愛の言葉
県北に位置する農村の、古びた旅館に彼ら夫婦がやってきたのは、3月の終わりごろだった。
この旅館にやってくる夫婦の大半は、まず不機嫌な顔を見せる。片道2時間以上かかる上に、この上なく道が悪いからだ。長い道中では、苛立ちに任せて日頃の不満が口から飛び出すのだろう。
そんな山奥の古宿に客が途絶えないのは、パワースポットと世間で噂されている滝が近くにあるからである。
今回訪れた夫婦も、その滝に打たれにやってきたのだという。
「腰が痛い。もう今日は動ける気がしないよ」
部屋で大の字に寝転がる男に、早紀はねぎらいの言葉を掛ける。
「道が悪い中ご苦労様でした。うちの温泉はデトックスや疲労回復の効能がございます。是非ご利用ください」
「あら、あなたが動けないんだったら、仕方ないから私一人で入ってこようかしら」
女は男に棘のある視線を投げ、風呂の支度を始めた。
「勝手にしてくれ」
男は寝返りを打ち、本格的に寝る体勢に入る。この夫婦間にもこれまでの多分に漏れず、険悪なムードが漂っていた。
夫婦が必ず険悪になる旅館。こういうのもある意味ではパワースポットと呼ぶのだろうか、と早紀は思う。
「夕食は6時ごろでよろしいですね。では、ごゆっくり」
早々に引き上げるため、早紀は締めのマニュアルを口にする。
扉を閉めるまで、夫婦の苛立ちまぎれの言い合いが聞こえてきた。
「この旅館、他に客はいるのかい?」
そう聞かれたのは、風呂上がりの男と廊下ですれ違った時だった。
「いえ、今日はお客様と奥様の二人だけです」
いくらパワースポットが近くにあるとはいえ、商売繁盛とは程遠く、平日に旅館を訪れるお客はほぼいない。男は首をかしげながら呟いた。
「あいつが二度風呂でもしたのかな」
早紀も何の事かと首をかしげると、男は察したのか事情を説明した。
「いや、妻が部屋へ戻ってから俺は温泉へ行ったんだけど、隣の女風呂で人の気配がしてね。他に客はいないと思っていたから少しびっくりしたんだ。清掃の人だったのかな」
「いえ、清掃は毎日午後3時頃にしかやっていませんが」
男は訝るように、再び首をかしげながら部屋へ戻っていった。
料理を部屋へ運ぶ最中、女と出くわした。
「もう食事の時間?」
「ええ、6時を過ぎましたので」
女は盆に乗った料理を一瞥して言った。
「私、もう一度お風呂に入ってくるわ。先に食べといてと伝えてくれるかしら」
「かしこまりました」
男は料理を見るや、空腹を思い出したようにがっつき始めた。
「奥様は温泉へ入られるようです」
「あいつがそんなに温泉好きだったなんて知らなかったよ。一日に三度も入るなんて」
男は一人の食事が寂しいのか、早紀に向かって愚痴をこぼし始めた。
「最近妻の様子がおかしいんだ。今日だって動けないって言うのに何度も温泉に入れってうるさいし。前はあんなにガミガミいうやつじゃないかったのに」
翌日、男は布団の上で死体になっていた。女も倒れ、救急車で運ばれたが一命は取り留めた。
新聞によると、女は男と心中するつもりで滝を訪れたようだ。所持していた水筒から毒物が検出された。女が辛うじて助かったのは、温泉のデトックス効果である程度毒素が抜けていたからだった。
女が男に温泉に入れと何度も強要したのは、心中を思い直しての愛の言葉だったのかもしれない。