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アカムとうり 悪の魔王ともうすぐ死ぬ子  作者: 佐藤いふみ
         6節 ラオオーメイ〈老峨眉〉の目覚め
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 半刻後、ハンオウ〈韓応〉に肩を支えられて、イード〈一多〉は石段を上っていた。鳩尾が熱い。目が霞む。首のうしろに嫌な塊があって気持ちがわるい。


小周天しょうしゅうてんだ」と、ハンオウが言った。


 イードは言われた通りに小周天を行って陽気の循環をこころみた。けれど、体調はちっとも良くならない。


 足先を見つめ、涎を垂らしながら、ハンオウに導かれるままに歩を進める。ほどなくして石段が終わった。


 そこは山の中腹だった。霞んだ目に五台山の頂が見える。知らぬ間に霊峰にわけ入っていたらしい。


 無数の鴉が、いっせいに飛び立ち、黒い翼が日を隠して黄昏どきのように暗くなる。嗄れた鳴き声と羽ばたきが雨のように降ってきた。


 イードは顔を上げた。目の前に湿った岩壁がある。頑丈そうな木の扉に、沼の石積みや椀と同じ紋様がのたくっている。


 ハンオウはイードに肩を貸したまま、恐ろしい声で呪文を唱えた。


「アジャイラーアルアルラフテインナ」


 扉が、ひとりでに内側にひらく。ハンオウは、イードをひとり闇に送り出した。


「進め」


 扉が閉まる直前、ハンオウが言った。




 背後で扉が閉まると、完全な闇がおとずれた。イードは扉に背をあずけて闇を見つめた。奥のほうから、衣擦れの音が聞こえる。なにかが、どさり、と地面に落ちる。老人のうがいのような音が聞こえ、冷たくよこしまな気が、びょうびょうと吹きつけてくる。


「前……へ……」


 イードは壁をたどって進みだした。闇が、箸について離れない餅米のようにまとわりついてくる。臍下げいかの不快は一歩ごとに増し、自分を支えるのに精一杯で、なにも考えることができない。


 どのくらい進んだろうか。洞穴は曲がりくねり、距離も時間もイードには分からなくなった。何度目かの角を曲がると火影ほかげが見えた。岩肌が橙色にぬれ光り、ゆらめく影がのそりと動く。


「ラオ……メイ……ですか?」


 自分の声が、さっきの鴉より嗄れていることにイードは驚いた。まるで腹わたがしゃべっているようではないか。


 汚らしい、うがいのような音が洞穴に響いた。


 イードは異音の中に、「来い」という言葉を聞いた気がした。岩壁についた腕を、足の多いものが伝い下りてくる。足首にも同じ感触がからみつく。それでも、イードは進んだ。


 ラオオーメイ〈老峨眉〉に会い、許可をもらって外の世界へ行くのだ。ジョーとリーフと再会し、黒衣ヘイイーとして方術界のために活躍するのだ――。


 洞穴は、つき当たって右に折れた。奥は室になっていて、蝋燭がひとつ燃えている。寝台があり、そこに、黒くゆらめく闇の塊がいた。黒い煙が吹き出しては流れて、床に溜まっている。丈はイードの倍以上あり、頭が室の天井に沿って曲がっている。


「弟子を失くすのは悲しい。才能があれば、なおさら惜しい」


 闇が口をきいた。ハンオウの呪文に似た、うがいのような不快な響き。


「才がひらく前なら、なお悲しいばかりだ」


 闇がかたちを変え、一部が細く突き出して、床からなにかを取った。キチキチと鳴いて絡まりあう長虫のかたまりを、闇が口をひらいて喰う。咀嚼音が響き、なにやら液体が吹き出して糸を引いた。


「こちらへ来い」と、闇が言った。


(――行きたくない)


 そう思ったけれど、イードの体は、すでにイードのものではなかった。腹の底のなにかがイードを支配して足を動かす。イードができることといえば、歯をがちがちと鳴らすことだけだ。


「いや……だ……!」


 喉の奥から紙を裂いたような音が出た。


 闇が笑った。


「長らく求めた太極が、わしを誘いおる。七剣しちけんもまた帰りよる。わしの力も、お前で満ちよう。3年間、よくぞ果たした」


 ずる、と濡れたものが滑る音がした。闇が剥がれ、湿った衣擦れの音とともに長衣が床に落ちる。


 蝋燭の火影が、化け物の赤黒い下腹部を橙色に染める。つるりとしたそこに筋が生じて、黒と桃色の斑模様の、赤ん坊の手のようなものが生える。それは黒い影の膝まで伸びて垂れ下がった。


「存分にむせぶがよい」


 赤ん坊の手に見える部分が、爪のある指を一杯にひらいた。その一本一本の先から粘液がしたたった。


 闇がイードにのしかかった。



   ◆◆◆



 大気のふるえで、ハンオウは、はじまったことを知った。激しい苦痛と嫌悪が染み出してくる。


「――すまない」


 洞穴のある岩壁、地面、森の樹々から、闇が蛇のように細くのびてうねる。黒い蛇はハンオウの体からも生え、ハンオウは目を閉じて闇のなすがままに任せた。

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