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うりは目を覚まし、新しい天井に見入った。こんどの天井は全体的に白く、壁や柱のつけ根が楕円形を重ねた波模様になっている。ひとつひとつの段がほんのりと青白く光り、まるで海中から空を見上げているようだ。帝國ホテルタワーの天井が上品なマダムなら、この天井はドレスアップした若い女性といった感じだ。
部屋は、白と濃紺を基調とした、直線的でモダンな調度で統一されていて、どことなく海底を思わせる。遊び心があり、その上で、落ち着きと高級感が演出されている。
うりは体を起こして自分の恰好をたしかめた。
「やっぱり……」
ベージュ色のガウンを着ていて、中は裸だ。体に痛いところはない。
アカムが部屋に入ってきた。黄金色の飲み物が入った細長いグラスを持っている。
「おはよう。何か食べる?」と、アカムが言った。
「あのあと、どうしたの?」
アカムはベッドサイドまできて、金属フレームの濃紺のソファに座った。
「気がついたら朝になってて、それから、ホテルを探してチェックインした」
「銀座は、どうしたの?」
「そのまま」
「そ、そう……」
「下着、汚れてたから、あっちの籠に入ってるよ。新しいの、もうすぐ客室係が持ってくるから、しばらくガウン着てて。あとさ――」
アカムは、サイドテーブルにグラスを置いて居住まいを正した。
「助けてくれて、ありがとう。うりちゃんがいなかったら、殺されてた」
そう言って、アカムは頭を下げた。うりは驚いて、どぎまぎしながら言った。
「あ、うん。どういたしまして。わたしこそ、なんども助けてくれて、ありがとう」
「うりちゃんは、すごいな。あの剣士を投げ飛ばしたのは、あれは合気道?」
「うん」
「体中を力が駆けめぐってたよ。あの剣士もそうだけど、武道の達人ってのは力を使えるんだな」
「わ、わたしは達人じゃないよ。いっしょに練習してた子が強かっただけ」
「そうなの?」
「力って、なに?」
アカムは、すこし考えて、言った。
「いわゆる、気ってやつ? 俺が使ってるのだよ」
うりは、気という言葉に覚えがあった。
「合気道では、合気っていうのを大事にするよ。気っていうこともあるし」
「そっか。まあ、そうだよな。中国人だけが使えるってわけもないよな」と言って、アカムはうなずいた。
どうして中国人が出てくるのだろう、と気になったが、腹が鳴って、うりは黙った。
「とにかく、うりちゃんの体が先だ。俺のせいで、ずっと、ご飯も食べてなかっただろ。下着と一緒にお粥もくるから、それ食べてね。ホットミルクならすぐ来ると思うけど、飲む?」
「あ、うん。はい、飲みます」
「待ってな」
アカムは、するすると歩いて隣の部屋へ行った。フロントに電話しているらしい声が聞こえてくる。
うりは、ぼん、と頭を枕につけた。
あのとき、星がやけに綺麗に見えた。その夜空の下の暗い穴――銀座の惨状が目に浮かぶ。
(何人、亡くなったろう。なのに、わたしは、こんな豪華な部屋で、5人は寝られそうなベッドで、ふわふわのガウンを着て横になってる。おそろしいことだ――)
寝返りを打って、枕に顔をうずめる。
(アカムは、いまは優しい。けれど、でも、本当はとんでもない人だ。死んで償うとか、そんな言葉を口にするのも憚られるくらいの大変な罪人だ。
わたしは、ここにいて、なにがしたいんだろう。アカムと暮らして、どうするというのだろう。いっしょに、ひどいことをし続けるの? そもそも、アカムに会おうと思った動機はなんだっけ。なんだかぼんやりして、よく分からない)
アカムがもどってきて、ソファに座った。うりは長座になってヘッドボードに背をつけた。
「でさ、助けてくれたのは感謝してるけど、やっぱ、しばらくしたら帰ろうか。美味しいもの、たくさん食べればいいし、遊びに来たければ、また来ていいからさ」
「帰るところなんて、ないもん」
なにか考える前に、そう答えていた。
「もんってお前……」
「ほ、ほんとだもん」
はは、とアカムは笑った。
「俺さ、ひとりがいいみたいなんだよね。他人がいるとさ、リラックスできないって感じ。肉親でも駄目でさ」
「……うん」
うりは、だれかといっしょのほうが落ちつくし、安心する。小さい頃から大勢の他人に囲まれて育ったからだろう。中学卒業以来のひとり暮らしは、うりにとっては修行のようなものだった。でも、アカムは、うりとは違うのだ。
アカムは続けた。
「俺は色んな女と遊ぶし、好きなときに好きなことを好きな相手としたい。好きなものを好きなように好きなときに食べたい。それを、だれにも、なんにも言われたくない。だれにも見張られたくないの」
「見張ったりしないよ」
「俺が、見張られてると感じるんだよ」
「じゃ、じゃあ、わたしのことは空気だと思って。ぜんぜん気にしなくていいから」
「そんなの無理だろ。それに、じゃあ、うりちゃんは何のために俺と暮らすの。空気みたいに無視されるため?」
「それは、ちがうけど、いっしょにいれば……」
「なんで俺なんかと一緒に暮らしたいの? 有名人なら誰でもいいっていう人? そういう女、来たよ。見てくれのいいのだけ、おもちゃにして、あとは追い返したけどさ」
アカムは意地悪く笑った。
「昨日の夜、俺を助けてくれた覚悟は本物だったし、余命半年だからってだけじゃ、あれだけ堂々と命張れないと思う。なんか、もっとちがうモチベーションっていうか、決意みたいなものがあるんでしょ?」
アカムの話は、ひとり勝手に進んでいく。うりの言葉に答えているようでいて、話の材料にしているだけだ。
(自分勝手、だよね。でも、わがままっていう感じじゃない。わたしのことも、一生懸命考えてくれてる。けど、でも……うん。なんだか、ちぐはぐな人だな)
うりは話の内容よりも、アカムの人柄に、より注目していた。
「あ、わかった。そっか。死ぬ前に贅沢したいとか? 外国とか、なんか経験したいこと、ある? なら、お金もあげるし、つれてってあげるよ。そう?」
うりは首を振った。
「え~、じゃあなんだよ~」
うりは、アカムをじっと見て、言った。
「いっしょに暮らしたいの」
アカムは首を傾げて、しばらく動きを止めた。
「なんなの、それ。暮らすってのが、うりちゃんにとって重要なわけ?」
「そう」
うりは大きくうなずいた。
「暮らすねえ……」
アカムは腕を組んで背中を反らせた。背もたれは、寄りかかるには低すぎるようだ。
「よく考えてみ。たとえば、俺とここで暮らしたとするじゃん。そしたらさ、毎晩、知らない女がやってきて、俺と遊ぶんだぜ。うりちゃんはそのあいだ、別の部屋だ。そんで朝になって女が帰ったら、部屋にもどる。でも、やることなんてない。ここはホテルだから、掃除も洗濯も人がやってくれる。俺は出かける。うりちゃんは好きにしてていいけど、金とか使っていいけど、俺といっしょにいる時間なんて全然ないぜ。邪魔だと思ったら、追い出すし」
「それでいい」
「強情だな~」
そう言って、首まで反らせて天井を見る。
うりは不思議な気持ちだった。
(やっぱり、なんか――なんでだろう? どうしてだろう?)
アカムの胸のあたりに視線を下げて――ふいに思い出した。
「左腕、ついてる」
「ん? ああ、これ。くっつけたら治った。やっぱ、切り口が綺麗だったんだな」
アカムは、左腕を持ち上げて振って見せた。その左手で、びっ、とうりを指さす。
「じゃあ、俺の奴隷になるなら、いっしょに暮らしてやるよ」
「うん、いいよ」
うりは即答した。アカムは、がっくりと肩を落とした。
「あ~あ……はい、わかりました。よろしくおねがいします」
こうして、アカムとうりの同居生活がはじまった。




