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目覚めると、隣にうりがいない。いつも先に起きるのはアカムだから、これは珍しい。昨晩の興奮で寝られずに起き出したのかもしれない。
寝室を出てリビングにいく。テーブルの横にモーニングサービスのワゴンがある。今日のメニューはなんだろうとのぞき込むと、向こうに肌色が見えた。
一瞬の逡巡のあと、アカムはワゴンを回りこんだ。そこに細い体が俯せに倒れていた。キン、と耳鳴りがして、世界が遠くなる。
「どしたよ……」
口の中で呟いて、アカムは、うりの顔の横に膝をついた。おずおずと額に手を伸ばす。熱い。そして濡れている。首筋もべったりと汗をかいている。水色のパジャマの脇や背の色が濃い。
うりの体に、なにかが起こった。原因は、おそらく、うりの病気だ。
アカムは寝室へ走り、ベッドサイドテーブルの抽斗を開けた。うりはいつも、ここに薬を入れている。薬袋はすぐに見つかり、飛んで戻って、袋を逆さにして中身を出す。様々な色の錠剤が転がり出る。
(これほどの種類の薬を飲んでいたのか)
アカムは自分がうりの病気にほとんど注意を向けていなかったことに気づいた。
「うり?」
耳元で呼び掛けてみる。肩をゆする。反応がない。
「どの薬だよ? どれだ」
薬袋の外にも中にも説明書きはない。個々の薬のパッケージにはアルファベットと数字が並んでいるだけだ。
(全部、飲ませてみるか?)
――否。そんな適当なことでは駄目だ。そもそも、こんな状態で、うりは薬を飲めるのか。それどころか、これは死の数時間前、否、数分前なんじゃないか。
(急がないと。急いで適切な処置をしないと)
目を閉じ、呼吸を整える。下腹の熱に意識を集中する。
以前、病気を治そうとうりの中を探ったとき、表面的な力の流れの奥に破壊的な激流が渦巻くのを感じた。流れを整えようとしても、乱流は凶暴で、うかつに手をだせばうり自身を破壊しかねなかった。それでアカムは自分には治せないと判断した。
(あのとき駄目だったものが、いまできるようになっているか)
試してみるしかない。落ち着いて、ゆっくりやるんだ。
膝をついて、うりの下腹に両手を当てる。慎重に力を流し込む。生命の流れにそって優しく手を伸ばす。
アカムの耳の奥で轟々と風が鳴った。下腹から、うりの嵐に引かれて得体の知れない塊がせり上がってくる。アカムの額から汗が噴き出し、首の後ろが光りはじめる。光は闇をともない、あらわれた蓮の花が黒く染まっていく。黒い蕾をわって、小さな手がのぞく。鉤爪のある、黒い毛の生えた手――。
アカムは飛びすさってワゴンを倒した。ひどい音を立てて、朝食が絨毯に飛び散る。
光と闇が消え、全身ぐしょ濡れになったアカムの荒い息だけがリビングルームの空気を揺らしている。
「なんだ……否……それとも……なんなんだよ、くそう!」
自分自身が内に引かれるような感覚。頭の芯で蜂の群れがぶんぶんと飛びまわる。下腹が、わっと熱くなって、背筋にマグマの塊が上がってくる。頭の中で音と光が弾ける。
マンダリンオリエンタル東京最上階スウィートルームの窓ガラスが吹き飛んだ。閃光が雲を焼き、ホテルのある日本橋を中心に震度5強の地震が23区を揺らした。
家具が落下し、カーテンがはためき、風がびょうびょうと吹きすさぶ部屋で、アカムはうりを抱いた。首筋で黒い毛が揺れている。アカムの口角から、ひとすじ血が流れた。
(また宇宙へ連れていくんだ。マンションを探して、ふたりで――こんなことをしてる場合じゃない!)
アカムの目に理性がもどった。
「病院だ!」
薬袋に飛びつく。そこには槇則医院の名と、住所と電話番号が書いてあった。




