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端境潔子は腕時計を見た。代官山の撮影スタジオに閉じ込められてから、もう4日だ。
「くっせ! なんの臭いだよ、これ?」
ずっと1人だった楽屋に、突然、男の声が響いた。赤鉄アカムだ。床に横になったまま、潔子は顔を上げた。起き上がりたいが体に力が入らない。
(ここでなんとかしなければ死んでしまう)
ある意味で待ち詫びた訪問だった。赤鉄アカムは潔子の衰弱など気にした風もない。
「みず……」
やっと出てきた一言は、丸めて踏んづけた紙屑のようだった。生まれてはじめて、潔子は渇きの苦痛を味わっていた。喉の痛みで空腹さえ感じない。
「飲む? おしっこ」と、赤鉄アカムが言った。
おしっこという言葉に、ごくりと喉が動く。潔子は屈辱に唇を噛んだ。自分は、いまどんな顔をしているのだろう。楽屋の鏡は倒れてから見ていない。
「汗も混ざってるな。浮浪者の臭いだ」
赤鉄アカムが椅子に腰かける。
「そっかあ、臭いかあ。失敗したなあ。こんな臭いんじゃ、盛り上がらねえよ」
「お……ねがい……みずを……飲ませて下さい……」
「なに? お前の声、ちいさくて聞こえねえよ」
赤鉄アカムの声が虫の羽音のように聞こえる。視界の端が白くかすむ。
「みず……飲ませて……」
「おしっこなら飲ませてやるよ」
プライドが疼いたのは一瞬だけ。屈辱的な言葉を引っかける逆棘は理性とともに溶けた。
「おしっこ……下さい……」
「いいよお。けど、いますぐには出ないな。お茶飲んで出すから、ちょっと待ってて」
赤鉄アカムがペットボトルのお茶を取り出す。
「お茶……」
潔子は気が遠くなった。赤鉄アカムが、うまそうにお茶を嚥下する。喉仏が上下に動くさまが、潔子には歌をうたっているように見えた。
「お茶!」
潔子は赤鉄アカムに飛びかかった。しかし、足に力はなく、30センチばかり上半身が浮いただけで床に倒れてしまう。指先がかろうじて赤鉄アカムの足にとどいて、潔子は必死にすがった。
「だから、待ってろって。いま出すから」
潔子は熱に浮かされた目で、赤鉄アカムのズボンを見つめた。もうすぐ、あそこから水が出てくる。でも――。
「お茶を……おねがい……」
「駄目だ。俺を拒絶して、報酬を捨てて、お前が守ったプライドの代償だ」
「おねがい……ごめんなさい……ゆるして……」
必死の思いで赤鉄アカムを見上げる。
「わかった、わかった。口ん中が、かさかさで気持ち悪いんだろ」
「……じゃ、じゃあ」
「お茶飲むと、まじですぐ、おしっこ出るから。すこし我慢しとけって」
いうや、赤鉄アカムは、ぼこぼこと音を立ててお茶を飲んだ。
◆◆◆
30分後、扉を開けて出てきたアカムを見て、集まっていた人々がどよめいた。
「ちょ、ちょっとあんた、潔子をどうしたの!?」
先頭にいるスーツの女が言った。
女を無視して出口へ向かう。開きっぱなしの楽屋のドアから、スーツの女が部屋に飛び込んだ。
「なっ!? 男は入ってくるな! 救急車、早く!」
さっき玄関で見掛けたジーンズの女が奥へ駆けていく。慌ただしく人が動きはじめた。ひどい、なんてこと、と女たちがさんざめく。
「待ちなさい!」
スーツの女の声がアカムの背を打った。やめろ、と、止める声が聞こえる。
「待て、この人でなし! よくもあんな――あんたなんて人間じゃない!」
アカムは立ち止まって、振り返った。スーツの女は真っ赤な顔をして、目に涙を浮かべている。
「ここに残れ! 潔子に謝罪して、あの子が回復するまで面倒を見るの。それが、お前の義務だ。分かってる!? ひとりの女の子が台無しになったかもしれないのよ!」
アカムは怒りと憎しみで頭の中が真白になった。
(こいつは、自分がなにかされるなんて思っちゃいない。どんな相手だろうと、理を通せば誰かが守ってくれると信じている)
無言のまま、ただ手を突き出す。スーツの女の顔面に右掌底がめり込み、鼻骨が砕けて頬骨が陥没した。女は血の筋を引いて背後の人混みに突っ込んだ。アカムは、そのままスタジオから姿を消した。




