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あれから――うりが赤鉄アカムと会ってから、丸1日たった。あの日、ドアの外に放り出されて、それ以来、うりは部屋の前で正座している。緑ジャージを着ているから、まるで説教されて廊下に出された生徒のようだ。
廊下は琥珀色の絨毯敷きで、正座はつらくなかったけれど、水も食べ物も摂っていないので、うりはすっかり消耗していた。
赤鉄アカムは、ぜんぜん顔を出さなかった。たまにルームサービスの人がやってきて、うりの横を無言で通り過ぎる。最初から、うりを無視していたので、アカムから事情を聞いているのだろう。
うりが座っているあいだにやってきたのは、ルームサービスだけではなかった。昨日の夜には綺麗な女の人がきた。
女の人は扉の横に座りこんでいる、うりを見て目を丸くしたが、うりが会釈をすると黙って部屋に入った。朝になって出てきて、「いっしょに来る?」と言った。うりが断ると、気の毒そうな顔をして帰っていった。
廊下は無音で、じっと座っていると耳鳴りがしたり、急に誰かの声が聞こえたりする。時間の感覚もなくなってきて、宙をただよっているような妙な感じがする。
廊下の向こうで、エレベーターの静かなベルの音がした。
(ワゴンの音がしないから、きっと女の人だ。じゃあ、もう夜なのかな?)
うりの推測は外れた。角を曲がってあらわれたのは、身なりのよい男性だった。
年齢は30歳は超えていそうだが、もっと上といわれればそのような気もする。ジャケットを着ている男の人の年齢はわかりにくい。この男性は日焼けをしているから、なおさらだ。
男性は、うりを見つけて驚きの表情を浮かべ、小走りに近づいてきた。
「なんだ君は!? どうしてこんな所にいる。さらわれてきたのか?」
うりは首を振った。男性は、しゃがんで、うりと視線を合わせた。
「何をされた。動けないの?」
「自分で、ここにいるんです」
「え?」
男性は、ゆっくりと自分の顔を撫でた。顔の皮を上下にひっぱって、まるでマッサージのようだ。
「この子ひとりを助けたところで、なんだというんだ……」
くぐもった声でつぶやき、立ち上がってドアノブに手をかけ、そこで動きを止めた。
「僕が出てくるまでに、よく考えておくんだ。なにをされても、君の心と体は君のもので、汚れたとか、そんなことはない。命のあるうちに、ここから離れよう。いまは、いろんなことは忘れよう」
男性は扉を開けて中に入った。吉田です、と奥に声をかけるのが聞こえた。
それから30分ほど経ったろうか。男性・吉田が部屋から出てきた。扉を後ろ手に閉め、大きく息を吐いてうりに向きなおる。腰を落とし、うりと視線を合わせた。
「アカムくんは、君になにもしてない、といったけど、本当かい?」
「はい」
「どうしてだろう。君くらい可愛い子に手を出さないなんて」
「わたし、まだ子供だから……」
「いや、それは手を出す理由にはなっても、出さない理由には……あ、ごめんね、不謹慎だった」
「いえ……」
「アカムくんは君を特別視してるようだけど、なにか覚えはあるかい? 君も超能力を持ってるのかい?」
うりは思いがけない質問に面食らった。
「ア、 アカムさんは、わたしを特別視してるんですか?」
「勘だけど、そう思ったよ。実際、こうして手つかずで生かされてる時点で特別だ。アカムくんは魅力的な女性が好きだからね。それで、君もアカムくんと同じような人なのかい?」
「……いえ、あの……ちがいます」
吉田は、しきりと顔を撫でる。
「君が変える役割なのかと思ったけど――否、まだ否定するものでもないか。それで、君はどうする? 僕と一緒に来るかい? アカムくんから許可をもらったよ」
「わたしは、ここにいます」
うりは、きっぱりと答えた。
吉田は胸ポケットから手帳を出し、なにかを書いて破った。そして、財布から出した1万円札と一緒に、その紙をうりに握らせた。電話番号だった。
うりは戸惑って、言った。
「いいです、お金なんて。受け取れません」
吉田は、まっすぐにうりの目を見た。
「逃げたくなったとき、お金がなかったら、どこへも行けないよ。気にしないで取っておいて。あと、行くあてがなければ連絡して。それから――」
吉田は廊下の奥を指差した
「あっちに、もうひとつスウィートルームがある。鍵は開いてるから、トイレやシャワーを使える。冷蔵庫に水やジュースがあるし、ベッドで寝られるよ」
「トイレ、あるんですか? あ、ありがとうございます!」
目を輝かせたうりを見て、吉田は悲しげに微笑んだ。
うりは早速トイレへ行こうと立ち上がり、ふらついた。吉田が素早く脇の下に手を回して支えてくれる。
「ありがとうございます。くらっとしちゃいました」
「一緒に行こう」と、吉田が言った。
吉田が帰って、また、ずいぶん時間が経った。うりが、うつらうつらしていると、扉がひらき、赤鉄アカムが顔を出した。
「お前さあ、いい加減にしろよ」
うりは顔を上げたが、目が霞んで、赤鉄アカムがどんな表情をしているのか分からない。
うりは首を振った。
「いや」
赤鉄アカムは溜め息をついた。
「はぁ、これが押しかけ女房か。いい加減あきらめろよ。言っとくけど、座り込みとか俺には効かないよ。ていうか、このままだと、俺、君のこと殺しちゃうよ。なあ、聞いてんのか? なあ、おい! どうした!?」
脂汗を顔中に浮かべ、酸欠の金魚みたいに口を動かしながら、うりは毛足の長い絨毯にたおれた。
目を覚ますと、あの豪華な天井だった。
(どうしたんだっけ? 部屋の外に出されて、頑張って座り込んで、それで……倒れたんだ)
体調は悪くなかった。どのくらい時間が経ったのか、いまは何時くらいなのか、まるで分からない。外を見ようにも、ぶ厚いカーテンが壁のように光をさえぎっている。
扉がひらいて、赤鉄アカムが入ってきた。ベッドサイドのソファに腰かけて、呆れたように言う。
「起きたか。お前、重病なんだってな」
うりは上半身を起こした。ガウンを着ている。中は――下着だ。枕元に薬がある。リュックに入れておいたものと違う、新しい薬袋もある。
「お医者さんを呼んでくれたの?」と、うりは訊いた。
赤鉄アカムは、うなずいた。
「薬を見せた。もう、あんまり生きられないのかも知れないって」
「たぶん、5か月と半月くらい」
「冷静だな」
赤鉄アカムは細長いグラスから黄金色の液体を飲んだ。
「飲む? ジンジャーエール」
うりは首を振った。
「悪いけど、俺には治せないよ。will not じゃなくて、can not ね」
「そう……」
「試したんだけどさ。治るのを早めることはできるけど、自然に治らないものは駄目みたいだ」
うりは血の気が引いて行くのを感じた。赤鉄アカムはグラスを振ってジンジャーエールを回した。
「だからさ、俺におもちゃにされる前に帰りな」
目頭が熱くなって、うりは、しきりにまばたきした。
(わたし、期待していたんだ。そうか。でも、それでも――)
「ここで一緒に暮していい?」と、うりは言った。そして、思った。
(わたし、支離滅裂だ……)
赤鉄アカムはジンジャーエールを振る手を止めた。
「なんで?」
うりは唾を飲み込もうとしたが、かわいた喉がひりつくばかりだ。
(みんなに心配かけて、機動隊や自衛隊の人を傷つけて。小夜ちゃんは、なんていうかな。わたしのこと、しかるかな。あんまり我がままだもんね)
シーツを握る手に涙が落ちる。
「俺、女が泣いても、なんとも思わないから」
赤鉄アカムは立ち上がって、リビングルームへつづく扉へむかった。
そのとき――。
部屋の灯りが消えた。オレンジ色の非常灯がつく。同時に、窓ガラスがいっせいに割れ、重いカーテンが膨らんで、カーテンレールごと、ばりばりと千切れる。風が一気に流れ込んできて、うりの頬を打った。
外の暗闇から、黒い影たちが部屋に飛び込んできた。緑に光る目が、さっきまで、ふたりだけの空間だったベッドルームを蠢く。
タタタンッ、タタタンッ、と大きな音がして、部屋がオレンジに明滅した。




