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胸の底でなにが蠢くのかと、イード〈一多〉は寝所の闇に目を凝らす。
自分の中に、なにかがいるような気がする――。
それは五台山の里へ来た夜からはじまり、3年経ったいまも、ときおり、背筋が凍るような恐れとともにやってくる実感だった。そのなにかは、うずくまっているが寝てはいない。かといって目覚めてもいない。ひたすらに、まどろみの中で暗い想念を育んでいる。
里は、新しい朝を迎えようとしていた。早朝の里は静かで、だから、木々のさやぎや小鳥の鳴き声に混ざる金属の軋み音を、イードは苦もなくとらえた。
3年前、生まれ育った炭鉱から、この里へ来るあいだ、イードはこの音を聞きつづけた。ここしばらく聞かなかったこの音は、彼が帰って来たことを告げていた。
木の扉がひらき、白い光が粗末な小屋に筋を引く。
イードの小屋は、里でも一番ちいさい最低限のものだ。入口を入るとすぐ土間で、右側に竈がある。左側は高くなっていて、机と椅子と寝台が置いてある。西側の窓から部屋に射しこむ光は淡く、部屋はまだ暗い。
入口から車椅子の男が入ってきた。男は部屋を見まわしたが、だれもいない。竈は冷たく、椅子は机の下で押し黙っている。寝台は空だった。男は鼻を鳴らして目を閉じた。
山鳩が鳴く。
突然、車椅子が回転した。男が首を左に傾けると、その真横に裸足の足が突き出した。男は、その足首をつかんで、投げた。
「あ」という声がして、作務衣を着た少年が壁の棚にぶつかって床に落ちた。イードだった。
イードは、車椅子の気配を感じ取ると屋根に上がり、機を見て木の扉の縁に手をかけて跳び蹴りをしかけたのだ。背後からの不意の一撃を、男は車椅子のまま、いなしたのだった。
イードの頭に棚から落ちた野菜が降ってくる。
「操(くそっ)!」
イードが跳ね起きて、車椅子の男に殴りかかる。拳が、かすかな光をまとっている。男がイードにむけて静かに掌をかざす。
と、イードの姿が消えた。天井の梁を蹴り、男の頭上を狙う。その拳が男の頭に命中する。――しかし、男はそこにいない。
着地したイードの足首を土から生えた腕がつかんだ。イードは、あっという間に土中へ引きずり込まれてしまった。
土間の床から首だけ出してもがくイードの目の前で、玄関から車椅子の男がゆっくりと入ってきた。地中を移動したはずなのに、体にも服にも車椅子にも、塵ひとつ付いていない。
男は呆れ顔で、イードを見おろした。
「仙息の時間を増やせ」
「1日3時間やってる」
イードは、ふてくされて言った。
「5時間だ」
「ちぇっ」
拗ねて見せるイードに、男はいっしゅん目を細めたが、すぐに真顔にもどり、車椅子を操って扉へむかった。
「ついて来い、仕事だ」
イードは体が動くことに気がつき、土中から抜け出して元気よく車椅子を追った。
「おかえり、ハンオウ〈韓応〉さん。いつ帰ったの?」
「昨晩だ」と、車椅子の男・ハンオウはイードを振りかえることなく言った。
ハンオウはイードの小屋を出ると、まっすぐに里外れへむかった。ふたりは、しばらく並んで歩いた。夏へ向けて、山の緑は深くなりはじめ、畑も青さを増している。
イードが行き先を尋ねるより前に、ハンオウが話しかけてきた。
「ここに来て、どのくらいになる?」
「3年とすこし」
イードは車椅子の速度に合わせて歩いた。ハンオウは、ずいぶん前に、戦いで足の自由を失ったという。それ以来、ここ五台山の里で若い修行者を鍛えていて、イードも弟子の1人だ。
(ハンオウさんがその気になれば、車椅子でおれより速く動けるけどね)
イードは、さっき手も足も出なかったことを思い出して、唇をとがらせた。
「修行は辛いか」
「炭鉱に比べたらましだよ。それで、どこに行くんですか?」
イードは器用に回転しながら、ハンオウの前に出た。
「ちゃんと修行はしているようだな」
「まあね!」
「お前には才能がある。たった3年で十分に陽気が循環している」
「ジョーとリーフは帰って来ないんですか?」
ハンオウは、たまに若い修行者をつれて里を出る。ジョーとリーフは、イードより年長で、イードのことをかわいがってくれていた。
いま里には、イードよりあとに来たものはいない。里の方術士は減りつづけ、イードのほかには6名の大人がいるだけだ。
「おれだって、外の世界で仕事をさせてもらっていい頃だと思うんですよね」
五台山よりさらに内陸の炭鉱の村で、イードは生まれた。イードが6歳のとき、坑道の崩落事故で両親が死に、イードは親戚に引き取られた。そこで虐待され、幼い頃から炭鉱で過酷な労働をさせられた。
その数年後、イードもまた崩落事故に巻き込まれた。大規模な事故で、10人を超える死者が出て、イードだけ生き残った。
絶望的な事故現場から、イードは無傷であらわれた。人々は驚きつつも、運が良かったのだと納得したが、事故の瞬間に光を見たとか、体が光っていたという噂が流れた。それを聞きつけたハンオウが村をおとずれ、ふたりは出会った。
「まずは黒衣になれ」と、ハンオウが言った。
「だから、ちゃんと頑張ってるんだよ!」
イードは明け方の道を、どんどん走っていく。




