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時は数十分前に遡る。夜の白金台に場違いな男がいた。上下とも黒ジャージ、黒いニット帽から金髪がのぞく。ケロイド状につぎはぎになった皮膚に、ナイフで切ったような悪意に満ちた薄いひとえの黄色い目。
「おい、カッツ。ここで間違いないンだろうなア」
「う、うん。ここだよぉ」
白谷秋夫・アキオに、赤鉄アカムの新しい住まいを教えたのは、黒い帽子を逆向きに被っているカッツだった。
カッツの父親は不動産会社の社長である。この物件は、もとは財閥の所有で、迎賓に使っていたが、改装して高額所得者を対象に分譲で売り出した。その内の1軒で自殺者が出て、事故物件として市場に出回っていたのを、カッツの父親が押さえていた。それを赤鉄アカムの代理人が買ったのだ。
「へへへ……」
アキオは赤鉄アカムが病気の女と一緒にいるという情報を得ていた。町田警察署の署長だった父親と懇意にしていた警察官から聞いたのだ。医者と看護師がつめていて、外人が出入りしているらしい。
その情報を聞いた瞬間に復讐の方法が決まった。本人に敵わないなら、女をめちゃくちゃにすればいい。準備も、すぐに終わった。なにせ、いつも似たような暴力に明け暮れているのだから。
カラーコンタクトをした黄色い瞳が、ぎょろりと動く。
「あのクソがいねエのは確かなンだろうな」
「き、昨日、飛んでくとこを見てぇ、そ、それから、帰ってきてないよぉ」
アキオは、カッツが持って来た鍵で大門の横の勝手口をあけた。
「てめえの親父、鍵をなンに使うつもりだッたンだ、ア?」と、嘲るように言う。
扉を抜けると緑の匂いがした。
「じゃ、じゃあ、アッチャン、俺はぁ、こ、これで帰るわぁ」
両手を前に突き出して振りながら、カッツが後ずさった。
「ンだ、てめ、来いッつノ」
アキオが睨んでもカッツは足を止めない。舎弟の、いつもとちがう反応に苛立つ。
「おい、カッツ。てめ、逃げッてノかよ」
カッツた尻を向けて駆け出した。
「……ケッ、あン野郎、あとで殺す」
右足がうまく動かなくなっていて、走って追いつくことはできない。アキオは暗い庭に向き直り、煉瓦の道を、ひょこひょこと歩き出した。
敷地内の配置は頭に入れてある。赤鉄アカムの棟は、豪華な低層マンションの中でも一番良さそうな物件だった。建物は3階分の高さがあるが、階数としては2階しかないという話だ。かなり贅沢な作りである。
電子キーで解錠して、大きな茶色の金属製の扉を開ける。玄関は吹き抜けで、竹に似たシャンデリアが下がっている。広く長い廊下が奥へとつづく。
アキオは躊躇なく土足で上がった。廊下を進むと正面に扉があり、磨りガラスに人影が見えた。女の、おさえた吐息が聞こえる。
(……まさか、帰ッてやがンのか?)
女は病気だと聞いたが、否、他の女を連れ込んでいるのかもしれない。アキオは躊躇した。そのとき、女がしゃべった。
「や……先生、声、出ちゃうから……」
医者と看護師だ。
確信して、デイバッグからブラックジャックを取り出し、握力のある右手でしっかりと握った。
ブラックジャック――細長い革袋に砂を詰め込んで作る棍棒で、音を立てずに相手を昏倒させるのに最適な暗器だ。砂袋は頭部に当たると柔らかく変形し、すべての運動量を頭蓋骨内部に伝える。脳が強烈に揺さぶられて、大抵は1撃で気を失い、最悪の場合、脳組織を致命的に破壊されて死に至る。
アキオは扉をあけてリビングに踏み込んだ。目が合って驚いた表情を浮かべる女の脳天にブラックジャックを叩きつける。
「えみ!?」
ぐったりした女を抱きとめて、男が言った。
振り向く前に側頭部を殴る。男は声を出す間もなく昏倒し、女と抱き合ったまま床に転がり落ちた。
「いい体してンじャねえかヨ。あとで、いただッか」
足で女を仰向かせて、豊かな胸を踏みつける。涎が長く糸を引いて垂れた。
「アカム……?」
背後から声を掛けられて、アキオの胃がぎゅっと縮まった。
「ちがう……だれ?」
振り返ると、半開きの扉にもたれて、苺のパジャマを着た若い女が立っていた。ひどく顔色が悪い。
「……てめえが赤鉄アカムの女か。いいじャネェか、いいじャネェか、いいじャネェかッ!」
女が逃げた。アキオは雄叫びを上げて追ったが、うまく走れない。肩で扉を押して部屋へ転がり込む。
「ッダらぁがッ!」
女はふらふらしていて、ようやく部屋の奥、庭に面した窓に取り付いたところだった。サッシを開けようとしている襟首を掴んで、引きずり倒す。
「ギャッ!」
突然の閃光がアキオの目を襲った。手首に激痛が走る。世界が、ぐるりと回り、後頭部をなにかに強打した。
「クソがッ!」
床に叩きつけられたことに気づき、アキオは跳ね起きた。ニット帽がクッションになっていなかったら意識を失っていたかもしれない。
女は探すまでもなく目の前にいた。意外な近さに面食らう。
もし――女・うりが、いつもの状態だったら、結果は違っていただろう。投げの角度はもっと深かっただろうし、金的蹴りのタイミングも、スピードも、手負いのアキオに対応できるものではなかっただろう。しかし、いま、うりは体を病み、長い寝たきりの生活で、起き上がっているだけで精一杯の状態だった。
アキオは、すんでのところで、うりの金的蹴りを膝をとじて防いだ。黄色い虹彩が狂気と興奮で光る。
「オグォッダラァアア!」
うりの左顔面をビンタし、両手を広げて腰に突っ込む。うりは鼻血を出し、朦朧としながらも、避けようと体をひねった。しかし、アキオの長い腕から逃れることはできなかった。
「へヒヒヒヒッ!」
アキオは、うりを床に押し倒し、右手で首を押さえつけた。パッ、と、アキオの目に光が散る。うりが振るったフラッシュライトが、アキオのこめかみに命中したのだ。
アキオの動きが止まり、しかし、その手が伸びて、うりの手首を掴んだ。
「こりャア、軍用のフラッシュライトじャネェか――ア?」
ヘアバンドに赤い染みができて、顎を血が流れ落ちる。
「てめえ……オレを殺す気だッたろ? ア? オイ!」
空いた手をハンマーのように使い、うりの鼻を殴る。うりは首をぐらぐらさせて、おとなしくなった。
「男に力で勝てると思ッてンのか、アアッ?」
アキオは、フラッシュライトを奪って投げ捨てた。フラッシュライトは、うりが開けたサッシの隙間から外へ飛んでいった。
アキオが、うりの頬を舐めた。うりは悲鳴を上げなかった。




