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袴田うりは、自分の部屋のベッドで膝をかかえて、時を感じようとしていた。
むかし、小夜子といっしょに読んだ「時は流れない」という本に、こうあった。
「風呂で湯に浸かりながら、1秒過ぎた、また1秒過ぎた、と感じようとしても、なにも感じない。流れているといって、いったい、なにが流れているというのか。実際のところ、なにも流れてなどいないのだ」
(――たしかに、その通りだ)
うりも、本の作者とおなじように、なにも感じない。それなのに、半年後は刻一刻と近づいてくる。確実に、絶対に、自動的にやってくる。あたかも、なにかが流れているようではある。川が流れているのに似ているようでもある。でも、実感はない。
うりと小夜子は、よくいっしょに本を読んだ。とはいっても、小夜子は読むことができないので、うりが朗読をした。小夜子とは映画やTVで感動を共有できなかったから、本でいっしょに泣いたり笑ったりするのが、うりは好きだった。
「時は流れない」を読んでいるときの小夜子を思い出す。「難しいね」と、うりが声をかけても、小夜子は、じっとなにかを考えていて、もういちど声をかけるまで返事をしなかった。あのとき、小夜子はなにを考えていたのだろうか――。
ぼんやりと、そんなことを考えているあいだも、時は過ぎていく。いつのまにか、午後3時になっていた。うりは淡い水色のパジャマのまま、朝から水と薬しか飲んでいない。
病院で余命宣告をされた日から工場は休んでいる。明日は行こう、明日は行こう、と思いながら今日で4日になる。社長には、まだ体調が悪いといってある。本当は、もう体はふつうに動く。
すこし前から、子犬の鳴くような声が聞こえている。声は、ときおり、遠吠えのように長くのびる。火曜日と木曜日の夜だけと思っていたが、平日の昼間もだったとは知らなかった。
これは隣室の笑子の声だ。化粧の濃い派手な女性で、たぶん夜の仕事をしている。表札が出ていないから名字は知らない。顔を合わせるときは、大抵、色の黒い若い男・恋人のタカシがいっしょだ。ふたりとも見た目はこわいけれど、意外に気さくで話しやすい。
(そんなに気持ちいいものなのかな)
このまま経験せずに死んでしまうのは残念な気もする。でも、経験せずに死んでいった人もいっぱいいるのだし、なんにせよ、だれもが経験できたことだけ経験して死んでいくのだ。そして、その経験も死ねば消える。体といっしょに、なにもかも消える。
小夜子が、こんなことを言っていた。
「男子がね、死んだら、真っ暗だっていうの。わたしは、いつも真っ暗だから、死んでるようなものだって。でも、わたしはちがうと思う。感覚があるもの。まわりに世界があるのが、わかるもの。死んだら、それが消えるんだと思う。世界のほうが消えるんだと思う」
そのあと、しばらくして小夜子は世界からいなくなった。でも、うりの世界はなくならなかった。小夜子の世界はどうなっただろう。やっぱり、消えてしまったのだろうか。
うりは溜め息をついた。
(こういうのは、ただの理屈だ。世界は世界、わたしはわたし。わたしが消えても、世界は残る。世界が消えたら――わたしも消えるのだろう。
小夜ちゃんが幽霊になって教えてくれればいいのに。そうすれば、ぜんぶ解決するのに。小夜ちゃんの幽霊がいうことなら、ぜんぶ信じるのに……)
「難しいね」
うりは、何年も前に言ったのと同じことを、いまはいない小夜子に言った。




