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気力を奪われ、青い血の海に力なく横たわるカラマの目を閃光が射た。カラマの全身に噛みついていたドゥムヤ(人形)が、ばたばたと地に伏す。
刹那、夜空から光線が走って火蜥蜴の腕を打った。竜巻が襲いきて、赤い腹に3本の朱線が走り、血を吹く。
火蜥蜴は後退し、カラマの眼前にスイが降り立った。銀色の翼に旋風を巻き、頭上に陽神が輝く。カラマは目を細めてスイの陽神を見た。
「逃げる……じゃんね……」
スイは、ちらりとカラマを見て、地を蹴った。
火蜥蜴が闇を残して真横に移動し、口から黒煙を吐く。襲いくる闇の奔流に陽気を放って打ち消し、スイが流星錘は放った。その腕に黒い槍が突き刺さる。火蜥蜴の口から長く伸びた舌だ。
傷口から陰気が流れ込んでくる。スイの背光が急速に弱まり、陽神の輪郭が薄れる。スイは舌を抜こうとした。しかし、腕に巻きついて離れない。強く引かれて倒れ、引きずられる。
スイは躊躇なく背中の七剣をもぎ取って黒い舌を切った。悲鳴のように黒煙を吹き出して舌がもどる。残った舌先を抜くと、スイは火蜥蜴の眼前に跳躍して、鼻ずらの人面に七剣を突き刺した。
背光が輝き、陽神がふたたび産声をあげる。火蜥蜴の皮膚が乾き、深い皺がより、体が小さくなっていく。
(ありったけの陽気を叩き込む――)
「まずい、引け!」
カラマが叫んだ。
上空から莫大な闇が降ってきた。闇が、六本木アリーナどころか六本木ヒルズ全体を覆って街に溢れだす。
気がつくと、スイは背後から火蜥蜴に組み敷かれていた。火蜥蜴は、もとの、つややかな皮膚を取りもどしている。
「ア……ア……ア……」
後頭部の蓮の花が黒く染まっていく。陽神の手足に青黒い痣が這いのぼる。
「スイ!」
カラマは全ての触手と片足を食いちぎられて、這いずることしかできない。
火蜥蜴は陰気に覆われた腕を陽神の腹に入れた。陽神を抜けてスイのうなじを掴む。火蜥蜴の腕が貫通した腹の部分から陽神の浸食が進んでいく。スイの後頭部に、唾液とともに黒煙が滝のように落ちる。
火蜥蜴はスイの首を木製デッキに押しつけた。万力のような腕に首を締められ、ほとんど息ができない。
火蜥蜴が腰をぐんと前に突き出した。
陽神と蓮の花が四散。スイは長い両手を一杯に伸ばして痙攣をはじめた。
火蜥蜴が歓喜の叫びを上げる。背筋を反らせて硬直し、震える。
と、火蜥蜴の震えが止まり、一転、苦痛の叫びをあげる。頭を振り乱し、涎を垂らして後ずさる。その下腹が裂け、真っ赤な内蔵がのぞいている。
スイは四つん這いのまま動かない。下腹から血が滝のように流れ落ちる。足の間に銀色の尾のように刃が生えている。
◆◆◆
――下がるな。
ネパール国境近くの山林で魔虎を相手にした時のことだ。詩人が変化した強大な獣に、スイとインチュアンは追いつめられていた。詩人の妄執は凄まじく、彼は朗々と詠いながら迫ってきた。黒く変色した凶爪は虚室生壁をやすやすと引き裂き、陰気を纏った獣毛はあらゆる方術の攻撃を相殺した。
もう勝ち目はない、と、スイは思った。
――仕留めに来た攻撃を攻撃する。
インチュアンは燃える目で魔虎を睨んだまま、言った。そして、魔虎の口に痛ましき腕を叩き込んで仕留めた。
七剣を体に埋め込む手術についてカラマと相談したとき、スイは、ラオオーメイに対抗するアイデアとアイデアのきっかけになったエピソードを話した。
スイが話し終えると、カラマは溜め息をついて、言った。
「言いたいことは分かるけど、それとこれとは話が……」
「サーヒラ(魔術士)は優秀な方術士を、相手が男であろうと女であろうと、汚して魔へ堕とそうとする。そうだろ?」
「……あんた、もし命があったとしても、子供を産めない体になるじゃんね」
「使う状況になったときには、もう産めない体になってるよ」
「……まあ、そりゃそうだろうけどさ」
「下腹はサーヒラ(魔術士)の弱点なんだろ?」
「陰気の源じゃんね」
「うん」
「だから、相手がひるんだら、しっかり潰すんだよ」
カラマはそう言って、スイを抱きしめた。
◆◆◆
スイは、なんとか立ち上がったが、気絶寸前だ。火蜥蜴は頭から尻尾まで、全身をぶるぶると震わせている。
意識の縁にしがみつくスイの脳裏に、インチュアンの笑顔が浮かんだ。地獄から救い上げてくれたときの、あの笑顔だった。
「アア……アア……」
激痛の余韻に魂を引き裂かれながら、それでも陽気を練る。背光がわずかにもどり、スイは起き上がった。体が動いたことで七剣が傷を広げる。
火蜥蜴の背後で白い触腕が踊り、太い首に絡みついた。カラマが最後の足で最後の陰気を打ち込む。ハシャル(蠱)が火蜥蜴の気力を根こそぎにし、巨体が仰向けに倒れた。
スイは、七剣を腕ごと火蜥蜴の下腹部の裂け目に入れた。ぞっ、と、背筋に悪寒が走る。丹田を燃え立たせ、可能な限りの陽気を練りながら、陰気の中心を探す。
(……あった)
暗黒の塊に七剣を突き刺す。さらにもうひと振り、七剣をもぎ取って貫く。そして、陽神を出して、燃え尽きよとばかりに陽気を注ぎ込んだ。
火蜥蜴は顎を限界までひらいて痙攣した。悲鳴のかわりに甲高い笛のような音を出す。黒い肉体から光が染みだし、崩れはじめる。裂け、溶け、縮み、人の形にもどっていく。
サーヒラの最期は、貌が消えて、もとの体にもどる。ハンオウ〈韓応〉もまた、向こうの路上で人間の姿にもどっているだろう。
火蜥蜴の体が消え去り、傷だらけの細い体が残った。下半身から夥しい出血。そして現われる、ラオオーメイ〈老峨眉〉の素顔――。
スイは目を見張った。それは、ラオオーメイではなかった。
(これは誰だ?)
見たことがある。数年前、インチュアンと五台山の里に入ったときに話をした少年。名前はたしか、イード〈一多〉。
腹に響く大きな音がして地面が揺れた。森タワーの根もとから沸き上がった白煙が周囲の建物を飲み込む。
白煙は、スイとカラマがいる六本木ヒルズアーケードにも流れ落ちてきた。鉄柱や木製デッキ、ドゥムヤ(人形)にされた死体や、イードの体が白く凍りつく。
スイは体を低くすると、自分とカラマを包むように障壁を張った。
森タワーが、ふたりの頭上に倒れてくる。スイは障壁を小さく厚く張り、迫る巨壁を睨みつけた。
53階建ての高層ビルが、付け根から折れて、TVアサヒ本社ビルに激突した。恐ろしい破壊音があたりを満たし、瓦礫と人が降ってくる。スイの障壁が、そのことごとくを弾き、ふたりのまわりに積み上げた。
六本木ヒルズアリーナの鉄骨が建物をある程度受け止めてくれて、ふたりの頭上に空間ができた。かろうじて空が見える。
「上だ……スイ……だめだ……」
巨大な闇が降ってきた。天から堕とされた忌み子のように、音も光も周囲のなにもかもを飲み込んで地上に落ちる。
闇から太い腕が突きだし、イードを掴んで飲み込んだ。汚らしい、うがいのような音が人の声になって聞こえた。
「久しいな、カラマ」
「チュンシュイ〈春水〉……」
闇が、ごそりと動いた。笑ったのだ。
「懐かしいな名だな。西安の魔女よ」
カラマはスイの体に触腕をまわして無声音でつぶやいた。
「いい子だから、声を立てるんじゃないよ」
闇が、ゆっくりと近づいてくる。
「太極を前にして無視とは。何をたくらんでいる?」
「太極――広成子丹か」
「広成子こそ方魔の祖。そのすべてが広成子丹にある」
「魔術の? 冗談だろう」
「ハッ! 話しにならんわ。我が糧となって太極と合同せよ」
闇が噛みつくように広がり、巨大な両生類の姿が、ちらりと見えた。
カラマは胴体の周囲に魔法円を展開した。薄く弱々しいが、ないよりはずっといい。これで体中の陰気を引き出せる。
腹を風船のように膨らせて、嘴から大量の墨を吐き出す。艶やかな液体が迫りくる闇にぶつかって膜状に広がった。
「烏賊が!」
墨が凍りつき、砕けて飛び散った。きらめく黒い砕氷のベールがふたりを隠す。
その向こうから、さっきまで戦っていたのより、ひとまわり大きな火蜥蜴があらわれた。火蜥蜴は地面を見て動きを止めた。
「置き土産で許してくれと? いいだろう、昔のよしみだ。見逃してやろう!」
カラマとスイがいた場所には、土が柔らかく盛り上がっていた。そこに4本の七剣があった。
◆◆◆
カラマは残された触腕でスイを抱えつつ、六本木の地下を走る暗渠を巧みに泳いでいた。
「痛かったじゃんね。ごめんね」
カラマはスイの下半身にそっと触れた。刃に引き裂かれ、その刃をもぎ取られたその場所は、ひたすらに赤かった。




