15 : 花笑み
南の商人の元に買い出しに行きたいと告げた笑美に、サイードはあっさりと許可を出した。多少ごねられると思っていた笑美たちはその呆気なさに驚いて目を剥く。
「王都を出発して1ヶ月。馬でさえ褒美をやらねば走りませんから」
こうしてサイード最高審判の判決により、我々は街へと繰り出した。
ヴィダルと冬馬、ソフィアとコヨル、サイードと笑美に別れ、街を散策することになった。
ソフィアとコヨルの組み合わせに珍しさを覚えたが、彼女たちは普段目が行き届かない些末の用事を済ませて来るらしい。笑美は二人に下げた頭が上がらなかった。もちろん水は零れた。
『ロープレなら、曲がり角でぶつかったり、騒動が起きてる場所で新しい仲間とごたいめーん、なんだけど……実際は新しい仲間なんて入らないだろうしなぁ』
「行きますよ」
『はーい』
初めて見るファンタジーな街並みに心躍らせた笑美は、見事にはしゃいでいた。誰にも顔を見せてはいけないとサイードに口酸っぱく注意されたので、いつも以上に深くフードを被ってはいたが、視界の不明瞭さをものともしない機嫌のよさだった。
活気ある街並みは人に溢れていた。軒を連ねる露天商の数に驚く。皆元気のいい笑顔と張りのある声で、自分の店を自慢していた。
魔王が復活したなんて冗談としか思えないような平和な街だ。しかしそれが、人の努力の上に成り立っていると笑美は知った。
笑美とサイードは、コヨルに教えられた場所で調味料を吟味したり、魔法具屋で乾燥させた何かの干物を手にとったりした。笑美は片っ端から露天商を覗き、空気を震わせぬ悲鳴を上げ続けた。
視界が狭い笑美は、サイードに手を引かれ街を物色する。
『サイード、こっち、こっちにもなんかある!』
笑美が声を上げると同時にサイードの服を引っ張った。サイードはゆっくりと足を止める。
コヨルとの経験を活かし、サイードの二の腕を掴んでいる笑美が店を指さす。何の店? と首を傾げる笑美にサイードが告げた。
「貴婦人の衣装を仕立てる店ですね。入りますか?」
『ドレスかー』
少しの興味をそそられたが、笑美は首を横に振った。昨日汚してしまった制服も、冬馬の乾燥魔法さえあれば毎日着れる。こちらの世界の服は嫌いではなし華美な服は着てみたいが、せっかく女子高生の間に異世界に来たのならセーラー服を着ておきたいのが乙女心と言うものだ。例え常にてるてる坊主だとしても。
「では宝石店へ?」
『宝石かー』
聖女に杖が必要なら先っぽに付けると綺麗だったかもねと考え、笑美は笑う。
「神秘的な黒髪にはラピスラズリなどが栄えると思いますが」
『わあああいらんいらんいらんいらん』
買うことが決定になっていそうなサイードを、笑美は慌てて引き留めた。
「それでは何が? まさか本当に、調味料がほしかったとでも?」
サイードの言葉に笑美は意表をつかれた。調味料がほしいと言ったのは単なる口実で、何か贅沢をしたくて街に誘ったのだと誤解していたようだ。なるほど、それで笑美のお供に財布係であるサイードが選ばれたのかと合点がいった。
かつて胡椒はダイヤモンドと呼ばれたらしい。流石にそこまでではないが、先ほど購入した調味料もそこそこ値が張った。たかだか調味料に支払われる金貨の枚数に、笑美は仰天したものだ。
そこで贅沢をさせてもらった自分が言うのもなんだが、と笑美は咳ばらいをする。もちろん、自ら放った咳すら笑美の耳に届くことは無い。
調味料は旅の備品だけど、ドレスや宝石は旅の備品ではない。
『私、プレゼントはお付き合いしてる人からしかもらわないことにしてるの。あ、えーとねぇ』
【宝石 服 、 愛 する 人 のみ】
通じるかな? わかる単語を並べただけのメモ帳を見て笑美は唸った。コヨルがいたら完璧に解読してくれるのに、と苦々しく思わなくもないがしょうがない。
スケッチブックの代わりとなる持ち歩き用のメモ帳から一枚ペリッと破くと、サイードに渡す。そして、宝石はいらない、という気持ちを込めて笑美は首を横に振った。
贅沢は好きだが、それは甘えられる環境での話だ。そしてそのターゲットはものすごく狭い。
壺ではない笑美本来の顔は世間一般的に可愛いと評された。生まれながらにしてそこそこ整った顔立ちを手に入れた笑美は、ちやほやされることも少なくない。ランドセルに溢れたリボンや花やお菓子を見る度に『家族でもない男性からの贈り物を受け取ってはならない』と、耳にタコができるほど父にお説教されてきた。その甲斐あって、笑美は無闇矢鱈に人から好意を受け取らない。そのプレゼントに付随する責任を果たす気がないからだ。
プレゼントを贈ろうとする人は大抵、笑美が遠慮して断っていると考えている。何度断っても強引に渡そうとしてくるが、そこにきちんとした理由を示してやれば諦めてくれる。
もらいたくないわけではないが、この世界に生きない私には重荷にしかならないだろう。
豪快に拒否する笑美に自尊心を傷つけられたのか、サイードは一度強く目を瞑ると、大きなため息を吐き出した。
笑美は軒先で足を止めた。露天商は笑美と共に足を止めたサイードに愛想よく話しかけている。
台の上には色とりどりの髪飾りが並べられていた。布や糸、金属や宝石で飾られた、どれも目に美しい飾り紐や簪だった。真剣に見つめる笑美の隣にいるサイードは、先ほどのように財布になろうとはしなかった。
「お兄さんいい男だねぇ、隣はお嬢ちゃんかな? 恋人? 妹さん? 気に入ったものがあったかい? 髪や目の色を教えてくれれば、似合うものを見繕うよ」
愛想のいい露天商に、フードで顔を隠したままの笑美はサイードを指さした。ローブから覗く指の白さと美しさから、これは上玉だと目を輝かせた露天商は、宝石のちりばめられたものを次々二人に勧める。
「兄ちゃんと同じ色か。流れる雲色の髪に、星をちりばめた夜空の瞳だな。ならこれ、ガーネット。雫の形が連なって美しいだろう。動くたびに揺れて、どんな男でもイチコロさ。おっと兄ちゃんに睨まれちまったな――ベルベットのリボンも人気だ。この隅っこに水晶がついてるだろう。高い位置に結ぶとこれが光に反射して、そりゃあ綺麗なもんさ。こっちは隣国名産のエメラルドだ。ティガール王国の王家の人間の目の色と同じだろう?」
あれもこれも、と説明する露天商に、笑美はほうほうと頷く。露天商の説明は聞きやすく、笑美に興奮を呼んだ。
しかし、宝石は高価である。例えばこの世界が類稀なる宝石産出量を誇っていたとしても、何の味気もない組紐よりも安いということは無いだろう。笑美はなんの味も素っ気もない組紐を手に取った。露天商ががくりと肩を落としたのがフードの隙間から見えた。
漆黒に染められた紐の隙間に金糸が混ざった、上品な紐だった。肩すかしを食らった露天商が値段を告げる。多少吹っかけられているかもしれない。硬貨の価値を知らない笑美は、その金額が妥当なのか判断がつかなかった。サイードを見上げれば、彼は瑠璃色の瞳で笑美を見下ろしていた。
「ほしいのですか?」
サイードの固い声が笑美に降り注いだ。緊張の混じったその声に、強請る言葉を笑美は持たない。それほど高いのだろうか。恐れた笑美がそっと置こうとしている組紐をサイードが指で摘まむ。
「店主、これを」
「あいよ」
サイードは気楽な音がする銅貨をポンポンと店主の手に幾つか乗せた。それを見て、笑美は安堵する。どこかのやんごとなき職人の一点物の織物で、などと法外な金額を請求されていたらどうしようと思っていたからだ。
代金を支払い終えたサイードは足早に露店から離れる。小走りで近寄った笑美はサイードに腕を引かれ、人の邪魔にならない場所に導かれた。
足を止め振り返ったサイードは、組紐を持ったまま笑美の顔を覗きこむ。
「……これを?」
なんだ、サイードわかってたんだ。笑美はこくんと頷いた。その様子を見たサイードが、息を飲む。
「貴方は――ご自身が何をなさっているのか、認識しておいでで?」
熱にのぼせた瞳はぶれることがない。艶めいた光が笑美を貫いた。
サイードの滑らかな手が、笑美の首に伸びる。つい、と触れられ、笑美は体を硬直させた。首を絞めるつもりなのだろうか。ゆっくりと触る指はその要領を得ない。
至近距離にあるサイードの顔に息を飲む。わかっていたが、美しい。春の桜でさえ霞む男に、笑美は一歩足を後退させる。まるでそれを、許さないとでも言うかのように、サイードが距離を詰めてきた。
サイードの指が笑美の首を撫でる。夏でもないのに、全身に汗をかいてしまいそうだった。
だめだ――このままじゃ、殺される。
笑美は胸に詰まった息を思いっきり吐きだすと、もたつきながらもサイードの手から組紐を抜く。
『買ってくれてありがとうサイード。お代になるかわかんないけど、媚薬でも若返りの薬でも育毛剤でも、なんでも言ってね。出来る限り頑張って念じるし!』
伝わらないとはわかりながらも、笑美は一息にそう言った。密着するほど近かったサイードの髪に手を伸ばし、差していた花の簪を引き抜く。
今だにドクドクと鳴る胸と、浅い息。それを懸命に押し殺しながら、笑美はサイードの髪に組み紐を括り付ける。震える指先のせいで時間がかかるのをカモフラージュするように、可愛らしい蝶々結びにした。
「――聖女様、これは?」
静かなサイードの声は、艶やかさを尚も失わない。ぞくりと悪寒がしそうなほどの怒りを湛えた声を腹から吐き出したサイードに、笑美は再び後退した。メモ帳に震える手で必死に文字を書く。
【似合う 綺麗 サイード の もの 。 金 私 いつか 払う したい】
ちょうちょ結びの黒い組紐が、可愛らしい花の簪よりもよほど不服だったのだろうか。サイードはメモ帳を穴が開くんじゃないかと思うほど睨みつけると、むっつりと黙り込んでしまった。
『……あの、サイード?』
笑美が見上げると、不機嫌な顔をしたサイードが見下ろしてきた。氷点下の瞳だが、先ほどまでの、息もできないほどの沈黙ではない。むせかえる花の中心にいるような、荒れ狂う波の中一人取り残されたような、心許ない気持ちにはならなかった。
『ええー……とー……?』
花の簪に戻す? と髪を触ろうとすると、高速で刎ね落とされた。もう何が何やらである。
顔を引きつらせて笑う笑美の顔は見えずとも、戸惑っている空気は感じたのだろう。サイードが何かを諦めるようにひとつ息を吐き出す。
オロオロと狼狽える笑美の手を、サイードが無遠慮に引いた。
『え?』
「人目が――こちらへ」
先ほどの空気を思い出し、笑美は咄嗟に息を呑み体を硬直させた。しかし笑美を抱くサイードは、悲しいほどにいつも通りだった。
顔を胸に押し付けているため、サイードの顔こそ見えないが、抱く腕の強さからは信じられないぐらい、彼は冷静だった。これが彼の本意ではなく、あくまでも壺を隠す行為なのだと、その腕の隙間が伝えている。
笑美は居心地の悪いそこで、しばらくの間サイードの胸に顔をくっつけていた。彼の匂いには慣れ、安らいでいたはずなのに。いつものように髪をいじっても、明るい場所のせいか、うまく安心できない。
いつまでたっても解放されないことに業を煮やした笑美が、サイードの腕をちょんちょんとつついた。
『あの、まだ……?』
何の感情も滲ませない淡々とした声が、まだですと笑美に告げる。
抱きしめられている感覚に、徐々に足元が覚束なくなってきた。頼りない脚は、きちんと地の上に立っているという自信さえ、笑美から奪う。ふわふわと漂っているような浮遊感に、何故か泣きたいほど気まずい。
我慢できなくなるたびに、笑美はサイードの腕をちょんちょんとつついた。笑美が見上げる度にサイードは見下ろし、真剣な表情を保ったまま小さく首を横に振る。
そんなに人がいるのだろうか。誰かこちらを疑って見ているのだろうか。笑美はただただ縮こまって、この責め苦に耐えるしかない。
この奇妙な居心地の悪い空間は、サイードの許可が下りるまで続いた。
しばらくして、笑美&サイード組は、約束の時間にキャラバンへと戻った。
ソフィアとコヨルは床下収納に大量の荷物を詰め込んでいる。ちらりと見た中には魚介や海藻の干物もあった。二人が笑美を期待の眼差しで見つめている。笑美は『パパ、助けて……』と料理好きの父に心の中で助けを求めた。
「おーう!」
手を振る大柄の男は、鎧を隠すように大きなマントを羽織っている。あれでは、大きく動かない限り彼が鎧を纏っていることはばれないだろう。
眩しい笑顔を広げながら手を振るヴィダルの横には、涙目になっている冬馬がいた。
「わりぃな、待ったか?」
「今合流したところです」
「荷が積み終わりました。行きましょうか」
「そうだな」
彼らは二人で行動していた。しかし、偏見かもしれないが男二人でウィンドウショッピングにかけるにしては、随分と長い時間である。
今にも泣き出しそうな冬馬の顔を覗き込み、笑美は首を傾げる。
『冬馬?』
優しく声をかけて肩に手を置くと、冬馬は地面から浮くほど飛び跳ねた。
「――おおおおおおお俺は、勇者だ」
お、おう。それ前に聞いたな。と笑美は親指でポーズを取る。
「勇者様の伝説の剣が抜刀されたかどうかなど、至極どうでもいい話です」
いつも通り素っ気ない、サイードの塩辛対応だ。
しかし剣とは、武器屋にでも寄っていたのだろうかと笑美は冬馬を見やった。冬馬は顔を真っ赤にして左右に首を振っている。
「やましいことは! やましいことはしてない! ちょっとしか!」
「ちょっとって……お前手握っただけで逃げ出してたじゃねーか。あんなんちょっとに入るか。気晴らしにと思って奮発して一番いいの見繕ってやったのによー」
「勇者様、使わねば名剣すらいずれ錆びますよ」
「ぬぐぉおお! ぬぐぉおおお!!」
何故か悶える冬馬を笑美がきょとんと首を傾げる。武器を仕立てようと、手でも握られたのだろうか?
ヴィダルが冬馬にちょっかいをかけようとする。随分と仲良くなった二人を、笑美が微笑ましそうに見守っていた。
そんな光景を横目に、サイードはキャラバンに戻り責務に取り掛かろうと体を翻す。しかしその瞬間、サイードの足がふらついた。
「おいっ、サイード!」
地に伏す前にヴィダルが受け止めたが、サイードはそこで意識を失った。
***
『よかった……目が覚めて……大丈夫?』
目を覚ましたサイードを見て、笑美が慌てて立ち上がる。額に濡れた布巾を置いたサイードは、不思議そうにこちらを見ていた。
笑美が椅子から立ち上がった音を聞きつけたのか、隣の部屋と繋がっているドアが開く。
「あぁ起きたのかい」
笑美は声が聞こえると慌ててフードを深く被った。部屋に入ってきたのは見慣れぬ壮年の医者だった。
何の前触れもなく突然倒れたサイードを見て、誰もが驚愕した。
コヨルは辺りを見渡し、見たこともないような形相でサイードを守るように小刀を構える。
ソフィアも同じく、武器を取りキャラバンから飛び降りるとまず敵の存在を警戒した。それほどに、サイードの倒れ方は突然だったのだ。
驚きのあまりサイードの体を揺すろうとする笑美を冬馬が止め、ヴィダルが担ぐ。コヨルとソフィアが、敵の気配がないことを確認すると、ヴィダルは医者へと走ったのだった。
痩身の男性がサイードの手を取り脈をとる。サイードの胸に手を当てて、ふむと頷いた。
「先生、坊ちゃんの病状は」
「うーんまぁ、まず間違いなく十魔病だろうなぁ」
冬馬病? と笑美は首を傾げる。
ソフィアは鎧をコートで隠したままだった。坊ちゃん、とサイードを呼んだソフィアに、笑美は心の中で喝采を送る。
「最近南にでも行ったかね?」
「――市に南の商人が来ております」
「じゃぁそれだろうなぁ。こりゃあ保菌者の傍に寄るだけでかかっちまう。領主に通達を出しておかんとなぁ」
どっこらしょと椅子から立ち上がる医者に、ソフィアは慌てて詰め寄った。
「あの、申し訳ないのですがその病気に疎いため、病状や治療方法を教えていただきたいのですが……」
「あぁそうだったそうだった」
医者はキィと音を立てて椅子に再び腰かけると、サイードの胸を指さした。
「これは海を越えた遠い南では当たり前にある……まぁ、はしかみたいなもんだ。魔法使いだけが酷くなる病気でな、ここにある魔力の渦を止めてしまう。誰にだって魔力の渦はあるが、普通のもんくらいじゃ病気という症状までは出らん。せいぜい体がだるいとか、便秘になったとか。その程度だ」
しかし、と言いながら医者は指を動かしていく。サイードの胸の中心から、ぐるぐると円を描いていく。
「魔力の大きいもんにとっては、致命的な病気だ。今まで知らぬ内に魔力に頼っていた体が、一切魔力の配給を受けられなくなる。倦怠感、下痢、頭痛、吐き気、食欲不振。命に別状はないが、まず動くことは無理じゃろう。まぁなに、十魔病というだけあって、十日過ぎれば病魔は去る。その間、魔力の強い者は傍に寄らんように気をつけなさい」
入院したけりゃ言ってね、と言って医者は出て行った。領主へ通達を出しに行ったのだろう。
瞬時に冬馬が隔離された。キャラバンから一歩も出るな、のお達しと共に、数冊の本が投げ入れられる。冬馬は暇つぶしに本を読みながら皆の帰りを待つことにした。
「壺姫もどうぞ馬車へ」
ソフィアの問いかけに、笑美は緩く首を振った。感染しているのなら、サイードと共に行動していた自分もとうに感染しているだろう。それに笑美の出来る事はたかが知れている。十日“酔いトメール水”と“健康祈願水”を皆が飲めなくても何の支障もない。
“健康祈願水”、利かなかったなぁ。
笑美はサイードから布巾を受け取ると、冷たい水で濡らしてキュッと絞った。
「次の魔法使いの手配を致します」
掠れ、熱の滲んだ声でサイードが告げた。
「あほたれ。お前以上の魔法使いがいるかよ」
「渦の止まった魔法使いなど、糞ほどの価値もない」
サイードの放った言葉に笑美はギョッとした。サイードは見た目や所作の綺麗さもさることながら、言動も一貫して美しかったからだ。しかし今、不調のせいでその美しさに綻びが出ている。
それを向ける相手は、きっとヴィダルだけなのだろう。そう思うと笑美は、なぜかサイードの方を向くことが出来なくて、また布巾を桶につける。
「拗ねんなよ。十日ぐらい待っててやる。王都から呼び寄せるほうが時間かかるだろ」
「弟を寄越します。馬を飛ばせば七日とかからぬはずです」
「落ちつけ。あいつが来る七日を待つより、お前が回復する十日を待つ方が合理的だ」
サイードはいつもの冷淡な表情に憤りを滲ませた。唇を噛んで口を噤むサイードに、ヴィダルがため息を吐きかける。
「嬢ちゃん、ここでサイードのこと見ててくれな。俺たちは用事済ませて来るわ」
笑美はこくこくとヴィダルに頷いた。ヴィダルはぽいっとスケッチブックとボールペンを投げると、ソフィアたちと部屋を出て行った。
部屋にサイードと笑美だけが残された。サイードはいつも以上に無情な顔をして天井を睨んでいる。
笑美はサイードの髪に触れた。慌てて横たわらせたため、ひっ詰めたままの髪が窮屈そうだったのだ。
「聖女様がいらしても、ここに用はないでしょう。コヨルを」
その言葉に、何故か笑美は返事ができなかった。皮ひもを解き、編み込んでいた髪をゆっくりと梳いていく。
「コヨルがいないのであれば、結構です。聖女様もお疲れでしょう。どうぞお休みになられてください」
初めて受け取った、私を案じる言葉に、笑美はへたくそな笑顔を返した。純粋な労りのはずの言葉は、頑なに笑美の存在を拒否する。そうか、そんなに、私はいらないか。震えそうになる指に力を入れて、笑美はサイードの頭を撫でる。
私はきっと、おじいちゃんどころか、コヨルにさえなれないのだ。
『おじいちゃんを、助けるんでしょう』
頭を撫でられたことに驚いたのか、サイードの体がピクリと揺れた。
『王様よりも、世界よりも……冬馬や、私なんかよりも。ずっと大事なおじいちゃんを、助けるんでしょう? 今ここで、サイードが倒れたら、おじいちゃんの面目はたつの?』
自分の言葉が聞こえないことは重々承知していた。しかし、笑美は今サイードに語りかけたかった。
『貴方の弟は、貴方よりも強いの? 違うんでしょ? 貴方が一番、強いんでしょう? ならこんなとこで負けてないで、貴方が頑張るしかないじゃない』
立ち向かえ、前を見ろと言ったサイードの言葉の意味が今、笑美はようやく分かった気がした。
あの言葉は、突き放したんじゃない。現実を突きつけたんじゃない。きっと。
『病気に負けるなんて、情けないぞサイード・シャル・レーンクヴィスト。ちんくしゃ魔王を、一緒に倒しに行こう』
壺が大事だったのかもしれない。支えなければ立てないような面倒な重荷を増やしたくなかったのかもしれない。けれど、それだけじゃないと、信じたい。前に進む勇気を、導く手を、私に差し出してくれたんだって。
差し伸べてくれたかもしれない手に気づけないままなのは、もういやだ。
頭を撫でていた手を止めて、笑美はサイードの手を握った。ギュッと力を込めて、笑美の気持ちを送る。
『大丈夫、“健康祈願水”は残念ながら利かなかったみたいだけど……今度はちゃんと、渦が動きますようにって念を込めるからね。きっとすぐ動くようになるよ。だって私、万能薬なんでしょ?』
どーん! 胸を叩いて任せろと伝える笑美を、サイードがいとけない顔でぽかんと見つめた。その表情の珍しさに、笑美も同じくぽかんと見つめ返す。
見つめ返した笑美を、急にサイードが強く睨みつけた。
「貴方は何故、私に毒を?」
急展開した話に、笑美は目を見開く。
「殺してやりたい」
立ち上がる力もないくせに、サイードは震えながら手を伸ばした。その指で喉を引っ掻けば、満足するのだろうか。笑美は驚きに固まってしまい、サイードの言葉に反応することさえできない。
「殺してやりたいほどに、愚かしい」
何かに抗うように、荒れ狂う怒りを抑えながら、サイードは忌々しいとばかりに呟いた。穏やかでないその言葉は濡れていて、笑美の背筋に痺れをのぼらせる。
震える手は、そのまま床に落ちた。力なく横たわるサイードの手は白いシーツの上で、まるで飼い慣らされた犬のように躾よく待っている。
「息をせねばいい、笑わねばいい、温もりを感じさせねばいい。そうすれば私の安寧が、再び訪れる」
熱に浮かされた湿った言葉は、サイードの濡れた唇をすり抜けていく。
広げた手のひらでサイードがシーツを掴む。まるで、藁のように。投げかける言葉に反して、沈んでいくのはサイードの方であった。
笑美は戸惑いの表情を浮かべたまま内心で笑っていた。あまりの内容のひどさと、息をすることさえ許してもらえない自分がかわいそうでで仕方がなかったのだ。
しばらくの沈黙の後に、全てを諦めたかのようにサイードが呟いた。
「……花が咲いたあの時に戻れるのなら、私は貴方を殺している」
殺している。
物騒な言葉に、今度は眩暈がした。
「貴方が私を望むなら、水を注ぎましょう。――それが絶望だとしても」
いじめ続行宣言を聞いて、悲しむどころか何故か嬉しくなってしまったのだから、もう何もかもが、しょうがないのかもしれない。
***
「えっ、あれ。サイード、十日戻らないんじゃなかったっけ?!」
次の日キャラバンに舞い戻ったサイードに、冬馬が驚きのあまり叫んだ。
「さすがは聖女様。この身をもって聖なる雫の効力をご教示くださりました。これで旅の安定は約束されたも同然。先を急ぎましょう」
笑美の水で回復したサイードはしれっとのたまうといつもの場所に座った。その様子を見てヴィダルが笑う。
「昨日は格好悪いとこ見せたぐらいで拗ねてたくせになぁ」
「ヴィダル」
「へいへーい、出発すんぜ紳士淑女の諸君どもー」
ヴィダルのやる気のない号令に、おーとコヨルが無表情で答えた。




