだろう)
2週間前にも六本木で爆発事件が起きた。六本木ヒルズの森タワーが倒壊し、高速道路が破壊されて一帯が壊滅した。名古屋の大惨事ほどではないが、広範囲の爆発というのが似ているし、異様な姿の目撃談も共通している。黒衣の美女、白い触手や黒い巨大なトカゲ。そして、今度の事件では悪魔だという。
「こわいですね」
いつのまにか隣にきていた絵美が言った。甘く優しい香りがする。
「瓦礫の除去と生存者の救助に自衛隊が派遣され、地域住民も積極的に支援しているとのことです。こういった動きは素晴らしいですね」
「その通りなんですが、もしも、これが赤鉄アカムの仕業なのだとしたら、彼はなにも約束を守っていないわけです。いわゆる給料など支払う必要があるのでしょうか。少なくともお金をもらっているのですから、今回の事件の救助に来て頂きたい。超能力があるなら生存者を救いなさい」
「先生、あたし、家でひとりじゃ、恐いよぉ」
絵美が甘えた声を出して槇則の腕に触れた。
「やめなさい」
槇則はたしなめたが、声には色が混ざっていた。
「……わかってます」
絵美は机にもどった。
上坂という専門家が続ける。
「暴力団の抗争ということは考えにくいんです。いま暴力団は、それぞれの地盤を固める時期に入っていて、抗争が起きる状況じゃないんです。そうなるとやはり――」
槇則はPCで今日の予約状況を確認した。午後一番に難しい状態の患者が入っている。今日最終的な診断を下すが、もう槇則にできることはないだろう。あとは大学病院を紹介するつもりだ。
自分にできることを、できる範囲でやるのが最良。というのが、槇則の人生哲学だった。仕事も家庭も何事も無理はよくない。
絵美がコピー機に給紙をはじめた。上半身をかがめているため、白衣のスカートが尻に張りついて下着の線が見える。10代20代の頃、30を超えた女性はオバさんだと思っていたが、40代後半になって、三十路こそ女だと知った。それに、幾つになっても年下の女は可愛い。絵美は34歳。槇則のひとまわり下だ。
いま44歳の妻も、未来の自分から見たら魅力的だろうか。そうかもしれない。でも、本当にそうだろうか。老いがいずれ死へ向かうなら、相対関係が保たれたまま進むとは考えにくいではないか。どこかの時点で、男も女も、自分も妻も絵美も、性とはかけ離れた寂しい存在になり果てるのではないか。
「――都内で爆発事件が相次いでいます。ラジオをお聞きの首都圏在住のみなさまの中には、不安で眠れない方もいらっしゃるでしょう。お子さまをお持ちのお父さん、お母さんは、学校での安全もふくめて、ご心配のことと思います。
このような状態から脱し、安心して暮らせる毎日を取りもどして頂けますように、首相をはじめとする政府各庁にお願い致します」
「本当にその通りですね」
「上坂さん、ありがとうございました」
「ありがとうございました」
「さて、つぎは交通情報です――」
赤鉄アカムは高級ホテルのスウィートルームに陣取り、夜な夜な美人と遊んでいるらしい。槇則は、そこまでしたいとは思わないが、もし若い頃にそんな生活を送れたら最高だったろうと思う。赤鉄アカムでなくとも、俳優やロックスターや若くして成功した実業家はそんな風に遊んでいるはずだ。
(俺もアメリカに行かなければ、医師仲間連中みたいに遊べたかな)
米国に留学し、卒業後研究所で働いた。帰国後すぐに勤務先の看護師と結婚したため、槇則にはこれといった享楽の記憶がない。そのことを後悔しないといえば嘘になる。
そのとき、地面がぐらりと揺れた。
「きゃっ」
「地震だ」
「ただいま地震がありました。情報をお待ち下さい――」
(……良かった。爆発じゃなかったか)
やがて、9時半になった。
絵美が事務の手を止めて立ち上がり、ファイルを閉じる。脇の下の向こうで豊かな胸が白衣を突き上げている。襟元の後れ毛が綿毛のようだ。あの首筋の匂い、石けんと体臭の混ざった懐かしい匂いは、槇則を青春時代に返す。女を知らずに死ぬのだけは嫌だ、なんて真剣に考えていたあの頃に。
「絵美」と、槇則は白い背中に声をかけた。
と、そのとき、待合室のほうから甲高い破裂音が聞こえた。悲鳴と怒号が続く。
「わたし、見てきます」
絵美が部屋から出た。後ろ手で扉を閉める。
槇則は立ち上がって扉の窓から廊下を見た。待合室の患者たちが病院の奥へと廊下を走っていく。血を流している人もいる。
(いったい、なにが起きている?)
いやな予感がした。
「うわっ!?」
いきなり扉が吹き飛んだ。頭上を越えてファイル棚に激突した扉を、槇則は間一髪でかわした。
槇則が顔を上げると、少女を抱えた赤鉄アカムが立っていた。




