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征服感を楽しむように、女が黒い腹に跨がっている。黒山羊・アカムが吼える。氷凍魔刀で地面に縫いつけられた右腕を振りまわす。
(お前は、なかなか可愛いが、残念だ。いい子だから、それをお出し)
女の後頭部から闇が吹き上がると、火蜥蜴の頭を隠して真っ直ぐ天に昇り、油のように滴って腹のあたりで広がった。
黒い円盤が火蜥蜴と女の上半身を貫いて出現する。女が半眼になり、後背から光がにじむ。光と闇の蕾からあらわれた陽神の皮膚は爛れ、全身に黒い血管が浮き出ていた。
円盤が内側から沸きたち、外周へ泡沫が広がる。ある部分は濃く盛り上がり、ある部分は薄く裂け、円周に頂点を接する逆五芒星となった。
ラオオーメイは両手を重ねてアカムの下腹に当てた。
「アジャイラーアルアルラフテインナ」と、発する。
アカムの下腹が光り、全身が痙攣をはじめた。刃が腕に食い込むのも構わず、暴れ、残酷な悲鳴を上げる。
(――排毒)
ラオオーメイの陽神が声なき叫びをあげ、魔法円が黒煙を吹いた。光が腹を昇る。鳩尾へ、胸へ。筋肉が細くなり、骨格が変化し、顔が人のそれへと近づいていく。
やがて、有角の半人半羊となったアカムの口に光の珠があらわれた。黒い煙が渦を巻き、美しくも禍々しい。
(これが広成子丹か)
ラオオーメイは、女の指で口の上に浮く広成子丹に触れた。
「オ、オオ……オオオオオ!」
火蜥蜴と女が諸共に叫び、伸び上がり、ふるえる。
刹那、ラオオーメイが氷凍魔刀を振るった。ナイフが弾け飛び、鋼線が光る。
(邪魔をするな!)
闇雲に突き上げた剣先から無数の氷が飛び、頭上に浮く闇を裂いた。闇が散り、しかし、なにも無い。
月明かり――。
ラオオーメイの影に別の影が重なっていく。気づいて身をよじった右胸と下腹を、七色に光る透明な触手が突き抜けて、うねった。女の口が血を吐き、魔法円が崩れて蒸発する。
そのとき、意外な勢いで上半身を起こし、アカムが広成子丹を飲み込んだ。ラオオーメイは手を伸ばしたが、その腕に吸盤の模様があらわれて動きを封じた。
(残念だったじゃんね)
首をひねって見上げた夜空が歪んでいる。透明なものが、ゆっくりと移動していく。月が波打ち、星がひずみ、艶やかな黒い球がふたつ煌めく。
(烏賊め、擬色か!)
消えているのは姿だけでは無い。見事な相殺で、あたかも存在ごと世界から消えているかのようだ。
(スイ!)
カラマの思念が叫んだ。
女の額を銀光が貫いた。地上後方からスイが投擲した流星錘だ。
ゆっくりと崩れ落ちるラオオーメイを追うように、空中から漆黒の液体が溢れ出すや、投網のように広がって火蜥蜴を飲み込んだ。
七色の輝きがうねり、烏賊が姿をあらわした。嘴から吐き出した墨が、黒い棺桶となって火蜥蜴を封じる。
(チュンシュイ〈春水〉――長く生き過ぎたんだよ、あんたもあたしもさ)
棺桶の表面に無数の棘が突き出した。内部にも同じだけの棘が出て、中にいるものを徹底的に蹂躙しているはずだ。
(お前だけ死ね、賎婢(くそあま)!)
思念と同時に、氷の大刀がカラマの腹を貫いた。青い血が蒼ざめた刃を濡らし、木製の柄を伝い落ちる。
墨の棺桶が霧となり、火蜥蜴があらわれた。腹に女の姿はない。
カラマの嘴から青い血が噴き出す。
(あたしの相殺を……どうやって……)
(触れたぞ!)
火蜥蜴が縮み、黒い体表に光と闇があらわれて流動する。やがて、それは長髪全裸の女体となった。
(――あれは)
スイは我が目を疑った。まるで陽神ではないか。
ラオオーメイが氷凍魔刀を引き抜くと、カラマの腹部の組織が道連れになって砕けた。穴の開いた体が地面に落ちる。血は出ない。凍っているのだ。
女の体には大きすぎる氷凍魔刀を、不思議に輝く右腕が真っ直ぐに掲げる。肩口から生じた氷の花――蘭が、蒼い刃と柄全体に咲く。
花咲き乱れる刃がカラマの頭上に落ちる。地面が吹き飛び、そのままの形で凍りついた。白い蘭が地を駆け、30メートルの壁を登り、数キロの範囲をあっという間に浸食する。
(……逃げるじゃんね)
間一髪、スイがカラマを救っていた。
「無理だ。足が凍っている」
スイの両脚は、氷の蘭に覆われて地面に張りついていた。
カラマはラオオーメイの背後に横たわる赤鉄アカムを見た。――もう、あいつに頼るしかない。
ふいに、ラオオーメイが氷凍魔刀を振り抜いた。スイとカラマの全身に氷点下の冷気が吹きつけ、赤鉄アカムの体に無数の蘭が咲いた。氷の内部で黒いもやが蠢く。
(畜生め……じゃんね……)
ラオオーメイが足を踏み出すたびに、地面に蘭が咲く。引きずる氷凍魔刀が澄んだ音を立てて氷を削る。
「広成子丹に触れたから? それだけで――」
(流れ込んだんだろうね、秘法が)
光と闇をまとった美しい女が、いきなり目の前にいた。氷片が巻き上がり、背後で大瀑布となってきらめく。
襲いくる蒼い刃を、スイはただ見上げた。
その額に、青い血が振りかかった。
カラマが、群生する蘭を恋人のように抱いていた。2本の触腕を地面に打ち込み、すべての触手で氷凍魔刀を受け止めている。刃は深く食い込んでいるが、乳白色に硬質化した身体は分断されずに耐えている。
カラマが触手を絞った。蘭が一斉に砕け、氷凍魔刀が折れた。乱れ散る青い砕片とともに、ずたずたになったカラマが倒れる。
青血を引いて宙を泳ぐカラマの横を、スイが伸び上がるように通り過ぎる。折れて空中にある氷凍魔刀に手を突き込んで、銀の刃をむしり取る。
輝線が、光と闇の女の左胸へはしる。ラオオーメイは半身にかわし、刃はあばらを掠めて抜けた。ラオオーメイは、そのまま体幹の回転を活かして、左腕刀でスイの頭頂を狙った。足元から咲き広がった蘭の花が、スイの動きを封じる。
スイは右腕で腕刀を受けたが、凍結した両足が砕けた。粉々になった足が、人の姿にもどったカラマの体に振りかかる。スイは落下しながら七剣を投げたが、七剣はあらぬ方向へ飛んでいった。
ラオオーメイの後頭部が光る。沸き立つような闇をふくみ、輪郭が黒く沈んで禍々しい。まるで夜の太陽のようだ。
冷気で白い彫像と化したスイの真っ白な目蓋は半眼に沈み、世界に曖昧な別れを告げている。
ラオオーメイは右腕を滑らかに上げ――動きを止めた。
刹那、破砕音が響く。
赤鉄アカムが立ち上がろうとしていた。氷の蘭が黒毛を滑り落ち、闇が、もうもうと地を這う。右腕が動き、肩の七剣を抜いた。
ラオオーメイが冷ややかにスイを見た。
(……このための誤投か)
赤鉄アカムの体が、どくりと蠕動し、消えた。否、夜空へ舞い上がったのだ。
ラオオーメイは氷凍魔刀の残骸から七剣を両手に一振りずつ取ると、空気を氷結させながら飛び去った。
スイはカラマの額に自分の額を当てた。冷たい体は完全に事切れていた。




