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『玩具』


 第四話 『玩具』


「中には教室でも自己紹介した子もいるけど、改めまして、教育実習生の苗木秋枝です。今日から約三週間、演劇部の副顧問としてどうぞよろしく」

 すっと嫌味を感じさせない目配せで佐鳥に微笑みかけて、部室全体を見回すようにしながら堂々と話をしている。

 自己紹介を終えると、すっと視線をこちらに向けて苗木秋枝(あきえ)は細く微笑む。

「すでにご承知の通り、苗木悠人のお姉ちゃんです」

 わっと部室がざわめいて、一斉に視線がこちらに向く。

 一瞬で赤面するほど恥ずかしくて、身震いするほどの恐ろしさに俺は引き攣った笑みを浮かべることしか出来なかった。


 もはや改めて言うべくもなく苗木秋枝は姉であり、最初に俺の本質を見抜いた人間である。

 教育実習が始まって、明後日で一週間になろうとしていた。

 元来の明るい性格と身内贔屓を抜きにしても目鼻立ちの整った容姿、教育実習生という立場もあり、生徒でも教師でもない立ち位置が姉の人気を高めたのだろう。

 誰でも分け隔てなく接する姉は、男女問わず人気者になる事は必然だったのかもしれない。

 ただそれが幸いして、弟である俺との接点は薄くなっていた。

 週初の日曜日、午後から部活の前に俺は柏瀬部長に誘われて大学病院に来ていた。

「いいんですか? 無関係な俺が見舞いなんてしても」

 今も菜綱ともみの面会者は家族か、家族が認めた特定の人物しか許されていない。

「大丈夫。ちゃんとともみのご家族には連絡をしているから」

 静かな大学病院の廊下に二つの足音が響いて、独特な消毒液のような匂いに身が引き締まる。

「菜綱さんのこと、部長は名前で呼んでいたんですね」

「そうね。そのことについても、悠人に話したいことがあるの」

 落ち着いた口調で言って、菜綱ともみの病室の前で立ち止まった部長がドアをノックする。

「……どうぞ」

 か細く小さな声がして、部長は病室のドアを開けた。

「来たよ」

「うん」

 気持ちの入った優しい呟きに、菜綱ともみが目線だけを落として頷く。

 目線を上げて、視線を俺のほうに向けるともう一度同じように頷いた。

 今度はおそらく、頭を下げているつもりなのだろう。

「はじめまして、でいいのかな?」

 会釈を返して、柏瀬部長が準備したパイプ椅子に並んで腰を下ろす。

「知っています。その、お父さんから」

 病室の前で聞こえた時には気づかなかったが、どことなく声を出すこと自体無理をしているように見えた。

 三年間も眠り続けていたのだから、相当体力が落ちているのだろう。

「再来週くらいからリハビリを始めることになっているの。まだ検査が残っているし、身体を動かせるくらいの体力を戻さないといけないみたい」

 顔にでも出ていたのだろうか、補足するように部長が説明する。

「だから、あまり長い時間は面会出来ないことになっているの」

 どうやら補足した訳ではなく、話の前置きだったようだ。

「今日、苗木くんに来てもらったのは、ちゃんとお話ししたいことがあったからです」

「ともみ、話なら私がするから。起きたばかりで、無理しないほうが」

「ううん。佳凛ちゃん、私が話したいだけなの」

 そういって微笑んだ姿は、思わず息が詰まるほど綺麗に見えた。

 儚さと脆さが入り混じり、純粋に優しさだけが伝わって来る。

「ごめんなさい。まずは謝らせてください」

 目線を落としてから話し始めた内容は、彼女が学校の屋上から飛び降りるまでの顛末だった。

 顛末とはいっても、前に部長の部屋で話した内容を補足しているような内容だ。

 偶然イジメグループの話を聞いてしまった菜綱ともみは、直接止めようとしたが効果がなく、思い詰めた結果が屋上からの飛び降りだった。

 こうして本人がすべてを口にしたことで、この話はちゃんとした真実になった。

「私からも言わせて。この子の前でちゃんと謝りたかったの」

 菜綱ともみのことを一瞥した柏瀬部長は、体勢をこちらに向けて真剣な表情を浮かべる。

「利用したんだ、悠人のお節介な性格を。あの話をすれば、悠人なら黙っていられなくなると思って」

 菜綱ともみが好きだと言っていた『人間失格』を演劇の題目に決めた時から、柏瀬部長は自分自身の過去と向き合うつもりだったらしい。

 結末も柏瀬部長の願望ではなく菜綱ともみの考察だったようで、それを部長は自身の心境と重ね合わせていた。

「事実を突きつけられたら、さすがに腹を括れると思っていたんだけど」

 続きは聞かなくても、すでに結果が出ている。

 あの時書かないことを選択した部長は、前と同じように目を逸らそうとした。

「悠人には申し訳ないことをしたと思っているし、これからちゃんと騙していたことを償っていきたいと思ってる」

「償うなんて、俺は気にしてませんから」

 柏瀬部長が最初に口にしたお節介という言葉を聞いた時点で、俺はもう赤面してしまって耐えられなくなりそうだった。

 でも、これが本心からの願いでも部長は聴き入れてくれないだろう。

「もしも悠人が困った時は、私に相談して。必ず力になるから」

 これが本来、柏瀬佳凛の持っている性格なのだから。


「はい、今日はここまで。もう他の部活はやってないし、外も真っ暗だから気を付けて帰りなさいよ」

 そういって早々に席を立った柏瀬部長は、誰の返事を待つことなく体育館を出て行った。

 今までは後半の配慮が無かったことを思えば、多少は変わったようにも見える。

 もっとも、一週間や二週間で人の性格が変わるとも思えない。

「お兄ちゃん、お兄ちゃん。一緒に帰ろうよ」

 突然背中に衝撃が走り、回り込んで来た結理が満面の笑みを浮かべる。

「別に一人でも帰れるだろ?」

「ええっ? 結理は目が悪いから、こんな暗い中を一人で歩けないよ」

「嘘吐け。前の身体検査で視力が二・〇だって自慢してたじゃないか」

「突然目が悪くなったんだよ。ハクナイショーだっけ?」

 とぼけた表情を浮かべた結理は、すぐに照れたように笑う。

 正直、悪い予感しかしない。

 理由は分からない。だが、なぜか結理は姉と接触させようとしていた。

「(いや、理由は明白か)」

 俺と結理、それと姉は引越しをするまで三人兄弟のように仲が良かった。

 家族間で交流が合った事や年の近い女性が居なかったこともあって、傍目から見れば姉妹のようにいつも一緒だったと思う。

 それなのに俺が姉のことを避けるような態度を取っていれば、避けないにしても会おうとしなければ結理がこういった行動を起こしても不自然じゃない。

「――悠」

 そして案の定、体育館を出た先で姉が待っていた。

 この世界で俺の名前を〝悠〟と呼ぶ人物を他に知らない。

「何か用?」

 外灯の下で待っていた姉は、学園での明るい表情とは違って困ったように視線を落としている。

「久しぶりだよね。植田の伯父さんと伯母さんは元気にしているの?」

「大丈夫、迷惑は掛けてないから」

 植田というのは、俺が預けられている母親方の親戚のことだ。

「悠も元気そうで良かった。最後に会った時はこんなに小さかったのにね」

「五年以上も経てば、背も伸びるよ」

 会話がギクシャクして、一つの問答ごとに短い沈黙が流れる。

「悪いけど急いでるから。結理も早くしないと寮の食堂が閉まるぞ」

「えっ、ちょっとお兄ちゃん! ま、待ってよ!」

 逃げるように歩き出す俺を結理が呼び止めたが、後を追いかけて来る事は無かった。

 内心の動揺を隠すように足が速くなる。

 先ほどから鳥肌が立ちっぱなしで、姉がいつあの日のことを言いだすのではないかと肝を冷やした。

「悠人先輩ッ!」

 唐突に正面から声を掛けられて、外灯に照らされて姿を見せる。

「一緒に帰りましょう」

「何だ、菫ちゃんか」

 悪戯っぽい笑みを浮かべながら、すっと菫ちゃんが隣に並んで腕を組んで来る。

「何だとなんて酷いですね。こんなに可愛い後輩に掛ける言葉とは思えません」

 性格が変わったと言えば、菫ちゃんの変貌は別人といっても過言ではないかもしれない。

「でも、そのほっとした表情をしてくれるのは嬉しい限りですね」

「いいのか? こんな風に腕組んで、誰かに見られたら」

「平気ですよ。部長も言っていたじゃないですか。他の部活はもう活動してないって」

 他に誰もいない時、二人っきりになった時に限って菫ちゃんは別人に変わる。

 普段の挙動不審で人見知りな性格から、明るく如何にも前向きな性格になるのだ。

「それに一度やってみたかったんです。こうして男の人と腕を組んで歩いて、他愛もない雑談をするの」

「それも本心なのか?」

 尋ねると僅かに足を止めた菫ちゃんは、すぐに歩き始めて口を開く。

「わかりません。正直、今この感情が本心なのか。それとも、嘘なのか」

「変な質問だったな」

「いえ、構いません。でも、先輩と話している時は楽しいですよ」

「楽しい?」

「嘘とか本心だとかを抜きにして、先輩と話している時は偽る必要がありませんから」

 菫ちゃんはとある事情から、自分自身を偽って生活していた。

 その生活が長かったせいで、今でも自分の本心が分からずこうしてリハビリをしている。

「先輩は何だか今、大変そうですね。意外ですけど」

「意外だったか?」

 何でもこうして思いついた通りに口にすることが、菫ちゃんにとって本心を取り戻す方法らしい。

「なんて言えばいいのか。悠人先輩ってノリが良いと言うか、何度ものらりくらりとかわせるというか。問題を問題にしない内に解決するというか」

 どうやら自分でも言いたいことが纏まっていないようで、菫ちゃんは口を窄めながら首を傾げている。

「やっぱり相手がお姉さんだからですか? それとも、結理ちゃんだから?」

「何か全部お見通しって感じだな」

 相手が菫ちゃんじゃなかったら、どうにか誤魔化そうと冷や汗を掻いていただろう。

 心の内を覗かれている気がしても、すでに事情を知っている菫ちゃんに対しては焦りや不安を感じない。

「それはもちろん、私は悠人先輩のことを観察していますから」

「観察って、俺は実験動物か何かなのか?」

「知らないんですか。先輩は演劇部の中で、注目の的なんですよ?」

 人をからかうような口調で、菫ちゃんは余裕の笑みを浮かべる。

「それでも、私ほどではないですけど」

 具体体に何が言いたいのか分からなかったが、菫ちゃんは絡めている腕を強くしてさらに身体をくっ付けてきた。

 右腕に伝わる柔らかな感触と仄かに香水のような甘い匂いが鼻孔をくすぐる。

「先輩、脅迫状の犯人は見つかりそうですか?」

 話題が変わり、一呼吸を置いてから口を開いた。

「いや、しばらく犯人捜しはやめようと思っているんだ」

「そうですね。確かに今はそれどころじゃないですよね」

 予測していたようで、しんみりした声で菫ちゃんが頷く。

 柏瀬部長でもないと分かった今、犯人候補は三人にまで絞られている。

「今更ですけど、部外者の可能性はないんですか?」

「それは間違いないと思うよ」

 犯人は演劇部の部員でなければ知らないような内容を何度も記している。

「そうだとしたら、少し寂しいですね」

 そう呟くと菫ちゃんは、組んでいた腕を解いて先を歩き始めた。

「萩野先生や私、佳凛部長が抱えていた問題に気づいていて、さらには誰からも教えられることなく先輩の秘密も知っている」

「そうだな」

「そんな人が問題を抱えていない訳ないじゃないですか」

 振り返りながら立ち止まった菫ちゃんは、笑っているとも困惑しているとも取れる微妙な表情を浮かべる。

「ねぇ、先輩。もしも、困ったことがあったら教えてくださいね? 私の命くらいならいつでも貸してあげますから」

「ありがとう。気持ちだけもらっておくよ」

 冗談交じりに返すと、菫ちゃんも困ったような表情で笑っていた。


「おはよー、お兄ちゃん。偶然校門でお姉ちゃんと一緒になったんだけど、一緒でも全然構わないよね?」

「学園と校門は、寮からだと逆方向だ」

 いつもと変わらない人懐っこい笑みを浮かべる結理が、手を振りながら玄関先で待っていた。

 隣で困ったような笑顔を見せる姉が、躊躇いがちに俺のことを見ている。

「おはよう、悠」

 会釈だけを返して、俺は二人を無視した。

「お兄ちゃん、お兄ちゃん。偶然だね、今から学食? それなら私たちも一緒に食べてもいいよね?」

 明らかに教室の前で待っていた結理は、すっ呆けた笑顔で手を掴もうとする。

「悪いな。今日は購買で済ませるつもりだったんだ」

 ふと視線が姉とぶつかり、慌てて目を逸らした俺は逃げるように階段を下りた。

 一昨日までさりげなかった結理の行動が、今日に限って露骨に姉と合わせようとしている。

 昨日の夜のことが原因なのだろうが、放課後になって部活が始まってもそれは続いた。

「お兄ちゃん。久しぶりで恥ずかしいのは分かるけど、結理、ああいうのは良くないと思うんだよね」

 現在演劇部は『人間失格』の第三の手記が完成し、通し稽古に入っている。

 その為、前半のヒロインである雑誌記者役の結理と稽古する時間が自然と増えていた。

「結理としては昔みたいに皆で仲良くしたいな、なんて思ってるんだけど」

 姉の教育実習が決まってからの結理は、毎日のように上機嫌だ。

 事前に教育実習のことを知っていたことから考えて、連絡先を引っ越す前に交換していたのだろう。

 ちなみに俺は姉のメールアドレスも電話番号も知らない。

 削除して、俺が両方の連絡先を変更した。

「反抗期にしては少し遅すぎると思うんだよね。再来週にはお姉ちゃん、居なくなっちゃうよ」

「まだ一週間以上あるだろ。結理こそ、もっと話したいことがあるんじゃないのか?」

「あるよ。あるけど、結理はお兄ちゃんと一緒に話したいんだよ」

 明らかに沈んだ様子で、結理は寂しそうな視線を送って来る。

「ほら、練習に戻るぞ」

 そんな視線から逃れるように立ち上がった俺は、台本で顔を隠しながら練習を再開した。

 だが、この時はまだこんな日々が続くとは考えてもいなかったのだ。

 いや、想像に容易いが意識的に目を逸らしていた。

 結理の露骨な行動が姉の教育実習が終わるまで続くかと思うと、頭が勝手に考えることを拒否したのかもしれない。

 しかしそれは、四日後の夕方に最悪な形で終止符が打たれることになる。

 それと同時にもう一つ、俺にとって重大な変化を一方的に突きつけられた日にもなったのだ。



『もう、要らない』


 水色の手紙にたった一行だけが書かれた『人間失格』の台詞。

 これは主人公が初めて他人を拒否した台詞で、自分自身の性質から解放された場面として描かれている。

 つまりこれは、犯人からの脅迫が一方的に打ち切られたということだ。

「どういうことなんだ?」

 思わず口にしてしまうほど俺は動揺してしまった。

 周りに人はおらず、しばらく手紙の文章を見つめた状態で動けなかった。

「――悠人っ!」

 切迫した声が廊下に響いて、咄嗟に俺は手紙を背中に隠す。

「どうしよう。どうしよう……ッ!」

 上半身がびしょ濡れで、真っ白なシャツが薄らと赤く滲んでいる。

 ショートカットの髪も僅かに濡れていて、姉は酷く怯えた表情を浮かべていた。

「結理ちゃんが、結理ちゃんがお風呂で」

 瞳孔が開いていて、目の前で膝を着いた姉は俺の腕を掴む。

 体温が感じられない手のひらに嫌な予感がして、伝染したように心臓の鼓動が速くなる。

「……手首を切っていたの」

 それから先のことはよく憶えていない。

 結理の部屋の前にはすでに人だかりが出来ていて、その中に演劇部の全員が揃っていたと思う。

 落ち着いた頃には結理が自室のベッドに寝かされて、傷の処置も済んでいた。

 幸い発見が早かったおかげで命の別状はなかった。だが、それでも相当量の血液が流れて今は貧血で眠っている。

「せめて、私だけでも一緒にここに残るよ」

 佐鳥の申し出に首を振ってから答える。

「いや、俺一人で大丈夫だから」

「でも」

 結理の目が覚めるまで演劇部が交代制で看護する提案が最初に出ていたが、俺が独断で断った。

「悪い。頼むから、俺の言うとおりにしてくれないか?」

 もう少し考える時間が欲しい。

 でも、いつ目を覚ますのか分からない結理から離れたら、不安感に襲われて俺は落ち着いていられなくなる。

「分かった。分かったけど、目を覚ましたらちゃんと知らせて」

「ああ、もちろん。分かってるよ」

 部屋から全員が出て行ったことを確認した俺は、普段よりも肌が白く見える結理に視線を向けた。

 結理は唐突に手首を切り、自殺未遂を起こした。

 姉が発見したのが後十分、いや、五分遅れていたら未遂で済まなかったかもしれない。

「何をしてるんだよ。どうして、こんなことをしたんだ」

 正直頭が真っ白で、考えているようで何も考えられていない。

 今日の午後まで、部活が終わるまで結理はいつもと何も変わらなかった。

「俺が、俺のせいなのか?」

 もしそうなら、どんな理由でも謝らなければならない。

 結理が居なくなるなんて、これまで一度たりとも想像したことが無かった。

「俺が、俺があの人と会うのを避けたからなのか?」

 その他に理由なんて思いつかない。

 他に理由が思いつかないが、どうしても考えてしまう。


 ――たったそれだけが理由で自殺をするものなのか、と。


 もしかしたら、他に何か悩んでいたのかもしれない。

 人に言えない秘密の一つや二つ、結理の年齢なら持っていても不思議じゃない。

 結理の手を取ると、ひんやりしていたがちゃんと温かさも伝わって来る。

「教えてくれよ」

 ざわざわと寒気にも似た感覚がずっと続いていて、吐き気がして気持ちも悪い。前にも似たような感覚に襲われた気がするが、今は思い出す気にもなれない。

 そんな中で、部屋のドアがノックされた。

 誰だろうと考える前にドアの向こうから相手が声を掛ける。

「悠、入るね」

 ドアノブが落ちて、先ほどまでよりは落ち着きを取り戻していた姉が入って来た。

「……苗木先生」

「ははっ」

 苦笑いにもならない辛そうな笑顔だった。

「やっぱり、昔みたいに秋姉ちゃんとは呼んでくれないんだね」

 俺は視線を逸らして、握っていた結理の手を離す。

「ううん、でも仕方がないよね」

「何をしに来たんです?」

 あからさまに不機嫌さを押し出して、威嚇するように姉と対峙する。

「悠、それと結理ちゃんにもちゃんと謝らないといけないと思って」

「まさか、結理がこんなことをした理由を知ってるのか?」

 睨み付けると姉は小さく首を振る。

「分からない」

 右手で左腕を掴んで、震えるほど両手を姉は強く握り締めていた。

「分からないけど、私の話が結理ちゃんの心に触れたのよ」

「どんな話をしたんだ?」

「憶えているんだよね。お葬式の日に私が悠に言ったこと」

 一瞬、世界がぐるりと一回転したような衝撃が走った。

 動揺で頭が真っ白になる中で、どうしても聞き捨てならないことがあった。

「その話を結理にしたのか?」

 どうして今、その話をするのか。

 直感的に怒りが生まれて、すぐに冷静になって気づく。

「実習が始まって、すぐくらいだったと思うけど」

 まるですべての音を吸収しているかのように喋った声が消えて、間に妙な沈黙が流れる。

 五年以上も離れて暮らしていて、その間一度も連絡を取り合っていない。

 姉弟だから自然と会話が生まれるなんて考えは、少なくともこの二人の間に成立しない。

 始めから話題なんて、この一つしかなかったのだ。

「ごめんなさい。ずっと、ずっと謝りたいと思っていたのに」

 右手を離した姉は、正面から俺のことを見据えてから頭を下げた。

「遅くなってごめんなさい。あんなことを言っちゃって、本当にごめんなさい」

 目の前の光景が理解出来なくて、固まったまま動けない。

「感情がないなんて嘘。悠も悲しかったんだよね。でも、まだその感情の伝え方を知らなかっただけだったんだよね」

 目に涙を溜めながら、本当に申し訳なさそうに姉が話している。

 嘘か、本当か、それを見抜くことは俺に出来ない。

「遅くなっちゃったけど、これからは全部お姉ちゃんに話して。私たちは、たった二人だけの姉弟なんだから」

 呆然として、今度こそ本当に頭が真っ白になった。

 ただただ、一つの単語だけが何度も頭の中で反芻され続ける。


 ――嘘。


「少しずつ、ちょっとずつでも話していこうよ」

 すぐ眼前まで近づかれても気づかなくて、両肩に手を掛けられてようやく我に返った。

「う、うん。そうだね」

 不思議と怒りは湧いて来ない。

 それどころか何も感情が出てこなかった。

 戸惑ったように表情を引き攣らせて、俺はそれでも喜んでいるような顔を作っていた。



 翌日が土曜日ということもあって、今朝から結理の両親が学園に着ていた。

 まだ結理は目を覚ましていない。

 随分と身体的な疲労が溜まっていたようで、睡眠不足だったのではないかと医師が説明していた。

 ついこの前、柏瀬部長の一件があり不安が過ぎったが、遅くても週明けには目を覚ますだろうという診断が出ている。

 そんなことよりも、結理の両親から聞いた信じられない話で俺は混乱していた。

 結理のリストカットは今回が初めてではなかった。

 中学に進学した頃、今回のように手首を切っていたらしい。

 話は誰の邪魔をされない俺の部屋で行われて、俺と結理の両親、それと姉を含めた四人だけだ。

 結理の両親は陽が落ちるまで学園に残っていたが、結局この日結理が目を覚ますことは無かった。

 それから半日以上結理は眠り続け、目を覚ましたのが正午を過ぎた頃だった。


「あっ、私――そっか」


 結理が目を覚ました時、ちょうど演劇部が揃っていて、周囲をとろんとしている瞳で一瞥した結理は両親の姿を見つけてそう呟いた。

「ごめんなさい」

 続けて謝った結理は、一度も見た事のない愛想笑いを見せる。

 これまで太陽のように眩しかった笑顔とは程遠く、笑いながら瞳がずっと怯えたように揺れていた。

「結理ッ!」

 沈黙を破るように結理の母親、おばさんが結理を抱き締める。

 それをきっかけに部屋の空気が変わって、張り詰めていた雰囲気が崩れた。

「結理ちゃん、心配したよ」

「よ、よかったです……っ」

「本当、びっくりしたなんて言葉じゃ足りないんだから」

 口を開いた途端、おそらく菜綱ともみの時のことを重ねたらしい柏瀬部長が声を震わせて泣き出してしまった。

 それを戸惑ったような笑みで結理は見ていて、何度かさっきと同じ言葉を繰り返す。

 温かな雰囲気に変わる中で、俺だけは一つ気になる事があった。

 結理が目を覚ましてから、一度も俺と目を合わせていない。

 気のせいかとも思ったが、結局最後まで結理は俺と視線を交わすことは無かった。


「どうして、何でだよ!」

 翌日の月曜日、部活が始まる前に俺は佐鳥の肩を掴んで詰め寄っていた。

「私に言われても分からないよ。私は、結理ちゃんから伝言を頼まれただけなんだから」

「理由は聞いてないのか? 結理の様子はどうだったんだよ」

「い、痛いよ……ッ」

 苦痛に顔を歪ませる佐鳥に気づいて、冷静さを欠いていた俺は肩から手を離す。

「悪い。でも、理由もなく結理がそんなことを言うとは思えないんだよ」

「理由は分からない。でも、結理ちゃんは今、苗木くんとは会いたくないって言っているの。ただでさえ不安定な状態なんだから、結理ちゃんの言うとおりにしてあげて」

 睨むような佐鳥の強い視線で、昂っていた感情が少しずつ収まって行く。

「わかったよ。でも、頼むから結理を一人にしないでやってくれ」

「大丈夫。今は志穂先生がついているし、交代で私たちが一緒に看病することになっているから」

「そうか。悪かったな……っ」

「苗木くんも、ちゃんと休んだ方が良いよ。凄く疲れた顔をしてる」

 頷いて返したものの、とても休んで居られるような気分ではなかった。

 練習にもなっていない部活が終わって、自室に戻って来た俺は電気も点けずにベッドに倒れる。

 カーテンが開けっ放しになっていて、ちょうど顔に月明かりが射していた。

 この数日は、本当に分からないことばかりだ。

 どうして結理はリストカットしたのか。

 脅迫状の犯人は、なぜ突然に俺を解放したのか。

 なぜ、結理は俺と会うことを拒んでいるのか。

「まさか、結理が犯人だったのか?」

 そう考えると、脅迫から解放した理由が説明出来る。

 リストカットするつもりだったから、自殺するつもりだったからだ。

 演劇部というより、結理は血の繋がった家族よりも付き合いが一番長い。もしかしたら、俺の本質を見抜いていた可能性はある。

 しかし、どうして結理は脅迫するなんて方法を選択したのだろう。

 少なくとも俺が知っている結理がそんなことをするとは思えない。

「いや、そんなの俺の思い上がりだよな」

 結理が過去にもリストカットしていたことをつい先日まで俺は知らなかった。

 包帯を今回する際に見てしまったんだ。

 あれは、一度や二度の傷ではない。

「どうしてなんだよ。お前は、ずっと何に苦しんでいたんだ?」

 一番近くに居たはずなのに、俺はいつも笑顔の結理しか知らない。

 そうして考えていると、ふと脳裏に過ぎる。


 ――もしも、結理が死んでいたら、俺は涙を流しただろうか。


 背筋がゾッとして、心臓の鼓動が速くなる。

 落ちつていられなくなった俺は、上半身を起こして力いっぱいに壁を叩きつける。

 そうして、結理の部屋でもあったこの感覚の正体を思い出した。

 これは両親が亡くなった時に感じたものと同じだった。

「――くッ!」

 居ても立ってもいられなくて、気づいた時には部屋を飛び出していた。

「だ、だ、ダメですよぉ! 咲桜先輩に言われてましたよね」

 結理の部屋をノックして出てきた菫ちゃんは、周囲を気にするようにしながら部屋のドアを閉める。

 周りに誰もいないことを知って、菫ちゃんは溜息を吐いてから俺のことを睨んだ。

「今、結理ちゃんは眠ってます。ご両親が帰って、今朝までは荒れて大変だったんですよ」

「結理が?」

「情緒不安定というか。少しだけ、あの時の私に似てる気がします」

 正直、結理が暴れているところを想像するのは難しかった。

「今は時間が必要なんだと思います。多分、それは先輩も同じですよ」

「少しでいいんだ。顔を見るだけでも」

「ダメです。顔が見たいなら後で画像でも何でも送りますから」

 突然両頬に柔らかな感触が触れて、視線を強制的に下げさせられる。

「私はちゃんと、悠人先輩の味方ですから」

 そういって、真っ直ぐに菫ちゃんは俺のことを見据えていた。

「多分、それは私だけじゃなくて佳凛部長も、萩野先生も同じですよ。皆、先輩のことを心配しているんです。もちろん、結理ちゃんは私にとっても大切なお友達です」

すぐに菫ちゃんと目を合わせられないほど動揺していることに、俺は今更のように気付かされる。

 ようやく落ち着いて来た俺を見て、すっと菫ちゃんは目を細める。

「こんなに心配してくれるお兄さんが居て、結理ちゃんはきっと幸せ者ですよ」

 菫ちゃんは俺の本当を知っている数少ない相手だ。

 その上で言ってくれた言葉は、思いの外素直に胸に届いていた。


 数日が過ぎて、結理は今も自室に籠っている。

 体調のほうは順調に回復しているようで、いつ授業に出ても問題ないらしい。ただ精神ほうがまだ不安定で、誰とも何も話そうとしないらしい。

 どうしてこんな曖昧なことしか言えないのかといえば、未だに俺は結理から部屋の入室許可を貰っていないからだ。

 この数日で、否応無しにも考えさせられた。

 考えさせられたなんて言うと無理やりやらさせている印象を受けるが、むしろ自分がどれだけ考え無しだったのかに気づかされた。

 なぜ、結理がリストカットをしたのか。

 そんな重要なことすらも失念して、一体俺は結理と何を話そうとしていたのだろうか。

「今日もダメでしたねー。完全に心を閉じちゃってる感じですよ」

 人の部屋の回転椅子に座り、ぐるぐると周りながら菫ちゃんは溜息を吐くように愚痴を溢す。

「正直、あんな結理ちゃんを見るの初めてで、思わず全部をぶちまけたくなります」

「やめとけよ」

「冗談ですよ。でも、元々大人しい性格なので、黙っている分にはいつもと変わらないんですけどね」

 回転を止めて、『はぁっ』と露骨な溜息を吐く。

「大人しい? 結理が? 何言ってんだよ。そんな訳ないだろ」

「ええっ、先輩こそ何を言っているんですか?」

「結理なんて、元気だけが取り柄みたいな奴だろうが」

 昔は泣き虫だったかもしれない。だが、今はもう見る影もないくらい対照的な性格になった。

 それこそこの前、久し振りに結理の笑顔以外の表情を見たくらいだ。

「多分それ、先輩の前だけだと思いますけど……っ」

「嘘だろ?」

「先輩幼馴染みなのに、結理ちゃんのことを何にも知らないんですね」

 あまりの衝撃的な発言に俺は何も言い返せなかった。

 菫ちゃんの話によれば結理は教室で、いつも一人でぼんやりとしていることが多いらしく、誰かに話しかけられなければ一言も喋らない日もあるそうだ。

 俄かに信じられない話だが、菫ちゃんが嘘を吐く理由もない。

「本当に知らなかったみたいですね」

 呆然としている俺の表情を見て、どうやら菫ちゃんはそう判断したようだ。

 実際その通りなので、反論することも出来ない。

「まぁ、結理ちゃん自身が、先輩には悟られないようにしていたのかもしれないですね」

 夕食間際になって菫ちゃんは部屋を出て行って、他にもいろいろと結理のことを教えてくれた。

「もしかしたら、先輩以外に興味がないのかも」

 そう締め括った話をどこか俺は、お伽噺のような気持ちで聞いていた。

 菫ちゃんの口から聞いた結理は、お伽噺を聞いている時のように現実感がない。

 まるで別人の話を聞かされているような気持ちになって来る。

「本当に、何にも知らなかったんだな」

 さっきまでは、心のどこかで結理のことを何でも知っている、理解していると思っていた。

「それがどうだ、俺は結理の何を見ていたんだ?」

 何にも知らない。

 俺は結理のことを何にも知らない。

 知ろうとさえ、考えようとさえ思っていなかったのかもしれない。

 近すぎたから、そんなのはただの言い訳だ。

 だが、そんなのは今日で終わらせる。

「こんなことを言ったら、また佐鳥に自己満足だって言われるかもしれないな」

 腹を据えたら、どうやら気持ちに余裕が生まれたようだ。



「結理ちゃんが話をしたいって」

 そう佐鳥が告げに来たのは、ちょうど日付が変わる頃だった。

「今は菫ちゃんが看てくれてる」

「そうか」

 本当にすべてを見通しているんじゃないかと思うほど、僅かな表情や態度で佐鳥は相手の気持ちを見抜く。

 僅かな間でも、結理を一人にすることを不安に思っていることに気づいたんだ。

「悪いな」

「どうして謝るの?」

 返事の代わりに俺は苦笑して見せる。

「ねぇ、どうしてなんだろうね」

「何が?」

「誰も苦しまずに平凡なまま、平和にはなれないのかな?」

 そういった佐鳥は俯いていて、表情を知ることが出来ない。

「ごめん。変なこと訊いちゃったね」

 困ったように佐鳥は笑って、それから一度も会話を交わさなかった。

 菫ちゃんに変わってもらって、ベッドのヘッドボートを背もたれにしている結理と向き合う。

 たった数日間会っていなかっただけで、随分と久しぶりのような気がした。

 結理もどんな表情をしていいのか分からないようで、笑っているような困っているような変な顔をしている。

 淡い赤色のブラウスを着ている結理は髪を下ろしていて、普段より二割増しで幼く見えた。

「怪我のほうはもう大丈夫なのか?」

「う、うん……っ。見てみる?」

 俺が頷くと、結理はスルスルと包帯を外し始める。

「痕が残っているんだな」

 前にも見たが、傷は一つだけじゃない。

 新しい傷のほかに薄らと浮き出るように治癒した傷が残っている。

「驚かないの?」

「おばさんから聞いたし、お前が寝てる時にも見てるからな」

「……お兄ちゃんのエッチ」

「馬鹿。結理の身体を見たところで今更興奮するかよ」

 兄妹のように育って来て、実際俺は結理を本当の妹のように思っている。

 そんな妹に欲情する兄なんている訳がない。

「ううぅ、全然女の子として見てもらえてない……っ」

 落胆して俯いた結理だったが、顔を上げるとブラウスの胸元に手を掛ける。

「これでも、脱いだら結構すごいんだよ」

「ば、馬鹿! 何してんだよ!」

 動きに反応して、反射的に胸のほうを見てしまった。

「あはっ、ドーヨーしてる。今ね、ブラジャー着けてないんだよ?」

 今度は胸を強調するように両手で寄せてみせる。

「あほか」

 そういって軽く結理の頭を叩いた。

「あぅっ、お兄ちゃんが結理のことを殴ったよ……っ。結理は病人なのに」

「それなら病人らしくしとけ」

 久しぶりに感じたのは、本当に僅かな間だった。

 無邪気な笑顔を見せる結理を見ていると、こっちまで自然と頬が緩んでしまう。

「ったく、これから暗い真面目な話をしようとしてんのに」

「そうだったの?」

「お前だって、そのつもりだったんだろ?」

 きょとんと首を傾げた結理は、少しだけ大人びた表情で苦笑する。

「うん。本当は一生話さないつもりだった」

「大袈裟だな」

「そんなことないよ。結理にとって、生きるか死ぬかくらい重要なことだもん」

 拗ねたように言っている姿からは、とても生死が掛かっているようには見えない。

 だが、冗談ではないのだ。

「なら、そんな大事な話をしてくれる気になったんだ?」

「どうしてなんだろ。結理にもよく分からない」

 困ったような照れたような表情で微笑んで、結理はすっと視線を外して前を見る。

「お姉ちゃんが転校するって話を聞いて、いけないのに寂しいと思ったの」

「別にいけなくはないだろ」

「ううん、そんなこと考えちゃダメだったんだよ」

 俺とは違って、結理にとって姉は本当の家族くらいに大切な存在だったと思う。

 言うまでもないが、姉の転校は両親が亡くなったからだ。

「だって、お姉ちゃんを転校させる原因を作ったのは結理なんだから」

「どういうことだ?」

 両親の死因は交通事故で、原因といえば居眠り運転をしていたトラックの運転手にある。誰が考えても不慮の事故だった。

 だが、まるですべて自分が悪いというような思い詰めた表情で結理は口を開く。

「あの日、結理が発作を起こさなかったら、おじさんもおばさんも交通事故になんて遭わなかったもん!」

 目を瞑って、吐き出すように口にした結理の言葉は少し上擦っていた。

 それは喋ることに身体が抵抗しているようで、実際ようやく俺の耳に届くほどの大きさしかなかった。

「全部、結理のせいなんだよ……ッ!」

 すぐに違うと否定するべきだったのか、こうして黙っていることが正解だったのかは分からない。

 いや、正解かどうかではなく俺は言葉が出なかった。

「そうか。急患って、結理のことだったんだな」

 知っていたわけではないけれど、それほど驚きもしなかった。

 ウチの両親はあの事故に遭う前も、結理が体調を崩したり、発作を起こしたりして病院に行くことが多かったからかもしれない。

「でも、結理が悪いわけじゃないだろ。あれは不幸な事故だったんだ」

 正直なことを言えば、まだ小さかった俺は現実感がなかったのだ。

 多分、今も現実として受け止めていない。

 普通じゃない俺は、この事実を客観的に受け止めた。

「その笑顔、お兄ちゃんのその笑顔を見ると結理は苦しくなるの」

 いつの間に視線を向けていた結理は、眉を寄せて今にも泣きそうな表情をしている。

 対照的に俺は表情が固まって、自分がどんな顔をしているのか分からない。

「偽物の笑顔。結理のせいで、お兄ちゃんは笑わなくなった」

「結、理?」

 一瞬にして心臓の鼓動が速くなる。

「(結理は知っていたのか?)」

 驚いて、動揺した。

 急患が結理だったことを知っても何も感じなかった俺が、今は結理の目を合わせられないほどに動揺している。

「全部、結理のせい。お姉ちゃんが転校したことも、お兄ちゃんが笑わなくなったことも」

「違うだろ。全然、違うだろ!」

 咄嗟に大声になった。

 誰かのせいじゃない。俺がこんな風になったしまったのは、全部自分自身のせいだ。それを知ったのはつい最近だが、断じて結理のせいなんかじゃない。

 まだ目を合わせられない。

「こうなったのは、俺自身に問題があったからだ」

 普通の人間とは違うバケモノだと、あの日俺は自覚した。

 たとえ、その本質を見抜いた相手が気づいていなかったとしても、だ。

「(まさか、結理があんなことをした理由は――)」

 ここに来るまで、過去に結理がリストカットした原因は虐められていたのだと考えていた。受験や将来に関して、結理は一切悩んだことがなかったから他に理由が思いつかなかったからだ。

 だが、そんな簡単な話ではなかったのかもしれない。

 決定的な要因があるような気がした。

「――結理が悪いんだよ」

 目を大きく開いて、悲痛に結理の表情が歪む。

 目が合った途端、真ん丸の大きな瞳から涙が溢れ出した。

 その瞬間胸を鷲掴みにされたような衝撃が走り、えも言われぬ焦燥感に苛まれる。

 それと同時に、なぜか犯人からの脅迫文を思い出した。


――『私は誰にも知られずに狂い、やがて誰にも知られずに直っていた』


「(あれは、結理からのメッセージだったんじゃないのか?)」

 まだ結理が脅迫状の犯人だと決まった訳ではない。

 だが、結理は俺の表情を『偽物の笑顔』だと言った。

 それはつまり、俺の本質を知っていることではないのか。

「(本当、こんな時にも俺は……)」

 ハッと我に返って、いつの間に視線を下げていた結理を見つめる。

 ついさっき自分の生き方を後悔したばかりなのに、頭のどこかで結理のことを疑い、犯人だと想定して見てしまっている。

だが、もしも結理がこれまでの脅迫してきたように助けを求めているのなら、俺は何をしても助けてやりたい。

「いつから、俺の表情が変だと気づいたんだ?」

 すべてを受け入れるつもりで尋ねると、結理は微かに頷いてボソボソと話し始めた。

「……最初は、ね。おじさんとおばさんが死んじゃったから、お兄ちゃんは無理に明るくしてるんだと思ってた。そうしていないと悲しくて泣いちゃうからだって、お母さんが言ってたから」

 否定せずに俺が頷くと、結理は話を続ける。

「でも、ずっとお兄ちゃんは変わらなかった。いつも明るくて、優しくて、いつの間にそれが当たり前みたいになってた。結理も、最初は不思議に思わなかったし」

 両親が亡くなった後のことはよく憶えている。

 周囲に対して常に気を張って、周りに合わせることで必死になっていたからだ。今までどうやって誰と話していたのかも、当時の俺には思い出せなかった。

 だから俺は、周りの評価を利用することにした。

「お兄ちゃんが元気になってよかった。最初は無理をしていたかもしれないけど、ちゃんと元気になったんだって」

 相変わらず結理の表情は暗く、声にもいつものような張りもない。

 両親が亡くなって無理に明るく振る舞っている子ども、そう結理が言ったように思われていることに気づいていたからだ。

「だけど、見ちゃったんだ。結理が中学生になったばかりの時、お兄ちゃんが教室の前で笑顔を作ったのを」

 結理の言葉を聞いた瞬間、俺の表情は凍りつく。

 見られていたという衝撃も大きかったが、そんなに前から知られていたことにも驚いていた。

「それが、リストカットした理由だっていうのか?」

 おじさんから聞いた結理が前にリストカットした時期とも重なる。

 けっして両親にも話さなかったその理由が、結理自身ではなく俺のせいだったなんて。

 頷きも否定もせず、結理はキュッと両手を握り締める。

「そう、なんだな」

 沈黙はそれだけで肯定と変わらない。

 顔を上げた結理は視線を正面の壁に向けて、少しだけ声が大きくなった。

「だから結理は、お兄ちゃんが本当に笑えるように、笑顔になれるように頑張ることにしたの。お兄ちゃんの前では、どんなに辛いことがあっても笑顔で、楽しくしていようって決めたんだ」

 結理は小さな時から俺や姉の後ろについて来ていた。

 それは俺の両親が亡くなっても変わらず、結理は笑顔を向けてくれていた。

 その笑顔が俺にとって、唯一と言えるほどのやすらぎをくれていたことは間違いない。

「そして、最近になってお兄ちゃんは昔みたいな表情をしてくれるようになったんだよ」

「えっ?」

 マヌケにも声が出てしまう。

「やっぱり、お兄ちゃんは気づいてなかったんだ」

 大人びた声は結理に対して今まで感じたことが無かった女性らしさがあって、いつの間に向けられていた瞳に温かさが含まれている。

 すっと大きな瞳を細めて、口角を僅かに持ち上げた結理の笑顔はまるで知らない女性のようだった。

「結理は、凄く嬉しかったんだよ」

「……っ」

「だけど、それを結理があげられなかったのは、同じくらいに悔しかったかな」

 そんな表情(かお)をしていたのは本当に一瞬だけで、困ったように結理は乾いた声で笑う。

「よかったね、お兄ちゃん」

「何だよ、それ」

「お兄、ちゃん?」

 急に噴き出して来た怒りに声色が変化して、それに結理は目を丸くさせる。

 当然だ、自分で言うのもあれだが俺は怒らない。

 怒るという感情が分からないのではなく、他人に対してそういった感情を持たないようにしていたからだ。

 怒りなんて感情は、他人に対して関心を持たなければ成り立たない。

 でも、改めて気づく。

 結理は違う。

「そんな顔をするなよ。俺の前では笑ってるんだろ?」

 結理の頭に手を乗せて、感情に流されないよう優しく髪を撫でる。

「そんな、悲しい顔をしないでくれよ」

 まるで、何かを諦めたような空虚な瞳なんて結理には似合わない。

 元気でいつも笑っているのが、俺が知っている保月結理という女の子だ。

「お兄ちゃん……っ。あはっ、まさかそんなことを言われるなんて思ってなかったから、泣いちゃいそうだよ」

 ほんの少しだけ表情が弛んだ結理は、真っ直ぐに俺のことを見つめる。

 気持ちが伝わったのだと、俺は胸を撫で下ろし顔にも表れる。

「だけど、ごめんね」

「えっ?」

「もう結理は、お兄ちゃんとは一緒に居られないんだよ」

 晴れやかな笑顔を見せた結理は、小さく首を振って口を開く。

「居ちゃ、ダメなんだよ」

 変わらず結理は俺の目を見つめたままで、まるで仕方がないといった口調だった。

 当然、理由も分からず納得出来るわけもない。

 口を開こうとした瞬間、結理の表情が唐突に崩れた。

「……ダメ、なんだよ。資格がないの」

 瞼が歪んで、眉がへの字に曲がる。

 そんな表情の変化が見えたのは一瞬だけで、結理は両手の甲を目に当てて泣き出した。

「ごめんなさい。ごめんなさい……ッ!」

 涙声で謝る結理の言葉は掠れていて、嗚咽が交じっていて聴き取りにくい。

 胸が締め付けられる感覚に襲われた瞬間、頭の中で何かがフラッシュバックした。

 アニメや映画で見たことがようなセピア色の背景で、頭の中で思い出された小さな女の子は泣きじゃくっていた。

 その女の子は真っ黒な服を着て、一人で隠れるように泣いていた。



 葬儀の間、俺はずっと混乱していた。

 小学五年生の子どもが、いきなり両親の死を受け止めることなんてどだい無理な話だろう。

 それでも周りの大人が、『可哀想』だとか『頑張るんだよ』と声を掛けるから、ただ純粋に言葉通りに受け取った。

 後になって思えば、俺はずっと不安に押し潰されそうになっていたのだ。

 そんな子どもが途中で逃げ出してもおかしくない。

 そうして俺は、実家の裏手のさらに物置の裏に隠れている結理を見つけた。

「結理ちゃん?」

 声を掛けると結理は、先生に怒鳴られた時のようにぴくんと身体を震わせる。

「……悠人、お兄ちゃん?」

 顔を上げた結理はずっと泣いていたらしく目が真っ赤になっていて、伝った涙の痕がいくつもあった。

 ほろほろと頬を伝って雫が零れ、結理は立ち上がるとすぐに逃げようとする。

「待てよ!」

 腕を掴んで、逃げられないように振り向かせる。

「逃げんなよ」

 怯えたように瞳を泳がせる結理に対して、俺は相当むすっとした顔をしていたと思う。

 だがそれは、結理が逃げようとしたことに怒っていた訳じゃない。一緒に居たい気持ちを素直に表現出来なかった。

 思春期だったのだ。

「……うん」

 逃げる気が無い事が分かった俺は手を離し、物置の壁を背もたれにした。結理は物置に背中を預けながらその場にしゃがみ込む。

 それからしばらくは、無言で薄く曇った空を見上げていた。

「もう泣くなよ」

 俯いたまま嗚咽を漏らす結理は、今にも大声で泣き出しそうな雰囲気を醸している。

「お前のお父さんとお母さんが死んだわけじゃないだろ」

 泣きたいのはむしろこっちのほうだ。

 両親の死はあまりに突然で、実感がまだほとんどない。

 ただ明日、明後日になっても二度と会えないのだと思うと、漠然とした恐怖や不安に胸が押しつぶされそうになる。

 膝を抱えている結理は、嗚咽で肩を揺らす。

「――なさい」

 ぼそっと呟いた言葉は半分以上聞き取れず、俺はやりきれない感情を結理にぶつけた。

「何だよ、言いたいことがあるならはっきり言えよ!」

 久しぶりに出した大声は想像以上に大きく響いて、びくっと身体を震わせた結理が顔を上げる。

「黙ってたってわからないだろ!」

 歯止めがきかなくて、もうほとんど八つ当たりだった。

 怒鳴られた結理の表情は恐怖に歪んで、流れていた涙が止まっている。

 この時の俺はすぐに後悔したが、謝る気持ちにもなれなかった。

「ご、ごめんなさい。ごめんなさい……っ」

 涙声に何度も謝る結理の姿を見て、俺は針に刺されたみたいに胸が痛んだが意地を張って謝らなかった。

 この後に結理が告白した内容を聞いても俺は怒ったような顔をして、最後まで結理を泣かせたままだった。



 フラッシュバックした記憶は、なぜ今まで思い出せなかったのかと思うほど鮮明だった。

 胸の奥が軋りと痛んで、激しい後悔に胸が張り裂けそうになる。

 どうして今まで忘れていたのかといえば、結理を泣かせたその日の夜に姉からあの言葉突き付けられたからだろう。


 ――あんたは悲しくないの? お父さんとお母さんが死んだのに。気持ち悪い。あんたには人としての感情が無いんだわ。


 あの日、俺が泣かなかったことには姉の言葉以外にも理由があったのだ。

 俺が泣いてしまったら、結理がもっと傷ついてしまう。

 素直に感情を表現出来なかった俺は、態度で結理を励まそうと思った。俺が泣かなければ、結理に掛ける負担を軽減出来ると思えた。

 もちろん、それだけが泣かなかった理由ではないのかもしれない。

「謝るのは俺のほうだ。本当にごめんな、結理」

 自然と手が伸びて、結理の頭を撫でる。

「今まで気付いてやれなくて、忘れてて悪かった」

 さらさらとした髪の感触とふわりと香る花のような甘い匂いが、精神安定剤のように気持ちを落ち着かせてくれる。

 目を丸くして驚く結理は、居心地悪そうに顔を伏せる。

「俺が笑わなくなったのは、本当に結理のせいじゃないんだ」

 結理が言っていた〝偽物の笑顔〟は、俺が恐怖心から装着した仮面だ。

 他人と違うことが、俺には怖くて堪らなかった。仲間外れになることがではなく、異質なモノとして見られるのが怖かった。

 今でも、あの日姉が見せた他人を見るような冷たい目は忘れられない。

「それどころか、俺は何度結理に助けられてきたのか分からない」

 当時は、まるでオオカミの檻に入れられた羊の気持ちだった。

 一度牙を剥かれれば、何の抵抗も出来ずに食い殺されるものなのだと思っていた。

「結理はいつも俺のことを信じてくれただろ? 隣で、笑っていてくれただろ」

 いつ気が狂ってもおかしくない状態で、俺に安定をくれたのは間違いなく結理だった。

 力強く首を振って結理は否定する。

「俺は嬉しかったんだ、本当に」

 放り込まれた檻の中で、結理と一緒にいる間だけは安心出来た。

 何の確証もないのに、信じられた。

「違うよ。違うの……っ。結理は、悪い子だから」

「結理が悪い子のわけがないだろ」

「だって、結理がおじさんとおばさんを死なせちゃったのに」

「あれは不幸な事故だったんだ。少なくとも、結理が悪いことなんて一つもない」

 今ならそうはっきりと断言出来る。

 もう両親の死を受け止められないほど子どもじゃない。

「したよ! したんだよ……ッ!」

 強く手を握り締める結理は、俯いたまま言葉を継ぐ。

「今だって、お兄ちゃんの優しさにつけ込んで許してもらおうとしちゃってる」

「許すも何もないだろ」

「結理にはお兄ちゃんと一緒にいる資格なんてないのに」

「俺が一緒に居て欲しいって言ってもか?」

「違うよ。違うんだよ……っ」

 フルフルと力なく首を振る結理は、ゆっくりと顔を上げて辛そうに口を開く。

「結理はお兄ちゃんの優しさを利用して、お兄ちゃんが許してくれることも知っていてこんな話をして、楽になろうとしてる酷い子なんだよ」

 視線を逸らさないことが罰みたいに結理の表情は悲痛に歪んでいく。

 何度も流れた涙の痕を添うように雫が伝った時、掠れながら結理が大きな声で告白する。

「結理は、ずっとお兄ちゃんが好きだったから」

 唐突な告白に俺は反応出来ない。

 それでも、この告白が兄妹としてではないことだけは理解出来た。

「本当はお兄ちゃんの笑顔を取り戻したいなんて嘘なの。本当は結理しか知らないことが嬉しくて、それをお兄ちゃんと居る言い訳にしてた」

 深夜の物音一つしない室内で、結理の告白が続く。

「お兄ちゃんが笑ってくれたら、結理は役目を終えて居なくなろうって。結理が一緒に居たら、嫌でもおばさんたちのことを思い出しちゃうでしょ。どんなにお兄ちゃんが関係ないって言っても、お兄ちゃんは思い出すよ」

 口を挟む余裕もなく、決定的な言葉を結理が口にする。

「だって、あの日に起こったことは変わらないから」

 言葉が切れて、室内が完全に無音になる。

 ここでこれまでのように否定することは簡単だが、否定することで結理に与えるショックが計り知れない。

 事実を折り曲げて否定すれば、結理は俺の優しさにつけ込んでいると思うだろう。

 かといって事実をそのまま口にするということは、結理が俺の両親を殺したと間接的に認めることになってしまう。

 結理は有罪判決を待つ被告人のような青い顔をしている。

 俺からの言葉を待っているのだ。

 覚悟を決めて、俺は口を開く。

「俺は笑えるようになったのか?」

 今更説明する必要もない。

 結理がリストカットした理由は、俺が本当の笑顔を取り戻したと判断したからだ。

 だが、俺は今も仮面を被って生活しているし、本当の姿を見せていない。

 今も結理の言う〝偽物の笑顔〟のままだ。

 しかし、肯定するように頷いた結理が口を開く。

「部活の後にお姉ちゃんと会わせた時があったよね?」

「ああ、覚えてる」

 たいして話していないが、あの日を境に結理の行動が大胆になったことは覚えてる。

「その後、お兄ちゃんと菫ちゃんが一緒に帰ってたよね」

 まさか見られていたとは思わず、咄嗟の反応に困ってしまった。

「凄く楽しそうだったよ。思わず声をかけることが躊躇うくらいに」

「誤解だ。別に俺と菫ちゃんは普通に話してただけだよ」

 もしかしたら、結理は俺と菫ちゃんが付き合っていると勘違いしたのかもしれない。

 普段大人しく恥ずかしがり屋な菫ちゃんを知っていれば、二人っきりの時に見せるあの姿はまるで別人だと感じても仕方がない。

「確かに菫ちゃんの雰囲気は少し違っていたとは思うけど」

 本当のことを話すわけにはいかないが、誤解だということはちゃんと伝えたかった。

 だが、結理は首を振ってまったく予想していなかったことを口にする。

「違うよ。結理が楽しそうだと思ったのはお兄ちゃんのほうだよ」

「俺の?」

「二人で話していた時のお兄ちゃんは、結理が知ってるお兄ちゃんの笑顔だったよ」

 そう口にした結理は曖昧に微笑んで、話し終えると悔しげに唇を噛んだ。

「菫ちゃんなら、きっとお兄ちゃんの笑顔を取り戻せるよ」

 やはり結理は勘違いしている。

 確かに菫ちゃんと話している時の俺は、気構えていない分だけ自然体に見えるだろう。だがそれは、互いが爆弾を所持しているから成り立っている関係性に過ぎない。

「結理は、俺のことが好きだって言ってくれたよな」

「う、うん」

 戸惑ったような頷く結理に向かって、はっきりと言葉にする。

「俺も結理のことが好きだ」

 驚いたように目を瞠る結理に続けて言葉を継ぐ。

「でも、これは恋愛感情じゃない」

 こういった時、ラブとライクなんかで分類分けするが、結理に対する気持ちは間違いなくラブのほうだ。

 ただし、それは家族に対する愛情に含まれる。

「それは菫ちゃんに対しても同じなんだ」

 菫ちゃんに関しては、彼女のリハビリに付き合っている感覚が強い。

 互いに長い間嘘を吐きすぎて、本当の気持ちがわからなくなってしまっている。

 もし、今後それが恋愛感情に結び付くとしたら、数か月先になるか、数年先になるかもしれない。

「ど、どういうこと?」

「二人とも、俺にとっては可愛い後輩なんだよ」

 部活歴で考えると俺のほうが後輩だが、この際気にしない。

 可愛い後輩っていうのも、自分の口から出たかと思うとぞっとするほど恥ずかしい。

「ん、んん?」

 釈然としない様子で、結理は首を傾げながら見つめてくる。

「でも、やっぱり結理は特別なんだ」

「えっ?」

「考えてもみろよ。俺にとってお前は、本当の家族の誰よりも一緒に居たんだぞ」

 ハッとしたように結理は目を開いて、同時に表情が少しだけ弛んだ。

「結理が死んだら俺、今度こそ大泣きするぞ」

 冗談っぽく口にしたが、紛れもなく本心だ。

 恥も外聞もなく、いつまでも泣き続けている自分の姿が容易に想像出来る。

「俺は結理のことを家族だと思っているし、大切な妹だと思ってる」

 嘘偽りなく、駆け引きもない本音だ。

「ほ、本当に妹なだけ?」

「ああ」

「うぅっ」

 はっきりと断言すると、悲しそうに結理が呻く。

「結理、佳凛部長よりもおっぱい大きいよ」

「それがどうした」

「お、お兄ちゃんにだったら何をされてもいいと思ってるし」

「何もしないけどな」

「うぅっ、お兄ちゃんの意地悪」

 しゅんとする結理は、恨めしそうにこっちを睨む。

「いつか、ちゃんと結理には事情を話す。約束だ」

「絶対だよ?」

「当たり前だろ。俺が結理に嘘を吐いたことがあったか?」

 もう一度頭を撫でようと手を伸ばしたが、ジトっと結理に睨み手を払われてしまった。

「嘘。だってお兄ちゃん、よく嘘吐いてたもん」

「そうだったか?」

「結理はもう簡単に騙されたりしないんだから」

 そういって頬を膨らませた結理だったが、すぐに笑顔に変わって払った俺の手を取って自分の頭に乗せる。

「でも、結理が満足するまで頭を撫でてくれたら、今日までの嘘は全部許してあげる」

「ほどほどに頼む」

 口ではそう言ったが、頭を撫でるくらいで許してくれるのならいくらでも結理の言うとおりにしてやるつもりだった。



 三週間の実習を終えて、姉が東京に帰る日がやって来た。

「落ち着いたら、連絡するね」

「ああ」

 見送りに校門に出ているのは俺と結理の二人だけで、他に誰もいない。すでに学園と演劇部での送別会が済んでいるからだ。

 最後は家族水入らずということになって、ほんの数分前までは結理も来ないつもりだったらしい。

「せっかくお姉ちゃんが来てくれたのに、いっぱい迷惑を掛けてごめんなさい……っ」

 授業に出られるようになった翌日に姉が帰ることになり、昨日から結理は恐縮しっぱなしで姉と顔を合わせれば謝っている。

 最近の結理は本当に泣いてばかりいる。

「気にしないでって何度も言ってるでしょう。私だって、久しぶりに結理ちゃんと会えて楽しかったんだから」

 二つの送別会でそれぞれに貰った花束を抱えながら、姉は困ったように視線を泳がせている。

 ふと視線が合って、すぐに姉が助けを求めているのだと分かった。

 だけど、俺は敢えて目を逸らした。

「……薄情者」

 小声で何かを言われたような気もするが、やはり無視する。

「ああ、もう。ほら、泣かないでお願いだから。ね? 結理ちゃんに泣かれるとお姉ちゃんも悲しくなるんだから」

 仕方がなく花束を地面に置いて、姉はそっと結理のことを抱き締める。

 その光景は、本当の姉妹のように見えた。

「だ、だってぇ……っ!」

 いきなり涙声に変わった結理は、ぎゅうっと抱き締め返しながら喉を鳴らし始める。

 さらに困惑の色が濃くなる姉に対して、仕方がなく助け舟を出す。

「いつまでも泣いてたら、秋枝姉さんが帰れないだろ?」

 結理の頭に手をのせて、撫でるのではなく数回軽く頭を叩く。

「う、うん……っ。ん、あれ? 今」

 違和感に気づいて振り返った結理は、姉とまったく同じ顔をしていた。

「悠」

「もう、教育実習の先生じゃないからな」

 そういって視線を下に向ける。

 姉はすでに校門の外に出ていた。

「ありがとう、悠」

 感極まったように表情を崩した姉は、今にも抱き付いてきそうな雰囲気があった

 地面から花束を拾って、先手を打つように姉に手渡す。

 やっぱり、この幸福な雰囲気の中にいると勝手に鳥肌が立ってしまう。

 居心地が悪くて、寒気を覚える。

 そう簡単にこれまで形成された性格が変わることはない。

 たとえそれが当事者であっても、どうやら駄目のようだ。

「お姉ちゃん。お兄ちゃんのことは結理に任せて大丈夫だからね」

「ええ、お願い」

 先に話し終えた俺は、一歩後ろで名残惜しそうに話をする二人を見ていた。

 どうして姉が柊木学園を教育実習先に選んだのか。

 姉は姉で、葬儀の日に俺に言ったことを後悔していたらしい。それがずっと頭に残っていて、会う機会もなくずっと胸に抱えていたそうだ。

 そんな中、東京で教員採用試験に合格して就職先も決まった姉は俺に会うことを決めた。

 学生とは違って、社会人になればさらに会う機会が減り、今回の教育実習を最後のチャンスだと考えたらしい。

 結局は俺の勘違いで、すべての疑念は杞憂に終わった。

 その結果、原点ともいえる問題だけが振出しに戻ってしまった。

 脅迫状を送ってきていた犯人は結理じゃなかったのだ。

「悠人、結理ちゃんのことを泣かせたら許さないからね」

「わかってるよ」

 まだ、事件は解決していない。

 俺自身の問題が解決したことが、この先に待ち受ける問題の布石のような気がしてならず不気味で仕方がない。

 それが予測ではなく、現実に変わるのにそう時間は掛からなかった。


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