とくべつをきみに
西日が教室に差し込むには少しばかり早い時間。すでに放課後のチャイム鳴ってから数分の時が経過している。
いつもならすぐに空っぽになりシンとしているはずの四年二組の教室からは黄色い声が聞こえていた。
「はい、これあげるー。板チョコ溶かして固めただけなんだけどねー」
彼女は水色のランドセルの中からスーパーのレジ袋を取り出し、その中でさらに小分けにされた袋――こちらはおしゃれでカラフルな袋だ――を集まったクラスの女の子たちに配る。
今日は二月の十四日、バレンタインデーだ。いつもは禁止されているお菓子の持ち込みも放課後までは絶対に出さないという約束で許可されている。
そんな放課後のクラスの女の子たちの中にきさらはいた。きさらは目立つ方ではないが、四年二組の女の子たちは優しい子が多いこともあって、しっかり輪に入ることができている。
「あの、でも、私、チョコ持ってきてないから……」
みんなが「それでも手作りなんてすごいよ!」とか「ありがとう。大切に食べるね」とか、チョコを配った彼女にお礼の言葉を述べている中で、きさらだけは渡されたチョコを受け取らない。
「えー、そうなの? まあいいよ、全然。お返しとかが目的で持ってきたわけじゃないからさ」
そんな彼女の言葉できさらは遠慮しながらもチョコを受け取る。
「お、もしかしてきさらちゃん、今年は本命だけってことかな?」
「そ、そんなんじゃ、ないよ。……多分」
きさらの様子を見ていたクラスメイトのからかうような言葉にきさらは必要以上に動揺してしまう。実際きさらのランドセルの中には、宛先を決めたチョコが一つだけ入っているのだ。ただそれが本命と呼ばれるものなのかといえば、きさら的には少し首を傾げてしまう。
「じゃああたしからも、バレンタインおめでとー!」
少し離れた席に座っていたポケットからアポロチョコを二箱取り出した女の子の、なんだかズレたかけ声がきさらたちの会話と断った。きさらはほっと胸をなで下ろす。
それから女の子たちは自らが作った、あるいは買ってきたチョコをみんなに配り始める。中にはきさら同様もらうだけの子も数人見受けられた。
「はい、きさら。ハッピーバレンタイン」
高身長で短髪のすこしボーイッシュな女の子、じゅんも四年二組の一員だ。そんなじゅんのチロルチョコを乗せた手が、みんなの前を回ってきさらにも伸びてくることは自然なことだった。
きさらは一瞬迷ってから、彼女の手に乗ったチロルチョコを受け取る。
「……ありがとう、じゅんちゃん」
ほんの少しモヤっとしたのだ。心にわずかな霧がかかったような気持ちだった。
去年のきさらは嬉しかったのだ、幼馴染で一番の親友であるじゅんからチョコをもらえることが。今だってきさらとじゅんの関係は変わっていないはずで、きさらはチョコをもらえて嬉しいはずだった。
しかし、なぜかこの瞬間だけは嬉しい気持ちが、キサラ自身も分からない何かによってぼんやりと隠されてしまっているのである。
(お返しできないから……なのかな?)
きさらはそう考える。しかし、おそらく原因はそうではないのだと、自分で分かってしまう。
「あの、じゅんさんまだいるかな……?」
一通りチョコの交換が終わったころ、廊下からじゅんを呼ぶ女の子の声がした。きさらにとっては、いやクラスのみんなにとっても毎年見ている見慣れた光景だ。
じゅんは頬を赤く染めた声の主の方へと歩いて行き、その子と軽く話し、チョコを交換する。そしてその子が去ってからも代わる代わるやってくる他クラスの女の子みんなに笑顔とチロルチョコを振りまいて、かわりにもらった腕いっぱいのチョコを抱えて戻ってくるのだ。
例年通りたくさんのチョコを抱えて帰ってきたじゅんにクラスメイトのひとりが、
「じゅんちゃんは今年もモテモテだねぇ。今年は同じクラスになれたから、並ばずに渡せてラッキーだったよ」
などと半分冗談を交えたような口調で話しかける。
「モテモテって、みんな女の子だよ」
「じゅんさんは女の子はダメですか」
にやにや笑いのからかうような質問に、みんなの視線がじゅん――となぜかきさらにも集まる。
「いや、ダメって言うか――」
「君たちまだ残ってたの? そろそろ帰りなさい」
じゅんの言葉を遮るように、教室に顔を覗かせた先生が声を掛けてくる。気づけば太陽はさっきまでより大分傾いていた。
「わたし、先生に用事あるからー」
などと頬を染めながら残った子以外のみんなで下校する。きさらも一緒に下校してはいるが、集団の後ろをくっついて歩いているだけで、たまに話を振られると軽く会話に加わる程度だった。
仲間はずれにされているとかではなく、むしろ明るい方とはいえないきさらにとっては落ち着くポジションですらあるのだ。
幼馴染で昔から面倒見の良いじゅんもきさらの性格はよく知っているので、無理に話しかけたりはせず、たまに自然に声を掛ける程度である。
みんなの後ろできさらは一人考える。ランドセルに入ったひとつのチョコのことである。
昨日一生懸命手作りしたもので、時間を掛けて丁寧に作ったから不器用なきさらにとっては素晴らしいできだった。
もともとはみんなに配るつもりだったのだけど、昨日チョコ作りを始める前にきさらは思ったのだ。
じゅんちゃんだけのために作りたい。みんなに配るのではなく、彼女にだけとびきり特別なものを渡してあげたい。と。
しかし、ここにきてきさらはチョコを渡すこと事体を迷っている。
前を見やるとみんなに囲まれて楽しそうに談笑するじゅんがいる。登校時にはほとんどチロルチョコしか入っていなかったはずの彼女のランドセルには、今や様々な女の子の想いの詰まったチョコがたくさん入っているのだ。
(私がチョコを渡したってあんまり嬉しくないんだろうな。私のよりもっとおいしいチョコなんてあの中にはいくらでもあるんだろうし)
それになにより、きさらにとって特別なチョコでも、じゅんにとってはたくさんもらったチョコのひとつにすぎないのだ。そんな考えがきさらの不安を大きくした。
「じゃあね、じゅんちゃんきさらちゃん」
「がんばれ、きさらちゃん!」
クラスメイトの声にハッとして周りを見たきさらは、自分とじゅんがみんなと別れるT字路に差し掛かっていることにようやく気づく。
「じゃあまた明日ね」
「……またね」
じゅんは笑顔のまま胸の前で手を振り、きさらは腰の辺りでかなり小さく手を振り軽く会釈だけして、クラスメイトたちと別れる。同じマンションで、しかも隣同士に住むきさらたちはここからほぼ自宅までは二人で下校する。
「きさらこの後何かあるの?」
「え、えっとね……」
じゅんはクラスメイトの最後の「がんばれ」という言葉が気になり、きさらに尋ねてきているようだ。
「きさらなんか今日あんまり元気ないよね。大丈夫?」
きさらが言葉に詰まっていると、じゅんは気を遣って話題を変える。
「……ううん、大丈夫。じゅんちゃん今日はたくさんチョコ貰ってたね」
「まあ、大丈夫ならいいんだけど……。チョコはまあいつも通りたくさんね。せっかくあたしにくれたのに申し訳ないけど、腐らせるわけにもいかないから帰ったら一緒に食べようね。きさら」
「……うん」
「…………」
「…………」
しばらく無言の時間が続く。いつもならそんなに気にならない無言の時間も今日だけはきさらの不安を加速させる。
「……ねえ、じゅんちゃん」
こういう時にきさらから話し始めるのはとても珍しい。
「どうした?」
「チョコさ、もらったら嬉しい?」
「そりゃあまあ、嬉しいけど。今年は本当に欲しい子からは貰えなくて少し残念だったかなって思ってる」
「そんな子がいるんだ……」
やっぱりじゅんにとっては、その「本当に欲しい子」以外からもらったチョコはそんなに嬉しくないんだ……。
「まあね、その子からもらったチョコならどんなのでもすっごく嬉しいと思うな」
じゅんはチラチラときさらの様子を窺いながら、わざとらしく台本を読み上げるようにそんなことを言う。
(やっぱり私なんかのチョコをもらってもそんなに嬉しくないんだろうな……)
うつむいてじゅんの声だけを耳に入れていたきさらは、大きくため息をつく。
「それでね、その子にだけは特別なチョコを作ったんだ」
「……でも渡せなかったんでしょ。その子はじゅんちゃんにあげに来なかったんだから」
「まあね、でも渡すよ。顔を上げて、きさら」
きさらが顔を上げると、少し前を歩いていたじゅんがきさらの方を向いていて、その手が伸びてきている。
「こっちが本命。一つしか用意してない特別なやつだよ」
伸ばされたじゅんの手に乗っているのは青い包装紙に包まれた手のひらサイズの箱で、丁寧にリボンまで結ばれている。どう見てもチロルチョコではない。
「…………ほえ?」
「クッキー焼いたんだ。ほとんど焦げちゃったけど、いくつか生き残ってくれてよかったよ」
戸惑うきさらに優しく笑いかけるじゅん。
「私に、くれるの……?」
「もちろん。きさらのために焼いたんだから、よかったらもらってよ」
「……っ」
きさらはゆっくりと、じゅんの箱を受け取る。悲しいわけでもないのに、ツーと涙が頬を伝う。
「ちょっ、どうして泣くの!? そんなにいやだった?」
「ごめんね、じゅんちゃん。そうじゃないの、すっごく嬉しい。嬉しすぎて……」
泣くほど嫌だったのかとヒヤッとさせられたじゅんは、きさらの言葉でほっとする。
「ありがと、じゅんちゃん。私もね、作ってきたんだ、一つだけ特別なの」
涙で揺れる視界で、いったん降ろしたランドセルの奥を探す。他の子からもらったチョコに埋まっていたそれを探すのにはそれなりに時間は掛かったものの、しっかり自分の作ったチョコを取り出す。
「はい、これ。……これからも仲良くしてください……」
「あ、ああ、ありがとう」
いままで見たこともないような、花のような笑顔を浮かべたきさらに、じゅんは少したじろいでしまった。
夕日に照らされて長く伸びるふたつの影は、手をつないで帰って行った。
これは小さな少女の小さな一歩の、それでも長い長い彼女の人生にとってとても大切な物語。少女が自身の気持ちの本当の意味に気づくのは、もう少し先のお話。
この子たちこの先どうなるのでしょうか……。