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スイ〈錘〉が背中のチャックを上げ終わるのを待っていたかのようにノックの音がした。ふたりは素早く目配せした。
「開いてるよ」
カラマが日本語で言うと、扉があき、男が入ってきた。
白い長袖のポロシャツにジーンズ。全体的に、よれて薄汚い。足が不自然に曲がっていて、踏みだすごとに体が左右にゆれる。
「ハンオウ〈韓応〉――やはり、生きていたな」と、スイが言った。中国語だ。
ハンオウは片眉を上げて薄く笑うと、中国語で答えた。
「ハンオウさん、だろう? 見たところ、傷も癒えて準備は万全のようだな。すぐにでもインチュアン〈銀川〉の仇を討ちにいくぞ」
「茶番は止めろ」と、スイ。
ハンオウが唇をなめる。
「そこの魔女に、なにか吹き込まれたか」
「よくいうよ。お前こそ、陰気が、だだ漏れじゃんね。あとさ、そんな汚い恰好で、ひとんちに入ってくるなよ」
ハンオウはカラマを顎で指して、スイに言った。
「この女は、ラオオーメイ〈老峨眉〉の倍は生きている魔女だぞ。人間の真ん中に、そ知らぬ顔でひそんでいるが、清の時代に大陸で悪名を轟かせた化け物だ。
どういうつき合いをしてきたか知らんが、すべてはインチュアンの力あってこそだ。インチュアンが死んだいま、お前に後ろ盾はない。いいように体をいじくり回されるだけだぞ」
ハンオウの後ろの水槽で海藻がゆれている。まるで、スイの怒りを映すように水中へと根を伸ばしていく。
「なぜ、裏切った」と、スイが訊いた。
「裏切ってなどいない。俺も必死で戦った」
「嘘だ。あのとき、お前がインチュアンの障壁を相殺した――サハラ(魔術)で」
スイは右足を引いて半身にかまえた。
「お前はインチュアンの仇だ」
ハンオウの目が鋭くなった。
「たわけたことを。インチュアンの仇というなら赤鉄アカムではないか。臆したか」
「……お前、車椅子はどうした? 長年、だましていたのだな」
ハンオウは自分の足を見た。
「無残なことをいうのだな。立っているのもやっとなのだよ。車椅子は玄関だ」
カラマが鼻で笑う。
「ふん、踵はどうしたじゃんね。どっかに置いてきたか?」
「さすがに魔女だ。品がない。人の体を悪くいうな、と、親は教えなかったか?」
茶色の海藻が漂い下りてくる。その海藻の隙間から赤い海藻が染みだす。
「情けない。インチュアンが、あの世で泣いているぞ」
ハンオウは、また唇をなめた。舌が鼻先までとどいている。
スイはハンオウを睨みつけたまま、言った。
「もう十分だ」
「わかった。そうまで言うなら、お前の目を覚ましてやろう。だが、気絶する前にひとつ教えろ。七剣はどこだ」
「出たな。それが本音じゃんね」
「蟲は黙っていろ! あの戦場には、なかった。お前が持ち帰ったのだろう? それこそ魔女の魂胆ではないか。狙いは七剣だ。広成子丹も手に入れるつもりなのだ。
サーヒラ(魔術士)とは、快楽を求めるだけの野獣だ。こやつらの蛮行を阻むのが、我ら方術士の役目ではないか。インチュアンに何を学んだ? スイ!」
茶色い海藻のあいだから、ひっきりなしに赤い海藻があらわれては海水に溶けていく。
(あれは、なんだ――!?)
水槽が、どっと泡立った。珊瑚のような形をした肌色のものが垂れる。
「シイッ!」
スイが流星錐を放つ。後頭部が光り、風がカラマの髪をゆらす。陽気をまとった神鉄球が空を裂き、ハンオウの顔を掠めて背後の水槽に突き刺さった。海水が溢れだし、ピンクの看護服を着た女が流れ出た。
「南――!?」
全身に無残な裂傷を負い、乳房が片方ちぎれている。股間は真赤に染まっている。
耳まで裂けたハンオウの口角から赤い筋が落ちる。
「アアアッ!」
スイの背中から銀色の刃が飛び出す。左右に3本づつ、肩甲骨に沿って並ぶ、赤く血に濡れた翼――。刃が風を巻く。
スイが床を蹴った。集めた風を一気に吹き出して加速。空中で錐もみ回転しながら、左踵の浴びせ蹴りをハンオウの脳天に叩き込む。
ハンオウは、その蹴りを両腕を交差して受けた。衝撃は体を通って床を砕き、ハンオウは床を突き抜けて階下に落ちた。
床の穴へ、水槽からあふれた海水が落ちていく。流されていく看護師の体を、カラマが抱き止める。
「南、南――」
答えがないのは知っている。それでも、カラマは呼ばずにいられなかった。
スイは穴の縁に着地し、即座に斜め後方に跳んだ。巨大な影が床を砕き、天井を破った。鉄骨がちぎれ、支えを失ったコンクリートが崩れる落ちる。
「追う!」
スイの言葉にカラマがうなずく。七剣の翼がスイを押しあげる。天井の穴から出て――待ち受けていた巨大な口に、スイは飲み込まれた。




