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「院長、銀座は残念でしたね。思い出のお店が、みんな、なくなってしまって。渋谷は大丈夫でしょうか――ねえ、院長?」
岩瀬絵美看護師長の問いかけに、槇則左千夫医師は答えない。というより、絵美の言葉が耳に入っていない。
「なんてことだ……」
さびしそうな表情の絵美を尻目に、モニターを見つめながら、槇則はつぶやいた。
時刻は午後6時をまわろうとしていた。診療が終わった槇則医院の主診察室には、PCやエアコンや空気清浄機のモーター音が、かすかに響いている。
「ねえ、院長。わたし、こわいんです。ねえ――左千夫さん」
絵美の言葉に槇則が振りかえった。
「病院では院長と呼べと言っただ……んん」
槇則の小言を絵美がキスでとめた。
槇則は一旦受け入れてから、絵美の両肩に手をおいて、唇をはなした。
「外来はもう閉めたのか。看護師たちは?」
「みんなはいま休憩室です」
最後の「す」を言い終わらないうちに、絵美はまたキスを求めた。右手で槇則の太腿をさする。
槇則はしばらく相手をしていたが、さっきよりも強く絵美の体を押して、それ以上を許さなかった。
椅子を回してモニターに向きなおる。モニターには人間の脳のMRI画像・断面図が表示されている。名前の欄に「袴田うり」と表示がある。
「やっぱり、なんど見てもおなじか」
「この患者さんが、どうかしたんですか?」
絵美は、あからさまに声の調子で不機嫌を表している。
「俺も歳を取ったよ」
槇則の真剣な様子に、絵美が看護師長の顔にもどる。槇則は、目頭を押さえて両目を強くつむった。これは、槇則がひどく疲れたり、強いショックを受けたときにする癖だ。
「今日、薬を取りに来たんだけどね。余命を訂正しないといけない。あと、アメリアにデータを送ろうと思う」
槇則は机上の写真立てを見た。絵美は、アメリアという名前に、ぴくりと眉を動かした。
「袴田うりさんというと……思い出しました。高校生の年齢で働いているという女の子ですよね。余命を訂正というのは……」
槇野は大きく息を吐いた。
「もう、あと1ヶ月で動けなくなりそうだ。できればご家族に伝えたいが、この子の場合それもできないし。医師としては情けないが、つらいよ」
絵美は肩を落とす槇則の頬に、そっと触れた。
「院長のそういう優しいところを、患者さんは信頼してるんだと思います。今晩は空いてますか?」
槇則は微笑んで、言った。
「ありがとう。でも、今日は帰ると約束をしててね」
おそらく、息子との約束だろう。と、絵美は思った。
槇則は立ち上がり、絵美に軽くキスをした。
「袴田さんの携帯番号を教えてくれ。かけてみるよ」
絵美はうなずくと、ファイル棚の前へ行ってカルテを探しはじめた。
槇則は、机上の写真に目をもどした。
(おそらく、アメリアはこの症例に興味を示すだろう。もう何年も連絡を取っていないが、これを機会に、いちど、アメリカに行ってみるか――否、それはやはり、やめるか。俺はきっと、変わってしまったから。アメリアはどうだろう。まだあの頃のまま、ひとりでいるだろうか――)
「ありました。いいですか?」と、絵美が言った。
槇則は机の下のダレスバッグから携帯端末を取りだし、絵美が読みあげる袴田うりの携帯番号を打ちこんだ。
静かな主診察室に、番号がすでに使われていないことを告げる女性の録音音声が流れた。
「こんど、お薬を取りにいらしたときでは駄目ですか?」と、絵美が言った。
「いや、早い方がいい。他の連絡手段を探そう。住所から調べてみてくれ」
槇則は携帯端末を机に置き、自分もPCで検索をはじめた。




