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「デートしようか」
血まみれの夜の翌日、朝から部屋でぐだぐだしていたアカムが、だしぬけに言った。うりは反応できなかった。もう夜中だし。
「……もっと喜ぶかと思ったけど」
アカムが残念そうに言った。
「デートって、いまから? もう、ご飯食べちゃったし、ドライブ? 車、持ってないんじゃ……」
アカムが、がっくりと肩を落とす。
「わ、わー、やったあー。ど、どこに連れてってくれるの?」
「……わざとらしいな。面倒になってきた」
「えー、そんなこと言わないでよー、行きたいー、行きたいー」
「……」
「た、楽しみだなー、まるで冒険みたいー」
「……」
「……本当だよ? 初デートだし」
「……スーパーマンの真似する。知らないのかよ、スーパーマン」
「知らない」
世代がどう、とか、ぶつくさ言いながら、アカムはクローゼットを開けてナイロンのジャンパーを着込んだ。手袋とニット帽もつける。もう初夏で、夜でも涼しいのが心地いいくらいの季節だ。
「スーパーマンて、なに? どこに行くの? ねえ、わからないよ……ねえ……」
うりは、ふいに思い至った。
「あ、空を飛んでデートするの!?」
「…………そう」
アカムはそっぽを向いたまま言った。うりはソファから飛び上がり、ひとつ高い声で叫んだ。
「すごい、やった! ずっと、飛んでみたかったの! えっと、寒いの? ダウンとか着たほうがいい?」
はしゃぐ、うりを見て、アカムは頬をゆるめた。
「そこまではいらない。風を受けたほうが気持ちいいから、そのときに寒くなり過ぎないように、風を通さない生地で肌を覆うのがいいよ」
「らじゃー!」
「……世代が分からないなあ」
うりはクローゼットへ走っていった。
ホテルの部屋を出て廊下の端の鉄扉を開けると金属製の階段があった。壁はコンクリートの打ちっ放しで、豪華絢爛な客室スペースとの落差が大きい。
「舞台裏ってのは、こんなもんだ」
言いながら、アカムは、すいすいと階段を登っていく。
「冒険、冒険!」
うきうきと、うりが続く。
2階分くらい登ったろうか。簡素な灰色の扉があらわれた。ガラス窓があって、学校の屋上の扉に似ている。ふたりは外へ出た。
扉の向こうには夜が満ちていた。遠く海鳴りのように自動車の音が聞こえる。屋上には大小のタンクや小屋があって、まるで迷路のようだ。
「ん」
飴でも渡すように、アカムが手を出した。うりはその手を見て、アカムの顔を見た。
「……手を取って。飛ぶよ」
「あ、うん」
慌ててアカムの手を握る。昨日の夜たくさん触ったのに、こうして手を握るのは恥ずかしかった。
「ひゃっ!?」
ジェットコースターで急降下したみたいに下腹がひやりとして、うりは悲鳴を上げた。足がぶらぶら動く。体が宙に浮いている。
ふたりは、そのまま一番高いタンクに飛んだ。自分ではなく風景のほうが動いているようで、不思議な感覚だ。
丸くカーブを描いた鉄板の真中に降り立つ。眼下は一面の夜景だ。
「東京って、すごいよね。あの灯りが、ぜんぶ人の営みだよ」
うりはアカムを見上げた。前髪が風になびいている。突風に煽られてバランスを崩し、アカムにしがみつく。
「こわい?」と、アカムが言った。
いつもより低く感じる声が、心の奥まで響く。
「こわくないよ」
「じゃあ、行こうか」
ふたたび、下腹に違和感がきた。風が止み、体が浮く。街の音が消える。アカムのうなじが、かすかに光る。この状態に、うりは覚えがある。アカムがバリアーを張ったときと同じだ。
ふたりは夜空へ駆け上がった。夜景がぐんぐん小さくなる。ものすごい速さなのに、まるでカプセルの中にいるみたいに風も音もない。あまりの高さに怖くなって、うりはアカムの胸に頬を押しつけた。
アカムの鼓動――それ以外は無音の世界。街の灯が遠ざかり、押し包むように星空が迫ってくる。霞のように漂う雲を突き抜けて、一直線に、ふたりは星々を目指す。
「ねえ、上と下の区別が分からなくなってきた」
「もうすぐだ」
突然、星が何倍も鮮やかになった。これに比べれば、さっきまではベール越しに見ていたようなものだ。
「この辺りで地上の空気の層を抜けたんだ」
そう言って、アカムはうりをしっかりと抱き寄せた。外の空気が流れ込んでくる。とても冷たくて、どこまでも澄んでいる。真夏に飲む、よく冷えたミネラルウォーターのようだ。
ふたりは水平飛行に入った。左斜め上に、メダルのように月が輝く。美しく、禍々しく、生きているようだ。
「もっと、行くよ」
バリアーがふたりを包み、上昇がはじまる。濃い闇が降りてくる。空が空でなくなっていく。気がつくと、地平線が丸く弧を描いて青く輝いている。
「成層圏ってやつだ。ここまで来ると地球が……」
アカムはうりの顔を見て言葉を止めた。うりは泣いていた。悲しいわけでも、嬉しいわけでもない。嗚咽もない、苦しくもない、ただ、つるつると涙が落ちる。
アカムは、うりの体を離した。繋いだ片手同士で繋がって、鳥のように、魚のように、闇を泳ぐ。眼下の大陸にはオレンジの光が縦横無尽に走っている。
「いつも来てるの?」と、うりが言った。
「たまに」
「どうして、いままで連れてきてくれなかったの?」
アカムは鼻の頭を掻いた。
「これまでは、つき合ってなかったじゃん」
うりは首をかしげた。
(あれ? 告白されたっけ。……ま、いいか……よくないか)
アカムが前を指さした。地球と宇宙のあいだに緑の光が揺れている。光は膜のように地球を覆い、歌うように移ろう。
「オーロラだ」と、アカムが言った。
うりは音のない冷厳な美に気の遠くなる思いがした。
(すべては、わたしたちの知らないところで動いている)
両手でアカムの手を掴み、逆の手を離して仰向けになる。地球をベッドに寝ているような恰好だ。
「あの全部が星で、知らない世界があるんでしょ」
「そうだな」
目を閉じる。こうすれば、部屋のベッドで寝ているのと変わらない。けれど目を開ければ、しんと静まりかえった無限の宇宙がうりを圧倒する。
(この世界は綺麗で、だいたい、死でできている)
うりはアカムを見た。アカムの瞳は宇宙の闇と地球の輝きでできていた。
「どうして、わたしたち、息できるの?」
「俺が持ってきた」
「もう帰らないと駄目?」
「まだ大丈夫だよ」
「また連れて来てね」
あまり時間はないけど、でも3ヶ月ある。何度か来られるだろう。
「ねえ、わたし、マンションに住みたい」
「ホテルはいやだった?」
「いやじゃないけど、お料理したり、お掃除したり、お洗濯したりしたい」
沈黙が流れた。静謐な光の海から星の声が聞こえる。
「わかった。いいマンション、探そう。うりも手伝って」
「らじゃー!」
2尾の魚は、しばらく宇宙を漂った。
地上に降りて部屋にもどると、風呂に入って冷えた体を温めてから、一緒に寝た。翌朝、うりが倒れた。




