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息が白い。雨は霙にかわっていた。
カラマは、ミュージアムコーンと呼ばれる円錐台形のガラス張りの建物の上から、森タワーの北と南を見渡している。
森タワーは南東方向に大きく傾いている。多くの企業が事務所を持ち、たくさんの人が働いている53階建てのピサの斜塔は、阿鼻叫喚の地獄と化しているだろう。
六本木交差点のほうからサイレンの音が聞こえる。人々の悲鳴と怒声が雲霞の羽音のように街を包み、戦時下のような異様な狂騒状態が現われつつあった。
(奴め、方術士とサーヒラ(魔術士)を行き来してるのか。まあ、奴ならそのくらい、やるじゃんね。それに――)
火蜥蜴が貌というのが、やっかいだった。サーヒラ(魔術士)は変貌する対象が人から離れるほど強い。
六本木通り方面で爆発音が続く。この音がしているということは、スイがまだ無事に戦っているということだ。ラオオーメイをここで防げばスイの助けになる。
白煙を上げる森タワーの根もとには、まだ、巨大な陽気がある。
(必ず動く)
七剣を求めて、スイへ向かうはずだ。
方術士のままなら相殺する。サーヒラ(魔術士)として変貌するなら陰気を打ち込む。
カラマは裂けてだらしなく垂れ下がった革つなぎの袖を引きちぎった。真白な胸があらわになった。
ふいに、陽気が消えた。ぐっと集中したカラマの背後から、いきなり、火蜥蜴が襲いかかった。身をかわしたカラマの触手をくわえ込み、六本木通りと逆方向に飛ぶ。そのまま、六本木ヒルズアリーナの楕円形のガラス屋根を突き破った。
青い血が飛び散り、切れた白い触手が数本、ガラス屋根の上でのたうつ。
体に食い込んだ歯から、カラマの中に陰気が入ってきた。皮膚の下で、じくじくと、千もの虫が蠢く。
木製のデッキに、激突といってよい速度で着地すると、火蜥蜴は4つ足を踏ん張って動きを止めた。下顎から闇が溢れ、六本木ヒルズアリーナを黒煙が埋め尽くす。
カラマは、ふと、なぜ自分はこんなことをしているのだ、と思った。サーヒラ(魔術士)である自分が方術士の小娘のために命を賭している。なんと愚かなことだ。
カラマの額を冷や汗が滑り落ちた。
(否……まずい……じゃんね……)
これこそ、ハシャル〈蠱〉の毒であった。気力を奪われ、最後には自分の命すら、どうでもよくなってしまう。
触手を動かすことさえ億劫になってきた。咬まれた傷の痛みが激しく耐えられそうにない。――もう嫌だ。こんなに苦しいなら死んでしまったほうが楽かも知れない。
火蜥蜴の頭を絞める触手が力なく垂れる。触手の先が頭頂部の傷口に触れて、火蜥蜴がふるえる。それは、スイが七剣でつけた傷だ。
カラマの胸に棘が刺さったような痛みが走った。白い頬を涙がつたう。
(命を諦め、命を奪った。いくら命を救っても、あたしは化け物だ)
胸が痛む。泥のような虚脱感のなか、カラマは必死にもがいた。寒い日曜の朝に起き出す努力に似た、殺し合いとはほど遠い足掻き。
ふと、水の匂いが香ってきた。地下に暗渠があるのだろうか。母なる水に溶けたら、どんなに心地よいだろう。
そのとき、突然の閃光が六本木ヒルズアリーナを照らした。烏賊を咥えた火蜥蜴の影が木製デッキにくっきりと焼きつく。続いてやってきた衝撃波が黒煙を吹き飛ばす。
(――! スイ、あんた、ついに……)
触手が緩慢に動き出した。傷にもぐり込み、吸盤の棘が伸びて、そろそろと火蜥蜴の体内に陰気を送り込みはじめる。
火蜥蜴が呻いた。顎の咬合がゆるむ。
カラマは、火蜥蜴の口からこぼれて地面に転がった。のっそりと起き上がった顔は木肌のようだが、すぐに皺は消えた。黒い目に光がもどり、触手がうねる。
瞬く間に自分を取りもどし、カラマは一気に触手から陰気を送り込んだ。火蜥蜴が膝をつき、ぬめりのある皮膚が乾いていく。形勢逆転。敵の変貌が解けようとしている。
そのとき、周囲に人影が起き上がった。
(ドゥムヤ(人形)か――!)
ある影はスーツを着ており、ある影はワンピースにカーデガンを羽織っている。ある影は片腕で、ある影は右足が妙なほうを向いている。容姿は様々だったが、全員の目口鼻耳から、蛇の舌のように、闇が、ちろちろと顔を出している。
死体を陰気で無理矢理動かすサハラ(魔術)だ。体内は術士の陰気で満ち、爪や歯で皮膚を裂いて陰気を打ち込んでくる。
名古屋TV塔でインチュアンの虚室生壁を相殺した黒衣の死体が、これだ。ドゥムヤは魔術の呼称で、方術では喪屍と呼ぶ。
ドゥムヤが地を蹴った。リミッターが外れた全力の跳躍で足首が砕けても、筋肉が断裂しても構わない。転倒すれば爪を剥がし指を折りながら地面を掻きむしって走る。
6体の狂った死体がカラマに殺到した。カラマは左の触腕=脚で回し蹴りを放った。触腕は10メートル近く伸びて先頭の3体を分断した。血と内臓をぶちまけ、切断面から黒煙を吹きながら、6つの肉塊が木製デッキに転がる。
続く3体を触手で貫いて葬ったカラマは、しかし、触手を強く引かれてバランスを崩した。火蜥蜴が頭から触手を抜いてカラマを引き寄せている。
周囲の瓦礫から、数え切れない数のドゥムヤが立ち上がり、雪崩のように押し寄せた。
◆◆◆
微動だにしないスイの眼前で、狂弾と化した自動車が次々に爆発し、爆炎がスイの姿を隠した。
その爆炎を破って、かまいたちの旋槌と化したスイがハンオウに迫る。ハンオウは跳躍して避けたが、旋回する七剣が左足を切断した。風刃を受けた高架道路が、蛇がのたうつように倒れていく。
ハンオウは血の筋を引きながら、六本木ヒルズの通路に着地した。痛みに膝をつく間もあらばこそ、胸から腹へ一直線に熱線が走る。風が血を吸い出し、赤い霧が舞う。
ハンオウの目の前にスイがいた。
鉤爪で斜め下から切り上げる。障壁が紙のように裂け、今度こそ、狂爪がスイの細い体を切り裂いたかに見えた――しかし、そこにスイはいない。ふたたび突進してきたスイに袈裟懸けに切りつけた鉤爪を、スイは背中の七剣で受けた。寸断された土竜の爪が、ばらばらと地に落ちる。
スイの後頭部で光が回転し、意味を――蓮の蕾を形成する。
「お前まで、なぜだ!?」
ハンオウの首もとから闇が吹き出し、腹のまわりに円盤状にたまる。逆五芒星があらわれて黒煙を吹き、後から後から、ヘドロのように闇がうまれる。
スイは、一瞬で地上15メートルに跳び、照明弾のような閃光を発した。地上では、闇が、まるで醜い病変のように凝り固まっていく。
「俺は努力した! 力も技も、インチュアンと同等だ!」
闇が執拗に光に挑み、挑んでは敗れる。輝かしい蓮の蕾は、ますます、その美しさを増していく。
ふいに、バキッ、と、木の枝をへし折るような音がした。一拍おいて、バキッ、バキリと続く。スイが歯を噛みしめている。
「これが、お前の心か。この心でインチュアンを殺したのか!」
蓮の蕾がひらき、光る赤子があらわれる。穏やかな寝顔がゆがみ、声なき叫びをあげる。光がいや増し、炸裂する。
黒い塊が破裂して、膨大な闇が、光ごとスイを押し包んだ。
「わたしに触れるなあっ!」
闇が霧散した。
光輝一閃、回転する5本の刃がハンオウの体を切り刻み、血線が夜に螺旋を描いた。
◆◆◆
ハンオウは夜空に散る自分の血を見た。そのむこう、曇天の空に満ちる氷の粒を輝かせて、陽神を背負ったスイが回転している。銀色の翼がきらめき、長い手足が世界を掴もうとするかのように伸び広がる。
美しい――。
感嘆の吐息のつもりが、喉から漏れたのは醜い獣声だった。地の底で鳴り響く太鼓のように、激しい痛みがやってくる。
(イード〈一多〉……すまない……)
冷ややかな視線が、ハンオウを見下ろした。スイが右手を上げ、風が集まる。
スイが右手を振りおろし、ハンオウの首が体を離れた。首は獣の貌のまま、長い舌を巻いて転がり、割れたコンクリートの隙間に落ちた。




