15
袴田うりが渋谷駅前の大型LEDディスプレイを見上げる、その前日の深夜。赤鉄アカムは、町田警察署の留置場で目をあけた。
(いつのまにか寝てたんだな)
静かだった。高窓から月灯りが射し、ときおり自動車のエンジン音がきこえる。留置場には時計がなく時間がわからなかったが、12時をすぎてかなり経っていると思われた。
ふいに、かたい床を踏む音がした。廊下を誰かがやって来る。見回りだろうか。アカムの部屋の鉄扉が、ゆっくりと開き、制服姿の婦警がふたり入ってきた。
ひとりは、取調室に向かう途中ですれちがった黒髪の美人だった。意志の強そうなはっきりした目をしていて、背が高く、歩様がしなやかだ。
もうひとりは、昼間部屋に入ってきた、たしか佐々木婦警といったか。優しそうなタレ目が印象的で、黒髪の婦警より背はひくいが体の線が蠱惑的だ。明るい巻き髪が、大きな胸のふくらみを包んでいる。
天井が、壁が、床が、みずから発光しているかのように輝いて、ふたりを照らす。
黒髪の婦警が、「フフフ……」と笑いながら腰をくねらせて近づいてきて、しゃがんでアカムの顔をのぞき込んだ。
「あの……」
アカムの動揺を無視して、口角をやわらかく上げて微笑みながらヘアピンを抜く。くせの残った長髪が胸元へ流れおちる。黒い下着が見えた。
「ねえ、見て」
丸くつややかな膝頭がわれていく。タイトスカートがずれ上がり、月光が奥へ奥へと這いすすむ。アカムは、その小さな暗闇に注目せざるを得ない。
あと少し……あと少し……。
佐々木婦警がとなりにきてアカムの頬を両手ではさんだ。手の平がつめたい。親指が耳の穴をいじる。
「ん……」
キス――冷たい舌。氷のような手がアカムの手に重なる。
「あ……んん……」
佐々木婦警の吐息が頬に当たる。冷風だ。
黒髪の婦警の膝が180度ひらいて、黒い下着がまる見えになった。今度は黒髪の婦警がキスをした。よく冷えたマグロの切り身のような舌が口の中で蠢く。
ぼとり、と、なにかが落ちた。赤黒くぬれている。腐敗臭が漂う。黒髪の婦警が顔を離した。頬の肉が落ちて顎の骨と歯が見える。舌はアカムの口に残ったままだ。
「う……おごぉっ――!」
舌が奥へ入ってくる。思わず喉奥につっ込んだ手に、佐々木婦警の指が張り付いている。
「んぐんっ……うえぇっ!?」
冷たいものが食道を下っていく。飲みこんでしまった!
黒髪の婦警の上着が肩の肉といっしょにずり落ちる。白い胸があらわれ、すぐに流れて落ちる。
佐々木婦警が立ち上がった。胸の肉が、ふとももの肉が、体中の肉がくずれていく。スカートが落ちて、とろとろと肉が流れる。
しなだれかかる2人を振り払って、アカムは反対側の壁にのがれた。月光に、散らばった肉片が浮かびあがる。
「うおっぷ……うぷ」
口に指を入れて胃の中身を吐き出そうとするが、えづくばかりでなにも出てこない。冷たい感触が胃を通って、へそのほうへ移動していく。
黒髪の婦警が顔をあげた。赤い表面に目や鼻のあとらしき穴があき、ざんばらの髪が簾のように被さっている。太く長いうなり声を溜め息のように漏らしながら迫りくる。
「もう、やめてくれ――」
必死に見まわすと、背後の床に階段を見つけた。アカムは、手すりに飛びついて駆けおりた。
下階は階段の途中から水中に没していた。腐った死体・ゾンビどもが腰まで水につかって喰い合っている。殴った腕がくずれ、殴られた体がちぎれ、肉片が水に浮く。囓って飲み込んだ腐肉が腹の穴から出てくる。部屋は真っ白で、水中に赤いソファがある。地獄の光景を朝のさわやかな光が淡々と照らしている。
2階から婦警のゾンビが降りてきた。選択肢はない。アカムはゾンビのいる水に入った。
襲われる覚悟だったが、意外にもゾンビはアカムに気づかない。満員電車のような密度のゾンビをかき分けて進む。悪意がいつこちらへ向くかと気が気ではない。やがて、ゾンビのいる部屋の向こう側に赤い扉が見えてきた。
(扉の先は、どうなっている? 無人の町をゾンビが徘徊しているとか)
B級ホラーな展開が想起されて笑いがこみあげる。
(ついに追いつめられてゾンビに喰われる――結局のところ、それが結末なのかもしれない)
扉まであと少し――。
ガンガンガンガン!
誰かが、何かが、外から扉をたたいた。執拗に、いつまでも、休むことなく、疲れを知らず、ノックが続く。
白い部屋と朝の光、赤いソファと血と肉、そして赤い扉。鳴り止まぬ打撃音がアカムの心臓を締めつける――。
アカムは目をひらき、自分が逮捕されて留置場にいることを思い出した。破壊的なノックの音だけが夢からはみ出して続いている。
(ゾンビが徘徊する夢から覚めても、まだ非日常の中か)
首が、べったりと汗でぬれていた。毛布をはぎ取って体を起こすと、ひんやりした空気が、あっという間に眠りの暖をうばった。
留置場は真っ暗で、神秘的な月の光など射していない。コンクリートの四角い空間がアカムを閉じ込めているきりだ。
ふいに目眩がして、アカムは四方の壁が迫ってくるような圧迫感にかられた。
(――なんなんだ、一体?)
かちゃり、と金属音がした。
(ノブが回った? もう朝か。いや、ノックに答えなかったから確認か)
扉の蝶番がきしむ。
(声かけもなしとは。プライベートなんてないんだな。さて、どう対応するか――)
細くあいた隙間から赤黒い手が出てきた。空中をさぐるように動いて扉のふちをつかむ。指の肉が溶けて扉の表面を流れ落ちる。ぎいい、と扉がひらく。重症の肺炎患者のような吐息が聞こえて、警察帽がのぞく。
それは、アカムを留置場まで案内した看守だった。無残に腐りおちた顔面の、黒々とした眼窩から、眼球が何かの繊維に吊られてぶら下がっている。看守は、その眼球を、つるりと吸いこみ、汁を飛ばして噛みしめた。
アカムは戦慄し、叫び声を上げようともがいた――。
夢の中で上げようとした悲鳴が喉の奥に張りついていた。こんどこそ眼がさめたと実感でわかる。寝汗でシーツが体に張りついている。手足が重く、指の先まで重力を感じる。心臓が強く打って、肋骨が痛い。
灰色の天井、灰色の扉。留置場は静まりかえっていた。うまく体が動かないので、目ざめた姿勢のまま、いましがた見た夢を反芻する。覚めても覚めてもつづく悪夢――。
(せめて、あの扉をあけてみたかったな)
ゾンビと、赤と白の部屋と、その向こうの赤い扉。もし、あけていたら、どんな世界が広がっていたろう。いまここで赤い扉を思い浮かべ、ひらこうとしても、扉はおしだまって動かない。
(いやむしろ、あの扉があかないことが希望なのか。ノックは問いかけだ。ゾンビじゃない別のだれかが現れるかもしれないじゃないか)
首を左右に曲げる。手足の指のかたちを変えてみる。ゆっくりと息を吸い、吐く。
「あー」
声を出してみる。
(……よし)
ようやく落ちついて、起き上がると、アカムは部屋を眺めた。高窓の鉄格子から朝の光が入りこみ、避暑地の朝とまではいかないが爽やかといえなくもない。
(シャワーを浴びたいな。――ん?)
夢と同じように廊下に靴音が聞こえた。
(近づいてくる)
やがて、話し声が聞こえてきた。どちらも男の声だ。気楽にうわさ話を楽しんでいる、という風情だ。
「……また、署長の……らしい……」
「ここ……被疑者が相手……息子のほう……因縁つけ……」
「……いそうにな……人目だよ……ったく……」
ふたりは扉の前で立ち止まった。アカムは、そっとベッドを出て扉に近づいた。
「……今回は、かなりやられたらしいよ、息子」
「本当かよ。普通のサラリーマンて感じで、そんな風に見えなかったけどな。あいつ、バカだけど、かなりやるだろ。バカだけに加減知らんし。なんか格闘技でもやってたか」
「まあ、そのあたりは船井さんが問いつめてるけど。署長は、かなり怒ってるな」
「ああ、そっか。俺らはスッとするけど被疑者はたまらんな。じゃあ、かなり?」
「みたいだな。船井さん、飼いならされてるからな」
「なんとかならないのか?」
「緊急逮捕、家宅捜索だよ」
「あ~あ、じゃあ立件か」
「だな」
「なんとかしてやりてえなあ。けど署長が相手じゃな」
「まあなあ……」
「ユタカ、お前、あんま正義感だすなよ」
「署長が辞めたら、息子をしょっぴくんだけどな」
「署長が上いったらどうすんのよ。ますます、むずかしいだろ……おい」
新たな足音が廊下をやって来て、ふたりはもと来たほうへ去った。
(……どういうことだ?)
自問するふりをしてみたが、会話をそのまま受け取れば答えは明らかだった。
あの不良少年のひとりが警察署長の息子で、暴行の罪をのがれたばかりか、痛めつけられた腹いせにアカムを犯罪者にしようとしている。
事実なら我慢できそうにない。
(でも、もし我慢しなかったら、どうなる?)
なにもかも壊れて人生がめちゃくちゃになってしまうだろうか。犯罪者になって、憧れていた色々なこと――幸せが、手のとどかない夢になってしまうだろうか。
(……慎重にやろう)
あの船井という刑事にしたって、大人で、社会人だ。刑事になったのだって立派な動機があったはずだ。まずたしかめて、話をしよう。
さっきの警官も問題意識を持っているようだし、署内では有名な話なのだ。それなら、しっかり話せば、きっと解決が見える。
(さっきの立ち話が俺のことじゃない可能性だってまだある――それはないか)
廊下にふたたび靴音が響き、扉がノックされた。昨日の看守が、洗面をすませてから取調室で朝食を食べるように、と言った。




