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09 : 勇者と祈り

 元々静かな馬車ではあったが、今では霊柩車のようであった。

 あれから数時間、誰も何も話さない。笑美、コヨルは元から無口であったし、サイードは無駄口を叩くような性格ではなかった。ソフィアは無言で武具の手入れを行い、いつも楽しそうに魔法の練習やおしゃべりをしていた冬馬も今は壁に寄りかかって目を閉じている。ヴィダルが御者になったため、馬車に賑やかさの“に”の字もない。


 笑美はふぅとクッションにもたれ掛った。暇だ、とごろんと横になって慌てて体を起こす。やばい! 水が零れるんだったと思って絨毯を見たが、そこには染みひとつついてはいなかった。

 あれ? と思い笑美が頭を揺すると小さな小さな水音がした。そういえば、お腹も空いた気がする。笑美は自らの腹に手を当てて腹具合を確認した。


 笑美がキョロリと首を動かす。サイードは書類を睨みつけているし、冬馬は瞼を閉じている。ソフィアは真剣に武具を磨いているし、コヨルはいつの間にか、笑美の隣でクッションの上に丸まって眠ってしまっている。笑美は無意識にコヨルを撫でながら窓の外を見た。


 どうしよう、声。かけにくいなぁ。


 毎日たくさんの距離を移動して、姿を変え、調子を装い、情報を得て帰ってくるコヨルを少しでも休ませてあげたい。笑美は背をとんとんと叩き始めた。その時、静かな声が聞こえる。


「補給が必要になりましたか」

『は、はいっ』

 声で答えてしまい、慌てて首を縦に振った。小さな小さな水音すら、もう聞こえなくなっていた。

 お昼からは何も魔法を使っていないのにおかしいな。と笑美は疑問に思った。精神的な疲労が増えると、壺の中の水で賄うのだろうか。壺は謎なことが多すぎて、笑美にとって分からないことだらけだった。


「夕の休憩を取りましょう」

 サイードがそう告げると、今まで完全に眠っていたはずのコヨルがむくりと体を起こした。驚く笑美に視線も向けずに、コヨルは御者席に伝えに行く。


 コヨルが無事にヴィダルにサイードの言葉を伝えたのか、それからしばらくして川の近くに馬車が止まった。


 国境を越えるまで、基本的に川沿いを進むという。最短距離を突っ走るのではなく、人の生活する道を選べんでいるのだなと笑美は感心した。

 まだ辺りには緑が溢れている。これがその内、乾いた土の大地になっていくとヴィダルが言っていた。笑美は、やわらかな空気を胸いっぱいに吸い込む。


 ふと気づくと、ソフィアとヴィダルがいなくなっている。コヨルにどこにいるのか聞くと、茂みの向こうを指さされた。


「話してる」

 端的なコヨルはそれ以上語らなかった。しかしどこか拒絶するような茂みの空気に臆した笑美は、コヨルの言葉に頷くとそっとその場を離れた。





「昼間は感情を抑えきれず、お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ございませんでした」

 深々と頭を下げたソフィアを背後に感じたヴィダルが、ゆっくりと振り返る。


 コヨルの言った通り、ヴィダルとソフィアは茂みの奥にいた。コヨルは耳がいいため離れていても会話を聞き取ることが出来るが、他の人間には難しいだろう。ソフィアとヴィダルも、もちろんそれを考慮した声量で会話をしていた。


 冷静なソフィアが感情的になるところを、毎日そばにいるヴィダルですらここしばらく見ていなかった。それほど、ソフィアにとってもこの旅路は異例の事態であり、また勇者の存在に戸惑っていることが伺えた。


「何言ってんだ。お前が言ってなきゃ俺の手が出てたよ。助かった」

 ソフィアは、自分が言わせた言葉にきつく目を瞑る。


「そう肩肘張るな。旅はまだ始まったばかりで、勇者とも知り合ったばかりだ。誰もが、最初から円滑にできるわけじゃねえよ」

「はい」

「新兵卒とは年の頃は同じでも立場が違うからなぁ。お前も扱いにくいだろ」

「……いえ、そのようなことは」

「俺に嘘ついてどうするよ。ふくちょーさん」

 笑い飛ばすヴィダルに、ソフィアは薄い苦笑を浮かべる。


「勇者はお前に気を許し始めてるからな。言ったのがお前で助かったよ。俺が口なんか挟んでみろ。それこそ、勇者と騎士団、ひいては国の関係修復は不可能――全くよ、それを危惧して俺を選んだっつーのに、情けねぇよなぁ」

「ご立派でした」

 間髪入れないソフィアの言葉に、ガシガシと頭を掻いていたヴィダルの手が止まった。目を見開き、パチパチと大仰に瞬きをすると、にやりと人を食った笑みを浮かべる。

「やだソフィアちゃん。それ以上俺を惚れさせちゃってどうするの? 抱いてくれる?」

「――ご命令であれば」

 先ほどのショックが尾を引いているのか、固い顔のままいつもの憎まれ口のひとつも生まないソフィアにヴィダルはため息を吐いて手を振った。


「真に受けんな。ほら、そろそろ戻るぞ。俺は野営の方行くから、お前はそれ抱えて川へ行って来い」

 ソフィアがキャラバンを離れる理由のために抱えていた籠を指さしたヴィダルはそう言ってその場を離れた。ソフィアは軍式の礼をしてヴィダルを見送る。


「……はー。処女が粋がりやがって」

 ヴィダルのため息が空に落ちた。





 ヴィダルが戻ってくると、野営の準備はぐんぐん進んだ。

 コヨルが笑美の壺にパンと水を詰め込む。お腹が空いて力が出ないよ~状態だったツボパンマンも、ようやく元気が湧いてきた。


 一人だけ一足先に満腹になった笑美が辺りを見渡すと、ソフィアがまだ戻ってきていなかった。それに、冬馬もいなくなっている。意外な組み合わせに、笑美は再びコヨルに尋ねた。

「所用と行水」

 コヨルはやはり把握しているらしく、すぐに答えをくれた。ソフィアは所用に、冬馬は小川に体を漱ぎに行ったようだ。笑美はコヨルとサイード、そしてヴィダルと夕食を囲みながら待つことにした。


 目が眩むような夕焼けは、いつの間にか春の宵に包まれていた。バチバチ、と火のこを散らして炎が踊る。


 肉が焼けるのを待っている間にパンを咥えていたヴィダルが、ピクリと耳を動かした。親指でパンを口の中に押し込む姿に、笑美は首を傾げる。

「どうしました」

「悲鳴が聞こえた」

 悲鳴? 笑美には何も聞こえなかった。冗談だろうか、それにしては趣味が悪すぎる。ヴィダルは真剣な顔つきで立ち上がり、宵闇に目を凝らしている。


「どの方角かはっきりわからん。コヨル、わかるか?」

 コヨルはヴィダルに問われると立ち上がり、一直線に木に向かった。とんとんとん、と平地と変わらぬほどの身軽さで木に登ると、てっぺんから辺りを見渡した。


「東南の方向に子供の姿。魔物が接近中――勇者と、ソフィアが向かってる」


 ヴィダルとサイードはその場から駆けた。





 取り残された笑美は慌てる。この場をこのままにして、追いかけていいか迷ったのだ。

 野営地には火も食べ物も馬車もある。魔物がどういう風に出没するのかはわからないが、野生の動物が集まる条件ならしっかりと整っているのではないだろうか。


 ひゅっとコヨルが木から飛び降りる。笑美はその飛距離に驚いて目を剥いた。高い木のてっぺんから、ぴょんである。

 足は、体は、反動は?! 声もなく慌てる笑美を無視して、コヨルは火を足で素早く消した。そしてそのまま動揺している笑美の手を引くと、強く大地を蹴って走り出す。あ、馬と食べ物、いいんだ。と呆気にとられた笑美は、コヨルに促されるまま夜の草原を走った。




***




 運動は得意ではないが苦手でもない。


 ――と思っていた。

 クラスの女子で5番目だった100m走のタイムは、ファンタジー世界ではなんの自慢にもならなかったらしい。一介のメイドですらこれほど早く、長く走れるのに、なんて様だろうかと笑美は手を引くコヨルの後ろ姿を見つめながら思った。すでに息は、吸うことすら出来ないでいる。

 早々に息を切らし足が縺れ始めた笑美を、コヨルは物言わず背に担いだ。そのまま、先ほどと同じ――いやそれ以上に速く走り始める。

 自分よりも背の小さな女の子に担がれ、自分よりも速く走られるこの敗北感と罪悪感。笑美はコヨルの背で打ちひしがれていた。


 草をかき分け闇を走る。コヨルの小さな体は、真っ直ぐ、ただ真っ直ぐと前に向かっていた。


「――んでだよ!」

 怒鳴り声が聞こえた。笑美はコヨルの腕を叩く。コヨルは笑美の意思をくみ取って、ゆっくりスピードを落としていく。笑美は縺れる足で地面に降り立った。

 冬馬が叫んでいる、急がなければと笑美は前へ進んでいく。人影がくっきりと誰だかわかるほど近づいた時、笑美は驚きのあまり固まった。


 怒鳴っていたのは、冬馬ではなかったのだ。


「お前が勇者なら、なんで魔王が復活する前に世界を守らなかったんだ!」


 冬馬は驚きに目を見開き、地面にしゃがみ込んでいる少年を見つめている。少年はソフィアに止血されながらも、威勢よく首を伸ばして冬馬を怒鳴りつけていた。

 少年の肘から下が、笑美には見えなかった。闇夜のせいだけじゃないことが、あたりに充満する独特な匂いのせいでわかった。


「魔王の被害がこんな出てんのになんでこんなとこでまだ、悠長にしてんだよ! なんで父ちゃんが死ぬ前にこの魔物を倒してくれなかったんだ! お前が、お前が悪い! お前が全部、お前が悪い!!」


 少年は毒を、呪を。冬馬に向かって投げかけていた。冬馬は、震える体を抑えられない。もう何も話すことも出来ず、何にも抗う気力もない。

 ただ投げつけられる暴力に、冬馬はただただ突っ立っていることしか出来なかった。


 ソフィアは手慣れた様子で少年の腕に布を巻きつけている。ろくな救急道具もない今、止血に適しているのは服ぐらいなものだった。

 川下で用事をこなしていたソフィアは、ヴィダルと同時に悲鳴を聞きつけた。ヴィダルよりも少年に近い場所にいたため、より鮮明に聞こえた悲鳴にソフィアは辺りを見渡した。魔法使いもおらず、伝令もいないこんな暗闇では、悲鳴がした正確な方向が分からなかったのだ。


 その時、手に明かりをともした冬馬が川上から走ってきた。冬馬は手に、探索用の魔法を展開していた。そこ数日の魔法の修練でそこまで会得していたのかと驚きつつもソフィアは冬馬を追った。


「お前その恰好は技師見習いだろう。なんでこんな時間にたった一人で街から出てきた。夜は街の外から出ないように通達しておいたはずだぞ」

 ヴィダルが常にない鋭い顔で少年を覗き込む。少年は腹にたまった呪詛をヴィダルにも吐きかけた。

「あの魔物が、あの魔物が俺の父ちゃんを殺したんだ!」

 叫んだ少年の背後には、虎程の大きさもある黒い生き物が横たわっている。絶命しているのか、動物はピクリとも動かない。


 冬馬とソフィアが駆けつけた先では、一人の少年が大きな魔物に襲われていた。なんとか距離を保とうと、少年は魔物に向かって木の棒を振り回していた。それが魔物に刺激を与え、少年の腕は無残にも、そして簡単に、魔物の爪の犠牲になった。


 技師見習いの少年が遣いの途中に見かけた魔物。それは、父の仇だった。

 我を忘れた少年は、魔物に襲い掛かるが逆に反撃を食らう。命からがら這う這うの体で逃げまわる内に、どんどんと街から遠ざかってしまった。すでに街へ戻るにはどちらへ歩けばいいかもわからず、逃げる場所の見当もつかない。体力も底をつきかけ、女神に祈りを捧げた時、少年に飛びかかろうとしていた魔物が思いっきり吹っ飛んだ。少年の悲鳴を聞きつけた冬馬が、魔法で魔物を蹴散らしたのだ。


 そこまではよかった。冬馬が通りがかりの傭兵だと思った少年は、涙を流して冬馬に感謝した。まるで勇者のようだった、と泣きじゃくる少年を勇気づけようと、冬馬はつい口走ってしまった。


 ――おう、俺、勇者だから。


「それで? 魔法も扱えぬお前が一人で、魔物をどうしようと言うのです? よもや大人が敵わぬ魔物を、自分一人でどうにかできるとでも? 街に魔防壁を張ってまで国が用心を促している旨趣を了知していただけなかったと見える」

 少年はぐっと言葉を飲み込んだ。サイードの言葉が途方もない真実だったからだ。


「命があっただけ儲けものでしょう。街まで送らせます。帰りなさい」

 サイードは視線だけでコヨルを呼ぶ。笑美の隣にいたコヨルは、すっと少年を担ぎ上げた。米俵を抱えるように抱えられた少年を見て、笑美は彼女に随分譲歩してもらっていたことを知る。


「くそったれ! くそったれ! 父ちゃんも助けてくれなくて、お前らの何が勇者なもんか! 偽善者! お前らなんか、さっさとくたばっちまえ!!」


 少年は、闇が言葉を飲み込むまで、延々と呪詛を履き続けていた。





「勇者と告げてくれるなと、そう申し上げていたはずです」

 静かになった闇夜で、サイードが冬馬に静かにそう告げた。

「それ以外に、言うことあるだろ……」

「いいえ何も」

 サイードは目を閉じて首を横に振った。ヴィダルが、馬車に戻ろうと撤退の合図を出す。


「勝手に単独行動して、悪かったよ!」

 冬馬の声を聞いたサイードは、草を濡らしている血を見た。冬馬に怪我はない。これは先ほどの少年のものだろう。


「けど、んっでだよ……なんで文句言われなきゃいけねえんだよ……知らねえよ。あいつの父ちゃんの顔なんか、見たこともねえよ。その時俺は日本にいたんだよ。こんな世界のことなんか、何ひとつ知らなかったんだよ!」


 冬馬は栓が抜けたように濁流を身の内から押し出す。自分の身の中の、暴れ狂ってどうにもならない持て余した感情を、言葉にすることで何とか昇華しようと戦っていた。


「助けてやる義理なんてねえんだよそれなのにっ、助けてやってんだよ! なのに、なんでだよ、なんで、なんで――!」


 冬馬のいかりで草原が波打つ。激しい衝撃が木々を揺らし、森がざわめいた。


「なんで助けて文句を言われる? なんで感謝してもらえない? なんのために助けたんだ俺は、俺は――」


 冬馬は言葉を区切った。信じられない事実に気付いて、顔を蒼白させて口元を手で押さえた。


 なんのために?


 俺は――


 自分のために、助けたんだ。


 冬馬の今にも身を引き裂かれそうな悲鳴に、笑美はたまらず蹲る。

 冬馬は、震える自分の両手を見た。


 俺は、何故駆けだした?新しく覚えた魔法を試してみたいと、一瞬でも思わなかったか?

 丁度いい、と。どこかで感じなかったか?悲鳴が聞こえた瞬間、人の命の重さを考えて走り出したか?

 走っている間、ずっと考えていたのは、習ったばかりの魔法の組み合わせ方じゃなかったか?

 新しい呪文をどう展開するか、そればかりに気を取られていなかったか?


 悲鳴の先に、人がいることはわかっていた。

 ただ、その人が“人”であると。本当の意味で、わかっていただろうか。


 この世界がどこか、非現実のようだと。


 夢のようだと。

 お話のようだと。

 ゲームのようだと。


 どこかで感じていなかっただろうか。


 笑美は口元を抑えてえづいた。喉から何かがせりあがってくる感覚がするのに、口のない壺の顔ではなにも吐くことができない。


 冬馬の気持ちは、笑美の気持ちそのままだった。

 ……これは、ゲームじゃない。


 ――街がモンスターに襲われている! 至急20体討伐せよ!――


 よくあるお遣いクエスト。なんて軽い、緊張感も現実味もない、読み慣れた文面。

 Aボタンを押せば忘れてしまうような、そんなありふれた文章の世界だと。どこかで笑美と冬馬は感じていた。聖女と勇者と奉られ、突然やってきた大役に心の浮き立ちを抑えられなかった。その無邪気な心が今、へし折れそうになっていた。


 人が死ぬ。この世界では、人が死ぬ。

 討伐隊の人達も、街の人も、会ったことがある人もない人も、そして自分自身も。


 ゲームじゃない。

 夢じゃない。

 寝物語に聞いていたお話の『めでたしめでたし』で締めくくられた、お話のひとつじゃないんだ。


「二人とも、起立なさい」

 厳しい声に、胃がすっと冷える。笑美はのろのろと顔を上げた。


「立ち上がり、足を進めなさい。後ろを振り返り、立ち止まってはいけない。我々には、前を見る責務がある」


 立ちなさい。三度の言葉で、笑美はようやく足に力を入れた。よろけた笑美の体を、ソフィアが支える。

 同性でも笑美とは違いしっかりとした筋肉の付いた、人を守るための腕だった。


「国民を守りたいなんて高尚な意思など端から求めていません。魔王を倒す。それが勇者に課せられた義務です。些末にとられる時間はない。貴方はただ物言わず、魔王を倒せばいい」


 サイードが雪よりも冷たく冬馬に言い放った。冬馬は力の抜けた体で、小さな舌打ちを返した。




***




 悪い事とは重なるものだ。

 もしくは水辺の近くは人が暮らしやすいように魔物も暮らしやすいのかもしれない。


 馬車に戻り旅路を急いでいると、商人が数匹の魔物に襲われていた。孤立した帆馬車の帆の上で、親子が身を寄せ合って助けを求めている。


 冬馬は躊躇した。助けることを、戸惑った。

 まだ、先ほどから幾らも時間が経っていなかった。冬馬の心が落ち着くにも、傷が癒えるにも、十分な時間とは言い難い。


「商隊ならば護衛がいるはずです。先を急ぎましょう」

 サイードが涼しい顔をしてそう言った。薄情にもサイードの言葉に頷いたコヨルが、御者席のヴィダルに伝達した。彼はコヨルの話を聞くと頷き、片手を上げる。サイードの言葉を了承したのだ。

 馬車は止まらない。スピードを落としもしなかった。ソフィアがすっと立ち上がり壁に近づく。


「――っ俺は!」


 冬馬が、耐え切れずに吠えた。


「俺は、勇者だ!!」


 冬馬が自分を奮い立たせるかのように、大きな大きな声で咆哮を上げた。びりり、とキャラバンが痺れるほどの衝撃だった。

 冬馬はキャラバンのドアを、まるで自分に勇気づけるように蹴破る。勢いをそのままに、雄たけびを上げながら駆けている馬車から飛び降りた。ぐるぐるぐる、とスタントマンのように地面を転がって、冬馬が落下の衝撃を和らげる。


『わあああああああ!! 冬馬あああああああ!!』

 転がり落ちる冬馬の姿を見た笑美が、腹の底から声を出した。ドア枠に手をかけ冬馬に手を伸ばそうとする笑美をサイードが掴む。


 一人大地に降り立った冬馬は、転がりながら魔法を組んでいく。

 冬馬が飛び降りたことに慌てたソフィアが、急いで壁から弓を取り、窓から御者席に飛び移った。ヴィダルは心得ているとばかりに、ソフィアが軌道を読みやすいようただ真っ直ぐに同じ速度で馬を走らせる。ソフィアは弓を構え、慎重に狙いを定める。


「異世界でも、ゲームでも、ラノベでも、魔法が使いたかっただけでも、やっぱさ! 目の前で人が、助けを求めてたら! 助けたいって思うのが、人間だろ!!」


 冬馬は力加減を間違えて商人たちまで傷つけてしまわないように、細心の注意を払って魔法を放った。先ほどの少年を襲っていた時と同じく、人を傷つけることなく魔物が倒れる。


 冬馬が倒した魔物とは違う個体に、ザンッと矢が刺さる。へたり込んで動けないでいる冬馬の背後から、更に矢が飛んできた。ザザン、ザン。

 ようやく冬馬が動けるようになった時には、矢の強襲は終わっていた。放心している冬馬が首を捻り、後ろを振り返る。

 ソフィアが弓を降ろしてこちらに手を振っていた。彼女が馬車から援護してくれたのか。冬馬は暴れ出しそうな心臓を押さえて、安堵から沸き上がりそうになる嗚咽を飲み込んだ。


 馬車がゆっくりと速度を落としていく。キャラバンから転がるように駆けてきた笑美を、冬馬が受け止た。


『冬馬ああああ馬鹿あああ心配したよおぉおおお』

 泣き喚く笑美の声が冬馬に届くことは無い。しかし、肩の震えから彼女が泣いていることを冬馬は悟った。だが、自らも放心していたため、冬馬も上手く笑美を慰めることが出来ない。

 ぼんやりしている内に馬車からソフィアたちが合流した。苦笑しながらやってくる面々を見て冬馬が口を開く。


「なん……だよ、見捨てていくのかと……思って……」

「この程度の数、わざわざ馬車を止める必要はありません」

「ソフィアは国一番の弓の名手だからな」

「二番です」

 放心している冬馬の体中を触りながら、泣きじゃくる笑美は怪我がないか身振り手振りで聞く。しかし、冬馬は何も反応しない。じれた笑美が、冬馬のみぞおちを殴った。

 ゲフッと“く”の字に体を曲げて咳き込む冬馬に、笑美は大丈夫そうだなと首を何度か上下させた。

 その様子を半ば呆然と見ていた商人が、なんとか帆の上から降りてくると慌てて頭を下げた。


「なんとお礼を申し上げればいいか――本当に、言葉もございません。ありがとうございます、ありがとうございます」

 ふくよかな商人の後ろから、そろりと小さな影が顔を出す。

「護衛に商品を盗まれ途方に暮れていたところ魔物に襲い掛かられまして……もはや打つ手もなく、せめて息子の命だけはと女神さまに祈っておりましたところに……貴方様方は、命の恩人です。ありがとうございます……ありがとうございます……!」


 先ほどの少年も、魔物から助けてすぐは同じように感謝を冬馬に示した。ありがとうと、眦に涙を浮かべながら、何度も何度もそう言った。

 冬馬は震える唇で、呟く。


「助けたのは、当然だ。――……俺、勇者だから」


 再びの違反にサイードが冬馬を律するよりも早く、商人が悲鳴を上げた。


「なんと! 女神さまに祈りを捧げたその瞬間、勇者様に救っていただけるとは……我が商隊は縁には見放されても運には見放されなかったようですな。堅実誠実をモットーにやってきた甲斐がございました。大したお礼は出来ませんが、少々お待ちください。旅のお役に立てるようなものを見繕ってまいります」

 商人は慌て者なのか、大きな腹を揺らしながら短い脚で帆馬車へと駆けこんで行った。大きな袋を抱え、手当たり次第に物を詰めていく。


 冬馬は、細い肩を震わせる。

 俯いた冬馬から、ぽとりと水滴が零れ落ちて地面に染みを作った。ぽとんぽとんと染みが広がっていく。

 商人の息子が、冬馬の顔を覗き込み首を傾げる。


 鼻水をすすりながら、冬馬が途切れ途切れに息子に告げた。


「俺、がんばって、魔王倒すから。待ってて、待っててくれな。魔物に父ちゃん襲われないような、世界に、ちゃんとするから」


 ごめん、ごめんな。



 笑美は手を合わせて祈った。

 冬馬の呟きが、風に乗ってどこまでも飛んでいきますようにと。







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