12
なんとか自分の部屋に辿りつくと、アカムは鏡で自分の姿を見た。雨に濡れた髪が額に不気味に張りついている。なんども拭ったはずなのに、血が顎から首までこびりつき、シャツの襟は真っ赤で、紺ジャケットはどす黒く変色している。服のあちこちが破けている。
雨の中をこんな恰好で傘もささずに歩く男を見たら、いやでも印象に残る。
「畜生……」
なんで途中で我に返らなかったのだろう。会社を出るときから降り積もった怒りのせいか。でも、そんなこと、これまでもあったろう。ずっと上手くやってきたのに、今回に限って、いきなり体が動いてしまった。
その日は風呂に入って、泥のように寝た。そして、七日後――つまり、今日の早朝――警察がマンションに来て、アカムはいま、町田警察署の灰色の取調室にいる。
「あなたは、そう言うけれどねえ――あ、失礼して?」
船井刑事が右手の人さし指と中指を、なにかを挟むように掲げた。アカムは机を見たまま返答しない。無言の時間が数十秒つづいた。
「……ふむ。無言は肯定、と」
船井は胸ポケットから煙草を取り出して、百円ライターで火をつけた。
「同じやり取りはもういいでしょう。帰して下さい」
もう昼を過ぎた。会社には午後から出社すると連絡してあるが、そろそろ出ないと午後の就業開始に間に合わない。
「あの状況で俺に非があるなんていうなら、そんな法律くそくらえですよ」
声がふるえる。もっと落ちついて大人らしく怒りたいが、うまく制御できない。
船井は灰皿に煙草をおくと、両手を組んで、言った。
「危険じゃないかいねえ、赤鉄アカムさん。法律っていうのは、あなた、あたしたち国民を守るためにあるのであってねえ。それを、くそくらえといっちゃあ、治安の維持された平和な社会を否定しているようなものじゃないかいねえ」
アカムの首が、ぶるりと震えた。
「国民を守る? 治安を維持する? ならなぜ、お年寄りに暴力をふるって強盗していた奴らを止めた俺が警察にだまされて、連行されて、何時間も拘束されなくちゃならないんだ!?」
机が揺れ、床の埃が舞いあがった。
「おっとっと、おっととと。赤鉄アカムさん、すこし落ちついて。そう足をバタバタさせずに、ね?
あたしは刑事で、法律をみなさんに守っていただく側の人間だ。今回の逮捕と取り調べは、すべて法律に則っておこなわれていますよ。だましたとかね、いわれるようなことは何もしちゃいない。むしろ、なるべく穏便に迷惑をかけないように執行したつもりですよ、あたしは。感謝して欲しいくらいだ。
ふむ。でもね、ちょっとくらいの理不尽な罵倒なんてのは、あたしはいいんです。それよりもね、赤鉄アカムさん。あたしは、あなたが心配だ。そんな発言ばかりしているとね、あなたの立場がね、どんどん悪くなっていきますよ」
「立場って、なんですか!?」
アカムが身を乗りだす。
そのとき、アカムの勢いをそぐように扉がノックされた。場が、いっしゅん、静まる。
「はい、どうぞ」と、船井が返事をした。
扉がひらいて、婦警が入って来た。
なんだか偽物くさい婦警だった。美人すぎてコスプレにしか見えない。優しげなタレ目と厚い唇が男を誘うようだ。茶色い巻き毛に縁取られた大きな胸を揺らしながら、婦警は船井の横まで歩いてきた。
「お~お、佐々木くん。どうしたの?」
船井が猫なで声を出す。
佐々木婦警は船井に書類をわたした。船井は満面の笑みで受けとり、一部をアカムの前に置き、一部を自分で取った。佐々木婦警は丸い尻を艶めかしく揺らして退室した。
どうやら、町田警察署には美人が多いようだ。この部屋にくる途中にすれちがった婦警も凜々しい黒髪の美人だった。
(でも、それって、どうなんだ)
女性職員を容姿で選ぶというなら、その組織は信用できない。受付が美人すぎる企業は潰れる、という俗説は、あながち間違いではないと、アカムは思っている。
「どうぞ、ご覧ください」と、船井が言った。「あなたの部屋から押収した物品のリストです。確認してください」
「はあっ!?」
アカムは両手で机をたたいて立ちあがった。書類が床に落ちる。
「いま、なんて言った!?」
「まあまあ、落ちついて。あなたの部屋から押収した物品のリストです。家宅捜索をさせていただくと申し上げたじゃないですか」
「断ったはずだ!」
机が、みしりと音をたてた。船井は慌てず騒がず、書類をひろって机にもどした。灰皿から煙草をとって、ゆっくりと紫煙をはきだす。
「家宅捜索を断ることなぞ、できません。あたしは穏便に進めようと思って、鍵をお借りしようとしたんです。けれど、あなたは断った。だから大家さんに頼んでマスターキーを借りたと、それだけの話ですよ」
「大家さんに……!?」
「捜査員が捜査令状を見せてねえ、お願いしたんですよ。あたしだって、こんなことはしたくなかった。あなたの世間体が悪くなってしまいますからねえ。だから、鍵を貸してくださいと言ったんですけどねえ」
船井は、やれやれとばかりに首をふった。
アカムは椅子を蹴って、ビジネスバッグを手に取った。
「帰ります」
「駄目です」
「あなたに俺を止める権利はないはずだ」
「ありますよ。むしろ義務がありますねえ。あなたを緊急逮捕します」
「逮捕されるようなことをした覚えはない!」
ふるえる拳で机をなぐりつける。スチールの机が、ふたつに折れてめくれ上がった。
扉がひらき、制服姿の警官が3人入ってきて、アカムを押さえつけた。




