01 : 魔法使いがやってきた
ゴーン ゴーン ゴーン
当座の面々の心情など幾許も慮ることなく、鐘は厳かに鳴り響いた。
ゴーン ゴーン ゴーン
白と金を基調にした豪華絢爛な広間。その広場に立ち並ぶのは、鎧やドレスを身を纏った何とも現実離れした人々だ。
キョロリ、と首を動かし、その光景をゆっくりと目に焼き付けると、再び視線を元に戻した。
視線と視線がぶつかる。
呆気にとられすぎて、現状をうまく把握できていない。動かない頭を、何とか回転させた。
正面にいる少年の足元には、荘厳な衣に身を包んだ男性が跪いている。気丈に顔だけは上げているが、その表情は緊張に歪んでいた。
その男性の背には、強く重く、踏みつける華奢な足がある。
その足を辿り、今度は目線を上げた。驚きに、目を見開いた少年がいる。彼だけが、このファンタジーな世界の中で、あまりにも特異な格好をしていた。
少年は、学生服を着ていたのだ。
あまりにも一般的な白いシャツと黒いズボン。よく見慣れた、どこにでもある制服だった。春先なのに上着を着ていないということはこちらの気温に合わせて脱いだのだろう。
そう簡単に推測できるほどありふれた格好をした少年の行動は、あまりにもありふれていなかった。
学生服を着た少年は豪勢な男性の背を踏みつけ、剣を持っている。剣の切っ先は、男性の首元だ。あと1センチでも動かせば、そのままザクリと首にめり込むだろう。
ぽかんと開いた口が元に戻らない。そう思ったところで、違和感を感じた。
あれ、口? 当たり前に存在するはずの口が、わからなかったのだ。開く動作をしたはずなのに、開いた感覚がしない。
『なに、こ、れ』
呟いたはずの言葉は、何故か耳に届かなかった。
再び違和感を感じる。耳も、耳もわからない。
『声が、聞こえない。私の、声だけ? しゃべれてないの……?』
驚いて、思わず顔を触った。
つるり。
およそ感じるはずのない手触りだった。
顔を触ったはずの手は、つるりとした艶やかな感触を伝えてくる。人間の肌とは程遠い、陶器のような艶やかさだ。肌を陶器に例えることはあっても、ここまで陶器めかしい肌は存在しないだろう。
セーラー服を着込んだ体に、一瞬の内に鳥肌が駆け巡った。首から上の感触が、余りにもおかしい。
震えを堪えて、あらんかぎり叫ぶ。
『な、な、なんじゃこりゃーーー!!』
その声は、自分の耳どころか、広間のどこにも届くことはなかった。
[ 聖女が、壺 ]
ソレは、突然やってきた。
「もし、そこな方。何か失せ物でも?」
「実は今朝、スカーフを落としちゃったみたいで……始業式だしないと怒られちゃうから、探してるんですけど……」
「すかーふ?」
「あ、制服のリボンです」
「それは、こちらではございませんか?」
春の陽気もうららかな午後。
はらはらと、桜が舞い散る通学路で、虎屋 笑美は声をかけられた。
通学カバンを路肩に置き、首を伸ばして道の隅々に目を届かせていた笑美は、声に導かれて振り返る。
父譲りの整った顔立ち、母譲りの烏の濡れ羽色の髪。一般的に美人だと評されることの多い笑美は、目の前に掲げられた臙脂色のスカーフを見て人好きされる笑みを浮かべた。
「そうそう、それです!」
ありがとうございます、笑美は笑顔で受け取ろう手を伸ばす。しかし、笑美の前に立つ人物はスッと笑美から距離をとった。そしてスカーフを持った手を笑美に届かないように天に向ける。
話しかけられるまま自然と応答していただけだった笑美は、その時初めて人と会話していたことを強く意識した。
話していたのは、男性だった。しかし、男性、の一言で片づけてしまうには少しばかり勇気がいる。
男性はちょっとばかしここらへんじゃお目にかからないような、なんというか――奇抜な意匠を着ていたのだ。
すっぽりとしたフードで顔を隠している。ゆったりとした白いワンピースのような服には、銀色の豪華な刺繍が施され、色とりどりのビーズが編み込まれていた。砂漠の民のような、豪族の王のような。笑美にはよくわからない出で立ちだった。
世の中には、笑美には到底理解できないセンスを持つ人もいる。服装は個人の趣味だし、うんうん、と頷きかけて――止まった。
男性は、白く艶やかな、絹のように美しい髪をフードから覗かせていたのだ。
風に遊び、粉雪のように髪が舞った。
「お初御目文字叶います。私、サイード・シャル・レーンクヴィストと申します。魔法使いを生業としております」
「あ、ご丁寧にどうも。虎屋 笑美、16歳。高校二年生です」
片手を背中に、もう一方を胸に当て折り目正しく礼をする男性に釣られ、笑美は咄嗟に自己紹介をした。そんな笑美を幾分か奇異な目で見ると、サイードと名乗った男性は口元に笑みを乗せる。
「此度は聖女様にご助力いただきたく、大変不躾ではありますが推参した次第でございます」
ほほう? と首を傾げる笑美に、サイードは被っていたフードを脱いだ。その顔の、なんと見目麗しいこと。美しく整った目も唇も、薄い三日月を描いている。
桜色の空の下で、男はまるで雪のように儚げだ。
「世は今、昏迷を極めております。どうぞ我が世界をお救いくださいませ、聖女様」
春の雪は、笑美を捉えて離さない。
「聖女?」
「運命に導かれたのです。貴方こそが、我が世を救いたもう聖女だと――」
笑美の手を、サイードは両手で取った。そっと手の中に忍び込まされたスカーフに、笑美が気づいた時には、サイードの大きな両の手で自分の手を包み込まれていた。
三日月が、どんどんと細く歪んでいく。背景の桜吹雪さえ、目に入らないほどの魅力だ。花嵐を吹き飛ばすほど秀麗な顔で、彼は微笑んだ。
「聖女様、その崇高なるお力で――」
笑顔は引力、言葉は魔力。
笑美は彼の言葉に何かを考えるよりも先に、大きく大きく頷いた。
「よし来た! どんと来い!」
満開の笑みを浮かべた笑美に、サイードは動きを止めた。
そんなサイードには気づかずに、笑美は張り切って声をかける。
「魔法使いって本当ですか? すごい衣装ですけど、もしかしてこの世界の人じゃないとか? あっそうだ、もし長期間家を空けるなら、パパとママに連絡し……な、きゃ――あ?」
ふわふわと視界を横切る明かりに不自然さを感じて、笑美は言葉を止めた。
そして、いまだに包み込まれたままだったサイードの手を、笑美はしっかりと両手で握った。漂う淡い光は、見間違いでなければ自分とサイードから放たれている。
恐る恐るそっと自分の体を見た笑美は、必死に悲鳴を飲み込んだ。サイードと、自分の体が半透明に透けていっている。夜でもないのに蛍が舞う奇妙な光景に、笑美は飲み込んでいた悲鳴を全力で吐き出した。
「きゃーーー!! お、お、お、おばけーーーー!!」
そのまま、視界は暗転。
――そして冒頭に戻る。
『なに?! なんで?! 顔が、顔がない! のっぺらぼう……のっぺらぼう? !』
騒いでいるはずの笑美の声は、一切あたりに響くことはなかった。もちろん、笑美自身に聞こえることもない。
深い深い静寂だけが、この異様な物苦しさを包み込んでいた。
笑美は今、豪華な広場に立ち尽くしている。隣には悠然と佇むサイードがいた。
左手には渡されていたスカーフを。そして右手にはサイード自身を掴んでいる。
あたりの風景が一変したことから、自分が魔法で世界を渡ってきたのだろうと笑美は予測した。
しかし、笑美には今の状況では理解できることのほうが少なかった。目の前の出来事も、自らの身に起きたことも、なにも判断できなかった。そしてそれらの疑問を、伝える術も、今笑美は持っていなかった。
だが、周囲は驚く笑美以上に驚愕していた。
物音ひとつしなかった広場に、今はざわざわとさざめきが広がっている。鎧やドレスを身に纏った人々が、あらん限り目を見開いて、舞台の中心にいる笑美とサイードを見ていた。
「なんと面妖な……」
「あのレーンクヴィスト殿が失敗したのだろうか……」
「いやしかし、あの珍妙な着衣は先だっての勇者に通ずるものがある……」
ひそひそと、笑美にざわめきが届く。
面妖? 失敗? 勇者?
わからない単語に首を傾げればいいのか、それともこの異様な室内から逃げ出せばいいのか笑美には判断がつかなかった。笑美はあたりを見渡した。
触れる顔の感触は自らの顔ではないが、どうやら視界は潰れていないらしいことに安堵する。
笑美は現状を把握しようと首を動かした。どうやら自分は今、広く豪華なホールの真ん中に立ち尽くしているらしい。笑美とサイードを中心に、幅広い大きな陣が展開されていた。陣は魔法陣で間違いないだろう。細かい模様がびっしりと書き連ねられた陣は、笑美に理解の余地を与えない。
笑美が好むファンタジーゲームによく出てくるような、鎧やローブ、ドレスを着こんだ面々がこちらを凝視している。そしてその観衆の前には、一等上等な鎧に身を包んだ衛兵たちが人々を守っていた。その衛兵たちだけは、こちらを向かずに皆一点を見つめている。
笑美は衛兵達の視線を追った。歯ぎしりしそうなほど緊張の面持ちで皆が見つめている場所は、今自分が立っている場所よりも、数段高く据えつけられていた。
「あんたふっざけてんのかよ! こんな時に壺被せた人間連れてくるか普通!」
壺? 壺って、何? と笑美はサイードを見上げた。
サイードは目の前の少年から一時も目を離さない。
その背後では豪華絢爛な椅子が、脚を向けて倒れている。
「これのどこが被っているように見えるのですか。どうみても、顔が壺になっているのでしょう。もし頭に被っていれば、壺は必然的に下を向きます」
え、ちょっと待って。違う、確実に今、論点はそこじゃない。
笑美は大慌てでサイードの手を引いた。どうなってるの! と、文字通り声にならない声で叫ぶ。
『壺って、壺って聞こえるんですけど! ねぇ、壺って何? !』
サイードは、笑美を振り向かない。声が聞こえていないのだ、と笑美は再び大きくサイードの手を引く。だが、サイードはなんの反応も示さなかった。左手の違和感に気付いているだろうに、笑美に一瞥もくれない。
「レーンクヴィスト殿! 勇者を刺激するのは!」
その時、群衆の隙間からひとつの単語が笑美に届いた。
勇者? 勇者って言った?
笑美は目を見開いて、少年を見た。
大の大人を足蹴にして、首元に刃物を突き立てている――同じ日本人にしか見えない、少年を。
「おい! あんた! そこの――壺!」
少年が強い強い力で睨みつけながら笑美に叫んだ。
笑美は、ぴゃっと飛び上がる。慌ててサイードを見上げて、自分を指さして問えば、サイードはようやく笑美を見下ろした。この異様な空気に似つかわしくないほど静かに彼はゆっくりと首を降ろす。
壺。
私が、壺ということで決定らしい。
笑美はサイードが自分を擁護してくれないことも、少年が勇者だということも、その勇者に叫ばれたことよりも、なによりも。自分が壺と呼ばれる存在になっていることがショックだった。
見下ろす自分は普通の姿をしているというのに、顔だけ壺になってしまっているのだろうか。あのつるりとした手触りを思い出し、笑美は声なき悲鳴を上げる。
「あんた、本当に日本人か? !」
少年の叫びに我に返った笑美は、ぶんぶんぶんと大きく首を振った。その拍子にぼとぼと、と変な音が聞こえた気がするが、今の笑美にそれを気にする余裕はなかった。
「来い!」
騒然とした場で、少年は強く笑美を呼んだ。
笑美はサイードを一度見上げた。もう一度、ゆっくりと頷かれる。
笑美は訳が分からないまま、刃物を持ち、大の大人を足蹴にしている暴力的な少年の元へ足を動かした。
赤い絨毯をゆっくりと進んでいく。笑美の一歩一歩を、観衆は固唾を飲んで見守った。
蹴り倒された椅子から察するに、跪かされているのはこの国の王様だろう。気丈な顔をして前を向いている。張り詰めた衛兵を抑制するため、この国の未来を照らすため。
笑美は、不安げに視線を彷徨わせながら玉座へと足を進めた。階段を登る足が非常に重い。皆の視線と緊張の糸で、全身を締め上げられているようだった。
笑美はいよいよ、たどり着いてしまった。
少年は王様の首に刃物を突き立てたまま、顔だけを笑美に向けて話しかけた。
「“おい、あんた”」
彼の声の調子が変わったことに笑美は気づいた。はっとして、顔を上げる。
「“俺の言葉、わかるか?”」
これはきっと日本語なのだろう。笑美はこくんと頷いた。
「“俺、――片峰 冬馬。あんたは?”」
そのあまりの普通な声色に、笑美に纏わりついていた不安や恐怖が解けていくのを感じた。伝えたくて叫ぶが、声にならない。笑美が代わりにこくこくこくと頷けば、冬馬は目を細めた。
「“しゃべれないのか?”」
こくん、と頷く。
「“その姿は、こっちにきた影響か?”」
詳しいことはわからないが、きっとそうだろう。笑美は一度首を捻った後、こくんと頷いた。
笑美の反応を見た冬馬の持つ、剣の切っ先が震えた。
その隙を見逃さず、周りに控えていた衛兵たちが目にもとまらぬ速さで王様を保護する。冬馬を捕らえる者は皆、決死の覚悟で飛びかかった。
大の大人が束になってもなお、恐れるほどにこの少年は強いのだろうか。
笑美は突然弾丸のように飛んできた鉛色に驚いて、無い声を失い、無い目を見開いた。
「“――同じ日本人を呼べば、気が晴れると思ったんだ……。こんな意味の分からん夢、覚めると思った……”」
衛兵に両手を拘束されている冬馬が、項垂れて言った。
「“なのに。夢は冷めないし、気分はより最悪だ……こんなの、嘘だろ”」
冬馬の虚ろな目は、何も写さない。睨みつける力もないのか、ただただ項垂れて床を眺めている。
笑美は冬馬に、一歩近づく。
「“……俺、魔王を討伐する、勇者なんだって。急に、こっちに、呼ばれて”」
笑美に気づいた冬馬が、ぽつりと呟く。こくん、と頷いた。
「“……一人が嫌で、あんたも巻き込んだ……ごめん”」
こくん、と再び頷く。
『よくわかんないけど、大丈夫だよ』
言葉にしたが、冬馬には届かなかった。笑美は少し考えた後、無造作に握ったままだったスカーフを、シワも厭わずスカートのポケットに突っ込む。人間のままの手にほんの少しだけ安堵しつつ、冬馬の手をそっと取った。
びくんと大きく震えた冬馬の拳を、包み込む。冬馬の手は、信じられないほど冷たく、指が食い込みそうなほどきつく握り込まれていた。
笑美はその指を、1本ずつゆっくりと持ち上げる。強張っていて中々解けなかった指が、ぎこちないながらもすべて開く。笑美は人差し指で手のひらにゆっくりと文字を書いていった。
だ い じ ょ う ぶ
「だい、じょうぶ……」
こくん、と。
頷いた笑美に冬馬が抱き付いてきた。衛兵による両手の拘束など、何の意味もなかったことがわかるほど自然な動きだった。
顔が壺の少女の腰に縋りつく、最強無敵の勇者。
その不気味な異様な光景に、誰もが言葉を無くしていた。




