22 : 前略、魔王へ
あ、烏。
笑美は飛んでいく黒い影を見てそう思った。青い空に、一羽の烏が飛んでいたのだ。
「ボケッとすんな! サイード、嬢ちゃん守ってろ!」
笑美が目で追っていた物体は、コヨルだった。べしゃと、鳴ってはならない音がして宙を飛んでいたコヨルは地面に叩きつけられる。
『コヨル――コヨル?』
「旅立つ鳥と白い夢!」
笑美を抱きかかえたサイードはすかさず冬馬に号令をかけた。冬馬は瞬時に魔法を展開させる。笑美を自分の背後に隠したサイードは、自らも陣を発動した。
「ちくしょう、弱え! だめだ、魔力が足りない!」
「聖女様、“健康祈願水”を!」
笑美はサイードの背に隠れ、必死に両手を合わせて祈った。混乱している場合じゃない。神様仏様ママパパ女神様。どうか皆を見守って。
「ヴィダル、ソレが――魔王です!」
サイードが探索したのか、ヴィダルに大きな声で伝える。
ヴィダルとソフィアの目の前には、サイードが魔王と呼んだものがいた。ソフィアは片手剣を腰に戻すと、予備の槍を取り出して駆ける。ヴィダルは大剣を振り回し、前衛二人は敵を引きつける。そのヴィダルとソフィアに向かって、サイードが守護の魔法を幾重にも投げた。
「弱点は! 攻撃が利かねえ!」
「探索できません!」
「役立たずの若白髪!」
ヴィダルは大きな声でサイードに返事をすると、体を捻って魔物の皮膚を削いだ。しかし完全に入ったはずの攻撃の手応えを、あまりにも感じられない。
傷はつくのに、魔物は一滴の血すら流さない。魔物がピクリとも反応しないことに、ヴィダルは気付いていた。これは、効いていないのだ。
突然現れた魔王に、全員慌ただしく対応した。戦場で一時であっても気を抜いた、彼らの落ち度であった。
そんな中、笑美はただただ唖然とするしかない。目を極限まで見開いて、微動だに擦ら出来ずにいた。
そんな、魔王が、こんなに大きな竜なんて。
笑美は羽ばたく竜を、呆然と見つめた。黒い、黒い。真っ黒な竜を。
トカゲの体に歪な禍々しい角。広げた翼のせいで、音を立てて城が崩れる。
魔王が体を起こして咆哮すると、空が割れた。竜の鳴き声ひとつで、全ての雲が消え散ったのだ。
崩れ落ちる瓦礫を避けながら、ヴィダルは必死に食らいつき攻撃を繰り出す――が、やはり攻撃が効いていない。切り裂かれた皮膚は瞬時に再生していく。
ソフィアはコヨルを回収し、冬馬は足場の確保に必死だった。
サイードは笑美を抱きかかえ、軽い足取りで瓦礫の上を歩いていく。平らな場所を見つけると、そこに防御の陣を展開した。
魔王は大きな大きな翼で宙を飛んでいる。太い尻尾は地面にこすれるほど長い。
これ、勝てるんだろうか。
よぎった不安に目を伏せた。そんなこと、考えちゃいけない。笑美は必死に健康を祈る。
『サイード、たぶん出来た!』
笑美がコップをスカートのポケットから取り出しながら叫んだ。先ほど笑美の壺にコヨルが水を入れた際に渡されていたものだった。
傍にいるサイードの服を引っ張れば、彼は瞬時に反応する。
「勇者様! こちらへ!」
サイードの声に引っ張られて、冬馬が必死に瓦礫の上を走ってきた。
「さんきゅ!」
冬馬はそう言うやいなや、笑美の手からコップを奪う。笑美が壺を傾けて注いでいた水を一気に飲み干す。
口から零れた水を乱暴に手で拭った冬馬は、拳を握って『ん!』と呟いた。
「いける!」
冬馬の声を聞き、笑美は慌ててもう一杯注ぐ。サイードに手渡すと、彼は噛みしめるように水を飲んだ。コップを手渡された笑美は、迷った末、動いて溢さないように半分だけコップに水を注いだ。
「ヴィダル! ソフィア! 5秒でいい、魔王を固めてください!」
宙を泳ぐ魔王は、一点に留まることを知らない。いくら的が大きく狙い撃ちしやすいと言えども、あれほど規則性なく飛ばれれば、魔法使い一年生の冬馬にはどうしようもなかった。
攻撃する時だけ振り下ろされる腕や尾に、ヴィダルたちが攻撃を繰り出す。しかし、魔王はやはり悲鳴ひとつ上げない。
ヴィダルとソフィアは大きな声でサイードに返事をした。
そしてもう一人。サイードの声に反応して、意識を失っていた烏がふらりと立ち上がる。
どこからか取り出した短剣を、コヨルは持てるだけ手に握った。口にも一本咥え、ふらつく足で地を蹴る。コヨルの左手は、あってはならぬ方向に曲がっていた。
動き出したコヨルに気付いたサイードは、大急ぎで回復魔法を飛ばす。流れていた血はいくらか止まっただろうが、折れた腕まで元に戻るはずがない。遠距離での回復魔法は、あくまでも一時しのぎのものでしかなかった。
今は満足に傷を治癒する時間すら存在しない。強大な悪が支配するこの空間では、彼の回すルーレットの上を、ただ転がるしかないのだ。
コヨルは空へ飛んだ。高く、高く。
魔王の体の上をびゅんびゅんと飛びながら、弱点を探るように短剣を突き刺していく。それを足場に、身の軽いコヨルは竜の尾を登って行った。
空高く飛び立つ魔王に、打つ手が無い。魔王は翼を自在に操り、攻撃時のみ降下した。ソフィアとヴィダルは、その瞬間を狙い共に魔王に斬り込む。サイードとの約束の5秒を作る手立てを必死に考えながら。
ソフィアとヴィダルは生唾を飲み込んだ。これ程手ごたえを感じない敵は、いまだかつて一度だって見えたことは無かった。
悪の権化とは、こういうものを言うのだろうか。空を舞う魔王の技を躱しながら、ソフィアは槍を振るった。繰り出す渾身の攻撃が空振りに終わるたびに、ソフィアは精神をすり減らしていく。
時間がない。
今すぐにでも倒さなければ、足場は魔王の気まぐれひとつで落ちるだろう。
翼のない人間にとっては、この魔王が足ひとつ鳴らすだけで脅威であった。一刻も早く魔王を仕留めなければならない。そのためには、勇者が魔王に魔法を打ち込まなくてはならない。
――5秒。
ソフィアは魔王を睨みつけた。
魔王が口を開いて背を反らす。魔王の背で攻撃を繰り広げていたコヨルが思わぬよろめきに地面に落ちる。折れた手を庇いながら、転がるように着地した。
何か大技の魔法だろうと、ヴィダルは魔王の背後に回った。戦場に不慣れな勇者ならいざ知れず、幾度も共に危機を乗り切っていたソフィアに指示など今更必要ないと、そう思っていた。
魔王に突撃していく、彼女の姿を見るまでは。
「ソフィア!」
ヴィダルの声が聞こえていないはずもないのに、ソフィアは振り向かなかった。ただ一心に魔王を見つめ、走っている。
魔王が炎を吐いた。灼熱の太陽を吐き出したかのように、地面が燃える。
ソフィアは身をくぐらせて魔王の懐に潜り込んでいた。大きな槍を地に突き立て、柄をバネにびゅんと大きく空を飛ぶ。
ミシリ。その身をもってソフィアを飛ばしてくれた相棒が折れる音を、彼女は確かに聞いていた。
コヨルと違い、重い鎧に身を包んでいるソフィアでは、垂直には走れない。
ソフィアは見事魔王に乗れた。そのまま、全身を使って駆け上る。コヨルが刺していたナイフを足場にする度に、ポキリポキリと刀身が折れた。
ソフィアが背中に携えていた弓を手に取る。一番の、ソフィアの得物だった。
「コヨル! 顔までの計測を!」
「目算! 12秒! 11、10、9……」
潰れた喉でコヨルが叫ぶ。ソフィアは弓を握りしめ、矢筒から矢を抜き取った。弦に矢をあてながら、魔王の腕を駆け上る。
「ソフィア! 引け!」
魔王が腕を振り回す。ソフィアは間一髪で魔王の顔まで到達していた。自分の顔に何かが乗っていることに気付いた魔王は、必死に首を振り追い払おうとする。
ソフィアは魔王の鼻づらにしがみついた。振り落とされまいと必死に掴む。
サイードと冬馬は魔法を練っている。ソフィアが顔に到達してから、彼女の意図を汲み魔法を打つための準備を始めたのだ。
魔王が口を開けた。
「ソフィア! 変われ! そんなことは団員の仕事じゃ無い! 俺がやる!!」
ヴィダルの声が聞こえた。よほど団長の仕事ではないだろうと、ソフィアは淡い笑みを浮かべる。
「止まり木が無理ならば、共に飛ぼうとここまで羽ばたいてきましたが……どうやら、私は。ここまでのようです」
ソフィアは最後に彼を振り返り、微笑んだ。ヴィダルがなくしていた、幸せのかたちだった。
――ご武運を。
ソフィアは魔王の口に潜り込む。呆然と成り行きを見守っていた笑美は、ソフィアのなそうとすることを察し、悲鳴を上げた。
舌の上に何かが乗っている感触に気付いた魔王が、気持ち悪そうにもがいた。もがいても取り除けないとわかったのか、魔王は背を仰け反らせる。
ソフィアは魔王の舌の上で弓を引いた。強く、強く。
「喰らえ魔王! さしものお前でも、喉に刺されば少しは利くだろう!!」
ソフィアの矢が飛ぶ。
魔王は、灼熱の太陽を吐き出した。
サイードと冬馬は、ソフィアが作りだした5秒を決して無駄にはしなかった。
不規則な魔王の動きを予測できるのは、魔王が攻撃する一時のみ。それも大技を放つ時に限られた。
ソフィアは自らが引き金となることで、予測不可能な大技を誘導した。こちらの思い通りの時間に魔王に炎を吐き出させようとしたのだ。それを瞬時に理解したサイードは、陣の展開にかかる時間を逆算し、コヨルのカウントダウンに合わせて魔法を練り始めた。
魔王が腹を突き出し炎を吐きだす瞬間、完全に無防備になった魔王に冬馬とサイードは全力の魔法を投げつけた。
冬馬とサイードが扱える、全属性の最大魔法。
通常攻撃が利かない相手は魔法攻撃に弱い。だからこその全種の最大火力だった。
それがまさか。
一撃も効かないとは夢にも思っていなかった。
数多の刃も、最強勇者の魔法も、魔王に苦痛一つ与えなかった。
世界の希望だった。暗雲を晴らす暴風だった。その勇者が今、柳を揺らすそよ風にもなれていないなどと、一体誰が予測できたであろうか。
――魔王。
それは、正しく。魔を統べる王のことであった。
「サイード、足場!! 氷10!」
ヴィダルの雄叫びを聞いたサイードは、呆然としていた意識を取り戻した。笑美が手に持っていたコップをひったくり水を飲むと、ヴィダルの足元に10メートルの氷の階段を作り出す。
魔王はこれ目がけて思いっきり爪を振りかざしてきた。足場は軽く、容易く崩れた。前衛のために足場を作らなかったのは、これが理由だった。砕けた氷はそのまま地面に降り注ぐ。簡単に、味方への武器と変わる。
氷の足場が崩されることを予想していたのか、途中まで階段を登っていたヴィダルは魔王の腕に進路を変更した。刀身が折れた不安定な足場を踏みつけながら、魔王の顔へと向かって行く。
幾度か落ちそうになりながらも、魔王の口まで到達すると、強く鼻づらを蹴った。
「吐き出せ、オオトカゲ!!」
サイードの挑戦を受けたのか、魔王は口を開いた。
ヴィダルは躊躇なく、魔王の口へ飛び込んだ。
果たしてそこに、目当てのものはあった。魔王の口内側面にソフィアが蹲っている。
両手で突き刺した矢を支えに炎の進路から身を退けたのだろう。炎はかろうじで当たらなかったものの、熱で鎧の表面が溶けている。
魔王の口が閉じないように大剣を突っ張り棒代わりに突き立てると、燃えるような熱さの鎧の留め具を外してソフィアの体を検分する。流石国一番の魔法使いが守護魔法をかけただけある。鎧はしっかりとソフィアの体を守り抜いていた。
ソフィアの肌に溶けた金属がついていないことを確認し、ヴィダルはソフィアの体を引っこ抜いた。
魔王は再び背を反らし、炎を喉の奥に作り始めている。失った意識の中ですら、壁に突き刺した矢を離さないソフィアを抱きかかえると、ヴィダルは魔王の口から飛び降りた。
業火が撒かれる。守備に集中していたサイードが、ヴィダルとソフィアを炎から守った。
二人が地面に叩きつけられる前に、サイードが風の塊を投げつける。ワンバウンドして、ソフィアとヴィダルが地面に着地する。
ほっと息をつく暇はない。大暴れする魔王に蹴られないように、ヴィダルはソフィアを抱えて走り出した。
気絶していたソフィアはハッと目を覚ます。この旅の間に何とか自分で纏められるようになっていた髪が、はらりと宙に舞う。
魔王の口内へ矢を放ち、やはり手ごたえのなさを感じたソフィアは潔く魔王の口内側面へと逃げた。一世一代の賭けであった。己の強運を信じていたわけではない。上司の責任感を信じていたわけでもない。ただ、あの時のソフィアに出来る事を必死にやっただけだ。
「ふざけんなソフィア!」
ソフィアの目が覚めた事に気付いたヴィダルが、ポンとソフィアを放り投げた。いささか体がぐらついたが、ソフィアは臨戦態勢を取るために踏ん張った。構えようとして、鎧も得物もないことに絶望したソフィアに、ヴィダルが腰の剣とマントを投げて寄越す。
「何がご武運だ! あそこは、愛してる、だろうが!」
馬鹿野郎と言いながら、ヴィダルは笑った。マントを肩に巻き付けながら、ソフィアがくしゃりと顔を歪めた。
「今回も、真に取るな、と?」
「馬鹿野郎、どうぞ真に取ってください」
こんなにも絶望的な世界でさえ真夏のように輝くのだなと、ソフィアはこんな時なのに涙が出てきそうだった。
「お前の作った5秒を活かせなくて悪かったな。」
それでも膝を折るな。この誇りの後ろには、守るべきものがいる。
ヴィダルの言葉に、ソフィアはこくりと頷いた。もう、身を守る鎧も敵を貫く武器もない。それでもソフィアは胸に咲く青い誇りに誓っていた。
ヴィダルの片手剣を借りると、ひゅんと振った。鎧もない騎士には、不相応なほど素晴らしい剣だった。
「行くぞ」
「はいっ」
前略、魔王殿。
我ら青騎士団。この身が果てるまで、お相手する。




