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端境潔子が楽屋にもどると、アシスタントマネージャーが飲みかけのペットボトルを片付けようとしていた。
潔子は横柄に声をかけた。
「あんた、なにやってんのよ」
アシスタントマネージャーは、いつものように、おどおどと答えた。
「あ、潔子さん、あの、お水を新しいのにしようと思って……」
「まだ飲んでんのよ。余計なことしないで。すぐ、つぎの撮影なんだから」
「で、でも、あの、このあいだは早くかえて欲しいって……」
「は? あんた、口答えすんの」
「いえ、そんな……」
「本当に、いらいらする女ね。それよりあんた、こないだの奴らとは遊んできたんでしょうね」
「え……」
アシスタントマネージャーは肩をちぢめて後ずさりした。
「は? なにやってんのよ。あいつら、またあたしんとこくるでしょ。あんただって、いちおう女なんだから、男の1人や2人、満足させてきなさいよ」
「あ、あの、あたし、もう……そういうのは……」
「は? あんたなんて汚れなんだから、あとは同じでしょ」
「……あの、あたし、高藤さんに呼ばれてて……その……し、失礼します!」
最後は早口に言って、アシスタントマネージャーは、逃げるように楽屋を出ていった。
「ったく、なんだってのよ」
苛立ちが収まらないまま、バッグをあけて化粧ポーチを取りだし、鏡の前に座る。眉間に皺のよった、茶髪ロングの不機嫌な女があらわれて、潔子をにらみつけた。
「あいつのせいで、ブスになってるじゃないの」
撮影までに気持ちを落ち着ける必要がある。今日の仕事は大きなチャンスなのだ。
潔子は、KIYOKOという芸名でファッションモデルをしている。八頭身の長身で、すこし離れた大きな目が印象的な美人だ。
今日は代官山のスタジオでファッション誌の表紙撮影だった。まだ6月の終わりだが、8月号に向けた撮影としては、ぎりぎりだ。
潔子は、この仕事ではじめて表紙を飾る。モデルとしての成功には重要なステップだ。気合いを入れて2週間前から節制してコンディションを整えてきた。
20分しかない休憩が、アシスタントマネージャーのせいで短くなった。最終的には専門のメイクスタッフに任せるが、自分でも状態を把握しておかなければならない。
化粧ポーチから刷毛を取りだして、本格的にメークをはじめようと鏡を見ると――鏡に男が映っていた。楽屋のドアの横に立っている。
振りむいて自分の目で確かめる。たしかに、男はそこにいる。さっき、アシスタントマネージャーが出ていったときには誰もいなかったし、その後、足音もドアが開く音もしなかったのに。
(赤鉄アカム……)
すぐに気づいた。TVやネットで、いやでも顔を見るということもあるが、訪問に心当たりがある。
潔子は冷たい声で言った。
「どうやって入ってきたのよ」
「こんにちは、赤鉄アカムです」
小馬鹿にするような口調に、頭に血がのぼる。
「ふざけないで!」
イメージより小柄な男だった。身長は170センチほどで、体つきも華奢だ。いつも付き合っている男性モデルたちに比べれば子供のようなものだ。潔子自身も174センチあるので、なおさら小さく見える。
5日前、マネージャーから、赤鉄アカムの部屋に行ってほしい、と言われた。潔子は、その場で断った。近々、海外進出を控える潔子に、金しかメリットのないデートを受ける必要などない。
その30分後に、こんどは事務所から呼び出しがあって、説得された。断るのは危険であること、報酬が多額であることを押し出して、マネージャーは詰め寄ってきた。仕方なく、その場は持ち帰りにしたが、答えが変わるわけはなく、2日後に、あらためて断りを入れた。
そして昨日、再度依頼があって、いい加減頭にきたので強く言った。するとマネージャーが困った顔をしたので、自分で先方と話をする! と啖呵を切った。この訪問は、その結果だろう。
赤鉄アカムは、潔子の怒りなど、そよ風程度にも感じていないようだった。
「出て行って! 話し合いをするとは言ったけど、正式なアポイントメントをもらってからの話よ。突然、楽屋に来るなんて失礼でしょ!」
「ちゃんと報酬も払うけど」
「金なんていらねーよ!」
立ち上がり、赤鉄アカムの横を通って扉のノブに手をかけ――表情を変える。ノブが動かない。まるで、石の彫刻のようだ。潔子は隣に立つ赤鉄アカムを見下ろして、言った。
「あんたがやったの?」
赤鉄アカムは答えない。
「もとに戻して」
「とりあえず、裸見せてくれる?」
潔子は総毛立った。
「は!? なめんな、チビ!」
ナンパ男どもを撃退してきた、父親ゆずりの啖呵だった。しかし、赤鉄アカムは、にやにやするばかりだ。
「美人でも、裸が綺麗とは限らないから」
潔子は扉を叩いて叫んだ。
「だれか!」
扉は金属製で、叩けば大きな音がするはずだが、ノブ同様に岩のようで、微動だにしない。
「不審者! 助けて!」
扉がだめなら、と、壁を叩く。結果はおなじだった。あまりに硬くて手の骨が砕けそうだ。潔子は荒い息をついて赤鉄アカムを睨みつけた。
「あたしを外に出せ、この野郎。ガチで沈めんぞ」
赤鉄アカムは鼻を鳴らした。
「お前だけ残して、俺が出てくか」
「てめえ、なに――」
「3日に1度だけ来てやる。喉が渇いてたら、俺のおしっこを飲ませてやろう」
「な……うるっせえ! 早くこっから出せ!」
怒りの涙で視界が歪む。
いきなり、目の前が赤鉄アカムの顔でいっぱいになった。腹に衝撃。息が吸えない。潔子は身を折ってうずくまった。
「自分で裸になれ」
冷ややかな声が首筋に降りそそぐ。
「誰が……てめえなんか……に……」
ようやく出た声は笛のように細かった。
ふいに、下腹が、すーっとして、落ちているような感覚がやってきた。腕が自然と持ちあがり、ついには、体全体が床から浮く。抵抗むなしく、潔子は両手両足を大の字にひらいた形で空中に磔になった。
赤鉄アカムが潔子の胸を乱暴にさわった。
「へえ、モデルのくせに結構あるんだな」
「やめろっ……てめえ、痛ってえんだよっ!」
潔子は赤鉄アカムの顔に唾を吐いた。赤鉄アカムは無表情のまま、潔子の顔に唾の返礼をした。
「お前、金でデートしてんだろ。プロデューサーだの、デザイナーだの、事務所の社長だのとさ」
赤鉄アカムは机のおしぼりを取って顔を拭いた。さっきまで潔子が座っていた椅子に腰かける。
「あと、アシスタントマネージャーを苛めてる。クズが」
「――あ?」
屈する気はない。いざとなったら睨み殺す。
赤鉄アカムは潔子の体を上から下まで、じっくり眺めて、言った。
「うーん、でもなあ、新しい方法を考えたいよなあ。……うん、さっきの、いいかもな」
◆◆◆
10分後、アカムは撮影スタジオのエントランスに向かって歩いていた。デニムを穿いたスタッフらしき女性がやってきて、アカムとすれ違った。
アカムは、ぶつぶつと独り言をいった。
「モデルなんて、まだいいほうだろ。アイドルとか声優なんて、清純ですなんてファンを騙しといて、ほんと詐欺だよ。恋愛禁止だけどデートは禁止じゃない、とか自己弁護してんだろ。気色わりい」
アシスタントマネージャーは、立ち止まって、すれ違った男を振り返った。どこかで見たことがある気がする。あんなスタッフ、いただろうか?
いっしゅん疑問に思ったが、遅れるとまた潔子に怒られるので、すぐに楽屋へ向かう。
アカムは、なにか思いついたらしく、はたと手を打った。
「そうだ、裏切りを暴こう! それで、ホームページに公開する。だれがだれといつデートしたか晒してやる。女だけじゃなくて、金と権力で若い美人と好き放題してる連中も暴いてやる。全国の仲間が熱狂するぞ」
やおら元気よく歩き出したアカムの背後で、
「あの、す、すいません、潔子さん? 扉をあけて下さい。撮
影、はじまります。潔子さん?」
という、おどおどした女の声が聞こえた。
さらに20分後、代官山の老舗レストランでカラスミパスタをすすりつつ、アカムは妄想を続けていた。
(どうやって白状させる? これまで遊んだアイドルや女優にきくか。報酬をやれば、しゃべるかな。駄目なら脅せばいいか。
相手の名前がわかったら、乗りこむ。女も男も、白状するところをビデオに撮って公開して、仕事も家庭も崩壊させてやる。とんでもない大物が出てくるかな。有名プロデューサーとか、政治家とか、大企業の役員とか、いいな。
それとも、そんなの、ないんだったりして。芸能界は世間が揶揄するほど卑しくも汚くもなくて、真面目に勝負している人が大半だったりして)
アカムはパスタを飲み込んだ。
「――いずれにせよ、だ」
(インターネットが発達して万人が情報発信できるようになっても、秘匿される情報がある。金や権力を握る連中が好き勝手にやっているという、真実か妄想かわからない噂話が本当なのかどうか。事実は小説より奇なりしか否か。それを、つまびらかにする。これはさ、一般人の夢だよ)
カラスミの濃厚な旨味をふたたび味わうべく、細いパスタにたっぷりとソースを絡める。
「そうだ。世界中でこれをやればいいじゃん」
(大国の陰謀も、独裁国家の虐殺の噂も、ドラッグや、人身売買や、幼児虐待や、謀略殺人や、世の中のあらゆる快楽と欲望と、それに紐付く妄想のすべてを公開する。
この世界から一切の隠しごとをなくしたらどうなるか。疑心暗鬼の大混乱か、失望と絶望の蔓延か。それとも、平坦でつまらない現実の露呈か)
計画実現のために発揮すべき傲慢と暴力を想像して、アカムの心は踊った。
(まあ、まずはアイドルグループにしよう。暴露して一番インパクトがあるし。未成年とかもいるわけだし。ネットの世界にこもって暗い妄想にふける同胞たちに楽しいネタを提供するぞ)
パスタを食べ終わり、ランチについてきたジェラートを食べる。さっぱりしたジンジャーのジェラートだった。とても美味しい。
ふいに、突然の轟音がフロアをゆらした。闇雲な低音が腹に響き、早口の英語と不快なコーラスがレストランの空気をかき乱す。場所を選べばノリのよい音楽なのだろうが、昼どきの代官山には、まったく、そぐわない。客たちは眉をひそめて災難が通り過ぎるのを待っている。
アカムの胸は、この闖入者のせいで、あっというまに冷えた。暗い炎が横隔膜あたりで揺れる。ここ最近、どうも胸がもやもやして、怒りや苛立ちばかり感じる。ほんの少しのことでも、相手に思い知らせずにいられない。
アカムはジェラートを残して立ちあがった。
レストランの目の前の交差点に、車高の低い、板チョコのようなコンバーチブルが停車していた。洋楽を大音量で鳴らしている。
運転席には、フードに鋲がならぶ黒いパーカーに黒いニット帽を被った男がいて、ボンネットに足をのせて煙草を吸っている。助手席には、紫のスーツを全身タイツみたいに張りつけた男が座っている。ふたりとも、ぐったりとダルそうだ。
どうやら、女がコンビニから帰ってくるのを待っているらしい。髪を徹底的に脱色した露出の多い女がふたり、近くのコンビニをうろうろしているのが見える。
アカムは無造作に車に近づき、助手席のドアを蹴った。
「お前ら、うるせえよ」
男たちは、きょとんとしていたが、黒ニット帽男が舌打ちした。
「てめえ、気ぃ狂ってんのか?」
左ハンドルなので助手席のほうがアカムに近い。紫スーツ男が身を乗り出してアカムの襟首をつかむ。
「にいちゃん、金。面倒くせえから、それゴッ!?」
紫スーツ男がフロントウィンドウを乗り越えてボンネットに転がった。ヤニで黄色くなった歯が、ころころとアスファルトに落ちる。アカムは助手席に跳びのった。
「てっめェイッ!」
腰を浮かせた黒ニット帽男の顎を、つま先で蹴り上げる。黒ニット帽男は、釣り糸に抵抗するマカジキのように跳ね上がった。
空中で男の顎をつかんでぶら下げ、振り上げた足をカーステレオに叩き込む。高そうなデッキが無惨にひしゃげ、盛大な雑音を吐き出して沈黙した。
「手ぇはなせよ! 警察、呼んだかんな」
女の、かすれた声がした。コンビニから女たちが帰ってきたようだ。
アカムに突っかかってきたのは、ブランドロゴが入ったグレーのオーバーサイズのスウェットを着た女だ。花柄のズボンワンピースに、デニムジャンパーを着ているほうは、紫スーツ男に駆けよって抱きおこしている。
「離せよ! もう、勝負ついてんだろ」
黒ニット帽男が失禁していることに気がついて、アカムは黒ニット帽男を放り投げた。女が、黒ニット帽男を受けとめて尻餅をつく。
アカムは、あらためて、ふたりの女を眺めた。
白に近い金髪で、耳だけでなく、小鼻や唇にもピアスをしている。服装と髪型で、かなり威圧感があるが、どちらも顔のつくり自体は美形といってよい。
アカムは溜め息をついた。
「お前らさあ、美人に生まれて、なんで、そんななの。こいつらに仕込まれたの」
女は、それぞれの男に声をかけるのに夢中で、アカムの言葉など聞いていない。アカムは車から降りて、グレースウェットの髪をつかんだ。
「ってえな、なにすんだよ、はなせよ!」
つかんだ腕を水平まで持ち上げる。女は、ぎゃーぎゃーわめきながら中腰になった。
「あー、言葉遣いが悪い。その美しさは、もっと真面目な子に分配すべきだったわ」
パン、と、女の頬を張る。女はアカムを睨みつけた。
「殴られ慣れてんなあ、お前。美人なのに? 美人だから? こんな連中と付き合うようになったの。
美人には動物みたいな奴らが群がりやがる。美人のほうは、有利をかさにきて、それだけで生きようとしやがる。
そういうの、いけないんじゃなかったのかよ。女を性的な目で見ちゃいけないんじゃなかったのかよ、 あ!?」
髪を放し、掌底で鼻を打つ。女は涙と鼻血で顔をくしゃくしゃにして、うずくまった。
「ひぃっ!」
ズボンワンピースの女が逃げ出したが、アカムが視線をむけると、数歩で棒のように倒れた。
「俺は、お前らが美人だってことが許せねえわ」
膝を曲げることもなく浮き上がり、ゆったりした後方伸身宙返りで車のボンネットに着地する。ボンネットがめくれ上がり、エンジンが寸断されて弾け飛んだ。アカムの足もとで、車が爆発、炎上する。
「ついて来い」
爆発に巻き込まれたはずなのに、焦げあとひとつない姿で、アカムは女たちの前に立った。そのまま、きびすを返して歩き出す。
女たちは、よろよろと立ち上がり、顔を見合わせた。ふたり同時に、アカムに背を向けて走り出し、なにかに足を取られてコンクリートに突っ伏した。
「ついて来い」
アカムが目の前に立って、言った。ふたりは震えながら、うなずいた。
野次馬が、ずいぶん集まっていた。アカムが近づくと人垣がさっと割れる。真っ青な顔をした女ふたりが、あとへ続く。片方は鼻血まみれだ。アカムはハンカチを鼻血の女に放り投げた。
苛立ちは増すばかりだ。
タクシーを拾おうと車道に出る。アカムは、最近は普通に移動することにしている。
そのとき、なんとも間の悪いことに、渋谷方面から、直管の音をばら巻きながらバイクの集団がやってきた。20年前の漫画で見たような高いカウルと長い背もたれのバイクに、白や赤や青の特効服がまたがっている。集団の後方から、サイレンを鳴らしてパトカーが追ってくる。
アカムは金縛りにあったように動かなくなった。ズボンワンピースの女がグレースウェットの女の袖を引き、グレースウェットの女が首を振った。
アカムの腕が、ぶるぶると震えた。首に筋が浮きあがり、頭が不規則に上下する。
ズボンワンピースの女が目に涙をためて、グレースウェットの女にしがみつく。
バイクが迫ってくる。エンジン音が傍若無人に鼓膜を殴りつける。
「……くだらねえ」
アカムは無造作に手を振った。
空気が、わっと動き、アカムを中心に空間が歪む。その歪みに触れたバイクが、つぎつぎに吹き飛び、ガードレールや対面の建物に衝突する。急ブレーキをかけたパトカーが後続のパトカーに追突されて特効服を何人か轢く。
「スケールが小せえんだよ!」
うつむいて叫び、地面に足を踏み下ろす。見える範囲すべてのアスファルトが裂け、地面の陥没は東急東横線の代官山駅にまで及んだ。
アカムは、そのまま、女を残して歩きだした。女はアカムと反対方向へ走って逃げた。遠く、救急車のサイレンが聞こえてきた。




