散花
短編です。
終わり方が全く幸せにならないですが、感情に身を任せて書いてみたものです。
だいぶ前に書いたのんをあげ。
放課後、屋上に一人の女生徒がたたずんでいた。熱気を含ませた生ぬるい風を頬に浴びながら、少女はぼーっと校庭の方を見ていた。いくつかの運動部が所狭しと押し込まれ、かすれた声で叫ぶキャプテンらしき人の声が重なっていた。
その中の塊一つに焦点を合わせる。Tシャツ姿の部員たちが「1、2!」と活気づいた声を上げながら、校庭を走り回っている。既に彼らは三週目に突入していた。
少女は風に踊らされる長い髪の毛をそっと自分の耳にかけた。使わなかったもう片方の手には一枚の紙が握られていた。薄い紙に、黒いインクで淡々と必要事項だけを明記されたその紙はところどころ折れ曲がっていた。風になびきつつも、少女の手の中で抑えられたいる。
「明美先輩っ」
はきはきした声が少女の後方から飛んできた。大きな―――腹の底から出されているのだ―――、それでいて耳障りがよく、毎日近くで聞き続けた声だった。
「何?結衣」
明美はふり向き手短に答えた。久しぶりに見る後輩は、校庭で今も走り続けている部員と同じくTシャツにジャージ姿だった。加えて彼女のTシャツは、彼女が一年の時にもらった濃いピンク生地に「We Are Actors」と大きく書かれた、演劇部専用Tシャツを着ていた。久々に見た今日もやはり明美の中での認識はダサいの一言だった。このありったけの着色料を使ったようなピンクが部員たちの間では不人気だった。しかしこの後輩はほとんど毎日このTシャツを着てきていた。だから彼女のだけ少し色が落ちている。
しかしまぁ、この演劇と共に生きてきたみたいなこの子は見かけなんか気にしないのだろう。彼女がこの部員おそろいのTシャツを誰より気に入っていたのは、部員全員が知っている。健気で可愛い後輩の様子に少し目尻を細めた。
「先輩、どうして部活来ないんですか」
彼女はさっきとは打って変わってしぼんだ声を出した。
「別に、そろそろ勉強しなきゃいけないかなって思っただけよ」
「でも、香奈先輩とか美憂先輩はまだ・・・」
「二人は私と違って国公立志望コースだから、それなりに勉強は進んでるのよ」
小さくなった後輩の声に、覆いかぶさるようにして声を発する。
表情は柔らかく、それでいて声は芯の通った聞こえ具合。自分でも納得だ。
「でもっ、まだ夏の全国が残ってるのに」
「・・・えぇ。でも私は勉強で手一杯。香菜と美憂はそこまで残るみたいだけど、私は早めに切り上げさせてもらうわ」
私の成績は校内で中の下あたり。この学校が多少県で名の通った進学校だとしても、この成績ではそろそろ本腰を入れていかないと、私立ですらも受かるかわからない。三年間はほとんど部活に捧げたが、今さらになってもう少し勉強しておけばよかったと嘆くのは、受験生お決まりのパターンだ。だから、“勉強で手一杯”というのも嘘ではない。
後輩は頭に浮かんでいることを声に出さないよう、寸前でこらえるように口を真一文字に結んでいる。下を向いて、固く拳を握っていた。彼女は親に叱られた子供の様だった。
ふと後輩から目をそらし、屋上の柵に背中を預けるようにして空を見上げた。青く澄んだ、広々とした空に、ぎらぎらと私たちに日光を浴びせる太陽がいた。それは一年、二年とずっと見てきた夏の空。毎年夏休みはほとんど雨が降ることもなく、いつもこの空と太陽に見守られてきた。こんな暑い日は部活後、みんなでコンビニに入って、百円アイスを頬張るのだった。なんて、自分が何か物語の主人公の様なことを考えてしまうのは、舞台に長く立ち過ぎたせいか。馬鹿なことだ、主役になんてもうなれないのに。
「やっぱり前の大会が原因ですか?」
後輩が淡々と―――感情を制御するように―――、明美に尋ねた。明美は下を向いたままの彼女に視線を戻す。
「あれは、仕方ないわよ。でも、うん、確かに悔しかった」
後輩と再び目を合わせた。今不意にあの時の情景が浮かんだ。そう、あの時もこの二人で舞台に立っていた。
シェイクスピア作の大悲劇、ロミオとジュリエット。それが私たちのコンクールの題材だった。冬に開かれたそれは、全国の演劇部所属高校生ならだれもが出場を目指す、野球でいう甲子園の様なものだった。予選から始まり、各県の代表だけが東京で行われる全国大会への切符を手にできる。うちの演劇部は全国大会の常連校だった。だから、私たちの中では今年も当然全国に行くつもりで、予選からその心づもりで練習していた。
予選の内は題材をコンクール運営側から全校統一で決められ、それが今年はロミオとジュリエットだったのだ。他の学校がクライマックスのロミオとジュリエットが共に死んでしまう第五幕や、有名な「あぁロミオ、どうしてあなたはロミオなの」というセリフがある第二幕を選ぶ中、私たちは第三幕を選択した。第三幕はロミオが天敵ティボルトを殺してしまう、つまりは物語を一気に加速させる重要なシーンだからだ。また体を大きく使った殺陣も必要なので、他と差をつけるには第三幕が一番いいと部員たちで話し合った結果だった。
明美はロミオを、そして他二、三年がその脇を固める中、結衣はロミオと最後に決闘するティボルトという極めて重要な役を一年ながらも任された。
結衣は幼いころから子役として活躍しており、現在は芸能界から姿を消しているが、その小さなころから培われた演技力は誰もが認めるものだったからだ。結衣は謙遜して「そんなことない」というだろうが。
多少の争いを交えながらも練習は進み、本番。対立する両家の間にロミオが割って入るところまでは難なく進んだ。しかし、両家が決闘する場面で、ロミオの敵側であるグレゴリー役の二年が緊張からか剣を落としてしまった。剣は大きな音を立て、床に落ち、舞台上の目メンバーも観客も一時蒼然となった。その後、なんとか舞台は繋いだものの、結果うちは三位に終わり、全国大会への道は閉ざされた。
結衣は相変わらず苦い飴でもなめているかのような表情で、視線をまた屋上の床に落とした。
「歩美、すごい責任感じてたね。あれは本当誰にでも起こりうるミスだって何回も言ったんだけどなぁ。まあでも、先輩が来なくなったんじゃ、責任感じちゃうよねぇ。あはは、あたし性格悪っ」
明美は自分で自分を笑った。しかし、結衣は聞こえていないかのように直立不動のまま動かなかった。屋上のコンクリートで跳ね返った日差しが二人を溶かすような陽炎を見せた。明美はそんな結衣の様子をしばしじっと見つめた。そしてまたゆっくりと口角を上げた。
「てなわけでさ、もう早く帰ってよ。あんたも練習行かなきゃいけないんでしょ」
結衣の口元が何かを言ったように見えた。しかし、明美の元には届かなかった。明美は反応の薄い結衣にだんだんと苛立ちを募らせる。
「おい、早く行きなさいよ。あんた練習サボるためにここに来たの?え、ちょっと、そんなことに私を利用しないでくれる?もー、そういうのマジ面倒くさいからほんとやめてー」
「違う!」
唐突に結衣が叫んだ。迫力に満ちた瞳で、明美の方を見つめ、一定距離を保っていた両者の間を急速に詰める。二人の顔が三十センチほどまで近づいた。
「明美先輩は、そんな人じゃない!」
結衣は明美に訴えるように叫んだ。その目にはうっすらと涙がにじんでいた。
「何が?そんな人じゃないって何であんたに決められなきゃいけないの?」
明美の一言に結衣は一瞬ひどく哀しそうにひるんだが、黙ることはなかった。
「嘘ですよね?そんな風に思ってないですよね?」
結衣は涙で声をかすらせながらも明美にすり寄るように話す。明美はふっとため息をついて、頭を抱えた。
「いやいや、あんたの理想の私がどうだったかしらないけどさぁ、今のが私の本心だって。勝手に理想押し付けないでくれる?はぁ、もう折角風に当たりに来たのに、あんたのせいで気分下がった。ほんと、早く帰ってよ。部活サボってるって香菜達に言いつけるよ?」
本当は香奈や美憂とは部活に行かなくなってから、ほとんど話していない。
明美が一方的に避けているのだ。なので、言いつけるも何もないが、香奈達と結衣は部活内で交流が多いわけでもなかったので、きっと知らないだろう。
「別にいいです。言いつけてください。それで先輩たちと話し合いましょう」
結衣が意を決したように宣言する。明美は眉をひそめる。全く、こいつは変に粘り強いから嫌になる。内心で舌打ちをしてから、明美は片手をひらひらさせる。そして抵抗を諦めたような、ため息をついて見せる。
「わかった、わかった」
結衣は明美の態度が変わったことに、一瞬「え」と声を漏らす。おそらくその表情は明美が考え直したと思ったのだろう。強い拒みからの折れは効果抜群のはずだ。
「本心を言う。私は演劇がつまらなくなった。別に嫌いになったわけじゃない。ただ飽きたんだ。冬のコンクールに出る前から薄々思ってたの。あれ、なんか楽しくないなぁって」
結衣は茫然とした顔で明美を見つめる。夏の暑さのせいで、二人の首筋には汗が伝っていた。
「嘘」
「本当。・・・、演劇部のみんなにこんなこと言いにくくてさ、だから冬のコンクールでのことはごめん、ちょっとラッキーって思った。だから歩美には私の方がごめんなさいって伝えといて」
蝉の鳴き声がしばしの間二人の沈黙にかぶさった。結衣は下を向いたままだった。すると、結衣の下のコンクリ―トに黒い模様が一つ落ちた。二つ、三つと止めどなくあふれるそれは言わずもがな結衣の涙だ。涙が落ちては太陽に乾かされ、を数回繰り返した。
結衣は後ろを振り向き、屋上のドアへと向かった。途中一度ふり向き、何か言おうとしたらしいが、それは飲み込まれてしまった。
少女は再び校庭の方に振り返った。遠くのビルを見つめ、ふっと一息つく。
上手く演じきれただろうか。
明美は夏のうっとうしい風を再び感じながら、遠くを見た。少女の頬には水滴が伝った跡がある。明美は上がりそうになる息を感じていた。
違う。本当は違うんだ。
明美は手に握りしめて、くしゃくしゃになった紙を取り出した。
{二〇一四年四月十日 西村明美は演劇部に入部することを希望します}
それは明美の入部届だった。三年前、入学した初日に顧問の先生に提出し、そこからずっと保管されてきた、一枚の紙。これを提出した時,、私の高校生活は始まったのだ。演劇が大好きだった。脚本に込められた思いを一つずつ拾って、舞台メンバーと観客でその思いを共有できた瞬間が何よりの誇りであり、喜びであった。そしてそれができたのも、演劇部があったからで、部員みんながいたからだ。舞台を一つ作り上げるのに、どれだけみんなで話し合い、涙を流したことか。うまくいかなくて投げ出したくもなったけど、その時香奈や美憂の支えでどれほど思いとどまれたことか。
大好きだ。私は演劇部が大好きなんだ。
明美は心の中で叫んだ。そしてそれを言葉にする代わりに、大粒の涙を流し続けた。
しかし、明美の頭にふっと流れ込んでくる捨てきれぬもの。あのコンクールの日、明美は歩美のミスに頭が真っ白になってしまった。落ちた剣の奏でた不協和音に、自分のセリフも飛んでしまいそうになった。これからどうしたらいい。脳は考えるという活動を停止させたように、その言葉しか出てこなかった。
だが、結衣は違った。結衣はとっさにアドリブで、グレゴリー役の歩美が敵に攻撃を受けたという流れを作り、ティボルト役の結衣がグレゴリーを守るような陣形を取り。歩美に再び剣を取る暇を与えた。固まっていた氷が溶かされたように、私を含める他部員たちも動き出した。そして第三部のクライマックスである、ティボルトがロミオに刺されるというシーンまでもっていった。
三位という結果は結衣の働きにより、何とか手にしたものだった。気を落とす部員たちに明美は「仕方ない!そんなことは誰だったある!歩美も気にすんなよっ!」と声をかけた。それを聞いて、部員たちは泣きながら少し緊張をほどいたようで、悔しさなどを吐露し始めた。その時に香奈が結衣に向かって「結衣、あんたのアドリブ本当に助かった」と声をかけたことをきっかけに、部員内に結衣を称賛する拍手がうっすら起こった。明美は笑って、その波にのまれながら、心の中では黒い感情が渦巻いているのを感じていた。
私にも結衣を称賛しなければという気持ちはあった。でも、言葉にできなかった。胸の奥にあった黒いわだかまりが一気に増長して、明美にそれをさせてはくれなかった。
最後のシーン、私は結衣に刺し殺された様な気がした。
薄々感じてはいた。結衣の圧倒的才能が押し寄せてきていることに。もちろんそれは結衣が子役時代に積み上げてきたものであり、彼女が努力していなかったわけじゃない。でも、明美はそれでも、この演劇部で一番にみんなといい舞台を作り上げられるのは私だと信じていた。信じたかった。しかし、それはあの時に一気に壊された。結衣の演技の波に私たちは動かされ、背中を押された。年月も、信頼もすべてを一瞬で奪って、形にした。そんな天才に私がどう立ち向かえるというのだ。
いや、天才じゃない。結衣はしっかりと努力していた。私にそれを乗り越える気持ちがなかったのだ。結衣という急激に迫ってくる波に追われ、私は自分の歩みを止めてしまった。勝てないと思った。自分の作り上げたモノよりも結衣が作り上げたモノの方が、良いと悟ってしまったのだ。そうなると、私はもう足を前に出すことができなくなってしまった。
明美はすっと肩の力を抜き、頬で乾いた涙を手でこすった。夏の日差しは相変わらず少女に刺さり続けていた。下から聞こえていた「1、2」の声はとっくになくなっていた。
折れ曲がった入部届を見つめた。自分が今まで演劇部で過ごしてきた八四三日という日々。色々と思い出すものはある。だが、もう十分なんだ。
少女が破いた紙の一枚一枚を夏の風が攫っていった。
読んでいただきありがとうございました!
・・・もっとハッピーエンドで終わるの書きたい。