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26 : 夢は今も巡りて

 ママのコーヒーを淹れるのは、パパの仕事だ。どれだけ忙しい朝でも、この役目だけは忘れたことがない。

 トポポとドリップされるコーヒーを見ながら笑美は頬杖をついていた。コーヒーの香ばしい匂いがする、いつもの朝。パパとママがいて、ちょっと不思議なペットが増えて。いつも通りの朝のはずなのに味気ない。


 嫌味も皮肉も届かない。こんな場所からじゃ、髪も結べない。


 髪を触ることに対して、良くも悪くもサイードに何かを言われたことは無い。しかし、書類仕事をしている時は早く結ぶのを待っていたように笑美には感じていた。そういう時はわざと気づかないふりをして、サイードから寄ってくるのを待つ。書類仕事が多いときは、垂れる髪を少なくするのが笑美の心遣いでもあり、サイードの装い係として譲れぬポリシーでもあった。


 誰か、髪を結んでくれている人はいるだろうか。


 ――いるよな、たくさん。あんだけ美人だし。かんちょーさまだし。


 笑美は自分の導き出した答えに、ケッと顔を顰めた。


 日本に帰ってきたその日に、笑美は父と母に向こうであった出来事を話していた。胸に抱いていたこちらの世界には存在しない竜がいたことも、説得力の一因となったのだろう。父と母は笑美の涙をすぐに信じてくれた。


 こうして魔王は迎えられ、笑美にはリフレッシュ期間が適応された。とはいっても、学校を休んでいいわけじゃない。始業式を無断欠勤してことだって、そりゃあしこたま怒られた。笑美は、校則からはみ出ない程度の化粧で泣きはらした顔を隠しながら、その後もきちんと学校に通っていた。


 両親は危ないことをして帰ってきた笑美を叱らなかった。ただただ、よく頑張った。ありがとう。と、そう笑美を抱きしめてくれた。


 しかし、その後に笑美があちらへ行きたいと言ったことに、両親はいい顔をしなかった。

 こちらに帰って来たばかりで気が動転していた笑美に、母が厳しい顔をして一括した。


『勘違いしなさんな。今あんたがどれだけ不幸だと思っていても、離れて時間が経てば、それは必ず思い出になる。あんたはその後きちんとまた立ち上がって、違う幸せを必ず見つけられる』


 ぐさりときた。笑美は、こんなに苦しい気持ちのままじゃ、もうあと一分だって生きていけないにちがいないと思っていたからだ。


『男はね、その世界にもこの世界にも、そちらさん一人じゃない。今がどんなに辛くても、毎日、食べて、寝て、笑って過ごせば、少しずつ忘れて行く。辛いことを乗り越えることは無理でも、思い出に変えることは出来る。いつまでも、その辛い気持ちが続くわけじゃない』


 笑美にはわからなかった。笑美にとってこれは初恋であったし、もちろんのこと恋に敗れたこともなかった。これ程辛い気持ちがいつか、このまま何もしなくても無くなっていくなんて、到底信じられなかったのだ。


『だから、あんたが幸せになりたいだけなら、行くのはやめなさい。あんたはここでも、十分幸せになれる』


 ちゃぽん、ちゃぽん。


 音を立ててコーヒーが水たまりを作っていく。




***




「また君か」

 夕方のリビングで、仕事から帰ってきた父はため息を吐き出した。


「お、お邪魔してマス」

「おかえり、パパー」

「ただいま」


 リビングのテーブルにいる笑美と冬馬に苦笑を返した父は、落ちていた紙を一枚拾った。テーブルの周りには、散乱した紙と古びた本。その全てに、日本で育っていればおよそ馴染みもない不可思議な文字が連ねられていた。

 マオがペタペタと紙の上を歩く。足を持ち上げ、足の肉球にくっついた紙を剥がそうと腰を振った。


「これは?」

「送還の魔法陣! パパとママが駄目って言っても、完成させるんだから」

 べっと舌をつきだす娘を見て、父は母を見下ろした。


「ママ?」

「おかえり、いいじゃない。面白そうだし」

 へぇこれが魔法陣ねぇと軽食をテーブルにおいた母が一枚の紙を手に取った。それは、冬馬があれでもないこれでもないと、記憶を頼りに書き殴ったものだった。

 母は娘の暴挙を止める気はないらしい。三人で仲良くテーブルに座り談笑している。


 テーブルの上に出された軽食を冬馬はしげしげと見た。虎屋家ではよく食卓にも並ぶ、笑美の大好物だった。父の家の味であるそれは、ピタパンによく似ていた。今まで一度だって日本で食べたことがないそれを、冬馬はどこかで見たことがあるなと思った。


「ママはもう味方だもん。ねー」

「味方、まではいってない」

「えー」

「味方って何、どういうこと」

 確信に満ちた目をした娘に父は慌てて尋ねた。


「ママ、言ってたよね。『あんたが幸せになりたいだけなら、行くのはやめなさい』って。私、私だけが幸せになりたいんじゃないの。あのね、一人だと、笑えない人がいるの。けどね、最後に私に、笑ってくれたの。だから私、行きたい。私、“笑美”でしょ。笑顔を届けにいかなきゃ」

「そ、そんな……」

 父は額を抑えて絶句した。まさかこんなことが、と絶望している。その隣で、何故か母が大口を開けて笑っていた。


「ママに相談したの。そしたら、あっちに行ってどうしたいのか。何ができるのか。できなかった場合はどうするのか。きちんと考えてるのかって言われたから、色々考えてみたの。まだ全然完璧じゃないかもしれないけど、私なりにまとめたのが、はいこれ。レポート」

 ぺらり、と渡された二枚の紙を慌てて掴むと、父は目を凝らして紙に書かれた文字を読んだ。


 矛盾や穴だらけで、社会を舐めきっているとしか思えない娘の提出物に涙が出そうになる。これ程ものを知らなくて――父も母もいない、無条件で自分を愛し、叱ってくれる人間のいない場所で、こんな甘ったれが生きていけるはずがない。


 それでも娘は、今出来る事を必死にやっているのだ。


 父はふと、冬馬の横にまとめられている布に目が留まった。父の視線に気づいた冬馬が、すみませんと頭を下げる。

「ぼろっちいですけど、洗濯はして来てますんで……」

「それは?」

「向こうの世界で、冬馬の命を救ったすごーおい、ありがたーあいローブ」

 見てもいい? と手を出す父に、冬馬は慌ててローブを渡した。


 広げると、真ん中に大きな縫い目のあるぼろ布だった。真ん中の補正したところ以外にも、ところどころつぎはぎだらけが目立つ。少し力を入れればすぐにでも引き裂かれてしまいそうなぼろい布。元々の持ち主が、どれほど大事にしていたのかがよくわかる。


「向こうで知り合ったじっちゃ……老師にもらったんです。ええと、名前は俺は教えてもらえてないんですけど……」

「教えてもらえなかった?」

「魔法使いは簡単に名前を教えちゃいけない法則があって」

 へぇ? と父は首を傾げた。その隣で母も傾げている。ラノベとか読まなそうだしな、知らないよなそんなお決まり設定。と冬馬はハハハと乾いた笑みを零した。


「シャルルだよ」


 父に向かって、笑美はきっぱりと告げた。

 間をおかずに、もう一度告げる。


「シャルル・アドゥルエルム。私は名前、教えてもらったの」


 笑美が老師の名を口にした瞬間、ふわりとマオの体が浮いた。しかし、その事に笑美も冬馬も気づくことは無かった。笑美の出した名前に驚いた冬馬が立ち上がり、そちらへ注目していたからだ。


「――アドゥルエルム?」

「どうしたの?」

「……虎屋があっちに行きたいって言うから、親父の本やらなんやら引っ張り出して色々調べたんだ。あ、それがこれな」

 散乱した古ぼけた本を指さした冬馬に笑美は頷いた。冬馬が持参した本は現世(うつしよ)の文字で書かれていたからだ。

 きゅぴ、ぷぷぷ。マオの鳴き声が聞こえる。『しー』と、母がマオに言った。


「そしたら、父さんの名前がアドゥルエルムだった。日本人の名前は偽名だったみたいで、本名がハルベルト・アドゥルエルム」


 冬馬がゲームやラノベ好きになった直接の原因は、この中二病全開の書物にあった。冬馬は子供のころから、この魔法書らを読み漁っていたのだ。

 文字が読めなかった冬馬は、当時、書物の意味までは理解できていなかった。しかし、文字の独特な形状を覚えていたのだろう。尋常ならざる速さで冬馬が現世(うつしよ)文字を会得したのは、子供のころに日夜眺めていたからに他ならなかった。


 純粋に魔法使いに憧れていた冬馬は、書物に描かれている魔法陣を描いて日がな一日遊んでいた。あまりにも熱狂的に取り組む冬馬の姿を、冬馬の母親は強く危惧した。このままでは冬馬の将来が危ないと、冬馬の母親は決心した。夫に願い出て、書物を全てしまい込んだのだ。

 一番の遊び道具が無くなった冬馬は、泣く泣く友達と遊びに出かけるようになった。外の世界は刺激的で、冬馬はすっかり夢中になった。そうして、幼い頃に遊んだ本の記憶は徐々に薄れていった。


 幼い頃、何度も描いた魔法陣。冬馬が現世(うつしよ)に渡った直後から、暴走とはいえ魔法を行使できたのは、父ハルベルトの遺した魔法陣を記憶の隅で暗記していたからであった。


「――シャルルはハルベルト・アドゥルエルムの長子。彼は、君の一番上の兄にあたるだろう」


「げっ、うちの家系って、女しか生まれないんだと思ってた。俺以外にも男っていたんだ……あれ、じゃあじっちゃんって俺の……兄貴?!」

 ひょえー! と驚いた冬馬が固まる。あれ、なんでそれを虎屋の父ちゃんが?

 笑美は父を真剣な目で見つめている。


 きゅぴえー。マオが泣いた。


「これが魔法陣?」

「あっはい」

 冬馬が今完成させようとしている紙を手に取ると、父はふむと頷いた。


「こんなのに、うちの娘の命は預けられない」

 首を横に振る様を見て、冬馬は項垂れた。自分がどれほど頑張っても、笑美の父を説得することは無理なんじゃないかと思ったのだ。


「パパ!」

 落ち込む冬馬の隣で、笑美はテーブルに手をついて勢い良く立ち上がった。


「マオ、おいで」

 父が呼ぶと、マオがパタパタと飛んできた。飛んでいるマオを見て、笑美は絶句する。何故飛べるように? 驚く笑美とは違い、父は当たり前のように飛んできたマオを受け止めた。

 マオは一番、父に懐いた。父の手に鼻がしらをくっつけると、何かをねだるように鳴く。


「多くの動物には、帰巣本能と言うものが備わっていることを知っているかい」


 ぽかんと口を開いた冬馬に尋ねた父は、しかし返事を期待していないようだった。

 父は母を見下ろした。母は右手の指を三本立てると、父の目を見てしっかりと言う。


「3日。それ以上はだめ。学校はちゃんと卒業する約束よ」

「2日だ」


 肩をすくませる母は、よかったねと笑美の背を叩いた。笑美は期待に満ちた目で父を見上げる。


「2日間。笑美と、名前も呼べない彼に猶予を与えよう。その2日間でどうにもならなかった場合は、僕は金輪際、絶対に、協力しない」

「はい! わかりました!」


 冬馬はずっと感じていた違和感に気が付いた。

 サイード、と。

 笑美は今。彼の名前を呼ぶことすら、できなかったのだ。


 父が冬馬の書いていた紙に鉛筆を走らせる。少しの間の後、笑美にそれを見せる。

「帰還条件も時間軸の定理も全て書いてある。宮廷魔法使いを務めるなら、これでわかるだろう。――笑美」

「はいっ!」

 笑美は髪を解いて、金糸が織り交ぜられている黒い組紐を父に渡す。冬馬が笑美のスカーフをサイードに渡したのと、同じ理由だった。


 街へ降り立ったあの時に受け取ってもらえなかったプレゼントのつもりで、サイードが笑美に渡した組紐。しかし笑美はこれを、自分のものだと思っていなかった。これは、サイードのものである。そうでなければ、いけない理由が笑美にはずっと、帰ってからずっと――心の中にあったのだ。

 送還魔法には、目印が必要となる。サイードの所持品が――あちらの世界の人間の所持品が、笑美にはどうしても必要だったのだ。

 呆けたまま笑美と父を見つめている冬馬に、父は目を細めて笑う。


「そんなに驚くことじゃない。魔法使いは、君のお父さんだけじゃなかったってことだよ」

 目を見開く冬馬に、父が最後にこう言った。


「見ていなさい。魔法とは、こう扱う」


 父が指先をこねると、ぬるぬると光が溢れ出てきた。父は冬馬の書いた陣を指でなぞる。ところどころ自分で条件を付け足しながら、不可思議な文字を書き連ねていった。


 冬馬がどれほど頑張っても発動しなかった魔法が今、父から迸っている。父が抱えているマオが急速に光り始める。帰還の術式の時とは違う、白い閃光のような眩い光だ。


 竜が気持ちよさそうに嘶いた。魔力がどんどんと陣になっていく。文字が連なり、連なり、連なり。部屋一面の、大きな陣が。


 消化され切っていなかった魔王の魔力は、一切の魔力の渦を止める常世(とこよ)において唯一稼働する魔力であった。

 吐きかける炎に可能性は見出しても確信が持てなかった笑美とは違い、父は炎の原動力が魔力だと気づいていた。マオが引っ切り無しに父にくっついたのは、懐かしい匂いを嗅いでいたからである。

 帰巣本能で可能性を倍増したとしても、マオの吐きだす小さな魔力では到底世界を渡ることなどできなかった。しかし、そこに一つ、残されていた札を笑美は間違えなかった。


 ――何処にいても聞こえる呪いをかけておいた。もし何かあれば唱えてみるといい。きっと力になろうぞ――


 シャルルは最初から最後まで、笑美に嘘をつかなかった。

 現世(うつしよ)でかけた魔法は、常世(とこよ)でも発動する。それは冬馬の父でも実証された理であった。

 シャルルの魔力が笑美の一番近くにいる魔力に反応した。それはもちろん、マオであった。しばらく魔力に触れていなかったマオは、それだけで自らの魔力の膨らませ方を思い出した。どんどんと膨れ上がる魔力は、マオの体を浮かせ、彼に竜としての本能を思い出させる。

 そして今、マオは笑美の腕の中で気持ちよさそうに咆哮を上げていた。


「可愛い自慢の娘。今度は必ず、笑って帰ってくるように」

 父が手に持っていた紙を手渡した。笑美はしっかりとそれを受け取る。呆けた冬馬の横で、母がにこっと笑った。

「いってらしゃい。お墓参りはちゃんとしてくるのよ」


「行ってきます! パパ、ママ! それと、とう――」


 ま。


 笑美とマオは、光に飲み込まれた。





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