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葵クリニックの看護師が、ブラッスリーの洒落たエントランスを眺めていると、正面から車椅子の男がやって来て傘と傘が触れた。看護師が会釈すると、男は看護師をなめるように見て、無言で行ってしまった。
(もう、だからピンクの白衣なんていやなのよ。だいたい、白衣なのにピンクっておかしいでしょ)
ぶつぶつと不満を言いながら、葵クリニックへ足をむける。白衣の色はカラマの趣味であった。
(あの人、どう考えても、医療関係者的な着こなしじゃなくて、なんかエッチなものを求めてるのよね)
ぶん、とビニール袋を振る。中には、表通りのコンビニで買ったプリンやヨーグルトが入っている。2週間前に入院した中国人の女性患者むけだった。
その患者は、最初のひどい状態から、ほぼ回復して、いまはカラマの自室にいる。古い知り合いなのだそうだ。
(それにしても、ものすごく早く回復したなあ。うちでも珍しいよ)
葵カラマには、なんども驚かされてきたが、今回のケースは、中でも特別だった。
角を曲がると、焦げ茶とグレーのタイル張りの落ち着いたビルが見えた。葵クリニックの看板に、ほっとする。
なんだかんだいって、看護師は、この職場が気に入っていた。葵カラマは10代に見える年齢不詳の女で、変態で男遊びも激しいが、尊敬すべき名医だ。医師としての腕が素晴らしいだけでなく、医療となると普段の放蕩が嘘のように誠意に満ちている。
エロい服装を要求されたり、強引に合コンに連れていかれたり、わずらわしいこともあるが、それもよい刺激になっていると思う。
六本木だし、給料もいいし、結婚するまでいるのかな、と、適当に考えながら、看護師は日々それなりに楽しくやっているのだった。
裏口へ向かうために角を曲がると車椅子が見えた。看護師は体をこわばらせた。
たしかに、さっきの男だった。白い長袖のポロシャツにジーンズ。全体的に薄汚れていて、このあたりでは、ああいう人はあまり見かけない。
(不審者なのかな……)
まわりには、ふたりのほかに誰もいない。
いちど、引き返そうか。そう考えたとき、男は車椅子を回転させて去った。
看護師はクリニックの扉まで走って、中に入った。電気をつけっぱなしで出たので、白い廊下が眩しく、一瞬、視界がとぶ。小さな三和土で、てきぱきと靴を脱ぎ、傘をたたんで傘立てに入れると、スリッパをはいて息をついた。
ぞくり、と背筋が泡だった。うしろで水滴の音がする。
(あの人、傘をさしてなかった。ううん、どうして、あの人のことを考えるの。あいつは扉のむこうだ。あっちの通りに行った。わたしには関係ない。ぜんぜん、まったく無関係だ)
そう自分に言い聞かせて、看護師は廊下に一歩を踏みだした。否、踏みだそうとした。ところが――。
(足が動かない!?)
足首に黒い煙がまとわりついている。悲鳴を上げようとした看護師の口を赤黒い舌がふさいだ。




