14 : だいじなもの
「壺姫!」
コヨルの大きな声を初めて聞いた、そう思った時にようやく笑美は体を動かすことが出来た。
ゴロンと転がり、敵の鞭を避ける。泥だらけになっても気にせずコヨルへ走った。
コヨルは笑美を背後に隠すと、長靴から短剣を取り出した。林を歩き始める時に、コヨルが手ではなく二の腕を握らせた理由をそこに見る。
森に駈け出した笑美の前に、突如現れたのは、イカのような気味の悪い魔物だった。土の中から同時に出現した、数体の気味の悪いそれは、笑美から思考を奪った。
イカのような見た目に反して、その鞭は茎で出来ていた。あれが植物型の魔物なのか、と笑美は初めて間近で見る生きた魔物に身を震わせる。
臨戦態勢を取っていたコヨルは笑美の震えに気付いた。恐慌した人間は何をするかわからない。ここで笑美を守りながら応戦するよりも、ひとまず場所を移そうと、短剣を魔物に投げつける。魔物の鞭が大木に縫い止めらた。少しの足止めにはなるだろうと、コヨルは笑美の手を掴んで走り出した。
地面に足がついている時間のほうが少ないのではないかと思うほど、コヨルの走るスピードは速く、引く力は強かった。
何とかついて走っていた笑美だが、足のもつれがどうにもならなくなった時、ふわりと体が浮いたのを感じる。
コヨルが腕を引っ張り、走りながら笑美を抱きかかえたのだ。コヨルは笑美の重さを感じさせない歩みで走り続ける。大きな大木を見つけたコヨルは、笑美を抱えたまま重力などものともせずにひょいひょいと片手で木を登っていく。
枝の上に笑美を降ろしたコヨルは、すぐ下に追いついていた魔物達を見ながら笑美に告げた。
「ここにいて、すぐ終わる」
バッ、と。
笑美はコヨルの服を掴んでしまった。
慌てて手を離したが、コヨルは目を丸くして笑美を見つめている。狼狽して手をバタバタと振ったせいで木から落ちそうになり、笑美は慌てふためいて幹を掴んだ。
「……軟弱ぅ」
心底嫌そうな顔をして呟いたコヨルに、滅相もありませんと笑美は肩を落とした。本当にその通りである。年下の女の子が自分を抱えて走り、尚且つ一人で魔物の群れに立ち向かおうとしているのに、笑美はその勇気を応援するどころか引き留めてしまった。軟弱と言われても、甘んじて受け入れるしかない。
それにしてもコヨル、凄まじい運動神経である。靴からナイフが出てきたときは、流石に驚いた。異世界のメイドはそこまでプロフェッショナルなのかと。
けれど、いくらなんでも笑美は気づいていた。コヨルは、普通のメイドじゃないのだと。烏を扱えて、靴から短剣が飛び出して、自分よりも大きな人間を抱きかかえて木の枝に飛び移れる子なんて、普通じゃない。
「主様も、どこがいいんだろう」
ポツリとコヨルが息を零した。なぜ急にサイードの話になったのだろうと、笑美は首を傾げる。
しかし、一瞬後には自分が何か呟いた事など綺麗さっぱりなかった事にした無表情のコヨルが隣にいた。
「すぐ戻るから」
『わあああだめえええ』
そう言って枝からぴょーんしそうなコヨルの服を、笑美は慌てて掴んだ。首をキュッと絞められたコヨルは不機嫌そうに振り返る。
「何?」
スケッチブックは今手元にない。声も表情も通じないというのは何と不便だろうかと、笑美は身振り手振りで必死に伝える。
『いくらコヨルが強くても、女の子一人じゃ危ないよ?! 大人しく皆を待とう?! なんかのろしとかないの?!』
「聞こえない」
何かしゃべっていることは、笑美の振動からコヨルにも伝わるらしい。コヨルはしばし下に魔物がいることを忘れてやることにした。
笑美の行動を観察する。観察は、諜報員のコヨルにとって得意分野であった。
笑美はひたすらに必死だった。コヨルを指さし、人差し指を立てる。そして魔物を指さし、バタバタと両手を動かした。
観察が得意なはずのコヨルであったが、意味不明な行動を繰り返す笑美の伝えたいことが、全く分からなかった。魔物は一匹ではないし、下に魔物がいるのもわかっている。笑美が今更それを自分に伝えようとするとは、コヨルは思えなかった。
「何? わからない」
魔物を撲滅させなければ、護衛対象である笑美が負傷するかもしれない。そう感じたコヨルは笑美の乱暴なメッセージに段々と焦りを募らせていた。
『ああああもう伝わらないって面倒くさいいい!! こんな体にしたサイード、呪う。まじで呪う!』
笑美はサイードがいないのをいいことに、普段は面と向かって言えない暴言を天に向かって大きく叫んだ。ちゃぽんと大きな音が鳴る。
ムンッと気合を入れた笑美に言い知れぬ不安を感じたのか、コヨルが若干体を引いた。しかし笑美は躊躇せず、コヨルの小さな体を引っ張り抱き寄せる。枝の上で重心を動かしたことが思った以上に怖かった笑美が、抱きしめたコヨルにしがみつくように力を込めた。
『ひぃいいい! めっちゃ怖かったあああ』
けど離さない! ぎゅっと笑美はコヨルを抱きしめた。腕の中で硬直しているコヨルは、声を発すどころか、瞬きをすることさえ忘れている。
コヨルが動かなくなったことで、自分の言いたかったことが通じたのだと笑美は安心した。とりあえずこのまま救援を待とう、と呑気に考えた笑美は、物言わず動かぬ置物と化したコヨルを枝の上でずっと抱きしめていた。
暖かな陽気にうとうとし始めたころ、木の下で大きな音が鳴った。
めちゃくちゃに腹が立った人間が乱暴に魔法を発射したような、恐ろしい地響きだった。
枝の上で声なき悲鳴を上げた笑美は、咄嗟にコヨルを抱きしめる。体が小さく細っこいコヨルが落ちてしまうのではないだろうかと思ったのだ。
木の上で、しかも下に魔物がいる状態でまどろむような大物は笑美だけだったらしい。コヨルを見るとぱっちりと丸いお目目をきちんと開いていた。真ん丸お目目に見つめられ、笑美はえへへと頭を掻きながら笑みを浮かべる。
しかしコヨルはそんなことはどうでもいいとばかりに笑美を真剣な顔で見つめ返している。
「――壺姫、主様、好き?」
突然のコヨルの言葉に、笑美は声を無くす。
「早く答える」
え、えええ? 好き?? と笑美が驚いている間に、コヨルはカウントダウンまで始めた。笑美は大慌てで、ぶんぶんぶんと首を縦に振る。
コヨルはその答えに満足したのか、よしと頷いた。そして笑美に下を見ろと視線で促す。
笑美はコヨルを抱えたままそっと地面を見下ろした。笑美たちを美味しくバター炒めで食べてくれようとしていた魔物はすべて息絶え、炭と化している。そして、その消し炭の横には――
般若がいた。
芸人の方じゃない。仮面や絵巻物でしか見たことのない、般若が木の下に威風堂々と聳え立っていた。
「コヨル、申し開きがあれば聞きましょう」
血の底を這うような声は、サイードから発せられている。
秘密の会話を覗き見し、さらには迷惑をかけた笑美に対して髪が逆立ちそうなほど怒っているようだ。広げた手のひらをこちらに向け、悠然と笑美たちを見上げていた。
監督不行き届きでコヨルが先に詰問されているが、次は自分の番だろう。笑美はくらりと眩暈がした。
何故かゲラゲラと笑っているヴィダルの横で、冬馬とソフィアがそっと目を逸らしている。
あ、人生終了したな。笑美は短命を嘆いた。
「主様にご満足していただける情報をお渡しする心積もりがあります」
「――応じましょう」
何故か一瞬の内に怒気を沈めたサイードはこちらを向けて開いていた手を下ろした。そしてサイードの周りに陣が展開したかと思うと、木の根付近に圧縮された風の塊が出現する。
もしかして、般若の形相で開いていた手って、そのままこちらをミンチにする気だったんでしょうかとは笑美には聞けなかった。自分の身が死ぬほど可愛かった。
「飛び降りなさい、今すぐに」
コヨルは飛んだ。ぴょんと。無責任にも笑美を置いて。
『ええええええ??!!』
枝の上に取り残された笑美は、サイードが生み出した風の塊とコヨルを交互に見やった。
風の塊のおかげか――いや、元々のコヨルの運動神経だろう――難なく飛び降りたコヨルは、しかし一度もこちらに視線をくれない。ちくしょう、結局みんな我が身が可愛いのかと笑美は舌打ちをする。
「一秒無駄にするごとに、木を蹴って差し上げましょうか」
『鬼! おにちく! なにその情け容赦ない方法! 私カブトムシじゃないんですけど?!』
「早く飛び降りなさい」
『無理です、無理、高すぎる、むーりー』
気丈にサイードに向かって笑美が叫ぶ。サイードは物言わず、ただじっと笑美を睨みつけていた。その顔を見て、笑美は次第に元気をなくしていく。
コヨルがいなくなってしまったせいで、笑美の味方が誰一人いないように感じていた。
もう笑美は、ここらへんで限界だった。震える唇を噛みしめて、ぎゅっと両手を胸で結ぶ。
先ほどのサイードの言葉を思い出し、ジワリと涙が浮かぶ。
何気ない風を装っていたが、本当はあの時からずっと。一人で泣きたかったのだ。
『……早く降りて来いなんて、嘘つき。私がいなくても、本当は全然、かまわないくせに』
サイードどころか、下にいる誰も笑美の言葉に反応をくれない。
『顔が見えなくていいなら、適当な子に適当な壺被らせて、可愛いおべべ着せて、聖女だって公表したらよかったじゃない。ままごと程度の水しか作れない、お天気お姉さん引退間際の私を、呼ぶ必要なんて、本当はなかったくせに。聖女っぽければ、それでよかったんでしょ。どうせ私なんていいとこなしの、うじうじ壺虫よ』
――毒を求めれば毒水に
笑美はサイードを思い出す。サイードはあの時、じっと老師を見下ろしていた。笑美の視線になど、全く気付く気配も無く。ただ一心に、老師の動く皺ひとつ見逃すまいと。
信頼があるとは思っていない。育まれているはずもない。疑われるのは仕方がない。
だが、冷たい言葉に、鋭い視線に、笑美が慣れているはずもなかった。日本で笑美を包むのは、暖かい日の光がする真綿だけだった。
『耳触りのいい言葉と綺麗なお顔で、こんな小娘呼びに行くのなんて朝飯前だったよね』
サイードは、自分の顔の使い道を、よく、よぉくわかっていた。したたかな男だったんだろう。さぞや私の馬鹿さ具合に、心の中で手を打ったに違いない。
笑美は歯がゆくて、歯がゆくて。
『なによ、私じゃなくても、いいくせに。そんなこと、もっと早く気づいても、いいだろうに、馬鹿。こんなことぐらいで傷ついて、馬鹿。私の、馬鹿野郎ぅ……』
木の幹にしがみついた笑美は、ついに泣き出してしまった。しかし、泣き声も聞こえず、表情も見えない面々には、笑美が何を思っているのか通じることはない。
突然木の幹にしがみ付く暴挙に出た笑美を見て、仲間たちは呆れたように笑う。その中でサイードだけは、厳しい顔をして笑美を睨みつけていた。
「しっかりしなさい。聖女が、いつまでもそんなところで情けない姿を晒すことは容認できません」
いつまでたっても優しくないサイードの言葉に、笑美はぐっと唇を噛みしめる。
「早く降りてきなさい」
誰を待っていると思っているのです。
息を詰める。優しくもない、突き放した言葉に、笑美は今信じられない気持ちでいっぱいだった。
噛みしめていた唇がふるると震えた。
『……本当?』
笑美はポツリと呟く。
『本当に、私を、待ってくれてる?』
サイードは大きくため息をつくと、風の塊に突っ込んだ。大きく手を広げて笑美を見上げた。
「早くなさい」
笑美は枝の上で自分の心臓が高鳴ったのに気付いた。笑美に向けて両手を広げるサイードを見て、どうしようもなく涙が滲む。
迷う笑美を急かすようにサイードは眉間に皺を寄せる。その彼目がけて、笑美は思い切って枝から飛び降りた。
ぴょん
もわんとした風の塊のクッションを感じた一瞬後には、笑美はサイードの腕の中にいた。既に嗅ぎ慣れた香りは、笑美に安堵しか与えない。
サイードの胸に顔を押し付けて、辛かったと叫びたかった。ありがとうと、ごめんなさいと。声を大にして伝えたかった。しかしどれも、壺のままでは適わない。
サイードは胸にいる笑美の顔を掴むとつぶさに観察を始めた。頬を両手で包み込まれ、鼻がくっつきそうな位置にあるサイードの美しい顔に、笑美は息を止める。
湖畔の瞳が、揺れている。
汗ばんだ手のひらが、サイードが笑美を探し回って森を彷徨ったことを伝えていた。
しばらくの間笑美の顔を観察し終えたサイードは手を離すと、小さく息をついた。
「囀るのなら木の上でなく、腕の中になさい」
遊んでたわけじゃないんですけど。
笑美は心でそう反論しながらも、心底不貞腐れているわけではなかった。手のひらが汗ばみ、額がくっつくほど近くで無事を確認しなければ気が済まない程、サイードが自分を心配していたのがとても心地よかったからだ。
雪の言葉は人の体温を伝えない。しかし、笑美を見つめる瞳の熱だけは雪を解かす太陽のようであった。
どれほど笑美を心配していたか、言葉よりも雄弁に語るその瞳に――
あれ? と思った時には、もう心が冷えていた。
「サイード、あんたさぁ……」
冬馬の声が聞こえる。笑美はその言葉の先が、彼に言われるまでもなく想像できていた。
――あぁそうか。もう何度、これを思えばいいのだろう。
「壺も大事だろうけど、それ以外も心配してやれよ」
――私の顔は今、壺だった。
笑美はすとんと手を下ろした。全身に力が入らない。どうしてこれほどまで落胆しているのか、笑美には理解できなかった。
わかっていたことじゃないか。
サイードにとって、何よりも大事なものはお師匠様。その次か、その次の次ぐらいに、きっと世界。
その世界を守るのに必要になるかもしれないものは、私の首から上だけだ。
待っていたのは、私じゃない。私の首の上にくっついてる、壺。
わかっていたことなのに。笑美は、笑えないほど心が冷えてしまったのだ。




