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1週間前、3月1日の17時半。アカムはビジネスバッグを持って会社の自席を立った。
「帰るの? いいなあ」
向かいの席の課長が言った。いつもの嫌味だ。本人は冗談と思っているようだが、これで定時帰りのうれしさは半減する。アカムは愛想笑いを浮かべて会釈し、逃げるように職場を出た。
(――俺は、どうして会社にいるんだ?)
22歳で就職して以来、答えがでない。入社してしばらくは、この世界は地獄だ、と、ぶつぶつ言いながら朝の準備をしていた。七年も経てば地獄にも慣れたが、働く理由は腹に落ちないままだ。
金銭的に困窮した経験がないことが仕事に前向きになれない一因かもしれない。両親は比較的裕福だし、祖父は今でも小遣いをくれる。学生時代から、バイトをしなくても友人や恋人と遊ぶ資金は十分だった。加えて贅沢もしない。毎月、給料の半分を貯金してまだ余る。いまの貯金だけで10年は暮らせるだろう。稼いでいるから楽しめる、と実感するような趣味もない。
アカムが就職して得たものは、毎日の理不尽な緊張と人間関係の負荷だけだった。
(なにもかも変えてしまうことだって、できるんだ。働いた金で、なにか。いまの状況を変える大きなこと。車、マンション、結婚、留学、資格、起業――なんで思いきって行動しない?)
会社のゲートをくぐり、外の空気を吸う。まだ日が出ていて風が心地よい。世界が語りかけてくるようだ。
できればこの気持ちで暮らしたい、と思う。でも、明日の朝には泥のような気分になっているに決まっている。もっと早く、ベッドに入ったときに切り替わるかもしれない。明日も夕方に会社を出れば、つかの間の開放がやってくる。そして翌朝、また落ち込む。
繰り返すのだ。明日も、明後日も、つぎの日も、そのつぎの日も――。
本厚木駅まで、15分の道のりを自動人形のように歩いた。住宅街でも商店街でもない、ただの道がぼんやりと続く。
駅につき、改札をぬけ、階段を上がる。ゆるやかなカーブを描くホームに人はまばらだった。アカムは目についたドア位置に立った。
ふいに、肩を押された。バランスをくずして体が傾く。そこへ、もういちど押されて右足が前に出た。
なにごとか、と首をまわすと、年配の男が、背に張り付くように立っていた。紺のブレザーにグレーのスラックスを穿き、黒革のビジネスバッグを提げたサラリーマン風の男だ。
ぐるり、という擬音を引いて、斜め下からアカムを睨め上げ、男が怒鳴った。
「きちんと印にならべ!」
突然の怒号に面食らいながら、アカムは足もとを見た。たしかに、ふたつある整列マークの中間にアカムは立っている。マークの真正面に立つべきだ、と言いたいのだろうか。
「ルールを守れよ!」
男はさらに詰めよってきた。
アカムは周囲を見まわした。隣の停車位置にも、その隣の停車位置にも誰もいない。どこにどう立とうが迷惑にならない状況だ。
「いやあ、いまは大体でいいでしょう」
よく考えることをせず、言っていた。
「なんだと、こいつ! ルールはいつでも守るものだろうが!」
男が張りだした胸をぶつけてくる。
「……すいません」
しばらく男の顔を見てから、小声であやまった。男は鼻をならして、もういちど押した。アカムは逆らわず、横にずれて整列マークの正面に移動した。
気まずい沈黙が数分つづいたあと、電車が来た。扉がひらき、男がとび乗る。車両は、がらがらだった。アカムは男と点対称の席にすわった。
殺風景な車窓をながめながら、男の目的を考える。
(あいつがいつも立っている場所だったのか。それとも、俺が弱そうに見えるからか。童顔のせいか。正論をたたきつける相手を見つけたから、気持ちよく上からものをいったのか)
「要するに、ガキだ」
口の中で、こっそり音にした。
町田駅に着いて、アカムは立ちあがった。男と目が合って、身を乗りだす気配を感じたが、アカムはすばやく電車をおりた。
19時すこし前の町田駅は人でごった返していた。サラリーマン、学生、新宿へ上る人、小田原へ下る人、改札から出る人、入る人。この駅はいつも、なにかしら混乱している。
「おい、てめえ、なにやってんだ!」
胴間声が響き、空気が変わった。声のしたほうへ視線が集まる。アカムは階段を降りている途中だったので、現場を見下ろすかたちになった。
自動改札の中で、若い女の子に男がすごんでいる。
女の子は、萌葱色のワンピースにオフホワイトのカーディガンを着て、茶色のバッグを肩にかけ、左手にビニール袋を提げている。高校生か、中学生かもしれない。かなり可愛い子だ。
男は、テラテラした紫のシャツに太くて白いズボンを穿いている。30代か40代だろう。いかにもなチンピラだ。
「もたもたしてんじゃねえよ!」
男がまた怒鳴った。つばがかかりそうな距離だ。自動改札が閉まっているため、女の子は下がることができない。顔を蒼白にして口をすこし動かし、頭を下げる。
「あの子、悪くないよ」と、アカムのうしろでスーツの男が言った。「あいつ、女の子が抜ける前に改札につっ込んだんだ。それで自動改札が閉まったんだよ」
(ひどいな……)
アカムは眉をしかめた。
「早くどけ、おら!」
男が、女の子の胸をわしづかみにして押した。女の子はよろけて、自動改札の扉をやぶって倒れた。男は女の子をまたいで去った。
静寂は数瞬、日常がすぐに再起動する。人が流れはじめ、アカムは階段をおりた。
女の子は倒れたまま動かない。打ちどころが悪かったのかもしれない。落ちたビニール袋からケーキが飛びだしている。アカムは足もとに落ちている黄緑の定期入れをひろった。
「大丈夫ですか、立てますか?」
ニットの女性が、しゃがんで女の子に声をかけた。別の女性がバッグをひろって持ってくる。向こうの改札から駅員が走ってくる。
自分が出ていかなくても大丈夫だろう、と判断して、定期入れをニットの女性にわたすと、アカムは歩きだした。




