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16 : 知りたくなかった

 旅立つときは、鳥が教えてくれた

 青い空は 今はなく 漆黒の闇に包まれる

 我らの求めに応えたのは 六人の英雄たち

 舞い降りた聖女 白い光が 祈りの証

 指さす先に 光が見える

 闇の中を突き進む 一筋の淡い光



 幾夜も越えた 試練の時 今こそすべてが 終わる時

 強大な闇は 深く英雄達を傷つけた 

 何度倒れても 起き上がる 守る者達の為 待っている者の為

 白い光 どこまでも広がる闇を 切り裂いた

 風に乗り どこまでもどこまでも響くその声は 春の訪れ

 永い永い 冬を越えた

 青い空が 傷を負い倒れた英雄たちを優しく癒す

 苦しみも 痛みも 耐えられぬと感じた寒さも

 全ては今 終わりを告げた 奪われた安寧は 今 この手に戻ってきた

 人々は 歌い踊り酔いどれた 世界が歓喜の 咆哮を上げる



 乾杯だ 白い夢に身を包む女に 世界中が杯を掲げる

 約束だ 帰ってきたら 愛をくれると

 貴方のために 世界を救った

 歌おう 笑おう 祈ろう

 世界で一番の笑顔に ポレアと共に 愛を捧げよう

 そうして 勇者は死んだ

 そして そこに 一人の女を愛する男が 生まれた


                   (―― 初代勇者 英雄譚 ――)




***




 王都出発から一ヶ月以上が過ぎている。

 ということは、当然アレなソレもやってくるわけである。


 笑美は痛む腹と腰に死んでいた。緊張やストレスでなんやかんやと遅れていたソレは、異世界パワーで消し去ることは出来なかったらしい。嘆かわしい現実に血も涙も駄々漏れである。


 最初に反応したのは、キャラバンでいびきを掻いていたヴィダルだった。


 彼は突然大きく目を見開くと、着こんだ鎧の重さもものともしないほど素早く身を起こした。腰に手を当て柄を握り、目だけで辺りを見渡す。

「血の匂いだ」

 なにその台詞めっちゃファンタジー。と笑ってしまったのもしょうがない。なにしろ笑美は、皆の洗濯物を畳んでいたのだ。平和真っ最中の出来事であった。


 冬馬は魔法の書を読みながら腕立て伏せをしていたし、サイードは眼球を押さえつけながら決裁書に判を押すかどうか迷っていたし、コヨルは笑美が畳んだ洗濯物を運んでいた。

 外で馬の手綱を握るソフィアは至っていつも通りである。多少の疲労感は見えるものの、出血しているような気配はない。『馬を止めますか?』と聞き返すソフィアに否定を告げ、コヨルが帰ってきた。


「問題ないようです」

「あっれー……おかしいな、確かにしてるんだけどな……」

 んん? と首を傾げるヴィダルにその場の全員が『寝ぼけてんなよおっさん』と心の中で返した。





「壺姫、こっち」

 野営所でいつも通り昼食の支度を終えると、笑美はぐんと背伸びをした。その手をコヨルに取られ、コヨルに手を引かれた。コヨルは近づく時に全く足音がしないので、いつも驚く。

 林の奥へ連れて来られると、いつもより丈の長いローブを渡された。

『え、なに? 今から逃避行でもするの?』

 身を隠してどうするのだろうかと焦りながらも、笑美はコヨルの指示に従った。笑美が足先までスッポリと隠れるローブを羽織ると、コヨルが布で包んだものを差し出す。


「召し物に穢れが」

 ひとまずこれに着替えろとコヨルが押し付けてきたものは、スカートと現世うつしよの生理用品だった。笑美は見えないだろう顔色をさっと青ざめてコヨルに尋ねる。

『え、生理? どうしよ、他の人も気づいたかな??』

 笑美が何か尋ねてきているのを感じたのだろう。コヨルは懐から小さなメモ帳を取り出すと笑美に差し出した。

【ありがとう。 皆 知る した?】

 コヨルはふるふると顔を横に振った。その様を見て、ほっと笑美は安堵の息を零した。

「後ろ向いてる。着替えて」

 コヨルに急かされ、笑美はバタバタとローブの中で汚れた衣類を履き替える。布ナプキンもどきの使い方等は王城のメイドから熱血指導を受けていたので問題なかった。

「洗ってくる」

 汚れた一式をどうしようかと、スカートに包んだ笑美にコヨルが手を突き出した。ちょっと待ってさすがにこれは自分で洗わせて、と笑美は全力で首を振る。承認したコヨルがこくんと頷く。

「泉。こっち」

 コヨルの案内についていき、笑美は汚れた衣類を洗った。幸いにも出血量はまだそんなに多くない。ぎゅっと洗った衣類を絞ると、後ろを向いてくれていたコヨルの元に駆け寄った。


【女の子大変 コヨル も 辛い 言う してほしい】

「私にはこない。平気」

 借りていたメモ帳を手渡すとコヨルはこくんと頷いて受け取った。


 こないって、初潮がまだなのだろうか。笑美は驚いてコヨルを見る。確かに幼く見えるが、骨格などはしっかりしているため笑美とそれほど年が離れているとは思えない。

 うーん、異世界七不思議? と、キャラバンへ戻るコヨルの背中を見ながら笑美はちゃぽんと壺を鳴らした。





 泉で血を洗い流した笑美は、ソフィアが洗濯籠を持って泉へ近づいてくるのを見つけた。食事の支度は済ませてあるので、後はよそって食べるだろう。笑美はソフィアを手伝うことにした。

「汚してしまったのかい?」

 手にしている制服を見て、食事の支度中に汚したと思ったのだろう。ソフィアが柔らかい笑みで尋ねて来る。笑美はあえて心配させる必要もないだろうと、こくんと頷いた。


 洗濯物を洗うため二人で並び、泉に手を入れる。初めは、この姿勢さえできなかった。けれど今は、こうして長時間座っていられる。笑美は確かに自分の成長を感じていた。


「壺姫は、本当に聖女のようだ」

 どんな感じ? 清楚ってこと?

 うふっと両手を合わせた笑美に、ソフィアは柔らかい笑みを向ける。最初に会った時とは随分違う彼女の印象に、笑美は同じような笑みを浮かべていた。


「聖女とは、人を導き、喜びを与え、悲しみを吸い取る。女神の手であり、足であり、心である」

 やだー大層なお役目ーお恥ずかしいと身をくねらせる笑美に、ソフィアは笑みを深めると空を見上げた。


「決して手の届かぬ、常世(とこよ)に住まう明朗なる聖女よ」


 声の質が変わったことに気付いて、笑美はソフィアを静かに見つめた。


「私は、この旅が終われば、家と家を結ぶ役目を果たすことになるでしょう」

 晴れ渡った空は青く、ソフィアの憂いすら吹き飛ばしそうな快晴だった。


 騎士団はどうするの? と言うつもりでソフィアのネックレスに描かれている騎士団のマークを指さした。ソフィアは苦しそうに笑う。


「そうなれば無論、騎士団も辞さねばなりません。――随分と長い間、逃げ続けておりました。しかし、これ程の大任を果たし帰還したとなれば、私の拙い言い訳など誰も鵜呑みにしてはくれないでしょう」


 なぜ結婚が嫌なのか。親に決められた縁が嫌なのか。騎士団にいたいのか。

 その理由は? 

 幼さゆえの傍若さで全てを興味の赴くままに聞いてみたい衝動が笑美を燃やした。しかし、一瞬の内にその火が消える。ソフィアの頬を流れる星が、快晴の空に反射し光っていたからだ。


「――懺悔させてください、聖女様。愚かな私は、この旅が、いっそ。終わらなければ、いいなどと……」


 掠れた切れ切れの声に笑美はソフィアを抱きしめた。ソフィアの震える肩は鎧の中にすっぽりと収まっていた。その鎧は、身と心のどちらを守っているのだろうと笑美は目を瞑りながら考えていた。





 持ち場に戻り、いつも通り野営に精を出していた笑美だったが、夜が更けていくにつれ軋む体に抗えなくなってきた。

 馬車に戻っても笑美は横になることすらできない。揺れ軽減の魔法を二重にかけてもらっても、微かな振動が腰と下腹部を突き刺した。

 笑美は先ほどから“生理痛ヨクナール水”を作ろうと奮起しているのだが、余りの痛みに全く集中できない。


 微動すらせず、腹を押さえて放心している笑美を見て、全員が事を察した。生きるセクハラはソフィアによって御者席へ追い立てられ、サイードは無関心。役立たずな男陣営の中で、なんと一番役に立ったのが冬馬であった。


「ほらこれで腹温めてな。腰さすっててやろうか。あぁ動かなくていいよ、楽にしてたら」

 笑美は、クッションを抱えサイードの背中に体重を預けていた。お湯を詰めた革袋を受け取った笑美が起き上がろうとするのを、冬馬はやんわり押しとどめる。触るぞ、と一言告げてから撫でられた腰が、涙が出そうなほど心地よかった。


「申し訳ない、自分がそう言ったことに疎くて……」

 何とソフィアは生理痛が重くないらしい。羨ましさで壺の水がどす黒くなってしまいそうだ。


「今コヨルにしょうが湯頼んでるからな。すぐよくなる。大丈夫大丈夫」

 よーしよーしと腰を撫でる冬馬の手が優しい。私が男なら確実に惚れていた。


おのこの勇者様より狼狽えてしまうなんて、面目もない……」

 ヴィダル以外には辛辣さのしの字もないソフィアが肩を窄める。

「勇者様は介抱に慣れておりますね」

「あーうちなぁちょっと変な家だったし、一緒に暮らしてる姉ちゃん四人いたから。着るもんもいっつも女物のおさがりでさー制服ぐらいはおさがりじゃねえだろって思ってたら、これ。隣の家の兄ちゃんのおさがりなの。ありえなくね?」

「商売女に手が触れるだけで逃げ出した勇者様がなんと頼りになる」

「相手が姉ちゃんなら素っ裸でリンボーダンス踊られても逃げねえよ!!」

 サイードにギャンと吠えた冬馬の手はずっと笑美の腰をさすっている。笑美は本当に涙が出そうなほど感激して、口から洩れる言葉を止められない。

『うぅう……冬馬そこ、そこ……めっちゃ気持ちいい……もうちょっと下がいいんですけどねぇ駄目ですかねぇお駄賃払ってあげたいよ……うぁあああ……あー……気持ちいい……』

 サイードの背中にぐりぐりと頭を押し付けながら、笑美は押し寄せる痛みと悦楽に自分の貯金額を思い出そうと遠い記憶を探る。残念ながら通帳には0がみっつ連なっているかいない程度だったことを思い出した。


「ソフィア殿、勇者様も腕がお疲れでしょう。代わって差し上げなさい」

「ああっ、また気が利かずに……!」

 狼狽しながらソフィアは笑美の隣にしゃがむと、今まで冬馬が擦っていた場所を擦る。冬馬よりもずっと優しい撫で方だったが、これはこれで気持ちいい。

 コヨルが持って来たしょうが湯を壺に注いでもらいながら、笑美はしばしのまどろみに目を閉じた。




 目が覚めた笑美は辺りが暗くなっていることに気付いた。灯りを落とすような時間まで眠っていたらしい。寝ていたおかげか、腰とお腹の痛みは随分と鈍くなっている。うん、と背伸びをしようとして動きを止めた。サイードの腕の中にいたのだ。


 サイードは仏像のように動かない。寝息だって、とても静かだ。本当に椅子のように、ただただ静かに笑美を抱きしめて眠っている。

 規則正しい静かな寝息が聞こえる。上下する胸に、笑美は体重をかけた。見かけよりもしっかりしているサイードの体は、笑美の体重ひとつで傾くことはない。

 こっそりと顔を動かして辺りを見れば、冬馬は眠っているもののヴィダルとコヨルはしっかりと夜番をしている。ソフィアは御者席だろう。


 サイードの髪には先日贈った組紐が結ばれていた。髪型や気分によって、笑美が装飾を選ぶが、やはりこの黒色の組紐を結ぶことが多かった。

 笑美は三度みたび目を閉じてサイードに寄りかかる。


『パパ、ママ……ごめんね。でも私、ちゃんと救って、帰るから』

 夜のせいだろうか。それとも生理のせいだろうか。いつもより気持ちが塞ぐ。

 誰にも聞きとがめられることがない独り言は、存外気持ちが楽になる。笑美は夜に任せて心の内をぐずぐずと吐き出した。


『冬馬、ちゃんと傍にいるから。ヴィダル隊長、いつも運転ありがとう。コヨル、いつも沢山移動させちゃってごめんね。ソフィア、優しくしてくれてありがとう。サイード、私、がんばるから』


 安心するようになったサイードの匂い。異世界で、笑美にとってここが帰る場所だった。

 温もりに縋りつくように動きすぎてしまったのだろうか。

「起きたのですか」

 サイードに、寝ぼけるという文字はないらしい。寝起き一発目からいつもと変わらない様子だった。しかし、声は抑えられている。顔を寄せて低い声で話すため、自然と鼻先が掠めそうなほど近い。あぁ今は壺だった。笑美に鼻は存在しないし、壺の顔に遠慮するような繊細さもサイードは持ち合わせていないだろう。笑美はこくんと頷いた。

「痛みの程は?」

 サイードがこうして直に話してくれるようになったのは、一体いつだっただろうか。最初の内は目も合わせてくれなくて、言葉も直に交わしてはくれなかった。

 それがいつからか、サイードは笑美の目を見るようになった。直接言葉を語り掛けるようになった。思い出そうと努力してもいつだったか思い出せない。たったの1ヶ月間の出来事なのに、余りにも濃厚すぎた。

 頷く笑美に、サイードは『それはよかった』と平坦な声色で返事を寄越す。


「住まう界が異なるということは、住まう病も異なります。今後は独断なさりませんよう」


 サイード、それじゃ駄目だよ。壺以外も心配してるように聞こえる。


 笑美は驚くほどの浮遊感に襲われた。胸が詰まって呼吸が苦しい。お得意のサイードの舌先三寸だとわかっているのに。

 高ぶる興奮を口から漏らそうと、薄く唇を開いた。声にならない声を吐きだし、せり上がりそうになる涙を堪えた。


 気持ちが落ち着くのを待つと、笑美はサイードにもたれ掛り目を閉じる。サイードの心音を聞きながら、暗く暖かな闇へと、再び落ちていった。




***




 二日目も見事に笑美は死んでいた。屍だった。ただの壺だった。壺の中身はいまだ回復薬の役目を果たさず、味見してもらったコヨルの舌を痺れさせるだけで終わった。

 安眠椅子は電動按摩椅子に変わり、忙しいソフィアの代わりに笑美の腰を癒す。


「はっはっは、嬢ちゃんちっこいし細っこすぎるから心配してたが、障りがくるっちゃいいこった。子供を孕めるってことだからなぁ。子種の予定は――」

 ガチンという音と共に、御者席から何かが吹っ飛んできた。見れば、ソフィアの水筒である。

 水筒が頭に命中して90度首を傾げたままのセクハラ大王に、笑美はため息を吐く。

 痛みをおしてでも伝えたかった笑美は、震える指先でペンを持った。


【“こんなんが王子様とかティガール国は大丈夫なの?”】

「はっ?! おっさん、オウジサマなの?!」


 日本語で書いた文面を読み上げた冬馬が驚きに声を上げる。投げられた水筒から水を飲んでいたヴィダルが、げふぉっげふぉっと、咳き込んだ。

「っ――どこでっそれをっ」

 げふぉっげふぉっと咳き込みながら聞いてくるヴィダルに、笑美はつーんと顔を反らす。

「はー……オウジサマねぇ……。おっさん、年いくつ?」

「あ? 年? 34だけど」

 身分についての詮索でなく年を気にされたことに動揺したヴィダルは、つい本当の年齢を口にしてしまう。


「34! まじおっさんじゃん! 34でオウジサマ! きっついなー!」


 勇者様、まじ勇者。筋骨隆々としたおっさんヴィダルを指さし爆笑する冬馬に、笑美は心の中で親指を立てた。


 常世(とこよ)に生きる冬馬にとって、身分制度なんて毛ほども縁のない暮らしである。そんな冬馬が、ヴィダルの真の姿がシャンプーではなく王子様だと聞いたところで、頭を下げる対象にはなりえない。

 ただ、おっさんが王子様と言うその状況が面白い。シンデレラの靴を拾うのも、白雪姫にキスをするのも、全部34歳のおっさんがするのかと考えた冬馬は挿絵を思い浮かび噴き出した。

 あ、でも石油王だったら今すぐ頭を下げてもいいな。冬馬は真顔になる。


「若さは人生において美徳ばかりではありません」

 実際に親指を立てなくてよかった。冬馬の勇者発言は、こちらの逆さまの鱗も撫でてしまったらしい。


「へぇ? どんなこと?」

「少なくとも私は手を握られただけで尻尾を巻いて逃亡することはありませんよ」


 16歳の男子高校生はギャアと悲鳴を上げてぶっ倒れた。マジオッサンと言われ泣き崩れているヴィダルの隣に綺麗に並ぶ。

 笑美はその光景を冷ややかな目で見つめた。


 コヨルがそっと近づいてきて腰を撫で始める。按摩椅子に100円を入れ忘れていたらしい。新しく動き始めた按摩ちゃんを、笑美はよしよしと撫でた。


 よいしょよいしょと小さな手でコヨルが必死に背を撫でる。笑美はその心地の良さとコヨルの可愛さに再び心が溶けそうだった。へにゃりと顔を緩ませて、コヨルの頭を撫でる。その笑美の手を、ふいと白く大きな手が掴んだ。


「ご無理なさらぬよう。ごゆっくり体をお休めください」


 笑美の腕は掴まれ、元の位置に戻される。コヨルはぺこりと頭を下げて移動した。按摩椅子が再び笑美の腰を摩り始める。

 笑美はサイードの言葉に、べっと舌を出した。

 腹を立てている笑美はサイードから離れようと体に力を入れる。しかし、サイードが笑美の背に手を回したせいで立ち上がることが出来ない。


「ご無理なさらぬようにと、今告げたばかりのはずですが?」

 冷たい視線に笑美は負けなかった。つんと顔を反らして唇を噛む。しかしやはり涙が滲んできてしまい、顔を隠すように笑美はサイードの胸に壺の額を押し付けた。


 サイードのわかりやすい気遣いの言葉を、笑美は一度だけ受け取ったことがある。あの時は、笑美を追い出してコヨルを呼び寄せようとしていた。今度はなんだろうか。サイードは、嘘ばかりをつく。この言葉もきっと嘘なのだと思う半面で、壺の事だけは心配してくれているから、きっと少しは本音も混ざっているはずなんて、馬鹿みたいな考えに縋りそうになった。


 サイードは笑美を見下ろして、声を落として囁いた。笑美にしか聞こえないように、顔を近づける。


「余程きついのであれば、横になりますか。抱き上げておきますが」

 座位が辛くなってきたとでも思ったのだろうか。サイードは常にない優しい声で笑美に語り掛けた。これも嘘だと、思いたくない。けれどこれが本当なら、私はもっと辛くなる。


 私のことを壺だと思って大事にしてくれるのが嬉しいのに、壺しか大事に思ってないのかと思うと苦しい。

 なのに、今だけは壺だと思っていてほしい。

 女扱いをされているのであれば、女性の手を握り慣れているという先ほど彼の発言を、自らの身をもって肯定することになるからだ。


 慣れてなくていいの。不器用でいいの。辛辣でいいの。いつもの澄ました顔で、壺程の価値のないおんなを切り捨てて。こんな優しい言葉をかけるのは、私が女の子だからでなく、壺が大事だからってことにして。


 もう全部、全部生理のせいだ。こんなに不安定なのも、人肌恋しいのも、サイードの言葉が次々と心に刺さってきてしまうのも。全部、全部女性ホルモンのせいだ。


 笑美は最後の矜持で、ぷるぷると首を横に振った。今が壺で。泣き顔が見られなくて、よかった。笑美は顔を上げて、唇を引き結んだ。

 窓から差し込む月明かりが、柔らかく二人を照らしていた。







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