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『人間失格』

 この作品には太宰治著『人間失格』、『晩年』から引用した台詞が含まれています。

 精一杯作ったキャラクターですので、物語中に登場するキャラクターの誰かでも好きになってもらえたら幸いです。

 気軽にご意見、ご感想、ご批評をしてください。

 どんな内容も真摯に受け止め、良い感想は手放しで大喜びします。


 最終話 『人間失格』


 放課後、部室に呼び出された俺は部室等の廊下を歩いている。

 寒くなれば陽が落ちるもの早くなり、まだ午後四時過ぎにもかかわらず太陽は遠くの山に姿を隠し始めていた。

 部室のドアをノックすると、先に相手が待っていたようで声が返って来た。

 ドアを開けて部室に入る。

 まず差し込んできた夕日に目を細めて、凍えるような寒さだった廊下とは違い僅かに暖かくなっていた部室に気持ちが緩む。

 呼び出した相手は西日を背にして、こっちを向いて優しく微笑んだ。

「来てくれたんだ。嬉しい」

 微笑んだといったが、実際は逆光で表情を見ることが出来ない。

 口角が上がったから、笑顔になったと感じただけだ。

「珍しいな。佐鳥が誰かを呼び出すなんて」

「そうかな? そんなことないと思うけど」

 室内は僅かな電気ストーブの音がはっきりと聞き取れるほど静かで、普段使っている部室とは雰囲気が違っているみたいだった。

「ねぇ、苗木くん」

 俄かに緊張した声で、佐鳥は俺のことを呼ぶ。

 その緊張が伝染して、自然と心臓の鼓動が速くなる。

「私と付き合ってください」

 澄んだ声で、はっきりと佐鳥は俺に告白した。



 俺と佐鳥が付き合いだしたという噂は、あっという間に学園中に広まっていた。

 しかし、実際のところ俺と佐鳥は付き合っていない。

 告白された日、俺が返事する前に佐鳥は返事を断った。

「お弁当、今日も作って来たから一緒に食べよう? 悠人くんの為に早起きして作ったんだよ」

 断ったというよりは、先延ばしにしたといったほうが正しい。


『お試し恋人期間。この間に苗木くんが私のことを好きになってくれたら嬉しい』


 そう、佐鳥は言った。

 実際、翌日から佐鳥は俺のことを名前で呼ぶようになり、周りも佐鳥の雰囲気から付き合いだしたのではないかと噂になったくらいだ。

 今もこうして、わざわざ部室に移動した俺たちは向かい合いながら弁当を食べている。

「どういうつもりだ?」

「何が?」

 質問に対して、質問で返される。

 佐鳥の前には俺に渡した物より一回りほど小さな弁当箱があって、その中の一つ、アスパラのベーコン巻を口に放り込む。

 もちろん、質問の意味を佐鳥が理解していないわけがない。

「お前は俺のこと、そもそも好きじゃないだろ?」

「ううん、大好きだよ」

「嘘だ」

 口に入っていたモノを飲み込んで、佐鳥は拗ねたような表情でこっちを睨む。

「嘘なんて吐いてないのに」

「嘘だよ」

 断言してもいい。

 佐鳥咲桜は俺のことが好きではない。

 それなのに佐鳥は告白して、今もこうして弁当を作ってきている。他にも登下校を合わせたり、休み時間、用事もないのに顔を見せにやってきたりしていた。

 部活ではちょうど佐鳥と夫婦役をやっているが、今回の告白と関係があるのか分からない。

 『人間失格』の舞台も、そろそろ終幕に近づいていた。

「別に俺のこと好きじゃないだろ」

「そうかな? そんなことないけど」

 ふふっと砕けた笑みをして、じっと俺の目を見つめる。

「でも、特別だとは思ってるよ」

「どうだか」

 ため息交じりに言って、俺は逃げるように視線を逸らした。

 本音を言っているとは思えないが、それを口にしている時の佐鳥は真剣そのものだった。


 あっという間に広がった噂は事実として収束して、公然として俺は佐鳥の彼女になっていた。

 そうなってから知ったことだが、佐鳥の人気は予想以上に凄かった。

 誰に対しても平等に優しく、それでいてそういった態度を鼻に掛けることもない。

 一言で説明するなら、佐鳥は高嶺の花のような存在だったらしい彼女と付き合っている男として、羨望や妬み、あらゆる視線のもとに晒され続けたのだ。

 正直、これには堪えた。

 他人の視線に対する耐性を俺はとある事情から失っている。

 その事情はすでに解決済みだが、問題が解決したからと言って問題がなかったことにはならない。

「お疲れみたいだな」

 放課後、部活に行く前に教室で突っ伏していると呑気な声がして肩まで叩かれる。

「誰だっけ、お前」

「夕哉だよ! 親友の名前を忘れんな」

「えっ、悪い。……えっと」

「夏原夕哉だよ! お前の親友の! 本当に忘れてんじゃねぇよ!」

 体勢を直して、爽やかな笑顔を浮かべた。

「冗談だ」

「気持ち悪いな。本気で忘れてたわけじゃないよな……っ」

 そういって夕哉は呆れたように肩を落とす。

「彼女と喧嘩でもしたのか?」

「彼女じゃねぇよ」

 一応、演劇部の全員は俺と佐鳥が付き合っていないことを伝えてある。

「別に付き合えばいいだろ? 佐鳥に何か不満でもあるのかよ」

「あるわけないだろ」

「なら、どうして付き合わないんだよ」

 付き合うとか、付き合わないとか以前に佐鳥と俺ではまず前提が間違っている。

 好きでもない相手同士が、どうして付き合うなんて話になるのだろうか。

「別に。関係ないだろ」

 そもそも俺には他に考えることがある。

 脅迫状の犯人探しだ。

 犯人が結理ではなかったことに加えて、姉も俺の本質を知らなかった。

 直接説明した菫ちゃんを除けば、この世で俺の秘密を知っている人間は犯人ただ一人ということになる。

 自分でいうのは自慢のようだが、うまく隠していたという自負がある。

 なぜ、犯人は俺の秘密を知りえたのだろうか。

「まぁ、あれだけの美少女だ。なおかつ、性格も折り紙付きときてる。気が引けるもの分からなくはない。佐鳥と釣り合う男なんぞ、そう居ないだろ」

「何の話だ?」

「何ってお前、自分が佐鳥と釣り合ってないからダメだって思ってんだろ?」

 完全に決めつけて話している夕哉に対して、呆れを通り越してため息も出来ない。

「(そういや、こいつも犯人候補の一人だったな)」

 もしそうだったとしたら、相当な切れ者か、演技力の持ち主だ。

 だが、夕哉のおかげで重要なことに気付けた。

 一瞬だけ助言をしに来たかとも勘ぐったが、夕哉に限ってそれはない。

「お前って、たまにいい奴だよな」

「たまには余計なお世話だけどな」

 そういってため息を吐く。

「どちらにしろ、ちゃんと答えくらいは出してやれよな」


「おはよう、悠人くん。一緒に行こ」

 最近、佐鳥と一緒に登校することが当たり前になってきていた。

「ダメですよ、咲桜先輩。お兄ちゃんは今日、結理と一緒に行くんですから」

 だが今日は少し違い、つい数分前、部屋の前で待ち伏せしていた結理に捕まっていた。

「結理ちゃんも、おはよう」

「お、おはようございます」

 いつもと変わらない優しい笑顔に結理はたじろいで、すすっと俺の背後に隠れる。

「とにかく、結理はお姉ちゃんからお兄ちゃんを任されているんです。いくら咲桜先輩でも、こればかりは譲れません」

「うーん。でも、私と悠人くんは恋人同士だし」

「ち、違うってお兄ちゃんが言ってました!」

 何がとにかくなのかは知らないが、今朝の結理は佐鳥に対して警戒心むき出しだった。

「うん。まだ違うかな」

「ま、まだ……ッ?」

 敏感に反応した結理は、完全に瞳孔の開いた目でこっちに視線を向ける。

「その顔、怖いから止めろ」

「お兄ちゃんは結理と咲桜先輩のどっちが大切なのッ⁉」

 どうにも今朝から結理は情緒不安定だ。

 変なテレビでも見たのだろうか。

「そんなこと、結理のほうが大切に決まってるだろ?」

「お、お兄ちゃん!」

 なぜか感極まったように目を潤ませて、組んでいた腕を話して今度は抱き付いてくる。

「結理も大好きだよ!」

「お、おい」

 危うくバランスを崩しかけて、よろけた分下がった足を踏ん張る。

「お、おはようございます」

 そんな中に登場したのは、外面になっている菫ちゃんだった。

「菫ちゃん、ちゃんと結理。お兄ちゃんを取り戻せたよ!」

 顔を話した結理は菫ちゃんを見つけると開口一番にそう言って、今朝一番の笑顔を浮かべる。

 なるほど、原因は菫ちゃんだったらしい。

 隣に並んで、耳元で菫ちゃんが囁いてくる。

「このまま先輩を奪われるのは、私としても納得出来ないので」

 意味が分からない。

 だが、その呟きの後菫ちゃんは佐鳥のほうを見て、外面ではない意地悪な笑みを見せる。

 この光景をずっと見ていた佐鳥は、少し困ったような表情で微笑んでいた。

 放課後、雑用を頼まれて佐鳥と部活棟の廊下を並んで歩いていた。

「今日は悪かったな」

「どうして悠人くんが謝るの?」

「結理は、妹みたいなもんだしな」

 今朝の一件以降、菫ちゃんに何を言われたのかは知らないが結理は俺にべったりだった。

 つい先日、姉に会わせようとしつこかった時を思い出す。

「それと、二人の時くらいは名前で呼ぶの止めてくれないか?」

「恋人同士って、普通名前で呼び合うものだよね?」

「苗字で呼び合う奴も居るだろ」

「それって恋人になってくれるってこと?」

「違う」

「そう、残念」

 全然残念そうには聞こえなかったが、佐鳥の口調が僅かに沈んでいる。

「苗木くんは、私のこと嫌い?」

「嫌いじゃない。佐鳥にはこれまで、いろいろ世話になってるしな」

「なら、付き合ってくれてもいいと思うんだけど」

「それとは話が別だ」

 志穂先生や菫ちゃん、柏瀬部長の時も佐鳥の助言や手助けがなければ問題の解決は難しかった。

 必要な時に、必要な情報をくれたことは間違いない。

「俺に手紙を送っていたのって、お前なんだろ?」

 だが、見方を変えればそれは誘導していたとも考えられる。

「手紙?」

 首を傾げて、とぼけたように口を開く。

「脅迫状のことだよ」

「えっと、何のことを言ってるのか。わかんないよ」

 足を止めて、困惑気味に佐鳥が尋ねてくる。

「苗木くん、誰かに脅迫されているの?」

 脅迫状を送った犯人だと言ったにもかかわらず、佐鳥は怒る様子もなく反対に心配している口ぶりだった。

 疑って掛かっているからか、佐鳥のこの態度は素直に気色悪いと思う。

 犯人だと疑われたら、いくら優しい人間でも少しは不機嫌になってもおかしくない。

 だが、佐鳥が取った行動は俺に対する気遣い。

「まぁ、嘘だけどな」

「ちょっ、酷いよ! もう、本気で心配したのに」

 憤怒したように声を上げるが、たいした迫力もなく尻下がりに語気が落ちる。

「お前だって俺に嘘を吐いてるだろ。その仕返しだ」

「嘘なんて吐いてないよ」

 抑揚も声色もなく平坦に呟いて、視線を佐鳥に向けると潤んだ瞳で口を開いた。

「私はずっと前から、苗木くんのことが好きだったよ」



「どうして、泣いているの?」

 最初の感想は、「ああ、またこの夢か」と考えるより先に思っていた。

 思いながら、それがいつのことだったのを思い出せない。

「――ひっく、今日はピアノの発表会、だったの」

 公園のベンチで涙を流す女の子は、俺の目にはデジャブのような親近感があった。

 だからきっと俺は、この女の子に声を掛けずに居られなかった。

「でも、怖くて逃げ出しちゃった……っ」

 そう答えた女の子に対して男の子――俺は、女の子が泣かずに済む方法を教えたのだ。


 少し頭が重い。

 あまりいい目覚めとは言えなかった。

 身体の調子自体は悪くないが、何かが頭の中で引っかかっているようで気持ち悪い。

 気分を切り替える為に冷水で顔を洗い、ヘッドホォンで時間を確認したが朝食を食べている余裕はないようだった。

「おはよう、悠人くん。一緒に行こ」

 急いで制服に着替えた俺が寮の玄関まで来ると、昨日と変わらない様子で佐鳥が立っていた。

「遅刻するぞ」

「うん。走らないと間に合わないかも」

 屈託のない笑顔を浮かべていて、言葉とは裏腹に佐鳥から焦りが感じられない。

「勝手にしろ」

 返事を聞く前に下駄箱に移動して、佐鳥と並んで寮を出た。

 幸い遅刻をせずに済んだが、遅刻ギリギリに佐鳥と登校したことで小さな噂になってしまった。

 こんなことで噂になるのだから、佐鳥の人気の高さが窺える。

 もしかしたら、夕哉が知らないだけで菫ちゃんみたいにファンクラブが存在しているかもしれない。

 これから夜道は外灯の多いところを帰ることにしよう。

「お、お、お兄ちゃんは咲桜先輩のことが好きなの?」

 昼休み、あくまで世間話の延長線上といった雰囲気で結理が聞いてきた。

 そういう風に装っているようだが、この話題に切り替える前に結理はしばらく押し黙り、完全に意を決したように話し始めていた。

 そもそも誰もいない空き教室に誘った時点で、何か用件があったことは明白だった。

 昼休みに佐鳥が来なかったことを考えると、結理は演劇部の代表として来ているのかもしれない。

「どうなの?」

 そうして、数秒も経たず催促するように尋ねてくる。

「嫌いではないな」

「それじゃ、好きなのッ?」

「そう結論を急ぐなよ」

 もはや、世間話の体裁のことを結理は忘れてしまっているらしい。

「ごめんなさい」

 本気で項垂れる結理の姿を見ると、素直に答えてやりたい気持ちになってくる。

 だが、答えてやるにも俺はもそもそ答えを持っていない。

 好きとか嫌いとか、そんなことを考える余裕なんて今まではなかった。

 これまでずっと俺は相手の顔色を窺って、相手に拒絶されないように必死だった。

「結理は凄いな」

「ふぇ?」

 顔を上げた結理は、困惑した表情で首を傾げる。

 相手に拒絶されるかもしれないと分かりながら、結理は俺に告白してくれた。

 それはとても俺には出来ないことだ。

 せめて、誠意だけはちゃんと伝えたい。

「佐鳥のことは嫌いじゃない。けど、恋愛対象として見たことは一度もないよ」

「ほ、本当に?」

「嘘じゃない。恥ずかしい話、俺にはまだ恋愛がどういうものか分からないんだ」

 これまで他人は恐怖の対象でしかなかったのだ。

 他者とは違う自覚の中で、相手に合わせることで神経を磨り減らす。

「う、うーん……っ」

 本音を口にしたつもりだったが、話を聞いた結理は落胆したように肩を落とした。

「結理としては、いつでもどんとこいなんだけどな」

「何が〝どんとこい〟なんだ?」

「うぇッ! あ、何でもない。何でもないよ!」

 きっと自惚れではないのだろうけど、結理との関係を先に進める余裕が俺にはない。

 真正面から好意を向けてくれる結理は俺には眩しすぎた。

「俺のことを心配してくれたんだな。ありがとう、な?」

「う、ううん! 別に、お兄ちゃんのことなんか気にしてないんだからね!」

「なぜ、ツンデレ?」

 赤面する結理は、ワナワナと身体を震わせる。

 どうやら相当恥ずかしがっているようだ。

「……こういうのが好きだって」

「ああ」

 それだけでなんとなく予想が出来た。

おそらく菫ちゃんに何かを吹き込まれたのだろう。

 少しはリハビリの効果が出てきたようだが、正直それがいい方向に進んでいるかといえるかは分からない。

「えっと」

「やめて! 何も言っちゃダメだよ!」

 叫ぶような大声で言葉を遮られ、空き教室から出ていこうとする。

「結理、大切な用事を思い出したから帰るね!」

「ちょっと待て!」

「はいッ!」

 慌てて呼び止めると裏返った声が返ってきて、結理が挙動不審に振り返る。

「何か、やりたいことは決まったか?」

「――あ」

 そう尋ねると困ったような笑みに変わって、肩を竦ませてから結理は小さく首を振った。

「そうか」

「ごめんね、お兄ちゃん」

「いや、呼び止めて悪かったな」

「ううん、もっとちゃんと考えたいんだよ。今まで考えてこなかった分だけ、悩まなくちゃ」

 困ったような笑みが照れた表情に変化して、胸のあたりで小さく手を振ってから結理は空き教室を出ていった。

 佐鳥に犯人かと聞いた時から、一つの仮説が頭の中にあった。

 一人になった空き教室で遅い昼飯を食べながら、仮説の証明を試みる。

「どうして、佐鳥が俺の秘密を知っていたのか。もしくは、どうやってそれを知りえたのか」

 もっとも重要な議題を口に出して、一つの仮説を当てはめてみる。

 それは、佐鳥が俺と似た存在ではないかということだ。

 誰にでも優しい性格は、誰に対しても平等に扱っているといえる。

 要は、特定の人物と深く関わらないようにしているのではないか。

 次に佐鳥には一切、悪い噂が存在しない。

 人気者ならば必ずと言っていいほど、人気の高さに比例するように対立する人間が現れる。

 それが佐鳥には存在せず、噂にもならない。

 これだけ俺と佐鳥が付き合い始めたと噂になっても、すべてが彼女を応援している雰囲気があった。

 おかしいことなら他にもある。

 俺が少なからず佐鳥のことを信頼しているという事実だ。

 何を馬鹿げたことを言っていると思うかもしれないが、俺はこれまで他人の顔色を窺って道化を演じていたような人間だ。

 そう簡単に他人を信用したりしない。

 だが、佐鳥は自然と今のような絶妙な立ち位置を得た。

 そして、俺が佐鳥に似ていると思う最大の理由は彼女の主体性の無さだ。

 佐鳥はこれまで一度も矢面に立っていない。

 裏方に徹して、けっして表舞台に上がってこない。

 ならば、今回の恋人騒動は不自然な行動ということになる。

 今や佐鳥は話題の渦中、中心人物だといえる。

 つまり、この仮説は間違っている。

 だが、それは違う。

 佐鳥には余裕がないのだ。

 俺が、俺自身の問題を解決してしまったからだ。

 この仮説が正しいとして、万が一俺の予想が当たっているとしたら、現在佐鳥は相当追い込まれている。

 形振り構っていられない状況で、佐鳥はたった一人で追い詰められている。

「――はぁ」

 一通り思案して、凝り固まりそうな頭を一度切り替える。

 まるでこれが真実のように捉えているが、そもそも仮説が間違っていればこんなのはただの妄想に過ぎない。

 この日、佐鳥は初めて部活を休んだ。

「よう。三日ぶりだな」

 二日続けて学園を休んだ佐鳥は、明らかにやつれた顔をしていた。

「デートしようぜ」



 佐鳥が学園を休んだ日、部活が始まる前に俺は職員室を訪れた。

「うひゃいッ! あ、悠人くん?」

 なぜかデスクの下に入っていた志穂先生に声をかけると、挙動不審に周りを確認しながら俺の背中を押しながら囁くように言った。

「生徒指導室で話しましょう」

 されるがまま生徒指導室に移動し、部屋のドアを閉めた志穂先生がほっと息を吐く。

「どうかしたんですか?」

「えっ、あ、ううん。たいしたことじゃないの」

 二個が繋げてある長テーブルで向かい合うように座りながら、申し訳なさそうに志穂先生が事情を説明する。

「――ということなの」

「はぁっ」

 簡単に説明すると、志穂先生は他の先生や生徒から逃げていたらしい。

「それならさっさと部活に出たらよかったじゃないですか」

「ダメよ。下校時刻はたくさん人が居るでしょう?」

「そりゃ、まぁ」

 下校中に限らず、ここには一定数の人間が居る。

 当然だが。

「でも、あんなところに隠れてたら不審に思われるんじゃ」

「うぐっ」

 デスクの下に入っていた理由、正しくは隠れていた訳は頼み事から逃げる為だった。

「少しずつ自分を出していこうかなって」

「その結果があれなんですね」

 そう尋ねると、すっと気まずそうに志穂先生は視線を逸らした。

「先生にだって、プライベートな時間は必要だと思うんです」

 そのプライベートの時間を使ってかくれんぼをしているのはどうかと思ったが、話が長くなりそうなので言わないでおこう。

 以前の志穂先生なら、どんなに忙しくても頼まれれば断らなかった。

 いや、今でも断れないから逃げているのかもしれない。

 姉のような先生になれるように頑張っていた志穂先生だったが、今は先生なりの教師像を模索しているようだ。

「それで、先生に話があるんだよね」

「ああ、そうでした」

 あまりに教師らしからぬ可愛らしい行動に本来の目的を忘れるところだった。

「佐鳥のことなんですけど」

「佐鳥さん?」

 本題を切り出すと、俄かに志穂先生の表情が険しくなる。

 俺が尋ねた内容の基本は、佐鳥が以前に通っていた学校のことだった。

 一言でいえば、経歴だ。

「生徒の個人情報を話せないことくらい、悠人くんでも分かるよね?」

 当然の返答に頷いて、内容を切り替える。

 僅かに志穂先生なら話してくれるのではないかと淡い期待があったが、教師としてそこまで甘くないらしい。

「それなら志穂先生から見て、佐鳥はどういう生徒ですか?」

「えっ?」

 数回瞬きをして、志穂先生は腕を組んで唸り始める。

 その光景は子どもが大人の真似事をしているようで、思わず写真に収めたい衝動に駆られてしまうほど愛らしかった。

 こんな子どもなら、父親になるのも悪くないかもしれない。

「凄くいい子だよ。手伝わされてる先生の手伝いを何度もしてもらってるし、困ってる時は助けてくれるし、凄く頼りがいがあるの」

 到底教師の言葉とは思えない返事が戻って来た。

「私、先生に向いてないのかな……っ」

 話し終わってからそのことに気づいたようで、あさっての方を向いて志穂先生が自虐的に呟いた。

 だが、すぐに表情が真剣なものに変わって視線をこちらに向ける。

「だから、先生は佐鳥さんのことを評価しているし、佐鳥さんが困っているのなら相談に乗ってあげたい」

 すっと目を細めた志穂先生には、年相応の大人びた雰囲気があった。

「でも、今それが出来るのは悠人くんだけなのかも」

 この瞬間、初めて志穂先生が本当に先生なのだと感じた。


「ま、テキトーに座ってて」

 部活終わりに話があると柏瀬部長に伝えると、俺は部長の部屋に招待された。

 部屋全体を見回してみると、以前のように原稿が散乱していることもなくあらゆるものが整理整頓された綺麗な部屋に変わっていた。

 物がほとんどない菫ちゃんの部屋と違って、部長の部屋はモデルルームのようだった。

「どうしたの? 人の部屋をジロジロと観察して」

「あ、いや、全然違うなと」

 戻って来た部長の手にはマグカップが二つ、一つをベッドに座る俺の前のガラステーブルに置く。

 部長はデスクの椅子に座って、コーヒーを一口飲んで息を吐いた。

「別の部屋じゃないかと思って」

「さらっと酷いこと言わないでよ」

 呆れたように呟いて、今度はため息を吐く。

「ま、そう思われてても仕方がないか」

 部屋の中はコーヒーのほの苦い香りが漂っていて、落ち着いた気持ちで本題を口にする。

「佐鳥のことなんですけど」

 ある程度は想像していたようで、気にした様子もなく部長が小さく頷く。

「やっぱり、あなたたち付き合ってるの?」

「付き合ってません」

 もうこれで何度目だろうか。

 否定するのも慣れてきた。

「なら、好きでもない女性のことを根掘り葉掘り訊きたいってことね」

「人聞きの悪い言い方をしないで下さいよ」

「ふふっ、だって本当のことでしょ?」

 機嫌良さそうに訊いてくる柏瀬部長は、椅子の背もたれを前に体育座りをしている。

 部屋が綺麗になっても部屋着は変わらないようで、視線を僅かでも落とすと下着が見えそうになってしまう。

「それで、咲桜の何が知りたいの?」

「話してくれるんですか?」

 あまりにもあっさりで、思わず聞き返してしまった。

「知りたくないの?」

「ああいや、そうじゃなくて。もっと理由を聞かれるのかと思って」

「聞いて欲しいの?」

「出来れば、あまり」

「なら、どこもおかしくないじゃない」

 完全に言いくるめられた。

 反論がない以上、話を進めない理由もない。

「俺が入部する前の佐鳥は、どういう奴だったんですか?」

「直球ね」

 コーヒーをデスクに置いて、体育座りから足を延ばした体勢に変わる。

「でも、悠人が期待しているような話は出来ないかもしれない」

「構いません」

 そう答えると柏瀬部長は、困ったようなくすぐったいような微妙な表情を浮かべた。

「私と咲桜が知り合ったのは去年、演劇部に入部届を持って来た時から」

 思い出しているような雰囲気もなく、すらすらと部長が話を続ける。

「でも、話をするようになったのは今年からよ」

「そうなんですか?」

「ええ、咲桜は空気が読めすぎるから。それこそ、息をするのと同じくらいの感覚で」

 僅かに口調が暗くなったのは、現在もリハビリを続けているな菜綱ともみのことを思い出したのだろう。

 柏瀬部長は、ある理由から他人との関わりを避けていたのだ。

「去年は咲桜と夏原くんしか入部しなかったから、三年生からも二年生からも凄く可愛がられてたわ」

 まるで他人事のように話す部長に自嘲な空気はない。

 おそらく、実際柏瀬部長にとっては本当に他人事だったのだ。

「すぐ演劇部に溶け込んで、セリフ覚えも良かったから一年生で舞台にも立たせてもらってたし」

「妬みとか、恨まれるなんてことはなかったんですか?」

 これまで運動部にも文化部にもロクに属したことがないが、運動部よりも文化部のほうがそういうものが悪質だと聞いたことがある。

 佐鳥は誰から見ても美人だし、性格から考えて人気もあっただろう。

「なかったわね。私たちに遠慮して、咲桜は絶対に主軸な役をやりたがらなかったし」

 当然と言えば、当然か。

 普通の演劇部のことは分からないが、柊木学園の演劇部は人数が少ない。

 それだけに人間関係は密になる。

 その関係を壊しかねない変化を佐鳥が望むわけがない。

「三年生が卒業して、私たちも引退することになってからね。ちゃんと咲桜と話をするようになったのって」

「そういえば、部長はどうして引退しなかったんですか?」

 話が脱線してしまうが、ふと疑問に思った。

「たいした理由じゃないわ。他に台本を書ける人が居なかっただけよ」

「あっ、すみません」

 失敗したことに気づいて、頭を下げる。

「そういう察しのいいところ、少し咲桜に似てるわ」

 菜綱ともみが好きだった〝人間失格〟を書くことで、柏瀬部長は過去を清算しようとしていた。

「台本が決まってからね、咲桜が私に話しかけてくるようになったのは。たぶん、気を遣われていたんだと思う」

 そして、役者不足を補うように俺が演劇部に入部した。

「少しは役に立ったかしら?」

 自信なさげに尋ねる部長に対して、伝わるように力強く頷いて返す。

「私、これでも咲桜には感謝しているのよ。あの子の距離感とか、前の私にとっては心地良かったから」

「それは今もですか?」

 意地悪な質問だとは分かっていたが、どうしても柏瀬部長の口から聞いておきたい。

「そうね。今はちょっと寂しいかもしれないわね」

 珍しく照れたように微笑んで、一息吐くように柏瀬部長はマグカップを手にした。

 たぶん、これが答えなんだと思う。

 部長の部屋を後にすると、待ち構えていたかのように菫ちゃんが自室から手招きをしていた。

「それで、佳凛部長とはどういうお話をしていたんですか?」

 接続詞の使い方を間違っている後輩に誘われて、相変わらず物のない部屋に案内される。

「いえいえ、聞くまでもありません。……佐鳥先輩のことですよね!」

 数秒溜めてから、探偵が犯人を名指しするかのように発言する。

 いや、実際佐鳥が犯人だった場合、間違ってはいないのだろうか。

「脅迫状の犯人は佐鳥先輩で決まりですか? 確変タイムですね」

「まだ、佐鳥が犯人だと決まったわけじゃない」

 今のところ佐鳥は間接的に否定しているし、確証となる証拠が一つもない。あくまで、消去法と状況証拠が佐鳥を犯人だと示しているだけだ。

 テーブルの前に置いたクッションの上に座って、ベッドに腰掛けた菫ちゃんと向かい合う。

「ああ、飲み物とか要ります?」

「いいよ。喉も乾いてないし」

 そう断ると「そうですか」と軽く頷いて、両手をベッドに付けて天井を見上げる。

「でも、実際間違いないと思いますよ。最近の佐鳥先輩は明らかに様子がおかしいですし」

「変な態度を取ったくらいで犯人だとは言えないだろ?」

「それは、そうですけど……っ」

 納得出来ていない不機嫌な声を漏らす。

「もし、佐鳥が犯人だったら、菫ちゃんはどうする?」

「そうですねぇ」

 あまり興味なさそうに呟いて、天井を見上げていた視線をこちらに向ける。

「一発くらいは殴りたいですね」

「過激だな」

「当然です」

 一切緊張感のない言い方で、どちらかといえば嬉しそうに菫ちゃんが断言する。

「それもそうか」

 菫ちゃんはある意味、犯人に脅迫された俺の行動で自殺まで考えていた。

 怨んでいてもおかしくはない。

「でも、今となっては感謝こそしてませんけど、怨んでもいないですね」

「そうなんだ?」

 意外に思って尋ねると、菫ちゃんは小悪魔的な笑みを浮かべる。

「悠人先輩とこうしてお話が出来るようになりましたし」

「そりゃどうも」

「あー、信じてませんね?」

 苦笑気味に文句を言って、すっと表情から笑みが消えた。

「これでも私は救われたと思っているんですけどね」

「――菫ちゃん」

「ああ、今のはやっぱりなしで! どうにも最近、湿っぽいのが苦手なんですよ」

 しんみりし掛けた空気を振り払うように大きな声を上げて、菫ちゃんは困ったような笑顔をする。

「とにかく、悠人先輩はちゃっちゃと佐鳥先輩のことを助けてあげてください」

「ずいぶんと簡単に言ってくれるな」

 この問題がそんな簡単なことじゃないことくらい菫ちゃんも理解しているはずだ。

 他人から見れば小さな問題でも、本人にすれば人生を左右するほど大きな問題だったりする。

 だけど、菫ちゃんは首を振った。

「見方の問題です。たとえそれが、目が眩むほど大きな壁に見えても、実は肩車をしたら簡単に乗り切れる壁なのかもしれません」

「菫ちゃんは乗り越えられたのか?」

「全容は見えてきましたね。後は攻略するだけです」

 そういって見せた笑顔は、自信に溢れていた。

「でも、攻略にはまだまだ先輩も、佐鳥先輩の協力も不可欠ですよ」

 背中を押す後輩の言葉に、先輩として立ち止まってはいられない。

 言葉としては知っていたが、実際に感じたことのない言葉がこの時ばかりはしっくりと来た。

 たぶんこれが、迷いが晴れたってことなんだろう。



「こんな風に学園をサボったことないから、少し緊張するね」

 照れたような表情を浮かべながら佐鳥が隣を歩く。

「そうだな。悪いことをしてる気分になるな」

「ふふっ、苗木くんって意外と真面目なんだ?」

「意外は余計だ」

 学園を自主休学した俺と佐鳥は、平日でも観光客が多いアーケードを歩いていた。

 二十年ほど前に計画が立てられ、その十年後に着工された宇宙エレベータが柊木市の中央に屹立しているからだ。

 完成まで五年を切り、柊木市最大の観光資源になっている。

 そんなこともあって、制服を着ていても周りから不審がられることはない。

「でも、たまにはこういうのも楽しいよね」

「ああ、そうだな」

 ただ今は周りの視線よりも、佐鳥の態度のほうが気になる。

「あっ、おにぎりの屋台だって。もうそろそろお昼だし、買ってどこかで食べようよ」

 制服の裾を軽くつまんで、佐鳥がその店のほうに引っ張る。

 告白してからの態度とあまり変わっていないように見えるが、明確に何かが違う。

 そんな気がした。

「おいしかったね。やっぱり日本人なら梅干しと鮭は欠かせないよ」

 近くの公園のベンチで買ってきたおにぎりを食べ終えて、ごみを一つにまとめた佐鳥が立ち上がる。

 咄嗟に俺は、不安になって佐鳥の腕を掴んでいた。

「どこに行くんだ?」

「どこって、変なこと聞かないで。ごみを捨てに行くだけ」

 笑顔を向けてくる佐鳥の腕を離して、歩いて行く後ろ姿を見つめる。

「俺は何か飲み物でも買ってくる。何がいい?」

「お茶かな? あったかいの」

「わかった」

 席を立って、昂っていた気持ちを落ち着けようとする。

 理由もわからず気持ちばかりが急いて、佐鳥と会話を重ねる度に不安が大きくなる。

 やはり今日の佐鳥の様子はおかしい。

 でも、何がおかしいのかが分からない。

 後少しで分かりそうな、喉まで出かかっている気持ち悪さがあった。

 ただ、そのことがどうしようもなく胸を抉って、息苦しく思えるほどに辛くて仕方がない。

「……くそッ」

 これまでにない感覚に気持ちがざわついて、ぶつけどころのない感情に戸惑う。

 こんな気持ちになったのは初めてだった。

 自販機の小銭を入れて、ホットのお茶を選ぶ。考えるのも億劫で、俺も佐鳥と同じものを選んだ。

 ガシャンと自販機からペットボトルのお茶が落ちて、すぐ後ろで誰かの足音がする。

 慌てて振り返ると、近くのすべり台前で小学生くらいの子供が何列にもなっていた。

 近くの小学校が社会科見学に来ているのだろうと考えた瞬間、何かが脳内でリンクした気がした。

 元のベンチに戻ってくると、こちらに佐鳥は気づいていないようでぼんやりと地面を眺めていた。

「疲れたのか?」

 声を掛けると佐鳥は一瞬だけビクッと反応し、ゆっくりと顔を上げる。

「泣いてたのか?」

 なぜそう思ったのかはわからない。

 気づいたら声になっていた。

「ねぇ、苗木くん。そろそろ帰ろうか」

 立ち上がった佐鳥は、泣いてなんていなかった。

 その代わりに俺は思い出した。

 公園のベンチで泣いていた女の子と、人間に怯えていた愚かな少年のこと。

 この少年が口にした幸福になるたった一つの方法のことを。

「佐鳥、だったんだな。あの時の女の子は」

「何の話、かな?」

 視線を落として、佐鳥は誤魔化そうとする。

 たしかに明確な確証があるわけではない。

「この公園で、このベンチで、ピアノの発表会から逃げ出して泣いていた女の子の話だよ」

 思い出された記憶の女の子と佐鳥の姿が重なる。

 間違いない。

 佐鳥があの時の女の子だと確信した。

 しばらく俯いていた佐鳥が深いため息を吐いて、ぽつりと言葉を漏らす。

「ここの公園を選んだのは失敗だったかな」

「佐鳥はずっと覚えていたのか?」

「忘れられるわけないよ」

 自嘲気味に佐鳥が呟く。

「……思い出してくれたんだね」

 顔を上げた佐鳥の表情は、言葉とは裏腹に蒼白になっていた。

 蒼白な表情で、笑っている。

 まるで、思い出させてしまったことを後悔しているように見えた。

「俺が言ったことが、言葉が佐鳥を変えたのか?」

 佐鳥は答えず、表情から笑顔だけが消えた。

「あの日、私は追い込まれてたんだよ。プレッシャーに押しつぶされそうで、不安なのに誰も分かってくれなくて、小学生なのに胃に穴が開きそうなくらい苦しかった」

 眉が僅かに動いて、佐鳥の瞳に力が入る。

「私はね。頭が真っ白になるくらいに絶望していたんだよ」

 そう前置きをして、佐鳥は自身の過去を語り始めた。

「私の家は、少しだけほんの少しだけ金銭的に余裕のある家だったの。その余裕の全部を両親は、特にお母さんは私の教育に向けた。物心がつく前からピアノと英会話、小学校に上がった頃にヴァイオリンまで習うようになった」

 まるで憎しみを込めているかのように一つひとつの言葉に棘があった。

「だけど私は、ピアノなんて最初から嫌いだった、大嫌いだったの。ヴァイオリンも、英会話も、週三回の家庭教師も全部、大嫌いだった! だけど、私にはそれを拒否する余裕も説得する力もなかった」

 佐鳥が語り始めた過去は、両親を亡くすまで自由に生活していた俺にすれば衝撃的だった。

 お金持ちというほどではなく、一般家庭よりも多少裕福だった佐鳥の家は、その余力をすべて一人娘である佐鳥咲桜に傾けた。

 特に教育熱心だった佐鳥の母親は、娘の将来の為だといろいろとやらせたがったらしい。

 ここまでなら、よくある話で済んだのかもしれない。

 だが、頭の良い佐鳥はそれらすべてをこなし続けてしまったのだ。

 期待に応え続けることで、佐鳥は少しずつ精神が削られていった。

「小学校の六年間、友達と呼べる相手は一人も出来なかった。だって、放課後に遊ぶ余裕なんてなかったし、頭の中はその日だけじゃなくて、先の予定が詰まっていたから。周りのことを考える気持ちの余裕なんてあるわけがなかった」

 文字通り分刻みのスケジュールを佐鳥は毎日、身体だけじゃなく精神的にも続けた。

 大人でも根を上げることを何年も、年端もいかない少女が耐えていた。

「でも、仕方がないことだから。期待に応えるとお母さんが喜んでくれたし、お父さんも応援してくれていたから、私が弱音を吐いちゃいけないものなんだと思ってた」

 親が子に掛ける期待を子は無条件で応えようとする。

 謂うならば、それは遺伝子に組み込まれている本能だからだ。

「でもあの日、発表会の前に言われたの。この大会で優勝したら、有名な音楽家の人がレッスンをつけてくれるって」

 話が俺と佐鳥が出会った日に入った瞬間、明らかに佐鳥の動揺が大きくなる。

 相当、思い出したくない思い出のように見えた。

「無理だよ、無理無理。絶対に無理だと思った。その話を聞いた瞬間、これまではなかった拒否反応で身体が分裂するかと思うくらい怖かった。ああ、もう耐えられないって頭より先に身体が感じたんだと思う」

 そして、佐鳥は会場から逃げ出して俺と出会った。

「思い出したんだよね。あの日、苗木くんが私に教えてくれたこと」

 視線が交じり、人間の輪から弾き出されていたと思っていた俺が身を守る為に編み出した方法を口にする。

「消えてなくなればいい。そういう仮面を被ればいい」

 涙を流す女の子に俺は、そう言った。

 バケモノだと周りに知られることに怯えていた俺は、己の感情を捨てて周りに同調することだけに心骨を注いだ。

 だが、ただ周りに合わせているだけでは、いつ裏切られるのか分からない。

 人間の考えていることなんて、当時の俺には毛ほども理解出来なかった。

 だから、そんな時に俺は消えてなくなるのだ。

「思い出されなければいい」

 他人の記憶に残ってはいけない。

 何が原因で周りにバケモノだと知られてしまうのか分からない。

 ならば、他人の記憶から存在を消すしかないだろう。

「相手より劣った人間をなりきれば、期待されることもない」

 今になって思えば、かなり痛い子どもだった。

 それをつい最近まで実行していたかと思うと、痛いどころでは済まないかもしれない。

「目から鱗が落ちるって、あの時のことを言うんだと思う」

「痛い子どもの妄言だろ」

「少なくても、あの時の私には必要な言葉だったんだよ」

 気づけば公園に集まっていた小学生たちは居なくなり、手にしたペッドボトルの中身がぬるくなっていた。

「求められたことに応えなければならないと思っていた私にとって、あらゆる重圧から解き放たれたと思えるくらいに」

 佐鳥の表情が僅かに緩む。

「まぁ、身体が軽くなった後の発表会は散々だったんだけどね」

 そういって、今度は苦笑気味に笑った。

「失敗しても大丈夫だって、知っちゃったからかな。見に来てた音楽家の人が言ってたよ、熱意が感じられないって。当たり前だよね、熱意なんて最初からないんだもん」

「佐鳥」

「ヴァイオリンも一緒。英会話は続けたけど、時間に余裕が出て学校の成績はよくなったから家庭教師もなくなった」

 笑いながら、佐鳥は自分自身を傷つけているような悲痛な目をする。

「そうしたら、私には何もなくなってた。私は何も持っていない人間だって気づいた」

 一つひとつ言葉を口にする度に傷口が開いて、事実を確認しながら佐鳥は傷ついていた。

「そんな時に思い出したのが、たった一度だけ公園で話しただけの男の子の言葉だった」

「それで、佐鳥は仮面を被ったのか?」

「うん、そうだよ」

 たった数分、それも同年代の子どもに言われた言葉を佐鳥は信じたというのか。

 昨日の今日まで、それを話した本人すら忘れていたような言葉を信じたというのか。

 後悔が幾重にもなって押し寄せる。

 なぜ、軽はずみにも俺は彼女にあんな言葉を投げかけたのだろう。

「仮面を被ったら、すぐに〝ともだち〟と呼べるクラスメイトが出来た時は素直に嬉しかったよ。今までは凄く遠いものだと感じていたから、余計に嬉しかったんだと思う」

 まるで自分自身の過去を暴かれているような気持ちだった。

「でも、後になってから気づいた。それが普通じゃない歪な関係だって」

 表面上を取り繕う友人関係自体は、きっと珍しいことじゃない。

 親友と呼べる相手にだって、何かしらの嘘を吐いているものだからだ。

 でも、俺や佐鳥には本当が一つもない。

 だから、佐鳥はそれを歪だと感じたのだ。

「気づいた時にはもう遅すぎて、私の立ち位置はすでに決まっちゃってた。それに、この頃の私は仮面の外し方も分からなくなっていたから」

「仮面の、外し方?」

「気づいた時には、私は私自身を喪失しちゃっていたんだよ」

 今になって、佐鳥の目に俺の姿が映っていないことに気づいた。

 自分自身の喪失が、いったい何を指しているのかはまだ分からない。

「それなら、どうして俺にあんな手紙を寄こしたんだ?」

 あの手紙には佐鳥の意思があったはずだ。

「確認したかったの」

「何を?」

「苗木くんが、あの日声を掛けてくれた男の子が今でも同じ悩みを抱えているのか」

「それで、確認は出来たのか」

「そんなこと聞かなくても分かっているくせに」

 乱暴に佐鳥が答え、俺は小さく頷く。

 言葉にして肯定される必要もなく、俺の行動は佐鳥にとって予想通りだったのだろう。

「もう一つ、訊いてもいいか?」

 今度は佐鳥が頷いた。

「どうして俺に、あんな探偵の真似事をさせたんだ?」

「苗木くんが演劇部に入部したから」

「そう仕向けたのは佐鳥だろ?」

 誰にでもわかるような矛盾を突くと、佐鳥は不機嫌そうに眉を寄せる。

 どうしてそんなことも分からないの、といった態度だった。

「志穂先生が悩んでいることは、ずっと前から気づいていたから」

 質問と直接関係があるとは思えなかったが、黙って続きを話す佐鳥の言葉に耳を傾ける。

「特に苗木くんが怪我をしてからは顕著だった。それで調べていたの」

「水上悠介のことを、か」

 通りで調べがつくのが早かったわけだ。

 普通なら、名前の漢字も分かっていない相手を調べるのに一日では難しい。

「でも、分からない。どうして佐鳥は、志穂先生のことを助けようとなんて俺に指示を出したんだ?」

「別に、本当に助ける必要なんてなかったんだよ」

 ほとんど即答で返事が戻って来た。

「助けなくても良かった?」

「私から注意を逸らせれば、それだけで良かったんだよ」

「つまり、それと同じ理由で菫ちゃんのことも俺に穿鑿(せんさく)させたのか?」

 俄かに怒りが入る。

「その通りだよ。菫ちゃんの問題も、佳凛先輩の問題も私は知っていたから」

 悪びれた様子もなく、佐鳥は肯定して決定的な言葉を発言した。

「利用したの」

 一瞬で、怒りが沸点にまで急上昇したことが分かった。

 全身の筋肉が強ばって、爪が手のひらに食い込むほど握りしめる。

「菫ちゃんには悪いことをしたと思っているわ」

 その言葉には、まるで気持ちが込められていなかった。

「もしも、菫ちゃんが飛び落ちていたらどうするつもりだったんだよ」

 俺よりも先に犯人である佐鳥は、菫ちゃんが屋上に向かったことを知っていた。

 万が一、俺が手紙に気づかなかったら、佐鳥はどうするつもりだったのだろうか。

「柏瀬部長だって、志穂先生だった同じだ。佐鳥は、すべてが上手くいく確証でもあったのか?」

「確証なんて必要ないんじゃないの? すべては上手く行ったんだから」

「そんなことは聞いてないだろ!」

 堪え切れずに声が大きくなった。

 だが、佐鳥に驚いた素振りはない。

「何を熱くなっているの、苗木くん。そんなの苗木くんらしくないよね?」

「何だよ、俺らしいって」

 どこまで冷静な顔をして、佐鳥はまっすぐに俺の目を見ている。

「気づいていないなら教えてあげる」

 憎悪の込められた声で、吐き捨てるように佐鳥は言葉を紡いだ。

「いつから、そんな主人公志望に変わったの?」

 すべてを見透かされた言葉に怒りが最高潮にまで上り詰めた。

 結理の時とは違う。

 衝動的な怒りの感情に身体が勝手に動いた。

「――どうぞ」

 振り上げられた右手を振り落した瞬間、佐鳥の唇が僅かに動く。

 それからは、まるでスローモーションのように感じられた。

 避ける素振りもなく佐鳥はずっと俺の目を見ていて、振り下ろした手のひらが一直線に佐鳥の頬を捉えようとしている。


『――ダメぇッ!』


 空間を切り裂くような大きな声が聞こえたような気がして、振り下ろした右手は寸前のところで停止した。

 意識して止められたわけじゃない。

 反射的に身体が硬直した。

「馬鹿だな。冗談でも、そんなことを言うなよ」

 頬に向けられていた右手を佐鳥の頭に乗せる。

 叩かれることを覚悟していた様子の佐鳥は、半ば放心状態で瞳孔が左右に揺れていた。

 視線を外して周りを見渡してみたが、声の主どころか公園に人影は一人も見えない。

 知っている声のような気がしたが、幻聴だったのだろうか。

「無理に嫌われようとするな」

「は、離して!」

 思い切り手を弾いた佐鳥と目が合う。

 途端に眉がへの字に曲がった瞬間を俺は見逃さなかった。

「分かったようなこと、言わないで」

 彼女の一瞬の表情で、佐鳥が俺から嫌われようとしていることが理解出来た。

 伊達に何年も人の顔色を窺ってきていない。

 生活の一部として染みついたこの癖は、そう簡単に直らない。

「分かるよ。俺と佐鳥はよく似ているからな」

 きっかけを俺が与えたことは間違えようのない事実だが、本質的な部分が同じなのだ。

「あなたが私をそう変えたんじゃない!」

 はっきりと伝わってくる憎悪の感情が、佐鳥の悲痛な声に乗って胸に届く。

「それなのに、苗木くんは私のことを見捨てたんだよ……っ!」

「違う」

「違わないよ。私を一人だけ置いて行っちゃったじゃない!」

 一切オブラートに包まれていない本音が、佐鳥の口から次々と零れていく。

「一人だけ助かろうなんて、そんなの狡いよ。卑怯だよ、反則だよ」

「ああ、そうかもしれないな」

 確かに俺たちはよく似ている。

 長い間、他人を同じ存在だと思えなかった。まるで、別の生き物だと思っていた。

「でも俺は、一人で助かろうなんてこれっぽちも思っちゃいない」

「嘘だよ」

「嘘じゃない」

 でも、決定的に違うところもある。

 他人に向ける感情のベクトルが、俺と佐鳥では正反対なのだ。

 俺にとって他人は、恐怖の対象でしかなかった。何を考えているのかも分からず、バケモノだと気づかれないようにだけ必死に考えていた。

 だが、佐鳥は違う。

 ずっと寄り添おうとしていた。同じになろうとして、必死に足掻き続けていた。

 それでも理解出来なかったのは、佐鳥が人よりも優しかったからだ。

 優しすぎて、周りが佐鳥を受け入れられなかった。

 だから、佐鳥のほうから距離を取ったのだ。

 でも、そんなのはあんまりすぎる。

 報われない。

 今の佐鳥は他人との距離感が分からなくなって、必要以上に距離を取っている。

 それでは、ダメなんだ。

 相談に乗ってあげたいと志穂先生は言っていた。今の関係を寂しいと、柏瀬部長は漏らした。助けてあげて欲しいと、菫ちゃんは俺に頼んだ。

 俺が知っている演劇部の仲間は、揃いも揃ってお人よしばかりだ。

 頼まれたから、俺は佐鳥を助けたいと思っているのか。

 違う。

「俺は、佐鳥が好きなんだ」

 口にして、やっと今朝からの違和感の正体に気づく。

 佐鳥は始めから周りと同じように距離を取っていたから、特別じゃないことに腹を立てていた。

 嫉妬していたのだ。

 こんな独占欲が、自分の中にもあったことに驚く。

「どうか、俺と付き合ってほしい」

 俯く佐鳥は、すぐ風に流されてしまいそうな小さな声で呟く。

「――ダメだよ。そんなの、誰も許してくれない」

「大丈夫だ、みんな許してくれるよ」

 励まそうと言葉をかけたが、フルフルと佐鳥は首を振る。

「だって、とても許されない酷いことばかり。怨まれても仕方がないよ」

「誰も怨んじゃいない」

「そんなのッ。――そんなの、知らないからだよ」

 両手を強く握りしめて、肩を震わせる佐鳥は所在なさげに視線を左右に動かしている。

「知ったら、絶対に軽蔑される」

 話せば少なくとも、これまでと同じ関係には戻れないだろう。

「嫌われちゃうよ」

「話してみないと分からないだろ?」

「分かるよ」

 そう断言して、佐鳥は俯いたまま一点を見つめる。

「苗木くんを利用して、私はみんなの、大切な人たちの傷口を抉るようなことばかりしていたんだよ? もう少しで、菫ちゃんは死んじゃうかもしれなかった。志穂先生は学園を辞めちゃってたかもしれないし、佳凛先輩は台本が書けなくなったかもしれない」

「菫ちゃんは死んでないし、志穂先生も学園を辞めてない。台本だって、完成しただろ」

「そんなのは運が良かっただけだよ!」

 確かに佐鳥の言うとおりだ。

 僅かでも間違っていたら、佐鳥の言葉通りの未来になっていたかもしれない。

「結理ちゃんだって、私が何もしなければ自殺に追い込むようなことにもならなかった!」

 聡明な佐鳥は、結理がリストカットした理由にも勘付いているみたいだ。

「前にお前は言ってたよな? 誰も苦しまずに平凡なまま、平和にはなれないのかって」

 震えていた佐鳥の動きが止まる。

「確かに、それが一番だと思うよ。時間が経てば、風化することもあると思う。でも、それだけじゃなくなりはしないんだよ」

 波風を立てず、流されて、周りに合わせることばかり考えていた俺にとって、ここ数か月の出来事は劇的な変化を与えてくれた。

「人と関われば、それだけ重荷を背負うことになる。幸せは何倍、不幸なら半分になるなんていうけれど、不幸は背負う分だけ重くなる。けっして、軽くはならない」

 分け合うことなんて出来ないし、本当の意味で分かち合うことはまず出来ないだろう。

 だから、こんな風に言うんだと思う。

 背負う、と。

「結局、不幸なんてものは本人にしか解決出来ないんだ。たとえ、誰かの言葉で救われたとしても、重荷を下ろせるのは本人だけしかいないんだよ」

 志穂先生や菫ちゃん、柏瀬部長に結理、誰だって多少なり何かを抱えている。

 何も抱えていない人なんて、きっとどこにも居ない。

「それを俺に気づかせてくれたのは、紛れもなく佐鳥なんだ」

 俺らはまだ、向き合えるようになっただけに過ぎない。

 失くしたモノを取り戻すには、まだまだ時間が掛かる。

「大体、今日までのことが運だけじゃないことくらい俺は気づいてるよ」

「…………」

「佐鳥の助けがあったから、お前がみんなのことを気にかけていたから、今があるんだ」

 けっしてそれは、運だけじゃない。

 ちゃんとした努力の結果として、今がある。

「知ってるか? 菫ちゃんの自殺未遂を知っているのは、俺と菫ちゃん以外には犯人しか知らないんだぞ?」

「何を今更、言っているの?」

 困惑顔で佐鳥がようやく顔を上げた。

「もしも俺が手紙に気づかなかったら、お前は菫ちゃんを助けに行っていただろ?」

 驚愕したように目を見開いて、途端に佐鳥の頬が朱色に染まる。

 どうやら図星だったようだ。

「こっちが不安になるくらいお前は優しすぎるんだよ。俺はそんな佐鳥が心配で、一緒に背負ってやりたくなる」

 誰かの為に何かをしたいなんて、そんなことを考える日が来るとは思いもしなかった。

 今の俺は、誰よりも優しい彼女の力になりたい。

 いや、これから先もずっと佐鳥咲桜の力になってやりたいのだ。

「そろそろ返事を聞かせてくれないか?」

 手を差し出して、告白の返事を待つ。

「――好き、好きだよ。私を変えてくれたあの日から、一日だって忘れたことなかった」

 躊躇いがちに触れた指先の感触を確かなものにする為に彼女の手を取る。

 ずっと他人を拒否し続けていた小さな手は、まだ強ばっていて僅かに震えていた。

「帰るか」

「うん」

 そういって佐鳥は微笑もうとする。

「変な顔だな」

「それは、お互い様だと思うけど?」

 たぶん、俺たちは今同じ顔をしているんだろう。

 ようやく仮面の外し方が分かって、素顔になった俺たちはまだ上手く笑えない。

 表情一つにしたって、取り戻すのには時間が掛かってしまう。

「学園に戻る前まで笑顔の練習だな」

「ううん、練習なんて必要ないよ」

 立ち上がった佐鳥が、掴んだ手をしっかりと握りしめる。

「これが今の私たちなんだから」

「そうだな」

 手を握り返しただけで、胸の不安が消えていく気がした。


 エピローグ


「今日までお疲れさま。調子はどう?」

 緊張感が漂う舞台袖に懐かしい声が届く。

「柏瀬部長、来てくれたんですね」

「もう部長じゃないけどね。差し入れも持ってきたから、舞台が終わったら皆で食べてちょうだい。他の皆は?」

 今年の三月に柏瀬部長が卒業して、今は地元の大学に通っている。

 少しでも親友と一緒に居られるようにという理由だけで、元々の推薦を蹴ってまで地元の大学に進学したのだ。

「ああ! 佳凛部長じゃないですか。遊びに来てくれたんですか?」

 着替えから戻って来た菫ちゃんが部長に気づいて、手に持っている白い四角形の箱に興味を移す。

「それ、甘味堂のケーキですか? ですよね! ごちそうさまです!」

 半ば強引に部長から箱を受け取ると、菫ちゃんは早速中身を確認し始める。

「こら、食べるのは舞台が終わってからにしなさい!」

「見るだけです。見るだけですってば! さすがに今は食べませんよ」

 少し前まで漂っていた緊張感は一瞬で消え去り、箱の中身を覗き込む菫ちゃんは目を輝かせて箱に入ったいくつものケーキを眺めている。

「本当、あの子は随分と変わったわね」

「それは部長も一緒じゃないですか?」

 苦笑気味に菫ちゃんのことを見つめる部長はため息を吐く。

「どこが?」

「差し入れなんて、らしくないことしてるじゃないですか」

「酷い! 人を何だと思ってんのよ」

「冗談です」

 でも、差し入れを口実に激励には来なかっただろう。

 口にしたら怒られそうで言えないが、柏瀬部長はこうやって他人と関わり続ける努力をしている。

「あれ、佳凛部長じゃないですか。お久しぶりです」

「俺たちの舞台、見に来てくれたんすか?」

 結理と夕哉も舞台袖に入ってきて、適当に部長も挨拶を返す。

「私が書いた舞台なのよ。見に来て当然じゃない」

「そんなことよりお兄ちゃん。結理の衣装どうかな? 可愛い?」

「おう、よく似合ってるぞ。昨日も言ったけどな」

 結理は相変わらずで、本番前だというのに気楽なものだ。

「えへへ、やった」

「ブラコン度がまた上がったんじゃないの?」

「……まさか」

 受け入れがたい真実かもしれないが、実はそうでもない。

 最近になって結理は進路を決めたらしいのだが、いくら訊いても教えてくれないのだ。菫ちゃんや咲桜には話しているらしいが、俺には断固として秘密主義を貫いている。

 それを少し寂しいと感じるのは、これもまた誰にも言っていない秘密である。

「――あ。こんにちは」

 最後に登場した咲桜は、部長の姿を見つけて頭を下げる。

「久しぶり。あなたたちの舞台、楽しみにしているからね」

「は、はい。一生懸命に頑張ります」

 さっぱりとした笑顔を見せる部長に対して、咲桜は困ったように微笑み返す。

 まったく関係のない話だが、緊張して気丈に振る舞っているが上手く笑えない彼女というのは物凄く可愛いと思う。

 咄嗟に「大丈夫だ」と抱きしめたい衝動に駆られてしまう。

「顔、緩んでるわよ?」

「すみません。俺の彼女があんまりに可愛すぎて」

「えっ? ちょ、ちょっとそんなこと言わないで……っ」

 目に見えて顔を赤く染めて、佐鳥は少しだけ怒ったような声色で顔を逸らす。

 これは付き合い始めてから知ったことなのだが、仮面を外している時の咲桜は小学生男子よりも初心だった。

 付き合い始めて二か月を過ぎようとしているのに、未だに手を繋ぐ以上の関係を築けていない。

「ヤバ、俺の彼女マジ可愛い、とか思ってるんでしょう?」

「思ってませんよ」

 視線を逸らした。

「まぁ、二人の関係を今更どうこういうつもりはないけど。咲桜、あなたは演劇部の部長なんだから、もっと自信を持ちなさい。そんな態度じゃ、後輩に示しがつかないでしょうが」

「は、はい。ごめんなさい」

 そしてもう一つ、仮面を外した咲桜は物凄く素直な女の子だった。

 ほとんど人格形成が済む前に仮面を被った咲桜の性格は、物を知らない赤子のように真っ新だった。

「ああ、ダメですよ。咲桜部長に意地悪しないでくださいよ」

 今までケーキに釘付けだった菫ちゃんが、二人の間に入る。

「違うわよ。これは前部長として、心構えを教えているだけ」

「ええ、そうでしたか? それにしてはお説教臭かったですけど」

「そ、そんなことないわよ!」

 あの日、すべてを柏瀬部長たちに告白した日から、何一つとして問題がなかったわけじゃない。

 今でも咲桜が仮面を外せるのは、ごく少数の相手に対してだけだ。

 それでもこうして不器用にも笑えるようになったのは、間違いなく演劇部の存在があったからだ。

「ほら、騒いでないで、もう本番が始まるわよ。準備は出来ているの?」

 幕内から志穂先生が顔を出して、外まで声が聞こえていたようでその表情は引きつっていた。

「だ、大丈夫です。だって私たち、今日までちゃんと練習してきましたから」

 部長らしく咲桜が前に出る。

 すると、志穂先生は悪戯が見つかった子どもような表情を浮かべた。

「知ってる。先生として、一度くらい言ってみたかっただけだから」

「ちょっと、萩野先生……っ」

「あなたたちの頑張りは、先生がちゃんと見ていました。大丈夫。胸を張って演じて来なさい」

 最後は教師らしく締め括って、応援に来ていた柏瀬部長と一緒に舞台裏から出て行く。

 間もなく舞台の幕が上がる。

 それぞれが緊張や不安、期待しながらその時が来るのを待つ。

「頑張ろう。大丈夫、私たちなら出来るよ!」

 最後に全員がそれぞれの目を見て頷きあう。

「最高の舞台にして、佳凛先輩の差し入れでお祝いしようね!」

 全員の視線が咲桜に集まり、同時に大きく頷く。

 開演を告げるブザーが体育館に鳴り響き、舞台の幕が上がった。

「苗木くん」

 舞台に出る手前で佐鳥が立ち止まる。

「私は上手に出来ているかな?」

 不安そうな表情にさっきまでの笑顔はどこにもない。

 思わず苦笑してしまって、揺れる佐鳥の瞳を見つめる。

「今更、なに言ってんだよ。もう気負う必要なんてないだろ」

 立ち止まった佐鳥の手を引いて、舞台の上に引っ張り出す。

「ありのままの佐鳥を、咲桜(おまえ)を俺は好きでいるから」

 引いた手に力が込められる。

「う、うん! ありがとう、私も大好きだよ」

 そこには一切の偽りがない純粋な彼女の笑顔があった。


終わり


 最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。

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