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珈琲は中米産と思われた。すっきりした苦みのあとに甘味がやってくる。豊かなフルーツ香が鼻腔へぬけ、全身の緊張が自然とゆるむ。吉田は、ほっと息をついた。
「君は、自分の意思で一緒にいるの? 脅されたり、ひどいことをされたりしてない?」
うりは唇のクリームを、ぺろりとなめた。
「わたしが、わがままいって泊めてもらってるんです。ご飯も食べさせてもらって、お小遣いももらってます」
うりは、背中をずらして、さっき隠した野苺柄の布を見せた。
「この生地も、お小遣いで買ったんです」
「そうか、そうだな。君は、あの時から意思が固かったね。うりちゃんはアカムくんが好きなの?」
「え、そんなことは……ないです。わかりません」
うりは頬を赤くした。
(――ふうん)
少女らしい仕草が自然で、そこに暴力の匂いはない。支配を目的とした日常的な暴力は被害者の言動に必ず影をつくる。うりの目の表情にも、口調にも、手足の動きにも、不自然さはないし、目に見えるところに痣や傷はない。
吉田は、過去に取材したDVやいじめの被害者の様子と比較して、うりは本当に自分の意思で赤鉄アカムと一緒にいるのだ、と判断した。
「俺は浮気相手を連れてくる悪い奴ってことになるね」
うりは顔を伏せた。
「最初からアカムに言われてたんです。女の人を呼ぶし、来るときは外に出てろって」
「そうか、ごめんね」
吉田は、うりが赤鉄アカムを呼び捨てにしたことを心に留めた。
「わたしが気になるのは、アカムがあんまり楽しそうじゃないっていうか――朝、部屋にもどると香水の香りとかして、独特の気分になるんですけど、アカムはいつも、ベッドでぼーっとしてるんです」
「ああ、うん」
「わたしは部屋を片付けるんですけど、しばらくするとシャワーを浴びたり、ご飯を食べたりするんですけど、ほとんど喋らないんです」
吉田は心の中で溜め息を吐いた。こんな美少女に、ほかの女の後片付けをさせておいて、自分は脱力感に浸るとは、なんと贅沢で残酷な奴だろう。
男の虚脱状態について教えてやりたくなかったが、下世話に過ぎる気がして、吉田は口をつぐんだ。
◆◆◆
会話が止まって、うりは吉田の服装を眺めた。白いシャツに生成の麻のジャケットを着て、薄いグレーのウールパンツを穿いている。品が良くて、それでいて気楽な雰囲気がある。裁縫工場で働いていたうりには、よい生地を手間ひまかけて仕立てたオーダー品だとわかる。
アカムの服装はTVで見たときはジャケットスタイルだったが、最近はジーンズにTシャツやネルシャツばかりだ。
(アカムにはきっと、ブルーグレーのジャケットが似合う。パンツは、いま吉田さんが穿いているような色がいいかな)
などと、うりの構想は全身のコーディネートへと展開していく。
「ふたりは前から知り合いだったの?」
吉田が話しかけてきて、構想は靴下の色が濃紺に決まったところで中断した。最近、アカム以外の人とまともに話していないので、つい、おしゃべりになってしまう。
「ぜんぜん、知りません」
「そうか。だったらどうして、君は特別扱いされているんだろう。心当たりはないの?」
「さあ……」
(ほかの女の人と比べて、特別に相手にされてないっていう感じはあるけど)
「……仲間、みたいなことかも知れません」
「君と?」
「はい。最初、わたし、助けてもらったんです。そのあと、わたしが手伝ったこともあったし。仲間意識みたいなの、持ってくれてるかもしれません。だから――そうか、だからかな」
(わたしに、なにもしないのは)
「詳しい話、聞かせてもらっていい?」
そう言って、吉田は身を乗り出した。うりは、しゃべり過ぎてしまったことに気がついた。
「ごめんなさい。話せないです」
吉田は何か言おうとしたが、ふと肩を落とした。
「いや、こちらこそ、ごめんね。ちょっと調子に乗っちゃったね」
しばらく世間話がつづいた。吉田は珈琲や紅茶に詳しく、メニューを見ながら、ひとつひとつ解説してくれた。そして、うりに、爽やかな花の香りがするハーブティーを頼んでくれた。
うりが、ポットから2杯目を注いでいると、吉田が言った。
「もうひとつだけ、アカムくんのことを聞いていいかな?」
「はい」
「アカムくんは君のいうことを聞く?」
「聞かないと思います。考えたこと、ないですけど」
吉田は、しばらく間を置いた。
「――うりちゃん。君がアカムくんを導けないかな。あの力を良いことに役立てるように、できないかな」
「え……」
うりは虚を突かれて戸惑った。吉田の言ったことが、すぐには理解できない。
「僕はアカムくんの力を把握してるわけじゃないよ。でも、災害救助とか、大きな工事とか、事故の処理とか、たとえば原発の解体とかね。そういうことを、あっという間にできるんじゃないかな。犯罪や戦争の防止や抑制だって、アカムくんがその気になれば、できそうでしょ。
きっと世界中の人に尊敬されるよ。政府に金を要求したり、恐怖で押さえつけなくても、ちがう方法で、いま以上のものを手に入れられる」
吉田はこれまでとは違う、熱を帯びた口調で言った。
「それは、そうかも知れないですけど。でも、アカムは、そうしたいと思うかな……」
吉田は顔を撫でると、少しの間、言葉を止めた。次に口を開いたときには、もとの冷静な口調に戻っていた。
「ごめんね。いきなり結果から言っちゃったね。僕はさ、うりちゃんが、アカムくんを優しい気持ちにできるんじゃないかと思うんだ」
「やさしい気持ち……」
「そう。だって、うりちゃんの話を聞いていると、アカムくんが普通の男の人みたいなんだ。それって、すごいことだと思うよ」
「そ、そんなんじゃ、全然……ないです」
うりは空のカップの底を見つめた。
「君は、そのために来たんじゃないの? 力を持てあまして、まわりも自分も不幸にしてる彼を変えるためじゃ――」
「違うんです」
うりの強い口調に、吉田は驚いたようだった。うりはカップに目をもどして、言った。
「わたし、余命があと3ヶ月くらいなんです」




