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アカムは、うりの待つ戸建てマンションを目指して飛んだ。上空には熱風が渦を巻いている。
記憶がとぎれとぎれで混乱しているが、もどる理由は、はっきりしていた。
――早く、うりのところへ。
ラオオーメイ〈老峨眉〉は、すぐそこに迫っている。数十秒、否、数秒の差で到着するだろう。
白金周辺はもともと灯りの少ない地域だが、いまは真っ暗で、火災の炎がここまで届いて豪邸をオレンジに染めるのみだ。マンションは無事で、屋内に、ぽつぽつと灯りが見える。
アカムは、はたと気づいた。――槇則医師や吉田が、うりを避難させてもうここにはいないかもしれない。否、そのときはそのときだ。まず確かめよう。
夜の海のような暗い芝生に降りる。レクリエーションスペースの夜灯は消えて、建物のそばにひとつ光が見える。
アカムは、ふと違和感を感じて脚を見た。毛むくじゃらで、ねじ曲がっている。爪先は蹄だ。
「――当然の末路だな」
自嘲して、アカムは駆けだした。その眼前に、光と闇の裸身が降り立った。
(お前に娘は救えない)
思念が、疾駆するアカムの脳内に響いた。女の両手に短剣を確認して、蹄で地面を掴んで加速する。芝生が宙に舞う。
(己を見ろ。お前は暴走した。いまだに黒山羊の貌だ。化け物として娘を殺すぞ)
思念の内容は瞬間的に伝わった。
右手で頭を触ると、四角いものが巻きつくように生えている。指先の黒い鉤爪も見た。蹄の足が予想以上のバネを発揮して、つんのめりそうになる。
次の足を体幹の真下へ素早く運んでバランスを立て直しながら、アカムはラオオーメイの先に見える灯りを見た。
――あそこだ。
(お前は娘を死なす。わしに任せろ。覆水難収――間違うな)
光と闇の女まで2メートル。右の蹄を地面に強く打ち込む。アカムの姿が、ふいに消えた。
ラオオーメイは嘆息して、言った。
(そうか――ならば、死ね)
ラオオーメイは胸の前で七剣の柄を合わせた。闇をまとった光輝が裸身から噴出し、蒼い氷が2つの七剣を結ぶ。全長2.5メートルの両剣――。
(蒼魎剣)
ラオオーメイは氷の両剣をくるりと回して地面に突き刺すや、剣先を前方に跳ね上げた。青く輝く剣が20メートルもの長さに伸びて白金の丘を裂き、芝生が破裂した。その先端には、太腿を貫かれたアカムがぶら下がっている。
黒山羊のうなじが光り、闇がどろどろと流れ落ち、揺れる右手から次々に光弾が放たれた。公弾は闇をまとい、夜を裂いて、丘から見える広い範囲に飛んだ。地面や建物に着弾しては爆発する。
ラオオーメイは蒼魎剣を振って、アカムを投げ飛ばした。氷の刃が右足を太腿から切り落とす。
放物線を描いて落下しながら、アカムは狂ったように光弾を放ちつづけた。弾道は変化し、より遠く高く、最後は星空へ向けて放たれた。
アカムは、うりの待つ部屋の前に落ちた。ラオオーメイが平然と歩みよる。
ひとつ、ふたつ、雨粒が落ちてきたかと思うと、あっという間に豪雨になった。煤や灰をふくんだ雨が、芝生を、マンションの外壁を、アカムの黒毛に覆われた体を闇色に染めていく。ラオオーメイの体に雨粒は触れない。
俯せに倒れたアカムの顔を一条の光が照らしていた。黒い毛に覆われた顔が闇に浮かび上がり、毛や角や顎先から垂れる水が、きらきらと光っている。嵐の海と化した芝生に、荒波に翻弄される船の灯火のように光る、フラッシュライト――。
――…………って。
澄んだ声が聞こえる。アカムは反射的に寝返りを打って、フラッシュライトに右手を伸ばし――悲鳴を上げた。
ラオオーメイに踏みつけられて、前腕がくの字に曲がっている。蒼魎剣が仰向けの胸を貫いた。身をよじって心臓を避けたものの、アカムは右肺を裂かれて喀血した。
――………守って。
アカムの全身から光と闇が吹き出す。山羊の貌が消えていく。
ラオオーメイは巨大な背光をまとい、その光の奔流は一帯の空を圧して、頭上で薄青い花となった。マンションの敷地全体を覆うほどの蓮に似た花には、手の平ほどの花弁が数十の層になって並んでいる。
青い花びらがひとひら、右へ左へ揺れながら落ちてきて、アカムの肩に触れた。アカムは背中を折れんばかりに反らせて強直した。
ラオオーメイが右拳を振り上げた。上空で黒雲が渦巻き、稲光を発しながら白金の丘に吸い込まれていく。
(天花乱墜――排毒!)
花が一気に崩壊し、花弁がラオオーメイの肩口になだれ込む。莫大な気をはらんだ拳が、広成子丹のあるアカムの下腹に突き刺さった。
――……を守って。
「や……ろ……ぉぉぉおおお!」
激痛が、闇に沈んでいたアカムの意識を鷲づかんで引き摺り出した。ラオオーメイの拳の下、腹の中に光の珠が透けて見える。拳が腹に入っていく。
「あ、が……駄目……お願……い……」
アカムは泣いて懇願した。ラオオーメイの目に、ふと平素の光がもどった。
(なぜ、こんな小人だったのか。広成子よ、インチュアン〈銀川〉よ、あとでゆっくり聞かせよ)
ラオオーメイの輪郭が、にじむ。世界に溶けながら、アカムの中へ流れ込む。
――…りを守って。
下腹にずっとあった、人生のほとんどを一緒に過ごしたモノが奪われようとしている。内臓ごと自分自身が抜き取られてしまうかのような喪失感。それはアカムのもので、アカムのすべてだった。そして、いまは大切な人を救うことができる唯一の力だ。
いやだ――。
その声に、アカムの中でなにかが、誰かが、応えた。
アカムの左肩、無残な傷口から光の腕が現れた。それは、あの中国人――インチュアンの腕だった。腕が、長く伸びてフラッシュライトを掴む。
フラッシュライト――視界を奪う500ルーメンのLED光源、黒いアルミの十数センチのボディ、先端での打突を考慮したストライクベゼル。
――うりを守って!
光の腕が鞭のようにしなり、逆手に持ったフラッシュライトがラオオーメイのこめかみに吸い込まれる。
ラオオーメイはアカムを突き刺したまま、蒼魎剣を傾けてフラッシュライトを受けた。閃光を放つアルミボディは、一瞬、その動きを阻まれたが、つぎの瞬間、蒼魎剣は砕け、蒼い欠片が美しい輝きとなって散った。
欠片はすぐに気化して蒸気となり、芯になっていた七剣が二振り、地面に落ちる。その蒸気を抜けて、フラッシュライトのストライクベゼルがラオオーメイのこめかみに突き刺さった。
ラオオーメイの頭の中で甲高い音が弾けた。視界が暗転して眼内に閃光が走る。莫大な気が、陽気でも陰気でもない太極が、流れ込んでくる。あっという間に、気は肉体の許容量を超えた。目、鼻、口――全身の穴という穴が限界まで開いて体液が噴き出す。
ラオオーメイは目を剥き、血や汗や、ありとあらゆる体液にまみれた両手でアカムの首を締め上げた。指先が首に食い込み、黒い根のようなものがアカムの皮膚に浮き上がる。根は肉体を侵し、臍の下に集中していく。ラオオーメイの輪郭が、ますます曖昧になり、骨や臓器が透けて見える。同様におぼろになったアカムの下腹で、広成子丹に黒い根が絡みつく。
アカムはますます反り返り、広成子丹が下腹から顔を出す。
ラオオーメイが笑った。
ふたりの体が実体を取り戻していく。
鈴の音が聞こえる――。
光の腕から、闘争心と揺るぎない自信がアカムの胸に流れ込んだ。
フラッシュライトがラオオーメイの中へ入っていく。光る右腕も一緒に潜り込み、肘まで入ったところで、肩から離れてラオオーメイの体内に消えた。
一瞬、すべての光がなくなった。ざあざあ、と、雨の音が思い出したようによみがえる。
アカムは空を見た。夜の底に街を焼くオレンジの光が揺れている。
ラオオーメイが破裂した。
270年を生きた肉体の残滓が舞う中を、闇をまとった光球がゆっくりと降りてきて、アカムの下腹に吸い込まれた。




