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『彼は昔の彼ならず』


 第三話 『彼は昔の彼ならず』


「悠人、今日からしばらく私の生活をサポートしなさい。部長命令よ」


 三日ほど前から柏瀬部長は不機嫌だった。

 原因はどうやら台本の進行状況が芳しくないようで、部長が今の発言をする二日前から部活にも出ず作業をしていたらしい。

 そして、その夕方、冬休みの最終週に柏瀬部長が寮の部屋にやって来て言ったのだ。

「具体的には食事と洗濯、あと掃除も。どうせ、原稿が出来るまでは暇よね」

 こうして俺は、唐突に柏瀬部長の家政婦として雇われることになった。

「気が散るから、二時間くらいどっかに行っててちょうだい」

 家政婦として派遣させた初日、掃除を終わらせた俺に向かって部長は冷たく言い放つと本当に部屋から追い出された。

 ゴミ袋を両手に歩く俺の前に佐鳥が現れて、ゴミ袋に視線を落とすと苦笑いを浮かべる。

「本当に手伝わされてるんだね」

「まぁな」

「それ、焼却炉まで持っていくんだよね?」

「そうだな」

「一緒に行ってあげる」

 そういうと佐鳥は片方のゴミ袋を奪い取って隣に並ぶ。

「いや、別に一人で行けるんだが」

「いいよね? 佳凛先輩の調子も気になるし」

「むしろ、そっちが本音か」

「あれ、そんなことはないよ?」

「どうだか」

 寮の正面玄関を出て、裏側に回って数十メートルの場所に焼却炉がある。

「やっぱり、まだまだ寒いよね」

「真冬だからな」

「んーと、苗木くん。今日は随分と引っ掛かる言い方をするよね」

「そりゃ、勝手に家政婦に任命されたと思えば、あっという間に追い出された訳だしな」

 出会った時から、柏瀬部長は性格の掴めない人だった。

 面倒くさがりの割には責任感が強かったり、頼り甲斐があると思えば犬子の時のように責任を放り出したりする。

 そんな柏瀬部長を一言で表現するのなら、気まぐれだろうか。

 おそらくそんな気まぐれで今、俺は家政婦の真似事をさせられているに違いない。

「これって、全部台本の書き損じ?」

「多分、そうだな。俺が手伝いに行った時には部屋中に散乱してたからな」

 書き損じというよりは、スランプとでも言うべきだろうか。

 見ればわかることだが、これはすべてプリントアウトされたモノで手書きじゃない。

 赤ペンで真っ赤に染まったコピー用紙は、大体似たような場所が何度も少しずつ違った表現で書かれていた。

 そもそもそれが柏瀬部長の執筆スタイルなのか、今日初めて部長の部屋に入った俺には分からない。

「心配だね」

 火を点けた焼却炉に原稿を投げながら佐鳥が呟く。

「台本の完成が、か?」

「ううん。そうじゃなくて、台本の完成より佳凛先輩の体調を心配してるの。多分私だけじゃなくて、皆も心配してると思う」

 焼却炉の煙突から煙が上がり始める。

「こんなこと、今までになかったから」

「今まで?」

「そっか。苗木くんは知らないよね」

 手を止めた佐鳥が、中腰の姿勢を直してこっちに身体を向けた。

「佳凛先輩は一年生の時から演劇部の脚本担当で、これまで一度も台本が予定までにあがらなかったことがないんだよ」

「一度もって。あの柏瀬部長が?」

 正直、俄かには信じられない。

 基本的に面倒くさがりで、脚本担当というのも他に書ける人間が居ないだけだと思っていたくらいだ。

「そうだよ。佳凛先輩って、本当は凄く真面目な人なんだと私は思うよ」

「柏瀬部長が真面目、ねぇ……っ」

 やはり簡単には佐鳥の言葉を信じられない。

 そこらへんは人を見る目というよりも、二年間一緒に部活に打ち込んで来た仲間だから分かることなのかもしれない。

「まぁそれなら尚更。一度くらい、そういうことがあっても良いんじゃないか?」

「そう、だよね。うん、そうだね」

 溜息を吐くように言った佐鳥は、残りの原稿すべてを一気に焼却炉に放り込んだ。

「じゃあ、苗木くんは佳凛先輩のサポートをちゃんとよろしくね!」

「ば、馬鹿っ! 何考えて、火事になるだろうが!」

 あっという間に燃え上がる炎は焼却口からはみ出て、咄嗟に逃げようとして尻餅を着いてしまった。

「それじゃ私、部屋に戻るね。バイバイ」

 踵を返した佐鳥が、小走りで寮に戻って行く。

「ったく、仕方がねぇな」

 走り去って行く佐鳥の後ろ姿を眺めながら立ち上がって、残りの原稿をすべて焼き切り煙突から立ち上る煙が同色の雲に溶けるのを確認してから俺も寮に戻った。

「あっ、悠人先輩。こんにちは」

 玄関ロビーを通ったところで、菫ちゃんが階段を下りてきた。

 挨拶を返すと菫ちゃんはニコッと愛らしい笑顔を浮かべて、すぐ隣に並んだと思ったら唐突に腕を絡ませてくる。

「な、何、どうしたの?」

「ちょっとお話ししたいことがあるんです。大丈夫ですよ、今の時間なら誰も来ませんから」

 ぐいっと引っ張って、俺は菫ちゃんに腕を引かれるままについて行った。

「何か飲みます? コーヒーか紅茶、緑茶もありますよ。全部、インスタントですけど」

「なら、コーヒーで」

「わかりました。ミルクと砂糖は入れますか?」

「いや、いいよ」

 連れて来られたのは菫ちゃんの部屋だった。白で統一されたというより絶対的に物が少なく、まるで病室のように感じられる。

 ベッドにテーブル、ほとんど何も入っていないカラーボックス、カーテンだけが薄紅色で女の子らしさが見える。

「お待たせしました」

 運ばれてきたティーカップもクリーム色で、ヨーロッパ調の装飾が施されたシンプルなものだった。

「ありがとう。なんというか、生活感のない部屋だね?」

「そうですか? そうですね。今、少しだけ部屋の整理をしているんです」

 簡単に室内を眺めた菫ちゃんは、溜息を吐くような口調で肯定する。

 ただ荷物を整理しているにしては、あまりにも物が無くなり過ぎではないだろうか。

「あっ、大丈夫ですよ。別に引越しをするつもりはないですから」

 どうやら顔に出てしまっていたようで、きまりが悪くなって苦笑いで誤魔化した。

「なら、どうして部屋の整理なんて?」

「切り換えようと思いまして」

 何をと尋ねるほど俺も馬鹿じゃない。

 それは間違いなく菫ちゃんが以前飼っていた愛犬、ナイトとの記憶だ。

 普通ならば思い出に変わる出来事を菫ちゃんはいつまでも憶えていようとして、自らを欺いて本音を話せなくなっていた。

 いや、話せなくなっていたと過去形にするにはまだ早いかもしれない。

「そうなんだ」

 俺はその後に対して、根掘り葉掘り訊くような性格ではない。

 それは菫ちゃんの気持ちを汲んでではなく、単に興味がないからだ。

 そのことを菫ちゃんは知っているし、彼女も穿鑿されたいと思っていないだろう。

「それでは、本題に入ってもいいですか?」

 待ちきれないといった様子で、菫ちゃんが口を開く。

「苗木先輩のことです」

「――来るとは思ってたよ」

 案の定というべきか、予想通りの展開だった。

「どうして俺が菫ちゃんと関わったのか、それが知りたいんだよね?」

「はい。あの日、先輩が言ったことが本当なら、萩野先生のことを含めて矛盾していると思うんです」

 目立って話題にこそなっていないが、志穂先生の様子がおかしくなり、異変の原因だと勘違い――完全に無関係とは言えないが、その問題を俺が解決したことになっている。

 その上、菫ちゃんのこともあった。

 他人の気持ちが理解出来ず、理解しようともしない〝バケモノ〟が他人と関わり助けようとした。それを菫ちゃんが矛盾だと思っても仕方がないことだ。

「俺は今、顔も知らない誰かに脅されている」

 今更隠してもしょうがない。志穂先生に続いて、犯人候補から外れた菫ちゃんには話しても問題ないだろうという打算もあった。

 それに彼女は、誰よりも本音か嘘かを見抜く能力に長けている。

「お、脅されてるなんて、どうして……っ」

 素直な告白と一緒に犯人から送られてきた手書きの便箋をテーブルの上に乗せた。

「俺はこの手紙の指示で、屋上に呼び出されたんだ。まさか、菫ちゃんが居るなんて屋上のドアを開けるまで考えもしてなかったよ」

 あの時はまだ菫ちゃんが犯人の可能性があった。だが、限りなく低いとも思っていた。

 だってそうだろう。屋上で菫ちゃんと話すまで、俺は彼女のことを救ったと勘違いしていたのだから。

「そうだったんですか。ならあれは、偶然ではなかったんですね」

「ああ、犯人に呼び出されたんだ」

 少しだけがっかりしたように確認する菫ちゃんは、便箋を一瞥してから視線を上げる。

「萩野先生も私と同じみたいに?」

「ああ。それで、いきなりで悪いけどこの筆跡に見覚えはない?」

「さすがに人の筆跡を気にしたことはないので」

「まぁ、普通はそうだよね」

「でも、この手紙じゃ筆跡を確認することは出来ないんじゃないですか?」

 自分のほうに向けられている便箋を反対に回して、俺が尋ねる前に菫ちゃんは続けて継ぐ。

「よく見るとこの手紙、全部直線で書いてありますよ」

「えっ?」

 思わず動揺してしまった俺は、慌てて手紙を取り文字を確認してみる。

「本当だ。全然、気づかなかった」

 間違いなく筆跡を隠す為の工作だろう。

 誰にだって文字を書くと癖があるもので、専門的なことまでは分からないが筆跡鑑定の際、特定の跳ねや曲がり、簡略文字などを調べるらしい。

 だが、この便箋を見直してみるとすべてが直線で形作られていた。

 文字というよりも、造形というべきだろうか。

「他の手紙もこんな風に書かれているんですか?」

「いや、他は違う。もっと、定規で書いたみたいな文字だ」

「それでは、筆跡から犯人を見つけ出すことは難しいかもしれないですね」

 頷きかけて、ふと疑問に思った事を尋ねる。

「まさか、犯人捜しを手伝うつもりなのか?」

「はい、もちろんです。俄かに信じられない話ですけど、悠人先輩が嘘を吐く必要もないですし、なにより――」

 ここで一度言葉を切った菫ちゃんは、左手を軽く胸に当てて続けた。

「その犯人は、私のことも知っているはずですから」

 少しも口を挟む必要がないほど、彼女の言葉は正しい。

 直接犯人から脅されている相手は俺だが、同時に菫ちゃんの秘密を知っていることにもなる。

 簡単に吹っ切れるような話でもないし、悪い方向に内容を誘導されかねない。

 自らを守る為に本音を言わなかった菫ちゃんは、見方を変えると他人に対して嘘を吐き続け、騙していたとも取れてしまう。

「分かった。俺からも頼むよ。いろいろと教えて欲しいことがあるんだ」

 こうして俺は菫ちゃんに協力を仰ぎ、二人で犯人捜しをすることになった。


「――部長?」

 俄かに緊張感を高めて、本来居るはずの相手のことを呼ぶ。

 言われたとおり二時間後、実際には十分ほど早くに俺は柏瀬部長の部屋をノックした。

 だが返事は無く、鍵が開いていたこともあって、悪いとも思ったが部屋に入らせてもらった。

「(出掛けているのか?)」

 片付けて出たはずの部屋は再びコピー用紙が散乱していて、くしゃくしゃに丸まったものからクリップで留められながら無造作に放り出されているものもある。

 明らかにもう必要ないであろう原稿をゴミ袋に詰め込みながら、数分前まで菫ちゃんと話していた内容を思い出す。

 主な話の内容は犯人捜しというよりも、俺が演劇部に入部する前の話だ。

 具体的にいうと、演目に『人間失格』を選んだ理由が、入部してからずっと気になっていた。

 元々部員の少ない演劇部で、人間失格を演じるにはどう考えても男の役者が足りない。

 だからこそ気になっていたことがある。

 俺が入部する前から演目が『人間失格』だったのか、それとも俺が入部したことで『人間失格』になったのか。

 もし前者だった場合、柏瀬部長には始めから男性部員が入部することを見越していたことになる。

 結果からいえば、前者だった。

 前者だったが、菫ちゃんの話によると柏瀬部長は演目の決定を迷っていたらしい。

 理由は言うまでもないだろう。

 他にも代替案は出されていて、俺が入部したことでその代替案がなくなったのだという。

 怪しいことに違いないが、どうにも決定的ではない。

「さすがにそう上手くはいかないか」

「何が上手くいかないって?」

 背後から突然聞こえた声に振り返り、驚きのあまり心臓が飛び出すかと思った。

「まさか、私の下着でも物色していたんじゃないでしょうね?」

 頭にバスタオルを巻いて現れた部長は、目を細めてジトッと顔を覗きこんで来る。

 両手は腰に当てられていて、明らかに不機嫌な様子が窺えた。

「ち、違いますよ! 考え事をしてただけです」

 だが、そんなことよりも、一瞬で脳裏に焼き付いた光景を振り払うように俺は部長に背を向けて大声を出す。

「そんなことよりも、なんて格好をしてるんですか!」

 唐突に現れた部長は全裸だった。

「仕方がないじゃない。さっきまでお風呂に入っていたんだから」

「それならそうと着替えてから出て来てくださいよ!」

「同じ寮に住んでいるんだから、脱衣所に着替えを置いておくスペースがないことくらい知っているでしょう?」

「わかりました。わかりましたから、とにかく着替えてください」

 背後から動きを見せる様子が感じられない。

 一瞬とはいえ、はっきりと見えてしまった。

「そうしたいけど。私の着替え、悠人の目の前にあるチェストに入ってるの」

「えっ! あっ、すみません。俺、着替えが終わるまで部屋を出てますから」

「別に。そんなことより、部屋の片づけをしてくれないかしら」

 まるで気にしていないような口調で、場所を移動すると部長は着替えを始める。

 いや、実際に見ている訳ではなく、そんな気配がしているだけだ。

「部長は平気なんですか。男に裸を見られても」

「どうかしらね」

 ぼんやりとした歯切れの悪い返事だった。

「もう大丈夫よ」

 否定も肯定もなく、怒るでも恥ずかしがることもない。

 至って普通で、事故とはいえ部長の裸を見てしまったことが夢だったのかと思えるほどだった。

 振り返った後の先輩の格好は、着古してざっくりと胸の空いた大き目なTシャツだけで、片方の肩がだらりと垂れ風呂上がりで赤みを帯びた素肌が見えている。

 バスタオルを外すとまだ濡れている長髪が零れて、部長は一度大きく髪を掻き上げた。

「ところで悠人」

「……何ですか」

 一つひとつの行動が妙に艶っぽくて、さっきから心臓が鳴り続けている。

 軽く屈んだだけで胸が見えそうで、鎖骨から胸の谷間に流れるラインに下着の存在は確認出来ない。

 ちゃんと身体を拭いていないのかTシャツが張り付いて、背中のラインがはっきりと見えて贅肉の少ない肢体に目が離せない。

 そうなってしまうほど、今の柏瀬部長は綺麗だった。

「人間失格は、読んだことある?」

「大雑把な内容くらいなら知ってますけど……っ」

 正直に読んでいるとは言わなかった。

 それが苗木悠人というキャラクターだからだ。

「まぁ、そうよね」

 案の定、納得した様子で部長は溜息を吐く。

「最後の内容は知ってる?」

「確か、主人公が精神病院に送られて終わるんですよね」

「そうよ。思っていたよりは知ってるみたいで助かるわ。最近、読んだの?」

「まぁ、一応。自分が演じる話くらい読んでおこうかと思って」

「悠人にしては、殊勝な心掛けね」

「どういう意味ですか、それ」

 ワザとらしくならないように話を合わせて、馬鹿にされたことに対して反論する。

 普段のやりとりに戻って、鳴りっぱなしだった心臓の鼓動が大人しくなる。

「私はこの話を読んだ時、太宰にとってはこれが〝ハッピーエンド〟だったんじゃないかと思ったの」

「ハ、ハッピーエンドって。女給と入水自殺を起こして、本当は殺したんじゃないかって疑われたり、夢だった画家にもなれず、薬物の為に絵を描いたり、最後には妻にも裏切られるこの話が、ですか?」

 一般的に『晩年』と同じく太宰治の遺書と言われている『人間失格』だが、お世辞にもこの結末がハッピーエンドだとは思えない。

「どう考えてもバッドエンドですよ」

 ちなみにハッピーエンドは和製英語で、ハッピーエンドの派生としてバッドエンドが生まれた。

 日本語に直すとハッピーエンドは大団円だ、まるで人間失格に結末とは違う。

「誰も一般的な話だとは言っていないでしょうが」

 疑問符が浮かんでいる俺に向かって部長が話を続ける。

「私はこう言ったのよ。太宰にとっては、って」

 いや、それにしたってハッピーエンドは言い過ぎだ。

「納得出来ないって顔をしてるわね」

「当たり前じゃないですか」

 百人中九十九人が人間失格を読んで、ハッピーエンドとは言わないだろう。

 その一人だって、柏瀬部長ただ一人だけだ。

「もしも、これが太宰にとっての遺書だというのなら、どうしてこの話で主人公は死んでいないのかしら」

「そんなこと、主人公が死ぬ話をフィクションでもする訳ないじゃないですか」

 こう切り返したが、正直あまり上手い返しとは言えない。

「なら、人間失格の主人公と全く同じ名前の登場人物が出てくる『道化の華』では、自殺を仄めかせる結末が描かれているの?」

「そ、そんな話があるんですか?」

 『道化の華』を俺は知っている。

 晩年に収録されている短編小説で、人間失格と同じく〝大庭葉蔵〟という人物が主人公として描かれている。

 概要を説明すると、人間失格でもあったが、入水自殺を図った主人公が一人だけ助かった後の入院生活を描いた作品だ。この主人公も家族との関係が悪く、話の主軸となっているのは彼が罪に問われるか、否か。

 それまでの間を主人公は、友人や看護婦と何でもない日常を過ごす。

 そして、退院が決まった主人公は看護婦に誘われ崖の上に立ち、その底を見下ろして話が締め括られる。

 柏瀬部長が言っていたように、直接書かれていないだけで表現としては十分にその後を連想させる。

 そんな話を部長が説明して、俺は曖昧に頷いた。

「それにこの時代で、有名な小説の最後は大体似たようなものよ」

 そうなのだ。

 太宰治に関わらず、教科書にも記載されるような小説のほとんどはあまり良い結末を迎えない。

 例えば紙幣でも有名な夏目漱石の『こころ』にしても、手紙という形式だが、完全に遺書として描かれている。

 もちろんこれは俺の意見であって、本当のこととは限らないのだが。

「だとしても、さすがに」

「無理に納得する必要はないわ。だって、私にとってもこれはただの自己満足なんだから」

「えっ?」

 珍しく表情を暗くさせた部長が後半何かを呟いた気がした。

「ほら、作業を始めるから部屋を出て行ってちょうだい」

「ちょっと、まだ俺、来てから何もしてないんですけど!」

 背中を向かせられて、強引に部屋から追い出される。

「それともう一つ、明日は一日用事で出掛けるから来なくていいわ」

「えっ、あ、ちょっと!」

 寮の廊下に出されて、軽く手を振ってから部長はドアを閉める。

 それからしばらくしても無反応で、本当に執筆に入ってしまったようだ。

 仕方がなく諦めて、俺は自分の部屋に戻ったのだった。



 JR豊日本線の各駅停車に揺られること一時間以上、鹿児島県の県境、宮崎県に入った最初の駅で柏瀬部長は電車から降りた。

 見つからないように注意しながら、部長を見失わないように俺たちも電車を降りる。

「何だかこうして隠れていると、探偵になったみたいだね」

 改札口を通り抜けて、柏瀬部長は近くのバス停で立ち止まる。

「楽しそうだな」

「そんなことはないよ。だって、佳凛先輩の尾行してるんだよ? 後ろ暗い気持ちは持っていても、楽しいなんて思う訳ないよ」

 言葉とは裏腹に目が輝いていた。

「ただ、毎月同じ日に出掛けて行くから。少しだけ、ほんのちょっとだけ気にはなっていたんだけど」

「毎月?」

「そう。しかも、決まって制服で出掛けてるの」

制服の上にダッフルコートを着て、白色と灰色がチェックになっているロングマフラーを巻いている佐鳥が俺のコートの袖を掴む。

「ほらっ、苗木くん。バスが来たよ!」

 走り出した佐鳥に引っ張られる形で、バスを待つ最後尾の列に並んだ。

 バスに乗り込んだ佐鳥はダッフルコートのフードを被り、部長に背を向ける形で時よりチラリと視線を向ける。

 どこから見ても佐鳥が今の状況を楽しんでいるようにしか見えない。

「苗木くんも顔を隠さなくちゃ、佳凛先輩に見つかっちゃってもいいの?」

「あ、ああ……っ」

 言われるままに顔を伏せる。

 すべては柏瀬部長の後をつけていく姿を佐鳥に運悪く見つかってしまったせいだった。

「なぁ、お前ってこんな性格だったっけ?」

 勘違いでなければ、出会った頃はもう少し大人しい性格だった気がする。

 夕哉が言っていたような天使とは違うかもしれないが、今みたいに他人のプライベートに干渉するような奴ではなかったと思う。

「えっと、どういう意味?」

「もっと大人しい奴だと思ってたって意味だよ」

 そう素直に答えると、佐鳥はすっと笑顔を浮かべた。

「私はずっとこういう性格だよ。それでも違う性格に思えるのなら、苗木くんを見る私の目が変わったんだと思うよ」

 当然のように口にした佐鳥の言葉に背筋がぞっとして、反射的に佐鳥から目を逸らしていた。

 バスの降車ブザーが車内に響いて、初めて俺は自分が動揺していたことに気づく。

「苗木くん、佳凛先輩がここで降りるみたいだよ」

 バスが停車して、柏瀬部長が下車したことを確認した俺たちは発車する直前にバスを降りる。

 すぐに後を追いかけようと走り出した佐鳥が先に立ち止まり、俺も目の前の建物を見て声を失ってしまった。

 柏瀬部長が入っていた建物は、近くの大学に付属する大学病院だった。


 もしも、少しでも俺に無神経さがあったら、彼女の後をついて行ったのかもしれない。

 もしかしたら、隣に佐鳥が居なければ気にせずそのまま後を追いかけていたかもしれない。

「帰ろう、か」

 その佐鳥の一言に頷いて、無言でバスを使い電車に乗って柊木市内に戻って来た。

 俺は今、柊木学園の上り坂を歩いている。

 佐鳥とは駅前で別れて、寮に戻る気にもなれず街をぶらついていたら学園行きのバスを逃してしまった。

 頭の中に浮かんでいることは、大学病院に入って行った柏瀬部長のこと。

 大学病院に通っているからといって、別に重い病気とは限らない。そもそも柏瀬部長を見る限り、そんな病気にかかっているとは思えなかった。

 単に誰かの見舞いに通っているだけかもしれない。

 中途半端に相手のプライベートを盗み見してしまったせいか、佐鳥も罪悪感を持ってしまっているようだった。

「ちょっと待ちなさい」

 誰かに呼び止められて振り返ると、柏瀬部長が若干不機嫌そうな表情を浮かべて立っていた。

「今日、私のことを尾行してたでしょう?」

 あっさりと見抜かれていたことに驚きを隠せない。

「なんでそう、バレてないと思えるのかしら」

 目を見開いている俺に向かって、部長は溜息を吐くように呟く。

「歩きながらでも話せるでしょう?」

 先に部長が歩き始めて、俺は後について行く。

「知ってたんですか? 俺が後をつけてたこと」

「あれだけ騒いでいたら誰だって気付くに決まってるじゃない」

「そ、そうですよね……っ」

「大体、咲桜の声は演劇で鍛えられている上に通る声なのよ。電車でも、バスでも目立っていたわ」

 つまり、尾行していたことを部長は最初から気づいていたようだ。

 そう考えると、探偵気取りだった自分自身が凄く恥ずかしくなってくる。

「……すみませんでした」

「病院の中まで来られたら、さすがに注意するつもりだったんだけど」

 どうやら何もかもお見通しらしい。

「どうして私の後をつけて来たの? 当然、私には訊く権利があるわよね」

「それは、えっと……っ」

 言葉に詰まって、必死に思考を巡らせる。

 まだ柏瀬部長が犯人だと確定していない以上、脅迫状を送った人間かどうかを確かめる為とは口が裂けても言えない。

 たとえ部長が犯人だったとしても、確たる証拠が見つかっていない。

 迂闊に詮索して警戒されては動きにくくなってしまう。

「言えないの?」

「すみません」

 だからといって下手な嘘は危険だ。

 一度嘘を吐けば、誤魔化す為に重ねなければならなくなる。そうなれば、いずれボロが出る。

「それで私が納得すると思っているの?」

 いつもより数段に低い声で言って、先を歩いていた部長が立ち止まった。

 切れ長の目がさらに細められて、明らかな怒りに俺は蛇に睨まれた蛙のように動けなくなる。

「実は――」

 仕方がなく誤魔化すしかないと口を開いた時、勢いよく坂を下りる佐鳥が大声で話を遮った。

「佳凛先輩ッ、苗木くんも、大変なんです!」

 手に持っていた用紙を俺らの前に差し出して、その内容に俺は目を見開き驚きを隠せなかった。

 その隣で同じくコ用紙に書かれた内容を読んだ柏瀬部長は、眉を細めることなく佐鳥から用紙を手にする。

 手にしたそれを小さく丸めて、部長はそれをポケットに仕舞う。

「悠人、それに咲桜も、今日のことはちゃんと説明してもらうから」

 そういうと部長は、何事も無かったかのように歩き始める。

 俺はまだ呆然として、用紙に書かれていた文章が頭から離れない。

 絶句する俺と佐鳥は互いに視線を交わして、一呼吸遅れて部長の後を追いかけた。


 ――『柏瀬佳凛は人殺しだ』


 そしてこの筆跡は、間違いなく俺に脅迫状を送った犯人と同じだった。



 柏瀬部長の誹謗中傷を示唆する内容の張り紙が出された翌日、その中心人物を除いた全員が部室に集まっていた。

 中心人物というのはもちろん、柏瀬部長のことだ。

 テーブルの中心には、寮の各階に設置されている掲示板に張り出されていた柏瀬部長を誹謗中傷する内容の張り紙が計四枚置かれている。もう一枚は部長が持っているはずだ。

「一体、誰がこんなことをしたのかしら」

 そう切り出した志穂先生からは疲れが感じられる。

 張り紙に気づいた佐鳥が志穂先生に連絡して、その後処理に追われていた為だ。誹謗中傷を受けた張本人が全く関与しようとしなかったせいもある。

 現在、柏瀬部長は自分の部屋で台本の執筆をしているはずだ。

「一応他の先生たちには学生のイタズラってことにしているけれど、内容があまりにも悪質でしょう? それで、今日の午後に緊急の職員会議が開くことに決まったの」

 落ち込んだ様子で俯く志穂先生は、言いにくそうに言葉を継ぐ。

「それで多分、柏瀬さんに対して何らかの処分は免れないと思う」

「ちょっと待ってください! 佳凛先輩は被害者ですよね。どうして、その佳凛先輩が処分されるんですか!」

 座っていた佐鳥の椅子が大きく揺れて、彼女の怒りを表すように部室の床を鳴らした。

「ちゃんと、納得が出来る説明をしてください!」

「――ひゃうっ」

 重苦しく張り詰めた空気の中、怯えたように周りの様子を窺っていた菫ちゃんが変な悲鳴を上げる。

 咽喉から出たような悲鳴に視線が集まって、涙目になっている菫ちゃんが恐縮しながら口を開く。

「ご、ごめんなさい……っ」

「ううん、私のほうこそ。興奮してたみたい。――ごめんなさい」

 椅子に座り直した佐鳥が謝って、部室に漂っていた重い雰囲気が少しだけ緩和される。

「職員会議のことは先生に任せて。柏瀬さんは被害者だもの。きっと、大丈夫よ」

 俺たち演劇部が表に出るとなれば、否応なしに話が大事になってしまうことを志穂先生は考慮しているのだろう。

 そのことに佐鳥も気づいている。ただ、理解出来ても理性的になりきれていない。

 この中で柏瀬部長と一番に付き合いが長いだけに、割り切れないところがあるのかもしれない。

「もう一度言うけれど、一体誰がこんなことをしたのかしら」

 話が振出しに戻る。

「張り紙を張った本人から話を訊ければいいんだけど、誰か見ていない?」

 再び会話が止まり、俺も含めて全員が首を横に振った。

「柏瀬さんは何か、心当たりはないのかしら」

 当の本人は不在だが、一つだけはっきりしていることがある。

 張り紙を張った犯人は、直接柏瀬部長に恨みを持っている訳ではないことだ。

 あの筆跡は見間違えるわけもなく、俺を脅迫している犯人によるものだ。

 この筆跡のことを知っているのは俺と菫ちゃん、それと犯人の三人だけで、当然俺も菫ちゃんも張り紙を張っていない。

 そして気になるのは、やはり部長が毎月必ず病院に通っている事実だ。

 どうしたって無関係とは思えない。

 おそらく佐鳥も同じことを考えているのだろう。いつもの佐鳥ならば、あんな風に声を荒げることはしない。

 心のどこかで部長のことを信じ切れていないことが、彼女の性格上許せないのだ。

 結局打開策が出ることは無く、職員会議がある志穂先生に合わせる形で解散となった。


「志穂先生!」

 他の部員の目が無くなるのを確認して、学園に入って行く志穂先生のことを呼びとめた。

 シンとしている廊下に反響して、寒さで空気が震えている。

 振り返る志穂先生に、前置きを省いていきなり本題を切り出す。

「職員会議を開く理由って、張り紙のことだけが理由じゃないんですよね?」

 分かりやすく目を瞠って驚く志穂先生は、僅かに瞼を伏せる。

 それだけでも十分に答えだと思って問題ない。

「教えてください。部長が処分の対象になる理由があるんですよね?」

 しばらく視線を合わせずに黙っていた志穂先生が、諦めたように小さく息を吐いた。

「誰にも言わないって約束だからね?」

 そう前置きをして口にした内容は、大よそ想像出来た最悪のシナリオだった。

「柏瀬さんが中学校の時、クラスで自殺が遭ったのよ」


 正直言って、もう十分だ。

 今以上の深入りは、自らを滅ぼす結果になる事くらい目に見えている。

「聞きました。部長のクラスで昔、自殺した女生徒が居たこと」

 ピクリと反応した柏瀬部長の執筆の手が止まる。

 だけど、すぐに執筆を再開させながら背中越しに口を開く。

「そう。それで?」

「部長がずっと地元の大学病院に通っていることと関係はあるんですか?」

 遠い大学病院に通っていた訳ではなく、柏瀬部長にとっては地元の大きな病院だった。

「無関係とは言わない」

 即答で答えている割には上手くはぐらかしている。

 まるで、始めから用意していた解答を口にしているようだ。

「自殺とはいっても、未遂に終わった。それで、今もその病院に入院しているんですね」

 前半に関しては志穂先生から聞いた話で、カマを掛ける為に敢えて予測を交ぜる。

「その通りよ」

 あっさりと肯定した柏瀬部長は、ノートパソコンの液晶画面から視線を外す。回転するタイプの椅子をこちら側に向けて、普段よりも不機嫌そうな態度で続ける。

「まだ、何か訊きたいことがある?」

 威圧的な口調で、向き合ってからは完全に警戒した雰囲気を出していた。

「い、いえ、すみません」

 咄嗟に謝ってから、自分が何をしようとしていたのかを思ってゾッとした。

 柏瀬部長のことを助けたいなんて、らしくない行動にも程がある。

 ましては今回、犯人から脅迫を受けている訳でもない。

「(そうだ。俺には関係ない事じゃないか……っ)」

 どうして犯人が柏瀬部長のことを陥れようとしているのかは分からないが、それこそ俺には関係のない話だ。

 そもそも犯人の目的が未だにはっきりとしていない。

 俺を脅迫したり、柏瀬部長を陥れようとしたり、そう思えば志穂先生や菫ちゃんを救おうしたりしている。

 それとも菫ちゃん同様、犯人には部長を陥れることで救済する方法が見えているのかもしれない。

 考えれば考えるほど、ドツボに嵌って行くように分からなくなる。

 俺は一体、何がしたいんだろうか。

「いいわ。そんな顔をするくらいなら教えてあげる」

 そう切り出した部長は、椅子から移動してベッドに腰掛ける。

 いや、そんなことはどうでも構わない。

 部長は今、俺に対してそんな顔をするくらいならと言った。

 背筋がゾッとして、暖房の利いた室内なのに寒気で鳥肌が立つ。

「自殺未遂を起こした子の名前は菜綱ともみ、クラスメイトよ」

 話が始まって、別の方向に向いていた意識が戻る。

 このまま話を聴いてしまったら、完全に無関係ではいられなくなる。

「三年生だった私は学級委員長を務めていて、確か菜綱さんが図書委員だった」

 だが、俺は口を挟まなかった。

 そんな態度を知ってか、部長は俺の目を見つめながら話をする。

「凄く大人しい子で、正直あまりクラスの中に馴染んでいなかったと思う。他のクラスに友だちが居たかは知らないけど、いつも教室で本を読んでた」

 自殺未遂を起こしているという前提があることで、菜綱(なづな)ともみという少女が何かしらの問題を抱えていたことは明白だ。

「よく第一印象はどうだったみたいなことを言うけれど、菜綱さんはそんな第一印象にも残らないような目立たない子だった。少なくとも私にとって」

 もっとも、少しだけ躊躇ったような部長の口調からでも想像に容易いかもしれない。

 案の定、本題に入った部長の口からそのことが紡がれる。

「二学期が始まってすぐに、私は菜綱さんが同じクラスの子から虐められている姿を見てしまったの」

「見てしまった……っ?」

 妙な言い回しに思わず口を挟んでしまう。

 それに今の柏瀬部長からは想像出来ない役職に就いていることも妙だった。

 あの面倒くさがりな部長が、わざわざ学級委員長になる訳がない。

「あっ、忘れてた。少しだけ前置きが足りなかったみたい」

 さも当然といった感じで部長が言葉を継ぐ。

「その頃の私って、物凄く責任感の強い人間だったから」

 しれっと言った部長は、呆然とする俺を気にもせずに本筋の話を進める。

「だから私は、菜綱さんがイジメを受けていることを見逃せなかった」

 口調から躊躇いが無くなり、瞳に真剣さが帯びた。

 弛みかけていた意識が引きしめられて、話を聴きながら思考を巡らせる。

「直接菜綱さんを虐めていたグループと話をして、そのことを本人にも伝えた。もちろん、話し合いくらいでイジメが収まるとは思っていなかったから、私が菜綱さんの味方になることにしたの」

 味方というのは頭に枕詞が付く意味ではなく、部長が菜綱ともみのグループに属したという意味なのだろう。

 おそらく部長は、イジメの原因を菜綱ともみの性格や状況だと判断したのだ。

 責任感の強い部長という姿が未だに想像出来ないが、彼女の物事をはっきりと発言する性格を思えば効果はあったに違いない。

「表面上、イジメは無くなったと思う。さすがに学校の外までは知り得ないことだし、菜綱さんも少しずつだけど明るくなって来ていたから」

 想定通りの解答に胸を撫で下ろす。

 だが、それとは裏腹に部長の表情を俄かに曇り始めた。

 これからが本題ということだろう。

「菜綱さんが学校の屋上から飛び降りたのは、イジメが無くなってから二か月後くらい。本当に何の前触れもなく、彼女は突然自殺未遂を起こした」

「――は?」

 別に不満を口にしたつもりはない。

 しかし、これではあまりに中略されている。

「それから菜綱さんは、今もずっと病院のベッドで眠り続けてる」

 そう締め括ろうとする部長に対して、慌てて口を挟んだ。

「何の前触れもなくって、原因は分かっていないんですか?」

 頷いて、部長が口を開く。

「分からないけど、菜綱さんは私の知らないところでイジメを受けていたんだと思う。きっと私に心配を掛けないよう、一緒に居る時は気丈に振る舞っていただけだった」

 切なそうに眉を顰めた部長は、悲しそうに言葉を紡ぐ。

「だから、結局私は彼女に何もしてあげられなかった。それどころか、私が菜綱さんのことを追い込んだようなものよ」

 視線を逸らして、項垂れるように柏瀬部長が首を垂れた。

「それは違――」

 励ます言葉を言いかけて、すぐに口を閉じる。

 下手な励ましなんて柏瀬部長には意味がない。いや、さらに負担を大きくする。

 柏瀬部長にとって彼女の、菜綱ともみの一件は己の性格を変えてしまうほど大きな事件だったのだ。

「これで話はおしまい。執筆に集中したいから、出て行ってちょうだい」

 俺は何も言う事が出来ず、促されるままに部屋を後にした。


 状況から察するにこれは解決出来ない問題だ。

 ミステリーでいうなら、犯人が存在しないようなものだろう。

 憶測や推測、確証や証拠があっても、犯人がそれを認めなければミステリーとして破たんしている。

 これはそういう類の話だ。

 ただそれでも俺は、柏瀬部長を助けたいと思っている。

 信じられないことだが、犯人から脅される訳でもなく、自分自身の意志でそう思ってしまっている。

 でも、さっきもいったように俺では解決出来ない。

 当然、柏瀬部長が自己解決することも叶わない。

 この問題を解決出来る人物はこの世にたった一人しか居ない。

 その彼女に今度は面会する為に俺は今、佐鳥と一緒に大学病院に向かっていた。

「状況は理解出来たけど、やっぱり、意外だよ」

 駅のホームに立って、先を歩く俺に声を掛け佐鳥が立ち止まる。

「勝手にだけど、苗木くんはこういうことに首を突っ込まない人だと思ってたから」

「――俺自身が一番驚いてるよ」

 自分自身でも理解出来ていないのだから、こう答えるしかない。

 振り返ると、今まで見た事のない真剣で鋭い表情を佐鳥は浮かべていた。

「らしくないよ」

 思わず圧倒されて、目を瞠る。

 だが、すぐに表情を崩して笑顔になった佐鳥が近づいてそっと肩に触れる。

「良い傾向だと思うよ。ちゃんと苗木くんの役に立ってあげる。それに佳凛先輩の為でもあるしね」

 耳元で囁くように言った佐鳥は走り出して、ホームを出たところで一度だけ振り返った。

「またね」

 そういって佐鳥は小さく手を振った。

 前回同様に俺は、市の巡回バスに乗って大学病院に向かった。


「申し訳ありません。ご家族か、ご家族の承諾を得た方しかお通し出来ません」

「そうですか。分かりました」

 予想通りというべきか、菜綱ともみとの面会は出来なかった。

「えっと、一つお願いしたいことがあるんですけど――」

 予め考えて置いた台詞を口にしてナースステーションを後にしようとした時、落ち着いた声で男性が話しかけてきた。

「すまないね。話が聞こえてしまったんだ」

 振り返るときちっとスーツを着用した四十代後半くらいの男性が立っていて、灰色のフレーム眼鏡からでも分かる目尻の下がった瞳に皺が増える。

「僕に用事があるんだろう? それとも、娘の友だちかな?」

 内心動揺して心臓が跳ねたが、表情を引き締め直して不快にならない程度に笑みを作った。

「はじめまして。柊木学園の二年で、柏瀬佳凛さんと同じ演劇部に所属している苗木悠人です。今日は柏瀬部長のことで聞きたいことがあって来ました」

「そうですか、柏瀬さんの」

 そう男性は優しげな声で呟く。

「僕がともみの父です。ここでは迷惑でしょうし、どうぞ、ともみを見舞って行ってください」

 想定外の状況に緊張で震える手を握り締める。

 だが、想定より少し時間が早まっただけで、この状況は想定の範囲内だ。

 ただ一つだけ、柏瀬部長の名前を出した時の反応が気になった。

「柏瀬さんから娘の話は?」

「聞きました。えっと、中学の時に」

「そうですか」

 明言を避けるように言葉を濁す。

 そのことを察してくれたようで、菜綱ともみの父親は返事をしてそのまま前を歩く。

「ここが娘の病室です」

「すみません」

 後に続いて病室に入った途端、廊下との空気感が変わった。

 何にも音がしない病室は薄暗く、女の人がベッドの上で眠っている。

「ともみ、窓を開けるよ。少し眩しいかもしれない」

 とても優しい声で、優しい目で眠っている女の人に話しかける。

 カーテンを開いて、窓を開けると残した薄手のレースのカーテンが風に揺れて流れる。

 木漏れ日のような陽射しが女の人に当たって、ベッドから零れ落ちそうなほど長い黒髪がサラサラと揺れていた。

「彼は柏瀬さんと同じ部活動をしているんだそうだ」

 挨拶しようと口を開いたが、声にならない。

 何もない真っ白な病室で彼女は、規則正しい寝息を立てて眠っていた。

 テレビで見る生命維持装置のような機材はなく点滴用のスタンドがあるだけで、菜綱ともみは微笑んでいるようにも見える表情で眠っている。

「苗木悠人、です。はじめまして」

 人目を引くような外見ではなく、派手さも感じられない。柏瀬部長から話を聞いたからか、いつも図書室で読書をしているような印象を受ける。

 初めて彼女に面会した俺は、到底何年も眠り続けているように見えなかった。

「あの日に負った怪我はすでに完治しているんです。運が良かったらしく、数か所に打撲があったくらいで骨折もしていませんでした」

 だけど、その日を境に彼女は目を覚ましていない。

 軽く肩を揺らして呼びかければ目覚めそうに見えるのに、彼女はすでに三年間も眠り続けているのだ。

 そして、この人は何度娘の現状を説明してきたのだろう。

 足が震えて、立ち眩みがする。

 気が引けたというより、状況を知って恐怖した。

 そんな時、ふと視線の先に小さな花が沢山活けてある花瓶を見つけた。

 確かその花の名前はかすみ草だったと思う。

「これは、いつも柏瀬さんが持って来てくれるんですよ。娘が一番好きな花だったみたいで」

 視線から察したようで、菜綱ともみの父親が説明する。

 ぴったりとまでは言わないが、彼女に似合いの花だと思う。

「彼女にはね、悪いことをしたと思っているんだよ」

「えっ?」

 目が合って、すぐに顔を伏せながら言葉を継ぐ。

「酷いことを言ってしまった」

 それはまるで罪を告白する罪人のように深く沈んで、はっきりと後悔が窺えた。

「君はそれを僕に訊きに来たのだろう?」

 すべてを見透かしたような言い回しに戸惑って、初めて話すタイプの相手に会話の流れが掴めない。

 確かに俺は、柏瀬部長の過去に関して話を聞きに来ている。

 でもそれは、今こんな形で訊くつもりじゃなかった。

「教えてください。お願いします」

 そういって頭を下げた。


「娘は昔から大人しい性格で、周囲ともあまり上手く馴染めていない様子でした」

 場所を菜綱ともみの病室から喫煙スペースに移動して、革張りの長椅子に並んで座っていた。

 話の内容が内容だけに、向かい合って話すことを避けたんだと思う。

「お恥ずかしい話、僕は娘があんなことをするまでイジメに遭っていることを知りませんでした。おそらく、柏瀬さんに教えてもらわなければ今でも知ることはなかったのかもしれません」

 妙なくらいに平坦な口調は、自らの感情を押し殺していることが窺える。

「娘が中学三年生に上がった頃からか、あまり家で口を利かなくなったんだ。大人しい性格とは言ったけれど、こんなことは初めてだったからね。だけど、受験だとか、反抗期なのかもしれないと深くは考えなかったんだ」

 俺たちしか居ない喫煙スペースで、菜綱ともみの父親が話す内容はあまりに重い。

 話の内容自体はありがちなことかもしれない。俺には多感な年頃の娘を思う父親の気持ちなんて分からない。

 ただ目の前にある事実と彼の感情を押し殺した口調は、間違いなく現実感を喪失させている。

「そんな娘が二学期を過ぎた頃から、少しずつ笑うようになってきたんだ」

 二学期という単語に身体が反応して、喪失しかけていた現実が戻って来る。

 二学期といえば部長が菜綱ともみのイジメを知った頃だ。

「むしろ前よりも口数が増えて、口を開けば話題は柏瀬さんのことばかりだったよ」

 そう口にした菜綱ともみの父親の口調に少しだけ温かみが交じる。

「今日は柏瀬さんに勉強を教えてもらった、柏瀬さんは凄く頭良い。運動も出来て、格好良くて――そんなことばっかり言っていたよ」

 懐かしむように言って、ずっと膝の上で握り締めていた両手が緩む。

 これだけを聞ければもう十分だった。

 嘘を吐いていないことは十分過ぎるぐらいに伝わって来る。

「だから、学校から娘が屋上から飛び降りたという知らせを受けた時は、正直信じられなかったよ。病院で娘の姿を見ても、どこか現実味がなかった」

 だが、この人の話を最後まで聞くことが俺にとっての義務だ。

「そんな時に彼女が名乗って言ったんだよ。頭を深く上げて、『私がともみさんを自殺に追い込みました』って」

 前にも同じようなことを口にしていたが、なぜ柏瀬部長がそんなことを言ったのかは分からない。

 責任感という言葉ではあまりに度が行き過ぎている。

「平常時なら彼女の言葉を鵜呑みにすることはなかっただろうが、その時の僕には彼女が憎い敵に見えたんだ」

 その時のことを思い出しているのか、表情や口調からも後悔が滲み出ている。

「随分と心無いことを言った。その間、彼女はずっと頭を下げていたよ」

 その光景は目の前のこの人にとっても、柏瀬部長にとっても後に尾を引くことになった。多分謝った部長よりも、勘違いで怒りをぶつけた菜綱ともみの父親は相当に後悔したに違いない。

 おそらく今でも、この人は後悔し続けている。

「それから柏瀬さんはしばらくの間、娘の見舞いに来てくれたよ。今でも月に一度、ああして見舞いに来てくれている。今ではもう彼女だけだよ」

 柏瀬部長にとって菜綱ともみの行動は、自らの性格を変えるほど衝撃的な出来事だった。

 今の話を聞いて、段々とその理由が見えてきたような気がする。

 でももしそれが本当なら、俺は柏瀬佳凛という人間のことを最初から勘違いしていたのかもしれない。

「すみませんでした。こんな重大な話をさせてしまって」

 立ち上がって、深く頭を下げる。

「とんでもない。僕が君に話したいと思ったんだ」

 そういうと菜綱ともみの父親の目尻が下がって、静かに微笑して続ける。

「君は僕に、柏瀬佳凛さんのことで話を聞きに来たと言っただろう?」

「は、はい」

「彼女はそう簡単に娘のことを話したりはしないだろう。きっと、君のことを心から信用しているんだろうね。それだけで十分に、僕は君のことを信頼に足る相手だと思えたんだ」

 柏瀬部長が俺のことを信用しているなんて、一度も考えたことが無かった。

 あまりに予想外な言葉に驚いて、頭が真っ白になる。

「僕からお願いするのは変かもしれない。だけどどうか、彼女の力になってくれないか」

 気づくと菜綱ともみの父親が立っていて、真っ直ぐに俺のことを見つめていた。

 差し出された手を一瞥して、動揺のあまり過呼吸になりそうだった。

 手を出すとさっと手を伸ばして、温かく少し硬い手のひらの感触が伝わって来る。

「俺はそんな――」

 そんな人間じゃないと続けそうになって、すぐに口を噤む。

「俺に出来ることなら」

 これが正しい返事だ。

 あと少しで、化けの皮が外れそうになってしまった。

「最後に一つだけ、娘さんは何かを遺していませんでしたか?」

 そう問いかけると、俺の想像通りの返事が戻って来た。



「やめるべきだよ」

 いつになく真剣な口調と表情で、佐鳥は俺が尋ねる前に否定した。

「昨日も言ったけど、こんなことするのって苗木くんらしくない」

「まぁ、その通りなんだけどな……っ」

 返す言葉もないほど佐鳥は正しい。

 人気のない場所を選んで、俺と佐鳥は演劇部の部室で話し合っている。

 昨日のことや柏瀬部長に関して分かったこと、すべてを佐鳥に話した。

 これから俺がしようとしていることも含めて全部だ。

「そんなことをしても佳凛先輩の為にならないよ。私の調べたことが事実でも、佳凛先輩はきっと信じないし、否定すると思う」

「わかって――」

「わかっているのなら、そんなのはもう苗木くんの自分勝手だよ」

 答えるよりも先に佐鳥が否定して、これだけでも相当に怒っていることが窺える。

「胸に仕舞って、聞かなかったことにしようよ」

 訴えかけるような口調で、佐鳥の声に力がこもる。

「だってこれは、苗木くんが言っても仕方がないことだよ」

 それはまるで、未来でも見て来たかのような正しさだった。

 最近気づいたことだが、佐鳥は人並み以上に周りを注視して気遣っている。

「だからといって、話さない理由にはならないだろ」

「苗木くん!」

 本当に今回の行動は、自分でもらしくないと思っている。少し前までの俺なら、柏瀬部長の様子がおかしくても何も知ろうとは思わなかった。

 たとえ柏瀬部長の過去に問題があったとしても、見て見ぬフリをしていたに違いない。

 俺にとっても最も肝心なことは、柏瀬部長が脅迫状の犯人かどうかだけだからだ。

「無意味かもしれない。だけど、話すことで意味が生まれるかもしれないだろ?」

「そんなのは詭弁だよ」

 平坦な口調で言った佐鳥は目を逸らして、悔しげに表情を歪ませながら俯いた。

「絶対に後悔するよ。佳凛先輩だけじゃなくて、苗木くんも後悔することになる」

「初めてだな。佐鳥がこんな風に否定するなんて」

「――茶化さないで」

 本気で佐鳥は俺のことを止めようとしている。

 だけど同時に佐鳥は、止めても無駄なことにも気づいているのだろう。

「優しいんだな」

 そう口にした瞬間、俯いていた佐鳥が目を見開いて怯えたように瞳孔を揺らした。

 それからぐっと両手を握り締めて、何かを言おうとしたのか口を開いてすぐに口を噤む。

「勝手にして」

 背中を向けた佐鳥は、部室のドアを開ける前に震えた声で呟いた。


「あっ! お兄ちゃん!」

 寮に戻ると、待ち構えたかのように結理が手を振って近づいてきた。

「大ニュースだよ。一大ニュースだよ!」

 喜びを隠せないと言った様子で、ツインテールの髪を結んでいるリボンが電波でも受信しているみたいにピコピコと揺れている。

 真ん丸の大きな瞳が輝いていて、今にも飛び掛かって来そうなほどだった。

「悪い、結理。その話は後でもいいか?」

 一体どんな話なのか分からないが、今はあまり余計な情報を入れたくない。

 これから部長の部屋でしようとしている話は、少なくとも結理が話そうとしている良いニュースとは対極になる。

「えっ、だってこれはお兄ちゃんに関するニュースなのに」

「それなら尚更、後で聞くよ。悪いな」

「う、うん……っ。お兄ちゃんがそういうなら、分かったよ」

 後になって俺は、結理から話を聞かなくて良かったと思うことになる。

 もしもこの時、結理言う一大ニュースを聞いていたら、柏瀬部長と話をすることなんて俺には出来なかっただろう。


 午後三時を過ぎた頃、深呼吸して覚悟を決めた俺は柏瀬部長の部屋をノックした。

「開いてるわよ。勝手に入って来て」

 いつもと変わらないトーンの声が返って来て、気持ちを引き締めながらドアノブを回す。

 相変わらず部屋中に散乱する原稿を避けながら、柏瀬部長が座っている椅子の後ろで立ち止まった。

 曇っているせいか、カーテンを開けきっていてもどこか薄暗さを感じる。

「そろそろ来るんじゃないかと思っていた」

「察しが良いんですね」

 後ろ姿からは前みたいな不機嫌さは感じられない。

「勘が良いだけよ」

 キーボードから手を離して、ゆっくりとこちらに体勢を向ける。

 状況を受け入れているとは言い難いが、柏瀬部長から普段の気怠さとは違って愁いのような雰囲気があった。

「何ならあなたが、今から言おうとしていることも当ててみる?」

 余裕すら思わせる表情を浮かべて言った部長だったが、返事をする前に表情を険しくして続ける。

「あなたがしようとしている話は無駄よ。そして、私は無駄話をしていられるほど余裕もない。もうすぐ冬休みが終わってしまうんだから」

 それはつまり、台本がまだ完成していないという事だろう。

 だが、そのことに関しては予想通りだった。

 背中を向けようとする柏瀬部長に本題を切り出す。

「本当に冬休み前に完成するんですか?」

 疑問に思ったのは家政婦にさせられた初日、部屋中に散らばっている原稿を見た時からだ。

 前に佐鳥が言っていたことも気になっていた。

 そして、決定打となったのは部長本人が語っていた結末に関してだ。

「いや、このままだと冬休み以前に卒業まで待っても台本は完成しない」

 断言してもいい。

 あの問題を解消しない限り柏瀬部長は、『人間失格』の台本を書き上げることが出来ない。

 なぜなら、台本はすでに結末以外が完成しているのだから。

「――書けるわ」

 怒ったような口調で、はっきりと部長が言葉にする。

「俺の目を見ても、同じことを言えますか?」

 明らかな怒りを思わせる鋭い眼光で俺のことを睨み付ける。

 いつもなら百獣の王みたいな貫録があるのに今は、恐怖で警戒心をむき出しにしている子猫くらいの強さしかない。

「書いて、吹っ切ろうとしているんですか?」

「違う!」

 拒絶反応や反射くらいの速度で否定した部長は、驚いたような表情を浮かべて右手で口を押える。

 しかし、これでは肯定しているようにしか見えない。

「違うんだったら、どうして書かないんですか?」

 大きく開いた瞳が揺らいで、眉を顰める部長はゆっくりと口から手を離す。

「書けないのよ、どうしても」

 伏し目で呟いて、膝の上に乗せた両手を軽く握り締める。

「白々しくて、恥ずかしくて、嘘っぽくなる」

「柏瀬佳凛は人殺し、ですか?」

 一瞬だけ驚いた表情を浮かべた部長だったが、自嘲気味に苦笑して頷いた。

「当時のことを知っている人は居ないと思っていたんだけど」

 寂しそうに瞳が揺れる。

「悠人には話したでしょう? 中学の時の話」

 俺は頷きながら、思考を巡らせる。

 どうすれば柏瀬部長の背負っている重さを減らすことが出来るのか。

 集めてきた情報を口にしただけでは、佐鳥が明言したように後悔することになるだろう。

「昨日、菜綱ともみさんのお父さんから話を聞きました」

 だからといって、考え過ぎて何も言わない訳にもいかない。

 万が一張り紙の犯人に話が逸れたら、問題点が変わってしまう。

 それに張り紙問題は、最初から信じている人間が少なかったようですでに風化しつつある。

 余計な考えを振り払って、意識を今に集中させる。

「それで気づいたことがあるんです」

 菜綱ともみの名前を出した瞬間、柏瀬部長の表情を明らかに強張った。

 言葉は悪いが、やはり柏瀬部長に菜綱ともみの名前は効果がある。

「違和感があるというか、俺が菜綱さんのお父さんから聞いた話と、部長がこの前話してくれた内容に食い違いあるように思えたんです」

 間違えても今から笑ったり、ふざけたりすることは許されない。

 へらへらしている部分を切り取って、表情を引き締めて言葉を継ぐ。

「菜綱ともみさんは二学期が始まってから三学期になるまで、楽しそうに部長の話を家族にしていたそうです」

「菜綱さんが、私の話を?」

「部長はもう知っていると思いますけど、菜綱さんは家でも大人しい人だったそうです。それに三年になってからは、あの事で一層口数が減っていたんだそうです」

 あの事とは、菜綱ともみが受けていたイジメのことだ。

「でも、これって変ですよね」

「えっ?」

 疑問符を浮かべている柏瀬部長に向かって、二つの会話の矛盾を口にした。

「ずっとイジメに遭っていた菜綱さんが、家族の前でまで元気に振る舞っていたと思いますか?」

「でも、それは」

 反論を口にしかけて、すぐに部長は気づいたのだろう。

 それを口にすれば、菜綱ともみが二学期以降イジメを受けていなかったことを肯定することになると。

「菜綱さんは別に部長の前で気丈に振る舞っていた訳じゃなかった。本当に明るさを取り戻していたんです」

 おそらくこの答えで間違っていない。

 先に言ってしまうが、佐鳥に頼んで裏も取れている。

 ここに関して言えば、予測ではなく事実だと断言してもいい。

「そんなことないわ」

 だが、それを柏瀬部長は否定する。

「私の要らぬお節介のせいで、菜綱さんは自殺を選択させられたのよ」

「それは違います。菜綱さんは感謝こそしても、部長のことをお節介なんて思っていなかったはずです!」

 家族にも話したいほど、菜綱ともみにとって柏瀬部長は自慢の友だちだった。

 内向的な性格の人間は、少なからず自分と対照的な相手に憧れを抱いている。積極的な人間だって、清楚や大人しいと言葉を変えて内向的な相手に憧れる心理と同じだ。

 自分にないモノを憧れることは誰にだってある。

「いえ、感謝とは少し違うのかもしれません。多分、素直に嬉しかったんだと思います」

「違うわ。私の軽率な行動が彼女のイジメを加速させた」

 頑なに認めようとしない柏瀬部長は、手のひらを開いて膝を掴む。

「イジメなんてなかったんですよ。部長が助けた二学期から」

 これこそが部長の心を開かせる切り札だ。

 佐鳥に頼んでいたことは、当時イジメをしていた本人から話を聞いてもらう事だった。

目を覚ましていない菜綱ともみと違って、こちらにはしっかりと証言がある。

「菜綱さんを虐めていた本人から聞いた話ですから間違いありません」

 ただ一つ、この事実は大きな疑問を生む。

 佐鳥が後悔すると危惧していた理由も、きっとここに関してのことだろう。

 当然、柏瀬部長がその疑問に気づかないはずが無かった。

「それなら、どうして菜綱さんは自殺未遂を起こしたのよ!」

 立ち上がった柏瀬部長が怒鳴り声を上げて、瞳孔が開いたその表情からは怒りより混乱の色が窺えた。

 予測でしかないが、その答えも出ている。

 だが、それを言う訳にはいかなかった。

「俺は本人じゃないんで、たぶん他に悩みを抱えていたんだと思います」

 柏瀬部長の目を見つめながら、俺は嘘を吐いた。

「例えば、受験とか」

 予め考えていた当たり障りのない。だが、軽視出来ないことを問題に上げる。

「馬鹿にしないで。菜綱さんは教師になるって、ちゃんとした夢があったのよ」

 そう柏瀬部長が一蹴して、いきなり想定が覆される。

「菜綱さんは凄く嬉しそうに話してくれたわ」

「そう、だったんですか……っ」

 内心の動揺を隠しつつ、驚いた演技をする。

 少し考えれば予想出来たことだと即座に後悔した。

 家族にも話すほど自慢の友だちなら、家族に話していないような重要なことを相談していてもおかしくはない。

 話が振り出しに戻ったどころか、事態はこれ以上ない最悪な状況に陥っているのかもしれない。

「本当は私、菜綱さんが屋上から飛び降りた理由を知っているのよ」

 話を方向転換させる前に柏瀬部長が口を開き、決定的な言葉を口にした。

「イジメの対象が私に移ったことを知ったから、なんでしょう?」

 怒っているような、今にも泣き出しそうな低い声で柏瀬部長が問い掛ける。

 俺は頷くことも、否定することも出来なかった。

 頭が真っ白になって、我に返った時に柏瀬部長は背中を向けて俯いていた。

「ち、違うんです」

 慌てて否定したが、すでに遅すぎる。

 沈黙はそれだけで肯定なのだ。

「言ったでしょう。私が菜綱さんのことを追い込んだって」

 そうだ、最初から柏瀬部長はそう言っていた。

 ようやく理解出来た。

 志穂先生が家族からの愛情を失くしていたことや自分自身を騙すことで本心を失くした菫ちゃんのように、柏瀬部長は受け入れることを失くしたのだ。

 変化と言い換えてもいいかもしれない。

 変わらなければ、受け入れなければ変化することはない。

「違います。部長は何も、悪い事なんてしていないじゃないですか」

 そうして柏瀬部長は、変化する日常を捨てたのだ。

 理解して早々に俺は後悔している。

 たとえ嘘だと見抜かれても、違うと否定しなければいけなかった。

「部長のせいだなんて、誰も考えていませんよ」

 イジメの対象が部長に移ったことを知っていたというのは、おそらく予測からカマを掛けたのだろう。

 そもそも部長が過去にイジメを受けていたなんて事実はないのだから。

「部長は悪くありません」

 悪いのは、菜綱ともみを虐めていた連中だ。

 イジメの対象を菜綱ともみから、柏瀬佳凛に変えようとした連中が悪い。

 伝えたい気持ちは明確にあるのに、どうしても言葉にならない。

「それなら、誰が悪かったんでしょうね?」

 誰が菜綱ともみに自殺という選択をさせたのか。

 追い詰めて、彼女にその選択まで追い込んだのは虐めていた連中で間違いない。

 でも、その選択肢を作ったのは、どのような形であれ柏瀬部長なのだ。

「そんなの菜綱さんを虐めていた奴らに決まってます」

 もうここまで来たら、隠して置く必要もないだろう。

 イジメの対象が柏瀬部長に移ったことを知った菜綱ともみは、自らの身を持って守ろうとした。

 あらゆる事情を一身に呑みこんで、誰にも語ることなく選択したのだ。

「でもきっと、私が彼女に声を掛けなければこんなことにはならなかった」

 まるで、最初からこうなるように仕組まれていたんじゃないかと疑いたくなる。

 そのくらい最悪の結果になった。

「人間失格は、ともみが好きな話だったの」

 急に呼び名を変えた柏瀬部長は目を細めながら、動揺で目線が定まらない俺に向かって悲しげに呟く。

「でも、もう書かなくても良くなったみたいね」

 起死回生の言葉どころか、何も浮かんで来ない。

 そうして俺は、今更のように思い出していた。

 ロクに人間の感情が分からないようなバケモノが、到底人助けなんて出来るわけない事に。

 勘違いしてしまっていたのだろう。志穂先生の問題を解決して、菫ちゃんのことも真正面から受け止められた。

「(だけど俺はあの時、何を思っていた?)」

 志穂先生の問題を解決して、俺は居心地の悪さを感じていたのではないか。

 菫ちゃんの本質を知って、自分と似た彼女に安堵していたのではないか。

 激しい後悔と同時に堪らなく恥ずかしくなって、もう俺は本当に何も言えなくなってしまった。

 シンと静まり返る部屋の中で、柏瀬部長のヘッドホォンが着信を知らせている。

 結局のところ、俺がしたことといえば部長が曖昧にしてきた部分を明らかにして、見ないようにして来たモノを突き付けて追い込んだ。

 それはまるで、菜綱ともみを助けようとした柏瀬部長の責任感と同じように。

「――はい、はい……ッ。今すぐにでも、はい。し、失礼します」

 俺が呆然としている間に電話に出ていた部長は、呆けた表情をしていて両手をだらりと下ろした。

 落ち込んでいるようにも見える表情から一転、俺の両肩を掴んだ部長が口を開く。

「ともみが目を覚ましたみたいなの!」

 これまでに一度も無いほど溌剌した明るい声で、今にも泣き出しそうな表情で微笑んでいた。

 理解能力が著しく下がっている現状でも、その言葉の意味は理解出来た。

「早く行ってあげてください」

「ありがとう!」

 勢いよく開け放たれたドアが、けたたましい音と同時に閉められる。

 曇っていた空から光が部屋に射し込んで、気後れしてしまった俺は俯いて背中を向けた。

 脳内で柏瀬部長の最後の言葉が反芻して、身の毛がよだち手も震えてしまう。

「すみません」

 どうしようもない居心地の悪さに部長の部屋を出ると、待ち構えたかのように結理が笑顔で立っていた。

「急ぎの用事って佳凛部長の手伝いだったんだ。それなら、仕方がないよね」

 何度か納得するように頷いて、「そんなことより」と少しだけ慌てて本題を口にする。

「冬休み明けにお姉ちゃんが教育実習でこの学園に来るんだって!」

 余程嬉しいようで、短いツインテールが馬の尻尾のように何度も跳ねている。

 操り人形のように笑顔を浮かべた俺は、何も言えず「ああ、これが罰なのか」と無感情に考えていた。


 そして、長い冬休みが終わりを告げた。


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