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嫌なことばかり重なる日だった。
アカムは町田駅南口から出ると、赤い煉瓦道が印象的な街路に入った。閑散とした平日の飲み屋街に追い打ちをかけるように、煉瓦ブロックに雨の染みができはじめている。
空を見あげて、思う。
(この雨粒は空の高いところから落ちてきた。煉瓦の下には土があって、地面はどこまでも続いている。いまから空港に行って、ドバイに飛んだっていいんだ)
ツタヤでアニメのDVDを借りるか、ジュンク堂漫画専門店で新作を探すか。とにかく、早くこの世界から抜け出さなくてはならない。
ツタヤのそばの三叉路に差しかかったとき、スポーツ店前の広場で、10代後半とおぼしき少年たちがたむろしているのに出くわした。なにやら乱暴にじゃれ合っている。
町田ではよく見る光景なので、アカムはとくに注意をはらわずに横をすり抜け――足を止めた。
少年の輪の中心におばあさんがいた。少年のひとりが茶色い長財布を高く持って、おばあさんをからかっている。
「なにやってるの」と、アカムは声をかけていた。
「ァあ!? ンだてめェは」
体の大きな男が凄んでくる。
少年ばかりかと思ったら、この男は20歳をだいぶ超えていそうだった。長い金髪を白い幅広のヘアバンドでオールバックにしている。瞳が黄色いが、カラーコンタクトだろう。白いスウェットが汚い。
「ッかいッてみろッてんだォあ?」
金髪白ヘアバンドが、アカムより頭ひとつ高い位置から顎をつきだす。
「おばあさんに財布をかえせよ」と、アカムは言った。
金髪白ヘアバンドはナイフで裂いたようなひとえまぶたを見ひらいて、蜥蜴の鳴き声のような音をだした。笑ったらしい。
「おいッ! おもッしれッつがいッぞ!」
少年たちが集まってくる。みんな、オーバーサイズのスウェットかジャージを着ている。思い思いの色がカラフルではあるが、どれも薄汚れている。
金髪白ヘアバンドは仲間を集めて、勢いづいた。
「ンで、テメにいわれたとおりにしなきャナンネンだ、ア!?」
「警察に連絡したから、すぐ来るよ」
アカムは、はったりを言った。
「警察だってさぁ、アッチャン。呼べばぁ?」
小柄な少年がわりこんできた。鼻の大きな童顔をゆがめて舌を出している。黒いキャップを逆さに被っていて、スウェットも黒だ。
「どけェェ、カッツ!」
金髪白ヘアバンドが黒逆キャップを押しのける。
「やっちゃってよぉ、アッチャン」
黒逆キャップが囃したてる。
どすん、と、腹に重い衝撃がきた。
「おッさンッ、あッまなめてッとォォ――死ぬよ?」
鳩尾をなぐった右拳をそのままに、どうだ、とばかりにアカムの顔をのぞきこむ。
アカムは無表情に見返した。舌打ちが聞こえ、しまった、と思ったときには、髪の毛をつかまれて鼻に頭突きをくらっていた。
アカムは、こんどは力を使わなかった。視界に細かい光が散る。頭の芯がつんとして涙があふれる。鼻血が口に入って、しょっぱい。
(これでいい……こういう連中は多少やられてやれば……満足する……)
「いいツラになッじャねェェェッか!」
少年たちが笑う。
「アッチャン、俺にもやらしてくれぇ、よっとぉ!」
黒逆キャップが頬を殴って、暴力のお試し会がはじまった。起き上がろうと手をつけば払われ、体を起こせば蹴りたおされる。口に血の味がひろがり、なまあたたかいものが鼻腔から胃へ流れおちる。亀になって後頭部をかばうのがやっとだ。少年たちは、ずっと笑っている。
「銀行のカードッ、暗証番号はけや。カッツ、さがせッ」
金髪白ヘアバンドが言った。
黒逆キャップがアカムのビジネスバッグをあさり、財布を取りだした。乱暴に中身をぶちまけ、緑色のカードを拾う。そして、アカムの髪をつかんで首を起こし、鳩尾をなぐった。これは深々とめり込んだ。横隔膜が痙攣し、笛のような音が喉の奥で鳴る。呼吸もままならず、アカムは地面につっ伏した。
金髪白ヘアバンドがスニーカーで後頭部を踏む。
「オイ聞いてッか、オッさァーン!? オレら、金、欲しンだよ」
アカムはあふれる鼻血でむせた。
「あくしろよ、ア!?」
金髪白ヘアバンドがスニーカーの踵をねじ込む。ごりり、という音が響いた。
「は、はち、な……な……」
「ア!?」
「8、7、2……1」
「カッツ、8721だ。そこの三井、いッてこい。ありッたけだッ」
「わかったぁ……お前、いけよぅ」
黒逆キャップが近くの少年にカードを投げた。足音が遠ざかる。
「アトさァお前さァ、女いる? 奥さん? ダチでいいからさァ、ここ呼べや」
金髪白ヘアバンドがそう言うと、少年たちから下卑た哄笑がわき起こった。
「オレたちがオトモダチになッてやッからさァ――ヒャハハハハ!」
金髪ヘアバンドが、アカムの頭をサッカーボールのように蹴った。倒れたところをさらに踏みつけられて、頬骨が煉瓦ブロックに当たる。ポテトチップが割れるのとそっくりな音がした。アカムは口にたまった血をはきだした。
「コイツのカバンからスマホ出せッ」
少年たちがアカムのビジネスバッグに群らがった。
「や…やめなさい、あんたたち――ひ、ひとりを、み、みんなで……」
弱々しい声がした。おばあさんの手が震えているのを、アカムは見た。
「ッせんだョ、ババァ!」
金髪白ヘアバンドが、いきなり、おばあさんの腹を蹴りあげた。おばあさんは濡れた街路にたおれ、腹をおさえて動かなくなった。かぼそい背中を踏んで、金髪白ヘアバンドが歯をむき出す。
「死んだ? 死んだンじャね!? ギャハハハハッ」
黒逆キャップが顔を引きつらせて、おばあさんの顔をのぞき込んだ。
「そ、そうだねぇ……し、死んだかもぉ?」
少年たちは愛想笑いを顔に張りつかせて動かず、だれも金髪白ヘアバンドを止めない。
「てめえら……っ!」
アカムの脳裏に田舎の祖母が浮かんだ。なにをしても、どんな状況でも、アカムの味方だった優しい祖母。おばあさんは、祖母くらい腰が曲がっていて、祖母くらい痩せている。
アカムは、心の中のなにか――自分の行動を決めるものに問いかけた。
(こんなやつらに、ルールなんて関係あるだろうか)
「……ないよな」
(こんなやつらに、フェアだとか正々堂々とか、関係あるだろうか)
「……ないよな」
「なにが『てめえら』だぁ。調子のんじゃねえよぉ、おっさぁん!」
黒逆キャップがアカムの顔面を踏みつけた。
「死にたくなきゃ、女、呼べよぉ。おっさんも、いっしょに遊ぶぅ!?」
少年たちが調子を取りもどして笑いはじめ――静かになった。黒逆キャップの足が持ち上がっていくのだ。アカムの伸びた体が、糸で吊られた人形のように、踵を支点に起き上がってくる。
「ひっ……!?」
黒逆キャップが顔を真っ赤にして体重をかけるが、泊まらない。黒逆キャップは、ついにバランスをくずして尻餅をついた。
まっすぐに立ったアカムが無造作に鼻血をぬぐう。包囲の輪がひろがった。
「こ、こいつ、なんか変だ。ねえ、アッチャ……がっ!」
とりみだす黒逆キャップの頭を金髪白ヘアバンドが小突いた。
「カッツよォ……ビッてンじャねェぞォ」
「で、でもぉ、アッチャン、こいつ、ヤベエよぉ」
金髪白ヘアバンドは唾をはき、スウェットのうしろポケットに両手をつっこんだ。
「体操とか、そんなんやッてやがッたンだろ。それッか――」
つかつかとアカムの前にきて、鼻が触れるほど顔を近づける。
「サーカスから逃げてきたとか――ヨッ!」
アカムの腹に、ぶ厚い刃がつき立った。折り畳み式の戦闘用ナイフだ。一瞬のポケットアウトオープン(刃の背にある突起をポケットの縁にひっかけて、抜くと同時にナイフをひらく技)だった。
アカムの耳元に顔をよせて、言う。
「くだらねェ人生、オレが終わらしてやンよ」
どんっ、と鈍い音が響いた。ナイフが地面にころがる。金髪白ヘアバンドの足が宙に浮いている。アカムが腕を引きぬくと、金髪白ヘアバンドは胃の中身をぶちまけて煉瓦道に沈んだ。
その後頭部を踏んで、アカムは言った。
「おばあさんにあやまれよ」
黒逆キャップはアカムの腹を見た。シャツが裂けて素肌が見えている。しかし、血は流れていない。
「米軍のタクティカルナイフだぞ……こ、こいつぅ……やべえええぇっ!」
逃げだした黒逆キャップの眼前にアカムが立ちふさがる。つき上げた左膝が右腕と肋骨をたたき折った。黒逆キャップは短い悲鳴をあげ、白目をむいて昏倒した。それを見た少年たちが、なりふりかまわず駆けだす。
アカムの髪の毛がふくらみ、足もとの水たまりがはじけ飛ぶ。衝撃波が、雨も埃も居酒屋の看板も、気を失った金髪白ヘアバンドも、黒逆キャップも、すべての邪魔ものを吹きとばして、逃走する少年たちを薙ぎ倒した。
アカムは、さっきカードを受け取った少年が四つん這いで逃げるのを、背中を踏んで止めた。背骨が鳴り、茶色いスウェットの股間に染みが広がる。煉瓦ブロックを掻いた爪がめくれて、少年は悲鳴を上げた。
「財布と、あとカード」と、アカムが言った。
その耳もとで風が鳴った。側頭部を突然の衝撃が襲い、盛大な破壊音が路地に鳴りひびく。振りむいたアカムは、狂気をはらんで光る黄色い虹彩を見た。
「ざけンんじャねェぞ、てめェあ――オレをナメてンじャねェぞあゴラァッ!」
吐瀉物で、べとべとの顔を怒りの形相にゆがめて、金髪白ヘアバンドが、ひしゃげて枠だけになった電子看板を振りあげる。
アカムは棒立ちのまま、頭で看板を受けた。
「その執念、なんか羨ましいな。いったい何に突き動かされてる? 怒りか、もっとちがうものか。お前らって動物に近いよな」
金髪白ヘアバンドは看板を投げすて、ナイフをひろった。
「死ねヤッ、オラアアァァ!」
切先がアカムの左眼に吸いこまれる。眼球は、喉と並んでナイフでの一撃死を狙える急所だ。
「ヘァ!?」
金髪白ヘアバンドが間抜けな声を出したのも仕方ないだろう。ナイフがアカムの眼球で止まっている。
焦点を失った金髪白ヘアバンドの瞳にアカムの背中が映る。次の瞬間、口元に絶大な衝撃。裏拳が、金髪白ヘアバンドを帰宅した子供が投げすてた靴下のように吹き飛ばした。白いスウェット姿が居酒屋の店頭につっ込む。
倒れ伏した金髪白ヘアバンドの口から溢れた血の池に白い歯が浮く。ズレた黄色のカラーコンタクトが白目に張りついている。股間に染みが広がり、ぶりぶりと音がして異臭が漂いだした。
アカムは自分のシャツで拳についた血と吐瀉物をぬぐった。深く息をつく。
おばあさんの財布を見つけて、拾い、おばあさんを探して――ようやく気がついた。
カメラのシャッター音がする。野次馬が集まって、携帯端末で写真や動画を撮っている。
アカムは鼻血と返り血で染まったシャツを見下ろした。
(これは……まずいぞ)
「きゅ、救急車を呼んでください」
目が合った野次馬に言って、自分の財布とカードを拾うと、ビジネスバッグをひっつかみ、体をちぢめて逃げだした。




