07 : 食事風景と安眠椅子
馬車は広い地平線に向かって、真っ直ぐに走っていた。馬車に振動軽減の魔法をかけているおかげで、長時間乗っていても身体的な痛みを感じることはほぼ無い。サイードが告げたとおり、旅は全速前進。最短時間で魔王城に向かっていた。
王都を出たばかりの大地は緑豊かだった。青々と茂る草原は、何処までも広がる緑の絨毯。その中に、一本の道が這っている。
王都からしばらくは整備された街道が続く。馬車は出来るだけ速度を上げるために、朝日を受ける街道をただひたすらに走って行った。
冬馬が勇者、笑美が聖女だということは極秘事項として扱われるらしい。
とは言っても、冬馬はともかく笑美はこの有様だ。聖女だとは気付かないにしろ、この顔を見て驚かない人間はいないだろう。笑美は壺を隠すため、ローブを肌身離さず着用することが義務付けられた。
国から選抜された公式の魔王討伐一行だと、大々的に渡り歩くとどうしても時間のロスが生まれる。各所で貴族から歓迎を受けたり、挨拶に出向かなければならなくなったり、モンスター退治を依頼されたり、姫の救出を要請されたり。そんなことをしている暇はないというサイード暴君様のご命令による、組織的な情報隠蔽であった。
「え、じゃあこのままほとんど馬車に乗って魔王のいる場所まで行くんだ?」
「左様にございます」
冬馬の質問に、サイードは慇懃に答えた。
「外部との接触は最小限に。街に降り立たねばならぬ場合は、決してご自身が勇者様であることを明かされぬよう、ご留意ください」
森を突き抜け、谷を超え、街にもよらず最小限の時間で魔王城を目指すらしい。馬車がキャンピングカー代わりになるのかぁと笑美はクッションにもたれかかる。
「はー……本当に魔王を倒しに行くだけなんだ」
「最初にそう申し上げたはずですが」
サイードは訝しげな顔をしてそう言った。しかし冬馬の気持ちが十二分に笑美には理解できた。
「な、もっとレベル上げとか、クエストとかこなしていくのかと思ってたよな」
ひそひそと話しかけてきた冬馬に、笑美はうんうんと頷く。ファンタジー世界に来たからには、やはりそういう夢を見てしまうのも仕方ない。
魔王が復活した、と言う割に馬車から覗き見る現世は平和だった。月が赤くなるわけでも、空が闇に覆われているわけでもない。それほど急いで向かう必要があるのだろうかと、馬車に揺られながら笑美は思った。
平和に見える世界を疑問に思ったのは笑美だけではなかった。冬馬の質問に、サイードは雪のような声で答えた。
「魔王とは生じた瞬間に世界を破壊するわけではありません。魔王が生まれ、魔物が活性化し、徐々に破滅を呼ぶのです。魔王から遠く離れたこの地でも、異変はすでに発生しています」
冬馬と笑美の目の届かない場所で、すでに崩壊は始まっていたらしい。更にサイードは続けた。
「魔王とは、魔法発動時に分泌された“なにか”が蓄積、結晶化して発生するのではないかというのが、今のところ最も有力な説です」
二酸化炭素と地球温暖化みたいなものだろうかと、笑美は頷いた。
「魔王の復活は世代を追うごとに緩やかになっています。我々の魔力が衰亡に向かっていることが原因でしょう。魔力の根源が潰えようとしているのです。世界は、浄化に向かっている」
弱体化した魔法使いたちの分泌する“なにか”では、魔王復活に必要な魔力に到達するまでに時間がかかった。しかし、停滞ではない。魔法使いが誰一人いなくなるまで、魔王は復活し続けるのだ。
サイードの言う“太古の力”がどれほどなものなのかはわからなかったが、今はその力を有効に使いたい。冬馬には研ぎ澄まされた刃を。そして笑美には癒しの雫を。
コヨルは今後、細々とした遣いとして一行から離れることもあるという。基本的に、街には立ち寄らず真っ直ぐ行路を進む馬車に変わり、所用を捌くのがその役目だ。
馬で先行し、街の様子を見、物資を調達し、新しい馬車馬の都合をつける。
服は各地で調達した。商人や傭兵、娼婦の小間使いに野菜売りまで。色々な者にコヨルはその身を紛らわせた。人にすり寄りほしい情報を手繰り寄せ、不利な情報は有利なものへと上書きしていく。まるでくの一のようだと笑美は思った。
遣いに出かけない場合のコヨルの主な仕事は笑美の世話係だ。そばにいることが多ければ、笑美の機微の理解も早いだろうし、翻訳も頼みやすくなる。
そのコヨルに文字を教えてくれるのが、冬馬だった。
冬馬はああ見えて、頭がよかった。
サイードが渡していた安眠用の書物を、皆の予想に反して完読したという冬馬に笑美はひっくり返りそうになった。
文字はどうしたのかと尋ねた笑美に、冬馬はあっけらかんと答える。
サイードが子供用の辞書を同梱してくれていた上に、意思疎通できるメイドがいれば、何の問題もなく書物を読み進められた――と。
同じ環境があっても、笑美に出来るとは到底思えなかった。
慌てて高校名を聞くと、笑美でも知っているような進学校で有名な男子校だった。
勉強が苦手そうな顔してるくせに、と呪詛を吐く笑美の通う高校は、冬馬が高校受験の際に検討すらしなかったレベルの学校である。
冬馬の頭の出来に関してはサイードもいい意味に想定外だったらしい。やはり冬馬の八つ当たり台風が彼の評価を下げていたのだろう。
力任せに魔法を放つ冬馬に、ほんの少しばかりのコントロールをと目算していたサイードは、180度計画を修正した。馬車での移動中、みっちりと冬馬に稽古をつけ始めたのだ。
魔法の概念、歴史、本質から始まり、魔法の練り方、術の構成、陣の意味。隣で聞いていた笑美はサッと無い耳を塞いだ。異世界に来てまで、授業を受ける気はない。
「陣とは魔法の理です。ひとつ、魔を操り。ひとつ、法を司る。陣をもって魔法は完成いたします」
そう言ってサイードは天井に吊るされているランプに光を灯した。このランプは魔力を動力にしていて、一度つけるとしばらく持続するらしい。
初歩の初歩だと言っていたが、その初歩の魔法を使う時でさえサイードの周りには魔法陣が浮いていた。しかし、冬馬がドアを壊したときに冬馬の周りに魔法陣は浮いていなかった。その違いはなんだろうと笑美と冬馬は首を傾げる。
「肉体的には勇者様は我々と変わらぬ人の身でございます。しかし内蔵する膨大な魔力が勇者様の感情一つで衝撃となって噴出されるのでしょう。まずは陣を整え渦をならすこと。さすれば、あなたは大陸一 ――いえ世界一の魔法使いになれる」
サイードの飴は的確に冬馬に闘志を燃やさせた。慌てて笑美が挙手をする。
【“私 水 魔法陣 ない”】
「聖女様は魔力を水に注いでいるにすぎません。薬師の分野です」
魔法すら使えていなかった! コヨルが訳した言葉に対するサイードの返事を聞き、笑美は少しショックを受けた。
「ツボボのアトリエ……」
やめろ冬馬。今私もそれ思ってたから。
ヴィダルとソフィアは交代しながら手綱を持ち、馬を走らせる。
することのない笑美の話し相手になってくれるのも基本的にこの二人だった。と言っても、ヴィダルは中々起きてる時間が合わずに会話をすることはあまりない。
ソフィアは穏やかに、この世界のことを笑美に話して聞かせた。ヴィダルは短い時間ではあったが、面白おかしく自分の身の回りのことを語った。
さて何もできないお姫様の壺姫も、服の着替えくらいは一人で出来るようになっていた。城のメイドに厳しい指南を受けたからだ。
旅の道中の簡単な衣服ぐらいは、コヨルの手がなくとも事足りるだろう。そもそも、日中はなるべくセーラー服を脱がないポリシーを持った笑美は、現世の服を着るかどうかすら怪しかった。
常に交代で馬車を動かすヴィダルとソフィア。馬車の中にまで仕事を持ち込んでいるサイード。魔法の修行中の冬馬。雑事をこなすコヨル。その中で、笑美は何もすることがなかった。
薬師なら、と“酔いトメール水”を作って渡してみたが、効果が今一わかりにくい。けど他にすることも出来る事もないしなーと、ぐでーんと笑美はクッションにへばりついていた。
なんだか全然やる気が出ない。魔王討伐が、想像していたのと少しばかり違ったからだろうか。笑美は一人ため息をつく。
そのため息すら感じ取ってもらえない原因の壺の頭を、さすさすと触った。
魔王討伐と言えば、パーティを組んで仲間を集めながら、徒歩でえんやこらと進むはずではないのか。時に飛空船、時に船を手に入れて、大なり小なりの冒険やクエストの末、強靭なる魔王に立ち向かうのではないのか。
なのにこれでは、ただの輸送だ。梱包すらしてもらえていない。
なんかこう、ちょっと困っているイケメンの貴族がいたり。流れの剣士がいたり。モンスターに村が襲われていたりするもんじゃないの? 先ほどの冬馬の言葉に全力で頷いてしまった笑美は、必死に欠伸をかみ殺す。クッションの上は気持ちがよく、うとうととしてばかりいた。
笑美はうーんと唸って水に念を込めてみる。コップをもらい水を注ぐ。黙って笑美を見つめていたコヨルにペロリと舐めてもらった。
この魔法のよくないところ、それは。
効果がよくわからないところだ。
コヨルは首を90度に傾けている。
今のは“健康祈願水”。効果が表れるのは、まだまだ時間がかかるのかもしれない。
本当に利いているのだろうか、と笑美は再びクッションに沈み込んだ。
なんだか、だるい。本当にだるい。だるくて、だるくて――
「壺姫?」
そばに腰かけていたソフィアが顔を覗き込むが、笑美から何の反応もない。クッションに覆いかぶさり、壺を埋めて眠る笑美に毛布をかけようとしてソフィアの動きが止まる。
笑美の壺の中の水が渇いていた。
「隊長! 停車!」
ソフィアは慌ててヴィダルを呼んだ。
ソフィアの声に気付いたサイードが、急停止に揺れる馬車の中振り返る。
「どういたしました」
「壺姫のお加減が」
ソフィアの緊張を含んだ声に、サイードは笑美の元にしゃがんだ。
「聖女様、聖女様。如何なされました」
壺の顔は何も答えない。脱力している体を見ると、もしかすると気を失っているのかもしれない。サイードは緩く柔和した体を抱き寄せると、ぺちぺちと頬を叩く。
「聖女様、聖女様」
声を聞けず、顔も見ることが出来ない。その状況の笑美の容態を判断するのは容易ではないだろう。
「魔力が費えたのかもしれません」
脈をとりながらサイードが静かにそう言った。自分の膝に横たえても濡れないことから、壺の中身が乾き切っているのをサイードは察する。
「魔力回復って、どうしたらいいんだ?」
「補給には、食事と睡眠が一番です」
どちらも、今の笑美には大層難しい。
うがーー! と冬馬が叫ぶ。馬車を吹き飛ばされては敵わないと、ヴィダルとソフィアが慌てて冬馬を宥める。
「まぁ待て! ということはどちらもさせてやれば回復するってことだ!」
「食事をとろうか。大丈夫、すぐに回復するから」
どうどう、と荒れ狂う台風に大幣を振って祈祷する二人を尻目にサイードがコヨルを呼びつけた。
「干し果実と水を」
コヨルは心得ていたとばかりに、サイードに手渡した。
サイードは胸元からハンカチを取り出すと干し果実を包み、水に浸した。何度かハンカチを揉むと、笑美の壺に押し付ける。唇があるだろう位置に押し付けているのだろう。しかし、ハンカチから零れた果実の栄養が染み出た水は、陶器を伝ってサイードの膝にしみを作った。
「聖女様、目を覚ましなさい。聖女様」
サイードが頬をぺちぺちと数回叩くが、笑美に何の反応もなかった。
コヨルはサイードと笑美の様子をしばらく見つめた後に、唐突に水瓶を笑美の壺に突っ込んだ。
サイードが慌てて笑美を抱き起す。しかし、コヨルは丁度いいとばかりに水瓶の中の水を笑美の壺に注いでいく。
どぷっどぷっ
およそ、食事光景とは言えぬ音が静まり返った馬車に響いた。
全ての水を入れ終えると、コヨルはふぅと額の汗をぬぐった。やり切った感が半端ないが、あまりにも強引なやり方である。
冬馬が恐る恐る口を開いた。
「そ、それって、大丈夫なわけ?」
「水が減っていた。だから増やした」
何か悪いだろうか? と首を傾げるコヨルに次の言葉をかけられなかったのは、サイードの腕の中で笑美が身じろいだからだ。
『んっ……あれ……?』
「聖女様、お気づきになられましたか?」
『うん……? なんで超美形がこんなドアップで……あぁそうか今ファンタジー中だったね……』
笑美はふらつく頭を押さえてサイードの腕から立ち上がろうとした。しかし、次の瞬間ぐらりと体が傾く。ふらついた笑美を難なく抱きかかえたサイードが、笑美の顔色を覗き込むように顔を寄せた。
「お加減は?」
『あぁやめてイケメンのドアップなんて、なんて美味しいスチル……いやちがうそうじゃない。コヨル、書くもの頂戴』
手で文字を書く動きをして、笑美はコヨルに催促した。コヨルは音もなくスケッチブックとボールペンもどきを持ってくる。
ペンを握る手が、微かに震えている。まだうまく持てないらしい。
笑美がペンを持つことすらできなかったことが、さらに周囲を不安にさせた。焦った冬馬はあらん限りの水を笑美に注ごうとするが、壺にも一応許容量というものがある。
なら食べ物はどうか、先ほどの果実を絞った汁は、と笑美の体調そっちのけで議論が交わされ始めた。
笑美はその様子を、いまだぼんやりとする頭で見つめていた。サイードの膝に座り、胸に頭を預けている格好のままだ。人の体温にか、心音にか。笑美は心底リラックスしているのを感じていた。
「眠れるのなら、眠ってしまいなさい」
サイードの声が子守歌のように柔らかい。
「睡眠は怠慢ではない」
眠い中、サイードの言葉の意味を追う余裕はなかった。ただ、寝てもいいという言葉に、笑美は意識を意識を手放した。
「サイード殿、代わりましょう」
「任せます」
ソフィアが笑美を丁寧に受け取った。ソフィアは慎重に壁に背をもたれ、腕の中に笑美を囲う。ソフィアの腕に抱かれた笑美は、ぐっすりと眠っていた。よほどのことがない限り起きないだろう。
結果として、笑美の壺の中には今パンと干し果実が詰め込まれていた。壺の底に沈んだそれがどうなるかは、もう実験次第である。
「出発するぞー」
ヴィダルが声をかけて馬の手綱を揺らした。馬はヴィダルの命令に従い、カッポカッポと足を進める。
馬が足を一歩二歩と進めていくと、当然キャラバンも動き出す。じりりと地面を掻きながら、車輪がゆっくりと回り始めた。
ガコンッ
車輪が石に引っかかり、少しの衝撃を加えた。その瞬間、バキッと聞き慣れぬ音がキャラバンに響く。
笑美は衝撃に、パチリと目を見開いた。残念なことに、よほどなことはすぐに起きてしまった。
何か音が?! 慌ててキョロキョロと辺りを見渡せば、皆一様に目を丸くして笑美を凝視していた。
『何?! 何?!』
笑美の動作から、慌て様が分かったのだろう。抱きかかえている人物が変わっていることにも驚いたが、その人物が絶句している事実もまた、笑美に驚きをもたらす。
「つ、壺姫、壺――」
やっとのことで呟いた冬馬の声を笑美は拾い上げる。壺? 壺が何? と笑美は自分の頬に手をやった。当たり前だが、頬の弾力は返ってこない。そこには、つやつやとした触り慣れてしまいそうな手触りが――
ざり
笑美の手が、つやつやとしていない陶器に触れた。
ん?! 驚いた笑美はそこを何度もこすってみる。つやつやしてない。つやつやしてない! 笑美は驚いてポカンと口を開いた。自慢のつやつや陶器のお顔に、まるでひびが入ったような手触りを感じたのだ。
「もっ――申し訳ございません!!」
蒼白な顔で土下座せんばかりのソフィアに、笑美は色々悟った。揺れる馬車、もたれかかっていた固い鎧。そして、輸送中の梱包材で包まれていない壺――
『大丈夫、大丈夫だから! 落ち着いて、ソフィア! ソフィア!』
笑美はそれからひたすらに平伏するソフィアを宥め続けた。結局、役回りや体躯など諸々を考慮して、笑美の安眠椅子は前回に引き続きサイードが務めることになった。