17 : おねだり上手
生理も明け、笑美に笑顔が戻ってきた。配給できなかった“酔いトメール水”と“健康祈願水”を渡していく。
笑美が生理の間中、慣れぬ馬車の揺れに、冬馬は本を読むどころか魔法の練習さえできなかった。笑美は少しでも自分の水が人の役に立っていることを感じる。ここに居場所があるような気がしてほっとした。
馬車が襲撃されてから既に2週間。その間、幾度か魔物と対峙した。馬を止めて応戦する魔物たちは、冬馬の魔法一撃で沈めることが難しくなってきていた。
冬馬はサイードに誘導されながら、魔法の展開を少しずつ覚えてきた。時にサイードが、時に冬馬が歌いながら、二人は魔法使いとして連携をとっていった。
また、前衛がいる戦い方の練習にもなった。もちろんなことながら、大掛かりな魔法は打てない。火力や軌道にも調整が必要だ。
冬馬はサイードの言葉をありがたく受け取り、目の前の魔物たちがかつて人間にとって良き隣人であった事実に目を瞑る。ひたすらに、RPG攻略のように、シューティングゲームのように、敵を狩っていった。
皆が敵を討伐している間、笑美に出来る事と言えば祈ることぐらいだ。両手を合わせて、聖女らしく天の女神様にお祈り申し上げる。どうかどうか、皆無事で帰ってきますように――
物の数分で帰って来ていた帰還が、少しずつその時間を増やして行く。魔王城がそれほど、近づいてきている証拠だとサイードが言った。
コヨルが笑美の壺に食事を詰めていく。生理痛を耐え抜いたご褒美にと、特大の肉を買って来てくれた。
せっかくこんなに大きいブロックなんだからと、笑美はあるものでどうにかローストビーフもどきを作った。味見をした冬馬が叫んで喜んだところを見ると、上出来だったのだろう。柔らかくぷりぷりのお肉は、ぜひ噛んで味わいたい一品となっていた。
『いいなぁーローストビーフ。食べたーい。お腹空いた。お腹空いたー早く食べたい。お腹空いたー』
笑美は既に何枚目かわからなくなるほど、肉を包丁で切り分けていた。大きな肉の塊は、スーパーの総菜売り場でパック988円で売られているローストビーフうん十個分となっている。
肉を切るのにも力が必要だ。ソフィアの名乗り出に、ありがたく交代する。
ローストビーフを切り分けているソフィアたちの後ろからコヨルが現れた。どうやら森に山菜を取りに行っていたらしい。
『あ、おかえりコヨ……』
ル、と続けられなかったのは、笑美が噴き出したからだ。冬馬もコヨルを見た途端大笑いし始めた。
コヨルがちょこんときのこを持って立っていた。と言っても、ただのきのこではない。コヨルの背丈ほども大きなおばけきのこであった。
ここらの名産きのこらしい。なんでも、伝説の魔法使いが放浪している時に魔法をかけて巨大化させたのが始まりだという。
小柄なコヨルが持つと、コヨルの身長ほどもある巨大きのこに笑美は笑った。何にしよう、炒めものと、スープにも突っ込むとして、あと天ぷら……だめだ天ぷら油なんてさすがにない。
「なぁそれ貸して」
「ん」
冬馬はコヨルからきのこをもぎとるとウキウキとした顔で笑美に駆け寄ってきた。どうしたの、と聞く間もなく、冬馬が笑美の頭にきのこを挿しこんだ。
なんと品のない一輪挿しだろうか。唖然としている笑美に、冬馬が悲鳴を上げた。頭からきのこが刺さってる人間がそんなに面白いかそうか。今日の昼食、冬馬はローストビーフ抜きだ! と、異議あり! のポーズを取った笑美の前で、冬馬が絶句していた。
そのあまりの表情に笑美はこてんと首を傾げた。気づけば周りのみんなも驚きに目を見開いて笑美を見つめている。
『どうしたの』
一番意思疎通が出来るコヨルの裾をちょんちょんと引くと、無表情なままではあるが珍しく声に動揺を滲ませたコヨルが笑美の頭上を見つめながら呟いた。
「……消えた」
『……ん?』
消えた、って。冬馬が挿したんでしょ? と笑美はきのこを触ろうと手を伸ばす。しかしどれだけ手を動かしても、きのこに触れることはなかった。え、え? と笑美は顔を蒼白させる。もちろん、壺の色は白いままだ。
巨大きのこは、コヨルと同じほどの大きさだった。柄は細くとも傘は広かったはずだ。そのきのこが一瞬にして消えたとは笑美は到底考えられなかった。
「つっこんだ先から消えて行って、ひゅんって。掃除機みたいに……」
掃除機は穴より大きなものを吸いません。冬馬に心で突っ込むと、笑美は自分の壺に触れた。
「……壺姫、お前。腹空いてたんだな……」
確かに、先ほどの空腹感が和らいでいる。
しかし、だからと言って。あんな巨大なきのこを瞬時に消化する乙女がいてもいいというのか。いやよくない。断じてよくない。お腹が空いているにも程がある。笑美はどんどん人外になっていく自分に泣きそうだった。
少し前までは、パンや果実を入れてから消化するまで、数分の時差があった。それがどういうことだ。消化器官が発達したとでも言うのだろうか。壺に入れた端から飲み込んでいく。今など、まだ壺に入っていもいなかったのに吸い込んで吸収したというではないか。これからのコヨルの配給時間が節約できそうでなによりですねと笑美は乾いた笑みを浮かべた。
「きのこを飲み込んでしまって離さない壺かぁ。中々の名器だな嬢ちゃん」
『え、そうかな? 本当? いい仕事してますねぇ~とか言われちゃう?』
感慨深げに壺を見つめるヴィダルに、笑美はぱっと笑顔を向けた。その後ろでサイードとソフィアが殺気を放った。
「聖女様のお手を煩わせるまでもありません。先に切り離しておきましょう」
「さぁ、遠慮せず。介錯ならお任せください」
「申し訳ございませんでした」
深々と頭を下げたヴィダルに、笑美はポカンと口を開く。その笑美の肩を叩いた冬馬が、気にするなというようにふるふると首を横に振った。
***
【“え、じゃああのゲーム新作出てたの?”】
「2月に出てたんじゃないっけか?」
【“その時期忙しかったからなぁ……えーそうなんだぁ知らなかった。帰ったら買おー”】
冬馬と日本語で話す時間は、笑美にとって一種安らぎの時だった。膝にいるコヨルを撫でながら、笑美はスケッチブックに文字を連ねていく。
笑美が正座した膝にコヨルが寝そべっているのだ。ガタガタガタと振動が響く馬車の中で、行李に置かれたスケッチブックに片手で文字を書くのは少しばかり大変ではあったが、コヨルの可愛さに笑美は全てを許容した。
「げーむ?」
いつもは二人の会話に入り込まないコヨルが興味を示したことが嬉しくて、笑美はうんうんと頷く。
「ゲームも機械だよ。ほら、前に説明しただろ。電気で動く仕掛けの」
「キカイ、デンキ。覚えている」
『“そういえば冬馬ってこっちに何持って来たの?”』
あちらに置いてきたままの荷物が盗まれていないといいなと思いながら、笑美はスケッチブックに文字を書いていった。
「何っつっても……始業式だったからなあ。通知表だろ、雑巾と上靴に……別にあってもどうにもならんっつーか……まぁサイードはなんか喜んでたけど……」
なんかもっとこう、文明の利器的なもの入ってれば異世界チートできたのになぁと、チート勇者様がのたまった。
自分でもその事に気付いたのか、冬馬は慌ててただ飯食いにフォローをする。
「いやいやもちろん俺助かってますけどね?! この魔力!」
その名の通り穀潰しは、しらけた顔で冬馬を見つめた。
「郷里が恋しいかな」
ソフィアの声に、冬馬と笑美は素直に頷いた。異世界ファンタジーも素敵だが、やはり日本の生まれ育ってきた文化や生活は捨てられそうにない。笑美にとっては、いい加減横になってふかふかのお布団で寝たいという切実な悩みもあるせいかもしれない。
「子供には過酷な旅。さぞや耐え難いでしょう」
書類に目を落としながらサイードが会話に加わった。子供と侮られて憐憫をかけられても、冬馬はもう台風を発生したりしなくなっていた。
そのかわり、笑美の心に吹雪が吹き荒む。やないーかた。と撫でていたコヨルの頭から髪を一掬い手に取ると、編み込みを始めようと毛束を分けた。
「コヨル。これを王城へ。今朝の返事です」
サイードは視線も動かさずに書類を手にすると、コヨルへ渡した。音もなくコヨルが立ち上がる。笑美の手から漆黒の艶やかな髪がすり抜けていく。
コヨルが御者席へと移った。何も荷物を持っていないコヨルなら、馬車と御者席を繋ぐ小さな窓からでも行き来が可能なのだ。
烏を集め足に手紙をくくっているコヨルの後ろ姿を見ていた笑美に、ソフィアが声をかけた。
「そういえばこの近くには温泉が湧くこともあるんだよ。ほらあそこ、煙が見えるだろう?」
ソフィアが指さす方向を笑美は超速急で見やった。温泉、温泉?! 笑美の目が輝く。
「温泉……」
ソフィアの指し示す方向を見ていたのは笑美だけではなかった。冬馬もまた、目を爛々と輝かせて煙を見つめている。
「当然魔物は出没するけど…寄るかい?」
笑美は考えた。三秒真剣に考えた。そして決める。
笑美はスケッチブックに異世界文字を書くと、サイードの前に正座した。そしてスケッチブックを広げ、水が零れない程度にサイードに頭を下げる。
【お願い 入りたい 水 頑張る なんでも 作る】
お願い、と両手を合わせる笑美を見下ろし、サイードはため息をついた。
「魔物はどうなさるおつもりで」
それはもう、守ってもらうしかない。笑美に魔物を退ける力などないことはサイードだってわかっているだろう。笑美はサイードを見上げた。サイードは涼しい顔で笑美を見下ろしている。
『非常に申し訳ございませんが、守っていただく他ありません……』
「聖女様?」
笑美にサイードが返事を催促した。笑美に差し出せるものは水ぐらいしかない。その水だって、今サイードの髪を結んでいる組み紐分、借金しているのだ。
温泉、入りたい。この世界に来て、温泉どころかお風呂にだって入っていない。せいぜい体を拭き上げる程度だ。男である冬馬は冷たい川で行水ぐらいはしているが、風呂好きの日本人にしてみれば到底満足いくものではない。
どうしていいのか困り果て、笑美はサイードをじっと見つめた。サイードも笑美をじっと見つめ返している。
笑美の後ろで、ソフィアと冬馬が応援している。無言な上に身振り手振りこそ小さいものの、笑美にはその熱がダイレクトに伝わっていた。
壺の笑美と違いきちんと顔がある皆はさぞや湯を使いたいだろう。水や風の魔法でどうにか髪を洗っているらしいが、ソフィアやコヨルのように髪の長い者になると、スッキリ爽快とはいかないのかもしれない。
その時、スッと笑美の背中に体温を感じた。コヨルが背にくっついてきたのだ。サイードはその事に気付いていないらしい。笑美の耳元に声が入り込んでくる。
「二歩近づいたら首を傾げて。両手は合わせたまま」
笑美は慌ててコヨルに言われた通りに行動した。二歩も近づいたらサイードにぶつかってしまう距離だ。しかしサイードは膝立ちでにじり寄っていく笑美から逃げようともせず、また振り払いもしない。
いつも眠るときの格好とは違い、真正面から向き合う気恥ずかしさに笑美は顔を俯かせた。目だけでサイードを見上げると、サイードはまだ笑美を見ていた。そんなに真剣に見られても、私のジョーカーはもう見せてしまっている。水以外でサイードの心を動かせるものなんて持っていないと嘆く笑美は、やけっぱちに首を傾げた。
『お願い、守って』
手を合わせたまま、首を傾げるとサイードの肩にこてんと頭が乗った。ちゃぷんと鳴った水がサイードの肩を濡らしてしまったかもしれない。
どうしよう、やばいと恐れ戦く笑美にサイードは口を開いた。
「コヨル、ヴィダルに合図を」
コヨルはわかっていたとばかりにすっと立ち上がった。
***
『おおお温泉だあああああ』
「やべええ風呂だ、風呂だーー!!」
山々に囲まれた小川の端にひっそりと温泉は湧いていた。石や泥から蒸気が沸き、懐かしい硫黄のにおいを鼻が嗅ぎ取った。
ひゃほーー! 笑美は両手を上げて走った。冬馬もそれに続く。
今から入浴するのは、笑美、冬馬、ソフィアだった。その全員がその身をローブで包んでいる。
ローブを羽織っているとはいえ、その下は裸だ。警護と時間の都合により半数ずつの入浴となった。女男で別れるには戦力差に不安が残ったため、混浴とあいなったのだ。
セクハラ大王は最も遠くの場所へ配置され、コヨルとサイードが近辺の警備に当たった。
下が裸なことは多少心許ないこともないが、水着でプールに慣れた冬馬と笑美にはそれほど大打撃ではない。大丈夫、問題ないと、大変申し訳なさそうに提案してきたソフィアに笑美と冬馬は頷いた。
そんなことよりも、風呂である。それも温泉である。さぁ! いざ! 飛び込もうとしている笑美を冬馬が押し止めた。
「待て壺姫隊員! まずはかけ湯といこうではないか!」
『へい隊長! ラジャー!』
テンションマックスである。ビシッと敬礼する笑美にソフィアが慌ててローブを押さえる。
「じゃあ温度検査だ!」
『サーイエッサー!』
冬馬がハイテンションで温泉に手を突っ込んだ。その瞬間、真っ赤になった手が抜き出される。
「あっちー!! 熱い! 熱い!!」
と叫びながらも冬馬は笑っていた。完全にネジが吹っ飛んでいる。その様を見て笑美も大笑いしている。
『あはは!! 熱い、熱い! 熱いお湯! 温泉! 温泉!』
おーんせん、おーんせん! 歌う笑美と冬馬に、警護のために岩場の裏に立っていたサイードからつららが飛んできた。
間一髪避けると、つららは温泉につきささった。じゅわじゅわと音を立てて溶けるつららに冷や汗を流しながら、冬馬は再び手をお湯に突っ込んだ。
「て、適温です」
「それはようございました。時間はそうありませんが、どうぞお楽しみください」
サイードが目を細めてそう言った。笑美と冬馬は静かに温泉に沈んだ。
いいお湯であった。
久々の湯に、そして開放感に、笑美と冬馬は完全に参っていた。
気持ちいい。酷使されていた筋肉や、狭い馬車の中で苛め抜かれた体が喜んでいるのがまざまざとわかる。
勇者は堪え切れなかった。
「あぁ青ぉい~~お空ーとぉ温泉にぃ~っ」
突然歌いだした冬馬に、笑美は驚かなかった。
笑美も冬馬も日本人。温泉に入れば歌いたくなることもあろう。
――パンパン♪
聞いたこともない歌だが、手拍子で笑美も合の手を入れる。
「富士さぁんー見守ぉる~大宇ー宙ぅう~っ」
――パンパン♪
気をよくしたのか、冬馬はノリノリだ。
ちなみにここには、日本の銭湯にはおなじみの富士山もなければ、もちろんだが大宇宙もない。完全にノリと勢いだけの歌のようだ。
「いざっ!」
『いざ!』
――ザバッ
「出陣っ!」
『出陣!』
――ビシッ
「今ゆーけー温泉ー討伐隊~♪」
勢いづく冬馬に合わせ、笑美も敬礼したり、空を指さす。
ちなみに、討伐対象は温泉ではなく、魔王である。
「魔王ぉをぉぉおぉ目指しぃてぇえええ~~どんぶらこぉ~っ」
替え歌の主勇者も、本来の標的を思い出したらしいことがうかがえる。
ソフィアが引いているが空気で伝わる。しかし笑美と冬馬は止まらない。
「進めっ!」
冬馬がザバリと音を立てて立ち上がった。
『進め!』
笑美も湯から立ち上がる。
「こぉおの身ぃいいのかあああぎりぃいりにいぃいいいいいいいっ」
――ザザザザンッッ
冬馬の最後の大絶叫共に 再びつららが降ってきた。今度は湯ではない場所に刺さっているが、軌道は完全に二人を狙っている。
笑美と冬馬はおとなしく肩まで浸かった。
満喫した冬馬が一足先に上がり、着替え終えたと報告に来た。ソフィアと笑美も湯から上がる。男女で別れたのは、着替える場所がキャラバンしかなかったからだ。濡れたローブのままキャラバンに上がる。タオルで湯を拭きとり着替えると全てを乾燥させてもらうために一か所に固めて笑美とソフィアはキャラバンを出た。
「おう、出たか。じゃあおっさん呼んでくるな」
「では私はコヨルを」
『じゃあサイード呼んでくるね』
三方向に別れて守備してくれている皆の元にそれぞれが散った。笑美はサイードを探し岩場を登る。
見慣れた後姿を目にすると声をかけようと笑美は手を上げた。しかし、そこで勢いは止まる。
サイードの影にコヨルがいたのだ。二人は密着して何か会話をしている。その内容までは、さすがに笑美は聞き取れない。何を話しているのだろう。笑美がそう思っていた時に、コヨルの手がサイードの髪に伸びた。
あ、髪。触らせるんだ。笑美は何故か胸に痛みを感じる。何故か苦しくなり始めた喉元に手を当てて首を傾げる笑美の目に、信じられないものが写った。
髪に触れたコヨルが、背伸びをする。
――それは一瞬だった。
背伸びをしたコヨルが何をしたのかは、サイードの背が隠していたため笑美には見えなかった。笑美の想像したことをしたのか、していないのか。サイードの背は語ってくれない。
サイードの背から出てきたコヨルが、彼に何かを告げる。サイードは笑美を振り返り眉を上げる。
「どうしました」
どうしました、も、こうしました、も。ない。
サイードが珍しく自分から近づいてきた。身動きしない笑美を、よほど不審に思ったのかもしれない。
笑美のいる場所まで裾を引きずったローブで登ろうとするので、笑美が下りてやる。コヨルはぺこりと頭を下げて、バッタのようにぴょんぴょんと跳ねて行ってしまった。
俯きがちな笑美の顔をサイードが覗きこむ。笑美はサイードからは見えていないと知りながらも、目線を合わせられずに目を泳がせた。
「何故ここまで?」
ここなら誰も来ないと思っていたから、コヨルと二人きりでいたのか。笑美は口をぐっと噛みしめた。
『聖女に女手が必要だとか、嘘だったんじゃん』
笑美自身は必要とされてなくても、聖女としては意味を持たれていると思っていた。丁重に扱われていると思っていた。その根底を覆され、笑美は低く唸る。
なんだ。旅に彼女を連れてきたかっただけか。笑美は少なからずサイードに失望していた。そう、失望しているのだ。この胸のつっかえと喪失感は、サイードに寄せていた信頼を裏切られたと感じているのだと、笑美は結論づけた。
それ以外には、何もない。
『何、逢引? いいご身分だね。皆必死に頑張ってるのにさ、サイードにとってはピクニックと一緒?』
「聖女様?」
『答えてよ。なんで、声が聞こえないの!』
笑美はなおもサイードを詰った。自分でさえ、話した言葉は覚えてはいても、耳に届くことがない。そんな声がサイードに聞こえているはずがないとわかっているのに、次から次に口を告いだ。嫌な感情がふつふつと湧き起って、どうしても自分を止められそうにない。
笑美はサイードへ何の反応も返せなかった。向こうへ行こう。温泉空いたよ。皆が待ってる。どれも何も、身振りさえする気になれない。
「呼びに来られたのですね。わざわざご足労をおかけして申し訳ございません。コヨルが伝えに来たので問題ありませんよ」
『あぁ、そう。それも、コヨルが。私はお邪魔しちゃったのかな。随分おもてになるんですね。毎晩私なんかじゃなくて、コヨルを抱いて寝たかったんじゃないの。ごめんね私なんかで』
反応しない笑美に焦れたのか、サイードが笑美の手を引いた。笑美はサイードの胸にすっぽりと収まる。嗅ぎ慣れた匂いに、いつもの場所に、笑美は体に入っていた力を抜いた。
『馬鹿やろぉ……見せつけるなら、よそでやれぇ』
ポロリと零れた涙を感じて笑美はサイードの胸に顔を埋めた。見えないとは分かっているのに、顔を隠したかった。
『失望させないで。サイードはちゃんとしてて。私がこの世界を救いたいって思う人のままでいて。水を濁らせないで』
肩の震えから笑美が泣いていることにサイードも気づいたのだろう。震える背にそっと手を当てる。まるであやすようなその行為に、笑美は更に涙腺を緩ませた。
「可憐な花には毒があり、いとけない花は簡単に見る者を酔わす」
涙を滲ませた眦に触れるように壺に手を添えられた。驚きに目を見開く笑美の目とサイードの目が合う。まるで今すぐ噛みついてきそうなほど獰猛な瞳のきらめきが、笑美の頭を一瞬にして冷静にさせた。
「そうは思いませんか」
見えていないはずの笑美の目の位置を知っているかのように、サイードは笑美の瞳を覗き込みながらそう言った。サイードの掠れ声に、背筋が泡立つ。狂暴な獣が今、自分の首筋に唇を寄せ、牙を突き立てているような感覚に侵された。笑美はよくわからないまま必死に頷く。その様子を見てサイードが舌打ちをする。
「無知に対して私は常に寛容でした。ですが今、それがこんなにも腹立たしい」
手を取られた。
サイードの手は、不自然なほどに冷えていた。
「行きましょう。花の毒に酩酊する前に」
サイードの手は力強く、笑美が振り払うことは出来なかった。笑美は引っ張られるがまま岩場を登り、皆の元へと帰っていった。
***
サイード、ヴィダル、コヨルが湯につかっている間、警備をするのは笑美たちの番だった。とは言え笑美は戦力になりはしない。冬馬と共に、キャラバンからそう遠くない場所に配置されていた。
ガサ、と茂みが揺れて笑美と冬馬が振り返る。そこには濡れたローブのまま、髪も拭かずに歩いてきたコヨルがいた。
『コヨル、どうしたの』
美少女の濡れたローブ姿に固まる冬馬を横目に、笑美はコヨルに駆け寄った。先ほど微妙な感情を抱いたと言っても、コヨルは大事な旅の仲間だ。さっきのもきっと、何か私の勘違いに違いない。笑美はコヨルのローブについていた葉っぱをしゃがんで取り除く。
「壺姫」
『ん?』
と顔を上げた瞬間、コヨルがローブを広げた。笑美の目の前に、プランと見てはいけないものがぶら下っている。
もう一度言う。ぶら下っている。
笑美は声を上げることも出来ずにその場で固まった。後ろで微動だに出来ずにいた冬馬があんぐりと口を開けている。
「さっきのは、主様の髪の葉っぱ、取っただけ」
じゃあね。
コヨルはそれだけを言うと、用は済んだとばかりに再び茂みの奥に帰っていった。
使い物にならなくなった冬馬と笑美を残して。
一部、変更しております。物語に支障はございません。




