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うりは珍しくTVをつけていた。六本木で事件があったようだ。
「居合わせた人が携帯端末で撮影した映像です」
キャスターが紹介して、映像が流れる。
画面の中央に、ゴリラのような黒い怪物がいる。怪物はすぐに消えた。映像がもどり、今度は画面が止まって拡大する。怪物の頭は犬のような形をしている。
(アカムと関係あるのかな)
映像は、つい1時間ほど前、20時半頃のものらしい。アカムは今日、午後から出かけている。
うりは、壁に掛けてあるパジャマを見た。白地に野苺柄。半袖短パンで、裾はフリルにしてある。短パンは少し膨らませて可愛くしたつもりだ。赤いリボンを首まわりにアクセントで入れた。
なんだかんだで1週間もかかってしまった。もっとうまくなって、どんどん服を作れるようになりたい。
今日はアカムは帰ってくるだろうか。ひとりだろうか。女連れだろうか。女の人と一緒なら、うりは向かいの部屋へ移らなくてはいけない。
でも、きっと、ひとりだと思う。この頃、アカムは女の人と遊ばないし、ふさぎ込んでいることが多い。なんとなく不安定な気がする。
数日前も真夜中にアカムがなにか叫んだ。うりが顔を上げると、アカムは眼をあけて天井を見ていた。
「どうしたの?」と、うりは訊いた。
アカムは、うりのほうを向くと、うりをきつく抱きしめた。うりは両手を縮めて静かにしていた。そのまま、気がついたら朝だった。
部屋の扉がひらく気配がした。
(帰ってきた――)
肌感でわかる。うりは、野苺のパジャマをクローゼットにしまった。
アカムは、なかなかリビングにあらわれない。不審に思ったうりが腰を上げかけたとき、廊下から異様な気配が入り込んできた。
人でない、なにかがいる。そう思った。それがアカムでしか有り得ないことも、うりには分かっていた。
やがて、扉の下から黒いもやが染み出てきた。もやが、すっと引っ込み、ドアがあく。そこに、全身真黒な人型のなにかが立っていた。
髪はごわごわと逆立ち、目はうつろで、顔は首まで赤黒い。服はぼろぼろで、あちこちから黒い肌が見える。よちよちと、歩きはじめの赤ん坊のように歩く。通ったあとに黒いもやが残る。
「おかえり」
それは、ぎょろりとこちらを見た。目が血走っている。
「死ね……死ね……殺す……」
甲高い金属音の混じった奇妙なしゃがれ声だ。
「どこか怪我してる?」
「死ね……」
ずるり、と、こちらへ向きをかえる。両手が、うりを求めるようにゆっくりと上がる。
「や……めろ……」
ずるり、ずるり、近づいてくる。
「ざけ……る……な……」
輪郭が黒くざわついている。まわりの世界との境界が曖昧だ。
「……俺……風呂……はいる」
今度の声は人間の声だった。
「わかった。ちょっと待ってて」
うりは、それの近くを通らないように気をつけてバスルームに走った。
バスタブに湯を落とし、タオルを用意して、リビングにもどった。アカムが、さっきと同じ場所に同じ恰好で立っていた。
「準備できたよ、行こう」
うりが差し出した手をアカムは乱暴に払った。手先が側頭部に当たって尻餅をつく。
「……悪い……」
ぼそりと呟いて、アカムが歩き出す。足を出すたびに体が揺れる。膝がぐにゃぐにゃ曲がって、上下にも大きく動いている。目が離せずにいるうちに、吸い込まれるように廊下に消えた。
しばらくの間、アカムが消えた空間を見つめて呆然としていると、バスルームのほうからなにかが倒れる音が聞こえた。うりは慌ててバスルームにむかった。
(なにしてるんだろう。すぐ、ついていけばよかった)
アカムは洗面台に手をついていた。手から赤い液体が流れて洗面台を汚し、倒れたゴミ箱に滴っている。背中を黒いもやが薄らと覆っている。
(血だ――)
今さら、うりはアカムが血だらけなことに気づいた。
「手伝うね」
声をかけて脇の下から手をまわす。ぞっ、と背筋が氷柱を入れたように冷える。
(大丈夫――)
うりは恐怖を下腹で受け止めて、アカムのシャツのボタンを外しはじめた。汗と鉄の臭いが、むっと鼻をつく。
「アカム、こっち向いて」
右腕を引くと、アカムは素直に向きをかえた。シャツを脱がせて洗面台に入れる。シャツは重く、粘土のような音を立ててシンクに落ちた。赤い泡が、ぶくぶくと出てくる。
「俺は、みんなで遊べるボードゲームが欲しかったんだ」
突然、アカムが話しはじめた。しんとしたバスルームに場違いな音量だ。
「推理するヤツ、面白そうだった。それなのに、あいつは言った。『そんなのは、つまらない。選ぶのは、お父さんに任せとけ』。あんなパズルじゃなくて、みんなで遊ぶ推理のゲームが欲しかったんだ。あんなパズル……あんな……あんなのじゃなくて。お小遣いを持っているから、自分で買うって言ったら、おばあちゃんは怒った。『わたしがいるのにどうしてそんなこと言うの!?』って。優しいおばあちゃんだと思って、悪いことを言ったって、素直に甘えないといけないんだって思った」
話すほどに、アカムの声は小さくなり、最後はほとんど聞き取れなくなった。
ベルトを外してチャックを下ろすと、ズボンは勝手に滑り落ちて白い大理石に赤い飛沫を飛ばした。うりの手は、あっという間に真赤になった。顔にも、服にも、赤い染みが飛んで、脱衣所は殺人現場のようになった。
うりは、まず自分が服を脱ぐことにした。ワンピースの背中のチャックを下ろし、白いレースの下着姿になる。意外とボリュームのある胸と滑らかなヴィーナスラインが鏡に映る。
「ちがう、ちがうだろ! 仕方ないだろ! 子供なんだぞ! 『お前には人間としての優しさはないのか』って、それが……」
しゃがんで、アカムのパンツを下ろして裸にする。
アカムは独特の抑揚で、波のように音量を変えて話す。
「それが……子供にかける言葉かよ……死ねよ……殺す……苦しめて……やるぞ……」
大きな声を出すたびに体が揺れる。
「八王子だと? 辿り着けるわ、馬鹿! はあ、はあ、俺はもう、好き勝手やるんだ! 地獄へ堕ちるんだ! ざまあみろ! はあ、は、はあ――」
うりはアカムの顔を見上げた。苦しそうで、悲しそうで、泣きそうで、そして怒っている。
アカムの手を引いて浴室に入った。洗い場に赤い足跡が残る。あとで拭かないといけない。
「はあ、は、は、ハルが悪いことをしたんだ。だ、だから、夕食抜きになった。てめえは風呂でのうのうとして……俺がそんなに醜かったか? 嬉しそうに弟の不幸を報告してたか? だからって……小さな子供に……いう……ことかよ? どうなんだ、え? 子供の言動なんて、なにもかも親の影響だろうが!」
後ろ手でガラスのスライドドアを閉める。あらかじめ湯を落としておいたので、浴室内には水蒸気が籠もっている。アカムを風呂椅子に座らせ、シャワーに手を伸ばす。
「……いい顔だ。叫べよ、睨めよ。いいぞ……恨めよ……父親を恨め……俺を恨め! 生まれたことを恨め!」
黒いもやは、アカムのうなじ辺りから生まれているようだった。恐る恐る触れてみると、ドライアイスの煙のように指を避けて通りすぎる。冷たくも熱くもなく、触れた感覚もないが、高熱を出した時のように体の芯がぞくりとする。うりは鋭く手を引いた。
「あ、あ……死ね……ア、ア……コロス……」
アカムの声が、獣じみてきた。「あ」だけど「あ」じゃない。「ア」とも、また違う。
うりは、アカムのうなじに触れた。
いきなり、アカムが吠えた。左手でうりの喉を掴み、右の手の平を、うりの下腹に叩きつける。バチン! と音がして湯が飛び散る。うりは衝撃で、しばし呼吸を忘れた。
アカムが身を乗り出して左手を引く。鼻が触れそうだ。息が生臭い。うりの喉が裂け、生温かいものが胸を流れくだる。
うりは震える手でアカムの頭を抱いた。そして、もう一度、アカムのうなじに触れた。激しい悪寒が、うりを襲った。腕を黒いもやが伝いのぼってくる。
――小夜ちゃん。心の中で呼ぶ。
――小夜ちゃん。名前が光を連れてくる。
――小夜ちゃん。下腹が熱くなる。
――小夜ちゃん。冬空の下で、お汁粉を飲んだときの、あの
感じ。風が体温を奪っても、お腹は温かい。
「アア…ア…ガ……」
アカムは呻き、両手をだらりと垂らした。やがて、唸り声は掠れて、すすり泣きになった。うりは自分の首に触れてみた。手が、ぬるりと滑る。でも、もう痛みはない。傷もないようだった。
(アカムが治してくれたの?)
気を取り直して、うりは作業にもどった。髪の毛にこびりついた血から洗い流そう。
「ヤクザの家……攻撃しろ。鼻で笑って、攻撃する気はないとか言うより、ずっといい! 遠くから石を投げるようなマネしやがって! いい人ぶんじゃねえ、卑怯者が!」
シャンプーを両手で泡立てて、アカムの頭に乗せる。揉み込むたびにザクロのような赤い泡がでる。
「うるせえな! 知るかよ! 娘だよ、まずは。ババアに興味はねえんだ! 上か、上だな……なんだ、この家は。やけに天井が低いな。角が……当たる……角が……」
毛根に入り込んだ血を丹念に洗い流す。アカムの腹を赤い湯が流れていく。
「角……? あの光だ、あの、光と……闇と……。あいつらは……気づいていた。当たり前だ。ベッドが壊れて床が抜けたんだから! でも知らない振りをした! ヤクザが死んで娘の復讐をするのに! 否、ちがう! お前のせいで娘が地獄を見るぞ! はあ、は、はあ……」
シャワーを止めて、今度はボディーソープを泡立てる。洗面器に山盛りになるまで、一心に泡立てネットを摩擦する。
「やっぱりお前はいい。飽きた……妻のほう……だ。あいつが散々……したほう……心……。毎日毎晩……世間に許された……気持ちいいか? あ!? はあ、は、はあ、この体で……ひ、光が……吸い込ま……だめ……爆発……! ……を……たたきつぶせ……」
泡をすくって首筋に撫でつける。こすらずに泡を転がす。こうすると、いちばん汚れが落ちるそうだ。手をまわして、うなじを洗う。そうしないといけない。洗っているうちに腹が熱くなってくる。じっと耐える。
「なんで……もう……知ら……知ら……自分じゃ……どうにも……お……ぉ……」
アカムの唸りが嗚咽になった。小さな子供のようにすすり上げて喉の奥を鳴らす。うりの太腿を掴む両手の指が真っ白だ。
首から胸へ、そして腹へ。小さな円を描きながら手を滑らせる。皮膚の皺の奥まで泡をとどけて汚れを落とす。
「違うんだ……俺……じゃない……う……」
すこし躊躇して、うりは大事なところを泡で包んで洗いはじめた。
「……しただけなんだ……わざとじゃない……本当だよ……」
洗い終わったので、太ももに移る。女の足とはちがう、筋肉がついた足を、感心しながら洗い進める。
「ハルが……ぐ……ぐちゃぐちゃ……死んだ……あとなんだ……よ………」
脹ら脛の膨らみは丸くて、ぎっしりと肉が詰まっている。足首も見た目より太い。アキレス腱など、うりの3倍はありそうだ。
「俺……肉がいっぱい……形が……俺じゃ……う……うう……ウウウウウ!」
獣の声。仰け反って、両手を鉤爪のようにして宙を掴んでいる。うりは中腰になって、アカムの顔を胸に抱いた。
「オレダアアア、オレガアアア!」
背中に爪が食い込む。肉が破れて血が流れる。背骨がぎしりと鳴り、うりは目を閉じた。
「オレガアアア……アアア……オレ……俺……あああ……やつら……絶対に……うう……」
痛みを堪えてアカムの髪を撫でる。体が冷えないように温かい湯をかけてやる。
(小夜ちゃん。この人のこと、どう思う?)
そのまま、どのくらい時間が経ったろう。途中から、うりはアカムの太ももに座った。浴室は湯気でいっぱいだ。時も、物の形もわからない。白い世界で、うりは言った。
「これから、どうしようか?」
アカムの首が固くなった。右手で胸をつかんでくる。電流みたいなものが、うりの体を駆け抜ける。
「……どうって?」
胸に鼻を押しつけて、アカムが言った。
「明日から、なにしようか?」
うりの頬を涙が伝い落ちる。
「どっか行こうか。遠いところ。だあれも、いないところ」
アカムの体から、だんだんと力が抜けていく。肩だけが静かに上下している。
不思議に温かい手が、うりの背中に触れた。傷の痛みが消える。アカムは、うりを太ももから下ろして立ち上がった。
無言で歩き出す。ガラスのスライドドアが開き、冷えた空気が入ってくる。現実が一気にもどってきた。
うりはゆっくりと息を吐き、いつもの世界の空気を吸った。




