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山本陸と井上ひまりが六本木の惨状を見る1時間ほど前。
六本木ヒルズにほど近い、中央通りから一本入った裏通りにある六階建てのビルの最上階のバルコニーで、白衣を着た白い肌の女が小糠雨の降る六本木の街を見おろしていた。
ビルには「葵クリニック」という看板が光っている。表向きは整形外科だが、東洋医学への造詣が深く、実質的には全身=全人間を相手どった診療をしている特殊な診療所だ。顧客には政財界の有力者や芸能人が幾人も名を連ねる。
この白衣の女が葵クリニックの院長で、名を、葵カラマという。少なくとも、ここ30年はそう名乗っている。
カラマはキャスターマイルドの煙を、ゆっくりと吐き出した。新鮮な烏賊の切り口のように切り立った鼻の下で、色素の薄い控えめな唇が煙草のフィルターをつまむように咥えている。夜空に紫煙がゆるやかに広がり、白衣の裾はこそとも動かない。漆黒のつるりとしたボブヘアの表面をヘッドライトの光が移動していく。黒い大きな瞳にも光は流れゆく。
世界に艶名とどろく夜街・六本木は、ゴールデンウィークをむかえ、雨すら粋な小道具にかえて活況だった。次々に悲惨な事件が起きる状況でも、人々は歓楽を求める。否、だからこそか――。
「夜の凪か。これだけ空が水で満ちれば、もう海の底じゃんね」
中国語でそう呟くと、カラマは煙草を外置きの灰皿でもみ消して、開け放しのサッシをまたいで部屋にもどった。
室内は土足だ。下階のクリニックは日本人に合わせて土足禁止にしてあるが、プライベートでは靴をはいたまま過ごしたい。
「さて、同郷の特別患者の具合はどうかな」
白衣を、するりと脱ぐ。ボディスーツのような下着をつけた細っそりした肢体を、床や壁から沸きあがる間接光が照らす。
上半身は、ブラジャーとインナーを合わせたようで、袖は手先まで覆い、肩と腹は丸出しだ。下半身は、股上の浅いタイツで、やはり足先まで覆っている。どちらも純白で豪華なレースで飾られており、小柄ながら滑らかな体の線を艶やかに演出している。
カラマの肌は、白い下着よりも、なお白い。白色人種の桃の肌とも、黄色人種の絹の肌ともちがう、白磁器のような白だ。硬質感のある表面に不思議な青い光が揺れている。
その青い光は本物の水の揺らぎだ。壁のほぼ全面が水槽に囲まれている。バルコニー側と出入り口をのぞく壁面に、カラマの腰の高さから天井まで、水槽が継ぎ目なく埋め込まれている。水槽は内側からライトアップされて仄かに光っており、やわらかい光が部屋を海中のように見せる。
「魚がいないのは、おかしいと思う」
部屋の中央、闇に浮いて白くかがやくクィーンサイズのベッドから、声がした。中国語だ。
「起きてたか。お腹すいたじゃんね。いま、南が買い出しに行ってるじゃんね」
カラマは、シーツを美しく盛り上げて仰臥する方術士に微笑んだ。




