20 : 烏
笑美が夢うつつの扉を開くと、既に夜が明けていた。いつの間にか眠ってしまっていたのだと笑美が気づいたのは、体にかけられた布を見てからだった。
窓の隙間から覗くやわらかい朝の光に驚いて笑美は起き上がる。笑美の動きに反応して、隣からスッと影が伸びた。
「どこへ」
笑美の腰にへばりついたのはコヨルだった。キャラバンの中を見渡すが、コヨル以外は誰もいない。あのまま置いて行かれたのだと、考え付かないほど笑美は愚かではなかった。
サイードは、追ってきてくれなかったのか。
あの後、サイードが追いかけて来てくれると笑美は信じていた。期待していた。しかしそれは、笑美が一方的に自覚した恋心が見せた、淡い幻でしかなかった。
冷たい人だって、わかってたはずなのに。どうしても期待を止められないのは、彼が見せる気まぐれの優しさのせいだろうか。
しかし笑美には、自覚したばかりの恋に打ちひしがれる時間も余裕も今はなかった。
笑美は散乱した荷物の中からスケッチブックを探し出すと、大慌てで文字を書き連ねた。
【皆 へ 行く したい】
「だめ。留守番」
コヨルはふるふると首を振ると散らかっている荷物を片付け始めた。笑美が起きるまでは物音をたてることは控えていたのだろう。
笑美は窓の外を見る。村で生活している住人達の朝は早いらしく、日が高くないこんな時間からもう動き出していた。キャラバンの外は、知らない人達ばかりだ。
ここを出て、一人で追いかけられるだろうか。コヨルを振り切って? 笑美は頭を抱えた。一人では心細いし、コヨルを置いて行くのも辛い。それに現実的に無理だろう。
笑美はそろりとコヨルを見た。コヨルは今までにないほどの無表情で笑美を見つめている。少しの違和感に気付いた笑美が、恐る恐る筆を取った。
【コヨル 私 嫌い?】
「とんでもない」
嫌いじゃない、とは言わなかった。好きだと読ませた時のように、いとけない表情も浮かばない。
嫌いなんて、とんでもない。そんな言葉じゃ、間に合わない。
……あぁ、コヨルは。
行きたかったのだ。
こんなところで壺の手入れをするんじゃなくて――本当は誰よりも、傍で。サイードを守りたかったのだ。
笑美は自分がどれほどコヨルにとって重荷になっているのか察し、スケッチブックに文字を連ねた。
【行く よい 私 残る】
見捨てていいのだと安直に言えば、コヨルは首を横に振った。
「だめ。守るのが、主命」
コヨルが唇を一文字に引き結ぶ。
【それならば 一緒 行く する 私 を 守る できる】
コヨルはぐっと唇を噛んだ。
【絶対 役に立つ コヨル。 今まで 沢山 いっぱい 頑張る した。 それならば ここ 私 と 残る いや】
「嫌だ」
笑美の書く文字を追っていたコヨルが、我慢しきれないと口を開いた。笑美はその言葉に、ショックを受けるよりもほっとする。コヨルが初めて、年下らしい発言をしたからだ。
【一緒 行く する。 私 も 役に立つ がんばる。 大丈夫。 私 コヨル できる】
怒られる時は、一緒に怒られよう。ね? と首を傾げてコヨルの手を握る笑美に、コヨルはやはり首を横に振った。
「主様の期待を裏切れない」
『そのサイードが死んだら、どうすんの!!』
笑美の叫びは聞こえなかっただろう。しかし握る手からコヨルにその振動は伝わった。コヨルは、何か心を叫ばれたのだと気づいた。
『サイードが死んだら、命令もくそもないじゃん! なら、助けに行ってさぁ、あとでいっぱい怒られようよ!』
笑美が何か強く衝突してくることがわかったコヨルはじっと笑美を見つめた。観察は、諜報員として働くコヨルの得意とするところだったからだ。
――死ぬ気で守り抜きなさい。
笑美のいなくなったゲルの中で、サイードはコヨルにそう厳命した。
コヨルがサイードのものになったのはまだ目も明かぬ赤ん坊のころだった。
サイードの家系が治める領内で、コヨルは隠密の血筋に生まれた。兄も姉も父も母もそのまた父もその祖父も。全員がサイードの家系に仕えていた。その歴史は古く、初代勇者の代から切っても切れない仲であった。
隠密組織“烏”の忠誠心が高い理由のひとつに、生まれた時から主の傍にあったことが上げられる。コヨルは生まれた瞬間にサイードに仕えることが決まった。コヨルのおしめを替え、乳を用意するのは、乳母でもメイドでもなくサイードの役目だった。
サイードはコヨルの姉に指南を受けながら、コヨルを育てた。
コヨルが初めて立った時に初めて手を伸ばした人物が、サイードであったのも無理はない。サイードはコヨルを見守り、コヨルはサイードを慕った。
烏の生をも厭わない忠誠心の見返りは、相応の保証をはるかに凌ぐ、主家からの深い信頼であった。
世界を見る。
そう言ってサイードがひとつ年上の幼馴染ヴィダルと共に旅に出たのは、十四の時。武を誇り血を求め彷徨う子供二人に、世界の空っ風は厳しかった。
持ち前の負けん気と意固地さで世間に食らいついた二人は、何度も泥水を啜りながら明日へと闘志を燃やした。
舐めてかかる大人たちに一泡吹かせれるようになるころには、仲間と呼べる人間たちがちらほらと現れ始めていた。その中心たる人物が、ホセだ。
ホセはサイードとヴィダルに傭兵としての心を叩き込んだ。王族、貴族の身構えとは根本から違う心構えを、サイードもヴィダルも従順に受け入れた。それが、戦場での礼儀だったからだ。
順調に傭兵稼業に慣れてきていたサイードたちが旅に区切りをつけたのは、新しい雛が生まれるという一報を受け取った時だった。世間勉強にはちょうど良かったと、サイードとヴィダルは傭兵の鎧を脱ぎ捨てた。
ヴィダルは騎士団へ。サイードは屋敷へと戻った。袂を分かった二人であったが――6年後。コヨルが一人前に飛び立てるようになった時に、二人は再び志を同じくした。
王宮魔法使いへと転身したサイードは、数名の烏を連れて行った。侍女に扮する姉達に紛れ、コヨルもまた同行した。幼く見目いい烏は女として育てられる。女の方が、烏としての仕事を全うしやすいためである。コヨルも例に漏れず、次第に美しさを武器にすることを覚えていく。
師と家柄に恵まれたこともあり、サイードは順調に階段を駆け上った。しかしそれはサイードの野心からではないと、コヨルは知っていた。幼い頃から師事していた老師を支える、そのためだけに。地位になど何の興味もないサイードが王都へと上った。
老師はそこいらの樹木よりもよほど長生きしていた。常世の価値観で言うのなら、二世紀近い時を、内蔵する魔力により過ごしている。
二度目の魔王復活の際に、隊を率い見事討伐を果たした救世の王子。その救世の王子に命を救われたという老師は、サイードにとって幼い頃から憧れの対象であった。
救世の王子と所縁のある家に生まれたサイードは、年端もいかぬ小さな頃から王子の武勇伝を事あるごとに聞かされていた。何度も――何度も。
その救世の王子の弟子を師に持つ老師に、憧れを抱かぬはずがない。幼い頃のサイードは無邪気に老師を慕った。老師は自分に懐くサイードを再々訪れては、魔法の指導をつけて帰った。老師に勝手について来ていたヴィダルとサイードが仲良くなったのは、自然の理であった。
サイードにとってコヨルが子供なら、老師は父であった。コヨルにとってサイードは、多少ひねくれているものの、子を愛し、父を支えるよい主であった。
コヨルに聖女護衛を任せた時――サイードは初め、文字を盗めと命じた。傍近くに控え、信頼を得、文字を習得せよと。
禁書として王城に並ぶ書物には、なぜか常世言葉のものも存在する。その書物たちを解読する日を夢見たのだろう。そして、もし可能なら常世の原理を聞き出すことも、コヨルに与えられた使命だった。
それがいつからだろう。
毎日の報告で、文字の進捗を聞かれなくなったのは。笑美の体調、笑美の心情、笑美は今日何をしていたか。サイードの関心事はいつからか、笑美のことばかりになっていた。笑美に尋ねる必要はなかった。コヨルがすべて、把握していたのだから。
だからこそ、以前サイードが信頼を寄せていた人間が、魔王城付近に村を興しているという情報を手に入れた時、コヨルは堪らなくなった。
ホセが魔王に敗れたパーティーを集めて陣を張っているという噂を、コヨルは早くから手に入れていた。もちろん、烏であるコヨルに情報伝達の決定権はない。これが何を指すのか、この情報を手に入れたサイードがどう動くのか。コヨルは理解しながら、サイードに伝えた。そしてコヨルの懸念はその通りになった。
コヨルは、置いて行かれた。彼の烏として。最も信頼のおけるものとして。
烏は生涯、主と共に過ごす。主の傍を離れることは、命令以外ではありえない。主が変わることは、それ以上にありえない。死別するか、もしくは――
「そういう時は、『死ぬ気で』ではなく――『死んでも』と……言うのです」
優しい主。自分に愛と知恵と、力をくれた。
コヨルの独り言に首を傾げる笑美が、コヨルは憎くて堪らなかった。コヨルを死地から遠ざけるための道具に利用されるその“弱さ”が、憎くて堪らなかった。
出会ったばかりのころ、笑美の顔さえろくに見れなかったサイードを思い出す。話かけることすらできず、全てに人を介していた。そんなサイードの姿を、コヨルは初めて見たのだ。その姿が、あまりにも、いじらしく健気で。コヨルは初めて自分の意志で世話を焼いた。笑美が見ていると知りながら、サイードの髪に触れたあの時。コヨルは生まれて初めて、サイードに秘密を作った。
「烏は生まれた瞬間に親を決める。その親から離れず、一生を共に過ごす。私の親は、サイード・シャル・レーンクヴィスト様ただお一人。主様が、全て。何よりも、尊く、掛け替えのない。ただひとつの、絶対だ」
コヨルの放つ勢いに笑美はコクリと生唾を飲んだ。その目は熱く燃えている。
サイードに報告する時と、同じ目、同じ声。コヨルは煮え湯を自ら飲む。
「私は、同朋の中で唯一共に進む名誉を賜った。私は、主様の傍で盾になる名誉を賜った。私は、私は――」
コヨルが言葉を詰まらせて俯いた。
笑美よりも小さな肩が、小刻みに震えている。
烏は生涯、主と共に過ごす。主の傍を離れることは、命令以外ではありえない。主が変わることは、それ以上にありえない。死別するか、もしくは――
主と同等の場に立つものを、主が選んだ時のみ。
「――追いかけたい」
ポツリと零れたコヨルの声を聞くと、笑美はぎゅっと抱きしめた。何度も顔に力を入れて、涙を押し込める。
『よし、行こう!』
ぎゅっと抱き付く笑美に、コヨルも一度しがみ付いた。そして笑美とコヨルは手を取ってキャラバンから飛び出した。
――が。
「おーっとすまんな嬢ちゃん達。行かしてやりてぇのは山々だがなぁ――あいつの気持ちもわからんでもない。ここを通すわけにゃぁいかねーのよ」
元気よく飛び出した笑美とコヨルの首根っこを掴んだホセが、カカカと笑う。笑美はたらりと冷や汗をかいた。
そうだ。この男を忘れていた。ぽっと出のモブキャラのくせに手ごわそうだと笑美はねめつける。
どうにか隙を探せないか。自分が暴れて少しでも隙が出来れば、コヨルがこの場を打開してくれるだろうか。もしくは、壺から水、噴射してみる?
どうやって脱出しようかと考える笑美の隣で、コヨルが口を開いた。
「気持ちがわかるとは――主人、お内儀が?」
「あぁ女房がいるよ。ここで貧相な腰を振らないよう、監視に駆けつけてくれた世界で一番愛しくもおっかねーカミさんだ」
コヨルはホセの言葉を聞くと一瞬黙った。瞬きする間に考えがまとまったのか、コヨルは慎重に口を開く。
「――まず第一に、私は烏だ。第二に、聖女様は癒しの力を持たれてらっしゃる。私たちは戦力になる」
「男と男の約束はな。そういう問題じゃあないんだよ」
「まぁ聞いてほしい。そして大事なことが。お気づきかと思われるが、聖女様はサイード様の片翼だ」
片翼? 聞き慣れぬ言葉に首を傾げる笑美とは違い、ホセは掛け合いを楽しむように片眉を上げた。
「烏なら、親の言葉に従わなきゃあならんなぁ」
「――キャラバンを自らの意志で出た私は、もう。サイード様の烏ですらない」
笑美は目を見開いた。命の覚悟はしたつもりでいた。土壇場の急ごしらえではあるが、魔王と対峙するとはどういうことか、わかったつもりでいた。それでも行きたいと、コヨルに駄々をこねた。
その結果が、コヨルに何よりもの誇りを捨てさせてしまうことだった。
「けれど私は、サイード様に。翼を届けたい。世界が滅ぶのなら、滅びに行くのが、馬鹿の流儀なのだろう」
コヨルの迸る言葉に、ホセはふぅんと顎を撫でた。
「なぁお嬢ちゃん。男を口説きに行くんだろう? なら、自分の言葉で立ったらどうだい」
笑美は自分が話しかけられたことに気付いた。今までコヨルに任せっきりで一言も話さない笑美を不甲斐なく思ったのだろう。
笑美は全くその通りだと、情けなくなった。
緩んだホセの手から地面に着地すると、笑美はふぅと息を吐いた。笑美は片手を胸に、片手を背にあて、しっかり深く腰を曲げた。
そして、旅の間、外で一度も脱いだことのないフードを脱いだ。誠意を伝える相手に顔も見せないままで、いいはずがないと笑美は思ったのだ。
露わになった壺に、飄々としていたホセの顔が驚きに染まる。
笑美は、しゃべれないのだと、身振りで伝えた。予想外なことだったが納得がいったのか、ホセは口角を上げた。簡単にここを通すつもりはないようだ。
「で? どう口説きに行くって?」
笑美はうーんと考えた。正直どうするかは、そんなに詳しく考えていなかった。それでもひとつ、したいと思っていたことがある。
権利を主張するのではなく、お願いしようと思ったのだ。何度も皆にアドバイスをもらったように。
笑美はメモ帳を取り出した。
【サイード お願い 行く する】
「お願い? どんな」
にやにやと人の悪い笑みを浮かべるホセに、笑美は唇を突き出した。
【サイード へ する 貴方 違う】
その言葉にホセは虚をつかれたように目を開いて、カカカと笑った。
「おうおうそうか。野暮なこと言っちまったなぁ。しかしなぁ、俺も男と男の約束だからなぁ」
コヨルは待っていたとばかりに、普段は無表情な顔をにやりと歪めた。
「主人、ご内儀と忘れられない夜を過ごしたくはないか?」
突飛な言葉に、ぴくりとホセの耳が動く。
「出会ったころのように、刺激的で情熱的に。愛で愛を啄みながら、くんずほぐれつ。ここを最後の地と決めているのなら、常世への最高の土産となるだろう」
顔面を真っ赤に染め、口をパクパクする笑美など知りもしないで、コヨルはすいっと片手を突き出した。
「ただし、5分以上空気に晒せば、効果は消える」
「関心しないねぇ。お嬢さんみたいに若い女の子が、そんなもんを持ってるなんて。けどなぁ、烏ご用達の媚薬ぐらいなら――」
「誰がその程度のものと言った」
コヨルはホセの言葉を遮って笑美を見た。笑美は、え。と固まる。
――国宝にすら勝るとも劣らない、素晴らしいお力です。聖水、毒薬、媚薬、万能薬、不老長寿の秘薬――
まさか、まさかまさかまさか。まさかそんな。
「この世で最も効力が保証された、価値ある媚薬だ。これなるはご聖女様常世にて女神様より賜った奇跡の雫。金銀財宝を積もうが、名誉を差し出そうが、世界を手中に収めた王ですら手に入れること叶わぬ幻の一品。賞味しなければ男の恥。そうは思わんか」
ホセはゴクリと生唾を飲んで笑美を見た。笑美の突拍子もない姿が、女神の遣いである聖女だという信憑性を増したのだろう。笑美は『ええええええええええ』と悲鳴を上げるが、聞き届けてくれるものは誰もいない。
コヨルはくるりとホセに背を向けると、笑美の横に膝をついた。しゃがみ込んで笑美の壺に声を吹き込む。
「よろしいな、とびっきりの、媚薬を」
よろしいはずがない!!
どうしよう、待って。私、処女だし! そういうこと、あんまりその、詳しくないんだけど!
そうは言いながらも現代の肌色産業は、初心な笑美すらある程度の想像をやってのけさせた。
壺から湯気が出るんじゃないかと思うほど恥ずかしい思いをしながら、豊富な知識であれやこれやと妄想した笑美の水は、十分な効果を発揮したのだろう。コップに注いだ水の匂いを嗅いだだけで、ホセは前かがみになった。
それを見た笑美は、乙女としてなにか大事なものを失った気分になった。いやそういえば、コヨルにもうナニなソレを露出狂よろしく見せられているんだった。忘れていたことを、忘れていた。
笑美はとほほと涙を拭う真似をした。
しっかりと手に媚薬を持ったホセは、勢いよく手を振る影を見送った。小さくなっていく影にはは、昨晩旅立った彼らに少しでも早く追いつけるようにと、村で一等元気のいい馬を付けてやった。きっとそう遠くないうちに、彼らに追いつけることだろう。
「――誇りを汚すな、だったよな」
サイードの示唆したこととは異なったが、聖女様の誇りは守られた。
どこぞの姫よりも高貴で気高く、それでいてどこにでもいる村娘と同じ誇りであった。
好いた男を守りたい。
ふたつの影が見えなくなると、ホセはコップの中の水を陽にかざす。透明な水が太陽の光で輝き、希望の色を映し出す。
「でもまぁ、捨てたりしないけどな、これ。それとこれたぁ別だ。男と男、お前にも譲れぬ時がいつか絶対きっと来る。なぁサイード」
世界の終わりまでの束の間の時間を楽しもうと、ホセはゲルへと戻った。
***
笑美はコヨルの体に紐でしっかりと固定されていた。荷物のように馬上で跳ねる笑美など一寸も気にするそぶりなく、コヨルは馬の手綱をならし、地を駆けた。
「大型の魔物に襲われたら、振り切るのに少し手荒な真似する」
そう予言していた通り、コヨルはしっかりとやってくれた。
爆薬で目くらましをしている間に岩崖を垂直に走ったり、馬を爆風に載せて魔物の上を飛び越えたり。源義経も真っ青だ。
乗馬が出来ないから、と言う理由以外のところで、笑美は馬から落ちそうになることもしばしばだった。
しかし幸いだったのが、村から魔王城までそうかからなかったことだ。
体感にして二時間ほど。乗馬し慣れてない笑美は、揺れすぎた内臓と、内股の筋肉。そして尾てい骨を始めとする尻が悲鳴を上げていた。
小柄とは言え、人を二人乗せて走った馬にコヨルが感謝を伝える。馬を涼しい場所へ移動させ、手綱を解く。好きにしていいのだと、コヨルが体をぽんぽんと叩いた。
今コヨルと笑美の前には、魔王城があった。禍々しい闇の霧に覆われた魔王城は――半壊していた。
『これ、魔王城――なんだよねぇ』
天守閣が崩壊した城は、瓦礫がモーセの十戒のように割れている。忌まわしく恐ろしい悪魔城は、さびれたテーマパークのお化け屋敷レベルまでその恐ろしさを格下げされていた。
コヨルは笑美を視線で促し魔王城に入ろうとする。笑美もそれに続く。
今日は今までにないほどぐっすり眠れたせいか、随分とお腹が空いている。そういえば朝ごはんどころか昨日の晩御飯も食べていない。最近は空腹で意識を失いようなことは無くなったが、倒れないように気を付けないと――
笑美がぴたりとその足を止めた。
足を止めた笑美が怖気づいたと思ったのか、コヨルは振り返って催促の視線を寄越す。笑美はちょっと待って、と両手を突き出すと懐から小さなメモを取り出して慌てて文字を書いた。
【私 寝た 横 。 座る ない】
そういえば今日、横になって寝ていたのではないか。笑美は自分が寝ていた姿勢を思い出した。クッションに頭を預け、胎児のように蹲って眠っていた。この世界に来てから、一度だってそんなポーズで眠ったことは無い。
なぜなら、壺から水がこぼれるからだ。
壺の中の水を確認するように頭を振る。水はちゃぽんとなって、少量ではあるがその存在を示した。
「横になって眠ってた」
なんで、どうやって、と詰め寄る笑美にコヨルは無表情で答える。
「壺は口が狭くなってる。布で角度を整えれば、そう難しいことじゃない」
淡々と告げたコヨルに、笑美は言葉を無くした。
だって――だってそれじゃあ。
『なんのために、私はサイードに抱かれて、毎晩眠っていたの……?』
沈黙から笑美が何を考えたのか、観察眼の鋭いコヨルは気づいたのだろう。くるりと体を反転し前を向くと、足を進める。
「会って確認されると、よろしい」
笑美はぎゅっとローブを握りしめて、一歩足を踏み出した。




