『ロマネスク』
第二話 ロマネスク
退院して三日後、今日は大晦日ということがあり、ほとんどの部活が休みになっている。
そんな中演劇部員以外誰も居ない体育館で、舞台上に立つ俺ともう一人、部内でマスコット的立ち位置を得ている矢ノ倉菫は台本片手に練習をしていた。
「あう、あうあう。ご、ごめんなさい……っ」
唐突に何もない場所で躓いた菫ちゃんは、盛大に舞台とキスをして鼻の頭を擦りながら起き上がる。
今日だけでもう三度目となる顔面強打で鼻の頭は真っ赤になっていて、前日分も含めると骨が折れてないか心配になって来る。
「柏瀬部長、少し休憩しても――」
菫ちゃんに手を貸して立ち上がらせながら、さっきまで舞台下で一人だけ椅子に座っていた柏瀬先輩の姿がなかった。
「ごめんなさい。ありがとうございます」
「いや、そんなことより顔面打ってたみたいだけど、平気?」
「はい……っ。いつものことなので」
おそらくまたどこかでサボっているに違いない。
空席になったパイプ椅子から視線を戻して、元の立ち位置に戻ろうとする菫ちゃんに声を掛けた。
「少し休憩しようか」
「えっ、でも、良いんでしょうか」
「鼻、真っ赤だよ?」
「ふぇッ? あうあうっ。ひ、冷やしてきます!」
言うが早いか、菫ちゃんは鼻を隠しながら走り出す。
舞台から降りて走って行く姿に一抹の不安を覚えた俺は、慌てないよう忠告しようとした矢先だった。
「――はぅッ!」
やはり何もないところで派手に躓いた菫ちゃんは、ゆっくりと立ち上がると小さな唸り声を出しながら歩いて体育館を出て行った。
「……本当に小動物みたいだな」
犬や猫というより、リスのような印象を受ける。
背も志穂先生と同じくらい低くて、どことなくオドオドした行動もリスっぽい。何となく守ってあげたくなるような女の子だ。
実際、その愛らしい行動と可愛らしい容姿に、非公式ながらファンクラブがあるらしいと前に夕哉が話していた。
肩に触れるほどのショートカットで、もみあげの片方を三つ編みして垂らしている。三つ編みには白のラインが入った青いリボンで結んであって、控えめながら女の子らしさがある。
そんな髪型もあるのかもしれないが、やっぱり菫ちゃんといえば童顔に大きな瞳という可愛らしい容姿が人気な理由だろう。
後、声も可愛い。よく知らないが、ああいう声をアニメ声と呼ぶらしい。
「悠人くん、少しだけ時間を貰ってもいいかな?」
舞台の縁で休んで居ると、顧問の志穂先生が体育館にやって来た。
「他の皆はもう上がってもいいって、さっき寮で柏瀬さんと話したんだけど――って、どうしたの? 皆、そんな疲れたような顔をして。練習、そんなに大変なの?」
きょとんとする志穂先生に対して、他の全員は疲れているというより呆れ顔だった。
「あの人、何の一言すらなく帰ったのかよ……っ」
これはもうサボる以前の問題である。
なぜあの人が部長なのか、二年生でも佐鳥のほうが責任感もあって適任だったのではないかと本気で思ってしまう。
「それで悠人くん」
「はい、大丈夫ですよ。でも、もう少しで何も知らない菫ちゃんが戻って来ると思うんで」
「問題ないわ。そんなに長い話でもないから」
そう前置きしたけれど、何の話をするかは考える必要もないだろう。
僅かに表情が固まって行くことを感じながら、どうにか俺は笑みを作って頷いた。
「まだ最初に、ありがとう。いろいろ言っちゃったけど、悠人くんには感謝しているの」
「別に俺は、志穂先生が言ったみたいに人の過去を穿鑿しただけで、何も……っ」
己の身を守る為に仕方がなくやったことだ。
感謝される必要もないし、むしろ、感謝されると背中が痒くなって、心臓が抉られるような気持ちになってしまう。
「妹があれからいろいろとしてくれて、昨日、何年も電話一つして来なかった母親から謝罪の電話が来たの」
「そう、ですか。良かったですね」
間違っても笑顔が歪まないように、引き攣らないよう必死に笑みを浮かべる。
「悠人くんに助けてもらったようなものだから、一応、報告だけはしておこうと思ったの」
「そんな、俺は何もしてないですから」
そもそも志穂先生は何も失ってなんていなくて、失っていたと勘違いしていただけだった。
だから本当に、俺が何かをしてあげたなんて考えは図々しいにも程がある。
「何か悠人くんが困ったことがあるなら、先生に何でも話してね。出来る限りなら協力するから」
「はい。ありがとうございます」
思わず敬語が出てしまって、菫ちゃんが休憩から戻って来るまで張り付いた笑顔を崩すことは出来なかった。
最後に手紙を送られてきて以来、犯人から連絡は来ていない。
こんな言い方だとまるで犯人からの連絡を待っているように思えるかもしれないが、アクションがないということは安堵であり、それ以上に恐怖なのだ。
ただし、志穂先生の問題が解決したことに犯人は気づいているらしい。
気づいていなければ、犯人が何らかの動きを見せるはずだからだ。
このことから犯人が演劇部の中に居る可能性が濃厚となったことは間違いない。
志穂先生の自作自演の可能性の低さを考えれば、犯人は演劇部員の中に限られる。
「さすがに誰もいないよな。元日だしな……っ」
部活棟を一人で歩きながら、足音だけが廊下をこだましている。
さすがの演劇部も本日は休みになっていた。
何か犯人に関する手掛かりの一つでも手に入ればと思っていたが、もう少し暖かくなってから来たほうが良かったかもしれない。
「寒い。……寒すぎる」
口にでもしていないとやっていられないほど、人気のない部活棟は寒かった。
一秒でも早く暖房器具の電源を入れる為に部室のドアを開けた。
「――へっ?」
僅かに廊下と温度が違う部室にまず違和を感じて、金縛りに遭ったみたいにドアを開けたまま動けなくなる。
「あ、あうあうっ。はわわ……ッ」
大きな瞳をさらに見開いて、視界にとらえた少女は立ち尽くしていた。
咄嗟に言葉が出て来なくて、少女――菫ちゃんと見つめ合う。
「あの――その、あうあう」
駄目だと分かっていても、自然と視線が下に向く。
どうやら着痩せするタイプのようで、小柄の割にふくよかな双方の膨らみがまず飛び込んできて、その膨らみを白のシンプルながらリボンやフリルの装飾が施された布地。さらに視線を落とすと、上下セットらしく両サイドに可愛らしいリボンが付いた下着が映り込む。
理由が分からないが、部室にいた菫ちゃんは下着姿だった。
全体的に細く腰もくびれているが、けっして骨っぽさは感じられない女性らしい体つきで、雪のように白く綺麗な肌に目が奪われてしまう。
「は、早くドアを閉めてください……ッ!」
「あっ、ああ! ごめん、寒いよね!」
思わず声が裏返る。
気が動転していた俺は慌ててドアを閉めて、再び菫ちゃんと向き合ってから失敗に気づいた。
「ごめん! と、とりあえず着替え終わるまで外で待ってるから!」
顔を真っ赤にして、今にも泣きだしそうな菫ちゃんから逃げるようにして部室を飛び出した。
廊下に出ると、すぐに菫ちゃんのあられもない姿が脳裏を過ぎる。
どうにか菫ちゃんの下着姿を脳裏から追い払うことに成功した頃、部室から控えめな声が聞こえて来た。
「ごめん。まさか誰か居るとは思わなくて」
「い、いえ……っ」
部室に入った途端、互いに気まずげな苦笑いを浮かべる。
「えっと、部室で何をしてたの?」
「えッ? あっ、衣装合わせを、していたんです」
「衣装? ああ、これのことね」
テーブルの上に広げてあった数着の服を見て、納得して頷いてみせる。
「この衣装って、菫ちゃんが全部作ってるの?」
「……一応」
「へぇ、菫ちゃんって器用なんだ」
「そ、そんなこと、お裁縫は少しだけ得意なだけで」
「謙遜しなくてもいいよ。でも、こういうのって手作りだったんだな。ずっと貸衣装だと思ってた」
「そ、そういう場合もあります……っ」
会話が途切れて、今日だけで何度目か分からない沈黙が流れる。
前から結理と菫ちゃんの二人が友だちだったらしいが、あまり結理は自分自身のことを話したがらない。
部内でも大人しくしていて、こうして話すようになったのも舞台で一緒に練習するようになってからだ。
「それで、苗木先輩はどうして部室に?」
「ああぁ……っ。ちょっと忘れ物を取りに来たんだ」
本当のことを言えるはずもなく、適当に嘘を吐いて誤魔化す。
「これ、台本」
「台本ですか?」
偶然持ってきたのが台本だけで、さすがにおかしいと思ったのか菫ちゃんは疑問符を浮かべている。
どうにか誤魔化そうとする前に菫ちゃんが先に躊躇いながら口を開いた。
「でも、折角ですし、一緒に練習しませんか?」
「菫ちゃんがいうなら、いいよ。練習しようか」
予想外な展開になってしまったが、部室を捜索することを諦めて頷く。
「はい。よろしくお願いします!」
部室に来てから初めて見る菫ちゃんの笑顔で、ようやく部屋の雰囲気が明るく変わった。
それから昼過ぎになるまで練習が続いて、終わる頃には少し声が掠れてしまっていた。
「はーい、そこまで。十五分まで休憩に入ってちょうだい」
手を数回叩きながら、パイプ椅子から柏瀬部長が立ち上がる。
気怠そうに大きく欠伸をして、舞台上の菫ちゃんに声を掛けた。
「今日は声が出てるみたいね。この後も、今の調子で頑張って」
「は、はい……ッ! 頑張り、ます」
普段からあまり表情に変化のない柏瀬部長が見せる笑顔は優しさが込められていて、この時だけ年上らしい安堵感、安心感がある。
菫ちゃんも同じようなことを感じているようで、緊張しながらも笑顔で言葉を返していた。
「先輩、昨日はありがとうございました。ちゃんと練習の成果が出たみたいです」
「俺は練習に付き合っただけで、菫ちゃんが頑張ったからだよ」
「そ、そんな……っ。でもちょっとだけ、嬉しいかもです」
遠慮がちな笑顔だったけど、昨日の練習で距離が少し近づいたような気がする。
そういっても日常会話が成立するくらいで、一般的な認識だと顔見知り程度なのだろう。
多分、いや、このくらいの距離感が俺にとっては心地よくて、心を掻き乱されない。
犯人から脅迫されていたとはいえ、志穂先生との距離感が以前とはまるで違ってしまっている。
少なからず志穂先生は俺に対して恩のようなものを感じていて、それを返すつもりなのだろう。だが、俺にとってそれは志穂先生に対して、常に気を張っていなければならなくなってしまった。
どんな手を使っても、俺が抱えている秘密を知られる訳にはいかない。
だからこそ、一日でも早く俺は犯人を見つけ出す必要があった。
「あ、あの……もし、もし良かったら、また、練習に付き合ってもらえませんか?」
「もちろん。俺でよかったら、いつでも付き合うよ」
それまでは一秒も気を抜かず道化の仮面を被り、明るく調子のよい人間を装うしかない。
「ほ、本当ですか? ありがとう、ございます……っ」
照れ笑いを浮かべたと思えば、菫ちゃんはすぐに恥ずかしそうに俯いてしまう。
彼女も犯人候補の一人に違いなく、無意識に俺は菫ちゃんの一挙一動に恐怖して、安堵しては作り笑顔を浮かべる。
間もなく休憩時間が終わろうとした頃、体育館の玄関先が俄かに騒がしくなり始めた。
「どうかしたんでしょうか?」
先に気づいたのは菫ちゃんだった。
いつの間に体育館に菫ちゃん以外誰も居なくなっていて、どうやら他の部員は玄関先に集まっているらしい。
「行ってみようか」
「は、はい」
舞台を下りて、すぐ後ろをついて来ていた菫ちゃんの足音が止まる。
「菫ちゃん?」
振り返ると俯いた状態で菫ちゃんが立っていて、左手を右手に重ねるように握り締めていた。
「す、すみません。実は私、動物が苦手で……っ」
顔を上げた表情は確かに真っ青で、一目で怯えていることが窺えた。
「犬もダメなんだ?」
「一番苦手、かもです……っ。一度だけ噛まれたことがあって、まだ痕も残ってて」
「まさか、それが動物嫌いの原因?」
こくんと小さく頷いた菫ちゃんだったが、視線を上げて訂正する。
「でも、苦手なだけで、嫌いって訳じゃないです」
「苦手なのは仕方がないよ。しばらくすれば飽きるだろうし、舞台の方で休んで居ようか」
「そ、そんな、先輩は皆さんのところに行ってください。私は一人でも大丈夫ですから」
実はさっきから子犬らしい高い鳴き声が聞こえていて、ちらっと白い毛並みをした小さな姿が見えた。
犬種まで判断は出来なかったが、首輪をしていたことから野良犬ではない。
高台に建てられている柊木学園に迷い込んだとも考えにくく、大よそ学生の誰かが学園に連れて来ているのだろう。
「実は俺も動物ってそんなに得意じゃないんだ」
「そう、なんですか?」
「菫ちゃんほどじゃないけどね」
まだ菫ちゃんは両手を重ねていて、忙しなく視線を体育館の外に向けている。
場を和ませようと冗談交じりに言ったのだが、突然表情を強張らせた菫ちゃんが腕にしがみ付いて来た。
「――お兄ちゃん! その子を捕まえて!」
背後から切羽詰まった結理の声が聞こえて振り返ると、ちらっと見えていた白い子犬が体育館の中に入って来てしまっていた。
一直線に駆けて来る子犬は、躊躇いがなくこっちに向かっている。
「菫ちゃんは後ろに隠れてて、大丈夫だから」
恐怖のあまり声も出ないといった様子で、菫ちゃんは数回頷くと素直に背後に隠れる。
俺は膝を着いてしゃがみ込み、タイミング良く両手を差し出し子犬を持ち上げた。
「あっ、こら。暴れるな……っ!」
抱え上げた瞬間から暴れ出して、背後に隠れる菫ちゃんに向かって吠え始める。
「あう、あうあうっ」
完全に怯えきっている菫ちゃんは蛇に睨まれた蛙状態で、両手を頭の上に乗せて小さく蹲ってしまっている。
「ナイスだよ、お兄ちゃん! さぁ、こっちにパスして!」
「そんなこと出来るか、馬鹿! いいから受け取りに来い!」
続々と他の部員が戻り、最後に柏瀬部長が戻って来たことで練習が再開される。
――はずだったが、一時間もしない間に練習が切り上げられることになってしまった。
「はい、もう止めっ! 本日の練習はここまでにします」
不機嫌さを前面に押し出した柏瀬部長が手を叩き、小動物のほうに視線を向ける。
「す、すみません。すみません……っ!」
恐縮しきった様子で謝っている菫ちゃんは、周りをグルグルとまわり続けている小動物に翻弄されながら今にも泣きだしそうだった。
「さっさとそれをどうにかしなさい」
「それじゃありません、佳凛先輩。犬子って呼んであげてください」
間に入った結理が小動物、先ほど体育館に迷い込んで来た子犬のことを庇う。
「何その子、メスなの?」
「いえ、オスですけど。子犬なので、子犬子犬子犬子犬子で、犬子になりました」
「勝手に紛らわしい名前を付けて。犬子だか、子犬だから知らないけど、飼い犬の勝手な名前を付けるべきじゃないわ」
「うぅっ、なんて正論……っ。ぐうの音も出ません」
そんなくだらない会話が繰り広げている中でも、犬子と結理に名付けられた犬子は菫ちゃんの周りで楽しそうにまわっている。
「あう、あうあうっ。せ、先輩、た、助けてください」
「そうはいっても、菫ちゃんから離そうとすると吠え始めるんだよな……っ」
相当菫ちゃんを気に入ったらしい犬子は、練習中ずっと菫ちゃんの足元から離れようとしなかった。
引き剥がそうとすると吠え始めて、体育館の外に連れ出してもいつの間に戻って来てしまう。
「とりあえず、その子犬の飼い主を探すしかないわね」
大変面倒くさそうに柏瀬先輩が切り出して、状況を見かねて咲桜は犬子を抱き上げて口を開く。
「やっぱり、この子の飼い主は寮生の誰かなんでしょうか?」
「まぁ、そうでしょうね。首輪もしているし、野良ってことはないでしょう」
それからそれぞれ学年別に犬子の飼い主を捜すことになり、話は飼い主が見つかるまでの間、犬子をどこで保護するのかに変わって行った。
「――ダメよ。基本的に寮は動物禁止なんだから」
「そこをどうにか、何とかならないんですか? 先生」
「ダメなものはダメなんです。規則ですから」
なかなか話が進まずに沈黙が流れる。
さすがに外に放置する訳にも行かない。
大型犬ならばリードなんかを使って繋いでおくことも出来るが、子犬を真冬の野外に放り出したら動物虐待にもなりかねない。
長考状態に入ろうとする中で、意外にも菫ちゃんが手を上げ発言する。
「そ、それなら部室、なんでどうですか?」
「うーん、それなら多分、大丈夫だと思うけど。部活棟なら寮からも離れているし」
渋々といった様子だが、責任者に当たる志穂先生が横に振っていた首を縦に下ろした。
「それじゃ、決まり。さぁ、解散しましょう」
すると、ずっと黙っていた柏瀬部長が締め括ろうと手を叩く。
始めから乗り気ではなかっただけに、話がまとまりそうな雰囲気に反応したようだ。
「餌やりなんかは私、絶対に手伝わないから。勝手にしてちょうだい」
「ちょっ、先輩! まだ話は終わって――」
「明日は予定通り、九時から練習始めるからね」
反論が言い終わる前に遮られて、立ち止まることなく柏瀬部長はさっさと体育館を出て行ってしまう。
「本当に帰ったよ、あの人……っ」
この後、志穂先生が学園に部室で子犬を預かる許可をもらうことに決まり、じゃんけんで負けた俺は犬子の餌やり係に任命されてしまった。
さらにこの後、唯一の暖房器具である電気ストーブを使うわけにもいかず毛布を準備したり、食器や犬用の食料品を用意したりとあっという間に時間が過ぎて行った。
その際、一度も柏瀬部長が戻って来る事は無かった。
一
犯人が知っている秘密の正体は、俺自身の感情に関することだ。
一般的に持ち合わせているはずの感情の一部が俺には理解出来ない。
そのことを知ったのが小学五年の時、両親が亡くなった通夜の日だった。
姉に告げられた言葉で俺は自分自身の正体を暴かれ、世界から弾き出された。
その日以来、誰にも知られることもなく、ただひたすらに怯えながら、俺は人間の顔色を窺いながら人間のマネをし続けている。
もしも犯人が秘密を暴露すれば、俺は誰に気付かれることなく、無意識な自意識に翻弄させられて発狂するだろう。
早朝、部活棟の廊下を歩きながら、今朝に見た夢の内容を思い出す。
両親の葬式が終わった日から、毎日のように見ていた夢。
始まりが違っても、いつも同じ言葉で終わる夢。
――あんたは悲しくないの? お父さんとお母さんが死んだのに。
違う。確かに悲しかった。悲しかったはずなんだ。
――気持ち悪い。あんたには人としての感情が無いんだわ。
違う。そうじゃない。
「俺は」
結局言い返すことが出来ずに終わる夢。
いや、実際に俺は言い返すことが出来なかった。
「……くそッ」
怒りに任せて壁を殴りつける。
ジワジワと広がって来る鈍い痛みに顔が歪んで、久しぶりにあの夢を見たせいか気持ちを切り替えることが出来ない。
「えっ。何だ、この音。鳴き声、か?」
しかも、その鳴き声が部室のほうから聞こえて来る。
甲高い子犬の鳴き声とは明らかに違う、咳をしているような苦しげな音がする。
「まさか」
犬子が体調を崩したのだろうか。
あり得ない話ではない。
どんな動物でも、幼い時は病原菌に対する免疫が弱い。
慌てて部室のドアを開けると、俺の予想とは違う異様な光景が広がっていた。
「――な、何をしてるんだ。菫ちゃん!」
部室に飛び込んだ時までは苦しげに暴れていた犬子がぐったりと力が抜けて、しゃがみ込み犬子の首を両手で絞めているように見えた菫ちゃんが振り返る。
咄嗟に菫ちゃんの腕を掴んだ俺は、予想以上に犬子の首をきつく締めていた手を離させる。
その力は冗談でも間違いでもなく、明確に犬子を殺そうとしていた。
「あっ、違うんです。け、今朝は昨日より寒かったから、この子のことが心配で、それで……ッ」
いきなり話し始めた菫ちゃんは饒舌で、瞳孔の開き切った瞳が揺れていた。
「違うんです。お水を上げようとしたら、この子が暴れて、し、仕方がなく。だから、その、違うんです……っ」
目を見て話しているのに視線が一度も合わない。
「とにかく志穂先生に連絡して、病院に連れてってもらおう。話はその後からだ」
手を離した後の犬子は、毛布の上で浅い息を繰り返すだけで元気がない。
ヘッドホォンで志穂先生に連絡しようとした瞬間、いきなり菫ちゃんが俺のことを押し飛ばして部室を出て行く。
「ちょっと、菫ちゃん!」
「――きゃあッ」
呼び止めようと大声を出すとほぼ同時ぐらいに廊下から悲鳴が聞こえて、その本人が部室に入って来る。
「今、菫ちゃんが――って、ど、どうしたのッ?」
すぐさま異変に気付いた佐鳥が困惑気味に言って、様子のおかしい犬子に歩み寄る。
目まぐるしく状況が変化して行く中で、ようやく志穂先生が電話に出た。
その後、志穂先生は早朝からでも診療してくれる動物病院に探して車を出してくれた。
「ごめんなさい、先輩。私には先輩が言っていることの意味が、よく分かりません」
犬子を動物病院に連れて行った後、部室に菫ちゃんのことを呼び出した。
俺と佐鳥が並び、正面に座る菫ちゃんが困惑した様子で頭を下げる。
「――すみません、失礼します」
逃げるようにして部室を出て行った菫ちゃんから、犬子の首を絞めていた時のような動揺は感じられなくなっていた。
いつも通り気の弱い、内気な女の子に戻っていた。
「菫ちゃんが子犬の首を絞めていたって、本当なの?」
「それは、間違いないんだ」
動物病院で入院が決まった犬子は、首の骨が脱臼していた。
獣医の先生の話だと、外部から強い圧迫を受けたのだろうという診断だった。
何より俺自身が、その現場を目撃している。
脱臼の原因に関しては、菫ちゃんの事情が分からない以上、部室に着たら様子がおかしかったと嘘を吐いた。
それもちゃんとした診断結果か出れば、事実が発覚するのも時間の問題だろう。
「とりあえず、このことは他の皆には黙っておかない?」
真剣な表情を見せて提案する佐鳥に俺は頷いた。
時間の問題であれ、元々放って置くつもりだったからだ。
部活の後輩が犬の首を絞めるという異常な出来事に、わざわざ首を突っ込むべきではない。
菫ちゃんがどんな事情を抱えているとしても、それは俺にとって何等関係のない事だ。
俺にとっての関心はたった一つだけ、菫ちゃんが手紙を出した犯人か否か、それだけしかない。
「今日の部活が終わったら、さり気なく私から菫ちゃんに話を聞いてみるから。苗木くんも菫ちゃんのフォローをしてあげて」
「ああ、分かったよ」
まるで自分のことのように感情移入している佐鳥に対して、正直良い気分はしなかった。
理解したつもりの人間ほど、実際のところ、当事者の気持ちに理解を示さないことを俺は知っている。
葬式の時に嫌というほど、そんな顔をした大人を眺めていた。
しかし、そんな佐鳥の思いやりは翌日、犬子の診断結果を持ってきた志穂先生によって儚くも崩れ去る。
「頸椎圧迫による脱臼って、要するに誰かが首を絞めたってことだよね?」
「そうとは限らないって。子犬の内は骨もまだ柔らかいから、何らかの衝撃で脱臼することはあるそうよ」
「子犬とはいっても、犬子は自分で歩けるくらいなんですよ? 普通に考えて、何かにぶつかったくらいで骨が折れるとは思えないです」
演劇部の中でも犬子と名付けたり、積極的に犬子の為に動いたりしていた結理は納得出来ていないようで口調に棘があった。
「そういや、犬子の飼い主は見つかったのか?」
「えっ? あ、うん。一年生じゃないみたいだよ、ってそうじゃなくて! 誰が犬子の首を絞めたのかをつきとめなくちゃ」
「結理は犬子を部室で預かっていることを誰かに話したのか?」
「う、うん……っ。全員には言ってないけど」
「だったら、誰が犯人かなんて。学園中の全生徒に話を聞くつもりなのか?」
「だ、だって! だって、お兄ちゃん。犬子が可哀想だよ……っ」
話を理解できても、感情的になっている結理はどうしても納得がいかない様子だった。
「俺たちがするべきことは、犬子の飼い主を見つけることだろ?」
あのまま首を絞めた犯人捜しになり、俺と佐鳥が口裏を合わせたとしても菫ちゃんに疑いが向くかもしれない。
そうなれば、部の雰囲気が悪くなることは言うまでもないだろう。
「うっ、うん……っ。お兄ちゃんがそういうなら、結理はそれでいいよ」
目に見えて落ち込む結理が頷いて、話の方向性は犯人捜しから飼い主捜しに移る。
「三年でもなかったわ。まぁ、全員に訊いたわけではないけど」
「二年生も飼ってないって」
「結理、一年の誰も知らなかったんだよな?」
「うん、誰も犬なんて連れて来てないって」
予想外の事態に部室の全員が顔を見合わせる。
「待って。それはおかしいわ」
部室の定席で話を聞いていた志穂先生が話し始めて、さらに状況を不可解にさせることを口にした。
「だって、ちゃんと学園側に子犬を預かる承認が下りているのよ」
「承認って、なら誰が出したのかは分からないんですか?」
「二年四組の一ノ瀬さんよ」
あっさりと上げられた生徒は一ノ瀬奈々(なな)という名前で、休みが始まる一週間前から申請を出していたらしい。
「でも、佐鳥がさっき二年生は誰も飼ってないって」
「本当だよ? ちゃんと全員に話を訊いて」
「ああ、俺も一緒に訊いて回ったから間違いないぞ」
隣が夕哉が頷く。
つまりそれは、飼い主である一ノ瀬奈々が嘘を吐いたという事なのだろうか。
しかし、わざわざ嘘を吐く理由が分からない。
いよいよ話がミステリー染みて来た気がする。
「その一ノ瀬さんなんだけど、一週間前に外出届が出されていたわ」
「外出届ですか?」
「理由は家族旅行で、日数は三日間だったわ」
俄かに重くなり始める空気の中で、神妙な面持ちで志穂先生が新たな情報を提示した。
「志穂先生、そういう大事なことは先に言ってくださいよ……っ」
「えっ?」
疑問符を浮かべる志穂先生に対して、自然と溜息が出てしまった。
どうやらミステリーではなかったようだ。
時系列を整理すれば、一つの問題点だけが見えて来る。
「冬休みが始まる一週間前なら、十二月中旬ですよね。おそらく一ノ瀬という女子生徒は、休みを利用して愛犬と遊ぶ計画でも立てていたんでしょう」
ただ単に遊ぶ為だったのか、それとも友人に紹介する為なのかは分からない。
「そして、最初から家族旅行も彼女は知っていたんだと思います」
その理由としては、前もってちゃんと外出届が出されていたことからだ。
だが、ここで問題点が一つだけ生まれる。
なぜ、彼女は子犬を連れて行かなかったのか。
「酷いよ! 犬子を置いて行っちゃうなんて。犬子だって家族なはずなのに!」
大雑把に状況を説明し終えた直後、思い切り部室のテーブルを叩いて結理が大声を上げた。
「もう許せない。戻ってきたら文句の一つでも言わなくちゃ気が済まないよ!」
「気持ちは分からないでもないが、とりあえず落ち着けって」
「落ち着いてられる訳ないよ! 一歩間違えたら、犬子が死んじゃってたかもしれないんだよ?」
結理のこの叫びに最初に反応したのは、ずっと俯いて話を聞いていた菫ちゃんだった。
ビクンと身体を震わせて、きつく目を瞑る。
「まだ置いて行ったとは限らないだろ? 誰かに預けてたのかもしれない」
「それなら昨日、誰も名乗り出なかったのはどうしてなの? お兄ちゃん」
「犬子のことを探していたからだよ」
むしろ、居ないほうが自然な話の流れだと思う。
他人から動物を預かり、もし逃がしてしまったとしたら、相手との信頼の深さによって対応が変わる。
前もって書類を用意するような女子生徒がペットを預けるほど信頼している相手なら、信頼に足り得るほど責任感のある人物だと思われる。
「佐鳥も、寮生全員から話を訊けたわけじゃないんだろ?」
「うん。冬休みで外泊してる人が多いから」
「でもでも、どうしてその子は犬子を置いて行っちゃったの? 連れて行ってあげれば良かったのに」
「おそらく、始めから連れて行くつもりなんてなかったんだ」
すべてが計画されていた内容ならば、そこにはちゃんとした理由がある。
「犬子に会うことが目的なら、冬休みに帰省すれば問題がなかったはずだ。それが申請を出してまで犬子を呼んだのなら、犬子を紹介したい相手が居たってことだ」
ここまでは書類上から事実だと断言出来る。
「なら、家族旅行の間だけ預かって欲しい、そんな話になってもおかしくないだろ?」
「う、うん……っ。お兄ちゃんが言うと本当のような気がして来たよ」
この話は単に情報が足りなかったことと、不可解な話がミステリーのように見えていただけだった。
この話を締め括るのなら、俺らは情報によってミスリードさせられていたのだ。
「でも、それなら預かった先輩は昨日から犬子のことを心配してるってことだよね?」
「あ、ああ、そうかもしれないな」
「それなら結理、その先輩に説明して来るよ!」
「ちょっ、待て! ――その先輩が誰かも分かってないのに」
呼び止めた時に結理は部室から飛び出して、途中から完全に独り言になっていた。
問題定義が犬子の首を絞めた犯人から飼い主に移ったおかげで、話題が一応に締め括られる。
午後から練習が始まって、部内の雰囲気も犬子のことは事件から事故に変わって行った。
その日の夜、犯人から手紙が投函された。
――『私は誰にも知られずに狂い、やがて誰にも知られずに直っていた』
太宰治の短編集『玩具』に出てくる一節だけが記載された手紙は、前日の夜には無く、今朝になって入っていた。
「どうしたの、溜息なんて吐いて。やっぱり、菫ちゃんのことが気になってるの?」
「佐鳥か。まぁ、ちょっとね」
冬休み中も開いている食堂で少し遅い朝食を食べていると、トレイを持った佐鳥が正面側に座った。
トーストにハムエッグ、サラダと野菜ジュースがセットになっている朝食Bセットだ。
「でも、昨日の推理はまるで探偵みたいだったよね」
「止せって、あんなの夕哉でも説明出来る」
「そうかな? 私は素直に凄いと思ったけどな」
朝食Aセットを頼んだ俺は味噌汁を一口啜って、海苔で巻いた白米を口に運ぶ。
「それにまだ、正しいかも分かってないだろうが」
「そういえば、そうだったね。すっかり、苗木くんの言うとおりだと思ってたよ」
柔和な笑顔を浮かべてトーストを齧る佐鳥には、結理とは違った人懐こさがある。
すんなり心の内を見せてしまいそうになるというか、何でも話してしまいたくなるような気持ちになってしまう。
「あれっ、もしかして照れてる? ねぇ、照れてるの?」
「ち、違う!」
そんな時に見せる意地悪な表情は反則的なほど可愛らしい。
「ふふっ、苗木くんってそんな顔もするんだね。少し意外だったかも」
「何だよ、まるで俺が冷徹人間みたいな言い方だな」
内心恐怖で言葉が詰まりそうだった。
冗談っぽく言ったことに対して佐鳥は頷いて、サラダに入っているミニトマトをフォークで刺す。
「冷徹とは少し違うかな? 苗木くんはちゃんと周りを見ていて、状況に応じて合わせて、いつも周りと楽しませようとしているように見えるから」
一瞬、心臓が止まるかと思った。
佐鳥の言い方だと良いように聞こえるかもしれないが、裏を返せば、いつも周りにビクビク怯えていて、周りから疎外されないように演じているとも聞き取れる。
口に放り込んだミニトマトが弾ける音だけがして、咀嚼する音も出さすに佐鳥は咽喉を鳴らした。
「でも、私は佐鳥くんのそういうところが好きだよ」
「す、好き……ッ?」
「もちろん。友だちとして、だけど」
「はぁっ。ったく、からかってたのかよ。心臓に悪い」
「ごめんごめん。このくらいなら、いつも結理ちゃんに言われているのかと思って」
張り詰めていた空気が弾けて、止まっていた血液がゆっくりと流れ始める。
「いや、結理はそういうことは言わないな」
「そうなんだ? いつも〝お兄ちゃん〟ってくっついているのに」
「まぁ、昔は言われたような気もするけどな」
それも本当小学校も低学年までで、一人っ子の結理が俺に向けている感情は兄妹のそれと一緒だと思う。
「今は言われなくなって寂しい?」
「別に。今言われるまで気づかなかったくらいだしな」
「そっか」
素直に答えるとなぜか満足げに佐鳥が頷いて、いつの間に平らげたサラダ皿を奥に追いやる。
「佐鳥ってさ、嫌いなものから食べるタイプなんだな」
「えっ? ああ、うん。分かっちゃった?」
照れ笑いを浮かべる佐鳥はサラダの器をトレイに戻す。
「何となく見てればな」
「見てたんだ?」
「馬鹿ッ、別にそういう意味で言った訳じゃねぇよ」
意味深に上目遣いで訊いて来る佐鳥の仕草に思わず慌ててしまった。
「冗談だよ」
そういうと佐鳥はクスクスと笑って、二人の間に沈黙が流れる。
そろそろ食べ終わろうとした頃、思い出したように佐鳥が口を開いた。
「そうだ。苗木くんって菫ちゃんが昔、大きな犬を飼ってたことは知ってる?」
「いや、知らない」
「菫ちゃんの動物が苦手な理由に関係があるかと思ったけど、やっぱり無関係なのかな」
「さぁな」
食べ終わったトレイを持って立ち上がる。
「それじゃまた、部活で」
「うん、またね」
トレイをカウンター横にある食器棚に置いて、ふと視線を感じて佐鳥のほうを見ると笑顔で手を振っていた。
軽く手を振り返してから、俺は食堂を後にした。
第二の手記の読み合わせも終わり、今日からは多少動きを交えた練習に入って行く。
第一の手記が起承転結でいう〝起〟だとすれば、第二の手記は〝承〟に当たる部分であり、鬱々した物語がさらに拍車が掛けられる。
第二の手記の終わりが、菫ちゃんが演じているツネ子の死であることからも想像は容易だろう。
ちなみに、脅迫状に書かれていた竹一の台詞が登場するのは第一の手記だけである。
「『死にたいと、そう思うことはありませんか? 葉蔵さん、私は最近そのことばかりを考えてしまうのです』」
「『そんなことを言うものじゃないよ。だがね、あなたが死にたいというのなら、僕も一緒に。もちろん、死ぬつもりでいます』」
「『おかしな方。大抵の方なら、死ぬなと言ってくれるものなのに』」
「『いや、僕は自分自身に正直なだけなのです』」
字の文が大半の占める人間失格で、基本的な台詞回しは柏瀬部長の脚本によるものだ。
言葉遣いや仕草、原作の設定をキャスティングに合わせて変更している。
「『でも、もし死にたくなったら私、』私――ご、ごめんなさい……っ」
「ちょっと休憩しようか」
「……ごめんなさい」
練習が始まってから、ずっと菫ちゃんは上の空だった。
幸い柏瀬部長は夕哉の指導をしていて、面倒くさがりのわりに時間に厳しい人は居ない。
「前から疑問だったんだけど、菫ちゃんはどうして演劇部に入ろうと思ったの? こういうと否定しているように聞こえるかもしれないけど、人見知りというか、人前が苦手そうなのに」
体育館と校舎を繋ぐ渡り廊下に移動して、寒空の下、グラウンドを走る野球部員の掛け声をバックに尋ねる。
「え、えと、それは――その、私こんな性格だから」
「直したくて?」
こくりと頷いた後、大よそ予想通りの答えが返ってきた。
「でも、やっぱりダメです。練習について行けないし、台詞もまだちゃんと憶えきれていなくて」
「そんなことはないだろ。菫ちゃんには、菫ちゃんにしか出来ないこともある訳だし。ほらっ、この前作っていた衣装、あんなの結理には真似しようにも出来ないだろうからな」
「あ、あれは、半分趣味みたいなものだから……っ」
「菫ちゃんはもっと、自分に自信を持つべきだと思うけどな」
遠慮しているというより、卑屈になっているようにも聞こえる。
さすがに思い違いだろうが、人見知りだって印象も、他人と関わることを拒んでいると言える。
野球部の掛け声が止んだ時、俺は菫ちゃんの正面に身体を向けた。
「本当に菫ちゃんは、犬子の首を絞めたわけじゃないんだよね?」
いきなり踏み込んだ質問に菫ちゃんの瞳が揺れて、顔を伏せてから小さく頷く。
「なら、前にも首を絞めたことは?」
「そ、そんなことないです! あるわけないじゃないですか!」
ほとんど即答の返事で、菫ちゃんにしては練習中でもないほど大きな声だった。
「そっか、そうだよな。変なことを訊いて悪い」
「い、いえ……っ」
「そういえば、前に犬を飼ってたって聞いたんだけど本当?」
「えっ、は、はい。飼っていましたけど」
目も合わせられないと言って様子で、菫ちゃんは背中を向けてしまう。
けっして大声を出したことに対して恥ずかしがっている訳ではなく、何かを俺に勘付かれることを避けようとしている。
そんな風に思えた。
「そろそろ戻ろうか。あんまりサボってると部長に怒られかねないし」
それに一つだけ、わかっていることがある。
菫ちゃんが吐いた些細な嘘のことだ。
『一番苦手、かもです……っ。一度だけ噛まれたことがあって、まだ痕も残ってて』
犬が苦手なのかと尋ねた問いかけに対して、菫ちゃんは痕が残っているなんて必要のない嘘を吐いた。
嘘を吐くということは、他の何かを隠したいからだと思う。
この場合、隠したいことは犬に噛まれたということで間違いない。
偶然とはいえ、菫ちゃんの下着姿を目撃した時、そんな傷跡はどこにもなかった。
――『私は誰にも知られずに狂い、やがて誰にも知られずに直っていた』
犯人から送られてきた手紙が菫ちゃんのことを言っているのだとしたら、犯人は志穂先生の時のように俺に菫ちゃんを救えと言っているに違いない。
救わなければ、犯人によって俺の秘密が暴露される。
翌日俺は休部届を出して、ある目的地の為に電車に乗り込んだ。
佐鳥に頼んで菫ちゃんを呼び出してもらう手筈になっていて、演劇部が練習している間に必要な情報を集めるつもりでいる。
菫ちゃんが柊木学園に来る前まで育った町で。
二
「ごめんね。急に呼び出したりして」
「いえ、その――どういうことなんですか?」
午後三時を過ぎた頃、制服姿の菫ちゃんが困惑顔でやって来た。
でも、それは仕方がない事だろう。
「ここ、私の実家……っ」
突然自分の実家に呼び出されれば、誰でも不審に思うだろうし、困惑するに決まっている。
本当のことを言うのなら、俺が菫ちゃんを呼び出した場所は彼女の実家ではなく、彼女が大事にしていた愛犬、ナイトの墓だった。
「家の人の姿が見えなくて、悪いことだとは思ったんだけど待たせてもらった」
「いえ、だからそうではなくて、どうして先輩が私の家に」
「話をしようと思って」
「お話、ですか?」
困惑顔の上に戸惑いが交ざって、菫ちゃんは僅かに眉を顰める。
身体を少し動かして、菫ちゃんからナイトの墓が見えるようにしてから口を開く。
「前に菫ちゃん、犬に噛まれたことがあるって言ってたよね。今でも痕が残っているって」
「はい。言いましたけれど」
「それって、本当?」
顰めていた眉が広がって、菫ちゃんは視線を外した。
だが、すぐに視線を戻して困ったような笑顔で話し始める。
「そ、そう! あれは冗談だったんです。思わず口から出ちゃったというか、それにナイトを飼っていたのは本当で、じゃれて噛まれたことだってあります」
「だから、嘘は吐いてない?」
「違います。いえ、違わないんですけど、どうしちゃったんですか? 先輩。そんなに怖い顔をして、変ですよ」
普段よりも明らかに饒舌になっていて、今の菫ちゃんは部室で犬子の首を絞めた時に似ていた。
「(でも、どうしてここまで動揺するんだ?)」
いや、普段あまり話さないだけで、これが菫ちゃんの性格なのだろう。
そんなことよりも、菫ちゃんが抱えている問題を解決するほうが優先だ。
「俺はいつも通りだよ。むしろ、変なのは菫ちゃんの方だ」
「わ、私は別に。私も、いつもと変わってません」
菫ちゃんが抱えている問題は、物心がつく前から一緒に暮らしてきた愛犬の死を受け入れられていないことだ。
それを受け入れれば菫ちゃんの問題が解決され、結果として菫ちゃんは救われる。
「俺が前に動物が嫌いなのかって訊いた時、菫ちゃんは苦手だってわざわざ訂正したよね」
ただ今回は、志穂先生のように元々解決していた話じゃない。
結果がすでに出ていて、問題解決には菫ちゃん自身の意識を変えるしか方法がない。
「知りたいんだ、菫ちゃんの本当の気持ちが」
真っ直ぐに菫ちゃんの目を見て、目的の言葉を引き出す為に倒置法を用いる。
「ど、どうして私のことなんて……っ」
「気になっているから」
弱気な菫ちゃんなら、卑屈な答えが返って来る事は想像出来た。
これで菫ちゃんは、少なからず俺が菫ちゃんに対して好意を抱いていると思うだろう。
前回は志穂先生からの信頼度が低かった事と相手の言葉に合わせていたせいで、途中で想定外の誤算が起きてしまった。
「菫ちゃんの為に、俺に出来ることがしたかったんだ」
「私の、為に……っ?」
それに菫ちゃんから信頼されることが、この問題を解決するもっとも重要な要素にもなっている。
「犬子を見た時の菫ちゃんは、尋常じゃないくらい怯えていたよね」
姿を見る前から、鳴き声を聞いただけで立ち止まるほど菫ちゃんは恐れているように見えた。
「でもそれは、犬が苦手だからじゃない」
「――えっ?」
「菫ちゃんは犬子を見て、まず初めに〝死〟を連想したんだ」
犬子の首を絞めていた菫ちゃんは、間違いなく犬子を殺そうとしていた。
でもそれは、何も苦手や嫌いだからではない。
一種の防衛反応と呼べる衝動的な行動だったのだ。
「悪いとは思ったけど、菫ちゃんが来る前に菫ちゃんの友だちから話を聞いたんだ」
ナイトが死んだのは、菫ちゃんが中学生の時だった。
物心がつく前から一緒だったナイトは老犬で、多臓器不全ですでに何年も生きられない身体だったらしい。
「ずっと仲良しだった犬が死んだんだってね。それも、ちょうど両親が旅行に出かけていて、菫ちゃんとナイトだけの時に」
実は菫ちゃんの友人のほかに、彼女の両親からも話を聞かせてもらっていた。
ナイトのことで菫ちゃんには悪いことをしたと思っているようで、心配していることを伝えるとあっさりと話してくれたのだ。
「怖かったよね。守れる人間が自分しかいないなんて、それも中学生の女の子が一人で」
生き物を飼ったことがない俺が理解出来るわけもない。だが、仮に菫ちゃんと同じ状況に陥ったとしても俺の心が動くことはなかっただろう。
両親の死にも無関心だった俺が、飼っていた動物が死んだくらいで変わる訳がない。
周りから怪しまれないよう涙を流すフリをして、しばらくの間は落ち込んだフリをして、最後には乗り越えたフリをするだけだろう。
「や、やめてください。私はそんな、そんなこと……っ」
「いいんだ、無理しなくても。菫ちゃんはずっと、誰にも打ち明けられずに抱え続けて来たんだから」
動揺するように瞳を震わせて、俯きがちな視線を菫ちゃんはナイトの墓に向ける。
「もう、無理をしなくてもいいんだ」
「でも……っ」
ゆっくりと顔を上げた菫ちゃんは、辛そうな瞳を俺に向けて口を開く。
「あの日、私はナイトを見殺しにしちゃったから」
そして、菫ちゃんは途切れ途切れながら罪を告白するように喋り始めた。
「お父さんとお母さんは、私を身籠ってから結婚したんです。だから、新婚旅行に行く余裕もお金もなくて、私のことをずっと優先してくれて。だから、私が二人に旅行に行って来たらって、出来なかった新婚旅行を楽しんできてって言ったんです」
掠れ声で、ところどころ声が風で掻き消されてしまう。
「最初はお父さんもお母さんも、私がもう少し大人になってから考えるって言われてて。でも、やっぱり私は二人に新婚旅行に行って欲しかったから」
「そこまで新婚旅行にこだわる理由はあったの?」
「こ、こだわるほどの理由なんてないんです。ただ、とても、娘の私から見ても仲が良い夫婦だから、私のせいで出来なかったことがあると思うと、申し訳なく思っちゃって」
中学校に入学した頃から、菫ちゃんは頻繁に両親を旅行に誘っていたらしい。
最初は菫ちゃんが言っていたように断れていた新婚旅行も、共働きの両親の休みが偶然重なったこともあって、菫ちゃんが中学二年生の時に新婚旅行が実現することになった。
「私が二年生になった時、ナイトが大きな病気に掛かっちゃって、その時にもう何年も生きられないと言われました。悲しかったけど、私も中学生だったので、ナイトが年寄のおじいちゃんで、寿命だってこともわかっていたつもりです」
だんだんと話の内容が、ナイトの死んだ日に近づいて行く。
正直な話をすれば、菫ちゃんの両親からナイトの死に方について教えられた時、トラウマになっても仕方がないと思った。
けっして凄惨といわれるような、悲惨な死をナイトは迎えた訳じゃない。
おそらく人間に置き換えたとすれば、寿命を全うした最後だと思える。
ただその日、両親が不在でその場に菫ちゃんとナイトしか居なかったことが問題だった。
「お父さんとお母さんが出かけた夕方頃からナイトの様子が少しおかしくなって、いつもなら半分は食べるご飯も食べなくて、動くのも鬱陶しそうにずっと横になっていました」
僅かに声が震え始めて、俯いたまま菫ちゃんは両手を握り締める。
「それでも、そんな調子の悪い日は前にもあったんです。季節の変わり目だったり、毛が抜け変わる時だったり、だから、今日もそうなのかなって思っちゃったんです」
握り締めた拳が震えて、語気にも力が込められる。
「あの日、私がナイトの変化にもっとちゃんと気づいてあげられていたら、動物病院に連れて行っていたら、ナイトは死なずに済んだかもしれないのに……っ!」
「ナイトは寿命だったんだ」
「違います! ナイトはもっと生きられたはずなんです」
怒りが込められた瞳を向けて、菫ちゃんは顔を上げた。
「だって、だって私は、生まれてからずっとナイトと一緒に暮らしてきたんです。大切な家族だったんです! 何をするにも一緒で、楽しい時も、悲しい時も、嬉しい時も辛い時も、ナイトはそばに居てくれました」
今にも零れ落ちそうな涙を堪えて、菫ちゃんは困ったように眉を寄せて続ける。
「だから、本当はもっと一緒に居たかったはずなんです」
「ナイトはもう居ない。居ないんだよ、菫ちゃん」
やはり菫ちゃんは愛犬の死を受け入れられていない。
しかも、それが自分のせいだと思い込んでしまっているのだ。
「辛いことだけど、それは誰にも変えられないことなんだ」
家族と同じように育ったナイトの死は、菫ちゃんにとって耐えられない出来事だった。
次第に弱って行くナイトの隣で、何も出来なかった菫ちゃんは死というものに恐怖したに違いない。
だから、自分よりも先に死んでしまう生き物が怖くなってしまった。
同じ事を繰り返してしまうくらいなら、先に殺してしまおうと思うほど屈折した考えに至るまで。
「ずっと一緒だった菫ちゃんに看取られて、ナイトは幸せだったんじゃないかな?」
「そ、そんな言葉、嘘に決まってます。間違ってます」
「そうかもしれない。でも――」
菫ちゃんの肩を抱いて、ナイトの墓の前に菫ちゃんを立たせる。
「少なくてもナイトは、菫ちゃんが泣いている姿は見たくないんじゃないかな?」
そっと肩から手を離して、数歩後ろに下がる。
もうこれ以上、菫ちゃんに掛ける言葉は残っていない。
肩から手を離した瞬間、両頬を伝って零れた涙以上に彼女の気持ちを物語る意味はないだろう。
嗚咽しながら陽が傾くまで墓の前で謝り続けた菫ちゃんは、涙で腫らした目のままこちらを向いて、
「ごめんなさい」
と、もう一度だけ謝ったのだった。
夕食後、寮の郵便箱に水色の手紙が投函されていた。
だが、いつものように定規で書いたような文字ではない。
明らかな走り書きの文章は、部活棟の屋上に来いとだけ書かれていた。
「悪戯か?」
そう切り捨てることは簡単だ。だが、水色の手紙は犯人しか知らない情報で、そもそも俺が脅迫されていること自体、犯人以外に知らないはずだ。
目的は分からないが、文体から察するに犯人から焦りが窺える。
妙な胸騒ぎを覚えて、俺は便箋と一緒に手紙をポケットに押し込んだ。
陽が沈んでから気温がグッと下がり、曇り空で外灯の少ない学園内は暗闇が広がっている。吹き抜ける風は一瞬にして体温を奪い始め、コートも羽織らずに出てきたことを後悔した。
部活棟に入り、階段を使って屋上まで駆け上がる。
屋上に辿りつく頃には完全に息が上がって、肩で息をしながら屋上のドアを開けた。
「――寒ッ!」
突風が吹き抜けて、薄らと掻き始めていた汗を冷やす。
毛細血管が収縮して、全身がゾクッと震えた。
身体が勝手にガクガクと震える中で、フェンス近くに人の姿を見つけた。
少しずつ目が慣れてきたが、ぼんやりと輪郭が見えるくらいで、他に分かることといえば女子の制服を着ていることだけだった。
「俺のことを呼んだのはお前か?」
「――えっ、どうして。な、苗木先輩?」
「す、菫ちゃん?」
近づいて行くと、そこには面食らった表情を浮かべる菫ちゃんが立っていた。
俺と同じく制服姿で、菫ちゃんも他に防寒具を着ていない。
「どうしてこんなところに、先輩が?」
「どうしてってそりゃ」
呼び出されたからに決まっている。
だが、呼び出した張本人にしては少し様子がおかしい。
「いや、菫ちゃんこそ、どうしてこんな時間に屋上なんか。しかも、そんな薄着で」
待っていたにしては格好がおかしく、近づいて気づいたがすでに唇が紫がかっている。
しかし、待っていなかったとすれば菫ちゃんはこんな場所で何をしていたのだろうか。
「ほ、星を見ようかと思って」
「こんな曇り空で?」
「ああ、ええと、嘘です。間違えました。本当は部室に忘れ物しちゃって。それで、なんとなく屋上に来ただけで」
目を逸らした菫ちゃんは、フェンスに掛けていた手を離す。
「そうしたら先輩が来て、驚いてしまいました」
「忘れ物って、何を忘れたの?」
菫ちゃんが饒舌になっている時、それは何かを隠そうとしているか、誤魔化そうしている証拠だ。
おそらく、忘れ物というのは嘘だろう。
「え、っと。そ、そう、台本を忘れてしまって」
「その台本はどこにあるの? 持っているようには見えないけど」
「あっ、それはその、あれっ? また部室に忘れたのかもしれません」
困ったように笑顔を見せる菫ちゃんは、寒さからなのか尋常じゃないくらい震えていた。
「とりあえず寮に戻ろう。このままここに居たら、冗談抜きで凍死しちまう」
そういって手を取った瞬間、これまでの菫ちゃんからは考えられないような力で跳ね除けられる。
だが、手を跳ね除けられたことよりも俺は別のことに気を取られる。
こんな寒風が吹きつける中で、菫ちゃんは手袋でもしていたかのように汗を掻いていたのだ。
「ご、ごめんなさい。私は、えっと、もうちょっと屋上に居たいので」
「それなら、戻るまで俺もついてるよ。ここに菫ちゃんを残したままだと心配だし」
嫌な予感がした。
理由と呼べるものがあるのなら、犯人から呼び出されたからかもしれない。
とにかく、菫ちゃんをこのまま置いて行くことだけは避けなければいけないと思えた。
「わ、私は大丈夫ですから。寒くなってきましたし、すぐに終わりますから」
そう言いながら、菫ちゃんは目を逸らしたまま笑顔を見せる。
「(そうだ、どうして菫ちゃんは――)」
嫌な予感の正体に気づいた。
救われたはずの菫ちゃんが、以前と何も変わっていない。
あまりに自分本位な考えかもしれない。だが、菫ちゃんはナイトの死を受け入れたはずだ。
それなのに、今の菫ちゃんからは受け入れ乗り越えようといった意識が感じられない。
「(――どういうことなんだ?)」
菫ちゃんの動物嫌いになった要因が、前に飼っていたナイトであることは間違いない。
自分よりも寿命の短い動物に対して、ナイトとの別れがトラウマになってしまったことが、菫ちゃんに犬子の首を絞める行為に移させた。
理屈としては間違っていないはずだ。
それは、家族や友人から集めた証言で立証済みになっている。
「(いや、待てよ。そもそも菫ちゃんは、ここで何をしようとしてたんだ?)」
人気が皆無の部活棟で、慌てて出てきた俺とは違って防寒具も着用せずに屋上にやって来た意味。
星を見に来たわけでも、台本を忘れただけでもなく、屋上に来た目的は何か。
「先輩」
突然目の前に菫ちゃんの顔が現れて、俺は考え込んでしまっていたことに気づいた。
「戻りましょうか」
「あ、ああ、そうだな……っ」
無意識の間に深いところまで意識を使っていたようで、我に返るのにも少し時間が掛かった。
だが、菫ちゃんのほうから寮に戻るというのなら問題ないだろう。
予想外の状況が続いて、どうやら思考がネガティブな方に向いてしまっているらしい。
「そういえば、先輩はどうして屋上なんかに?」
「別に、たいした理由じゃないよ」
簡単に乗り越えたといったが、何年も一人で抱えてきた問題を解消するには時間が掛かる。
後ろについて行って、菫ちゃんが屋上のドアノブに手を掛ける。
その瞬間、屋上になって来た時の状況が脳裏にフラッシュバックした。
「せ、先輩?」
あの時、菫ちゃんはフェンスに手を掛けていただけだったか?
一瞬にして、心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走る。
僅かに脳裏を過ぎった映像の中で、フェンスを乗り越えようとする菫ちゃんの姿が浮かんだ。
「菫ちゃん、キミはここから飛び下りるつもりだったのか?」
開いた屋上のドアが閉められて、目を合わせた菫ちゃんが初めて笑顔を見せる。
「や、やっぱり、見てしまってたんですね……っ」
その返答は、考えるまでもなく肯定を意味している。
菫ちゃんは部活棟の屋上から飛び降りるつもりだったのだ。
「ど、どうして――」
「気付いちゃったんです」
衝撃から立ち直れず、尋ねようとした声は掠れて風に掻き消される。
「自分が凄く酷い人間なんだって」
「酷い人間?」
全く意味が分からない。
「もしも、菫ちゃんがナイトのことを死なせてしまったと思っているのなら、それは間違ってる。ナイトは寿命だったんだ」
「そうじゃないんです」
唯一思い当たる話に首を振った菫ちゃんは、ぐっと手のひらを握り締める。
「私は、あんなに大好きだったらナイトのことを忘れちゃったから」
「忘れ、ちゃった?」
忘れられていないのではなく、忘れてしまった。
この言葉を聞いて、ようやく俺は菫ちゃんの本当の気持ちに気づく。
「菫ちゃんはナイトのことを忘れようとしていたんじゃなくて、忘れないようにしていたってことなのか?」
「――はい」
すっと視線を流して菫ちゃんは頷き、握っていた拳から力が抜ける。
「私がナイトのことを死なせてしまったのに」
「でも、それは」
「違うんです。いくらお父さんやお母さん、友だちから同じことを言われても、変わらないんです。私がナイトを死なせてしまったことは事実で、私の中でそれはずっと変わらないんです」
視線を戻して、真っ直ぐに菫ちゃんが俺の目を見つめる。
「でも、私はそれで良かった」
落胆するような諦めた表情を浮かべて、続けて話す菫ちゃんの声に力がなくなる。
「そうすればナイトのことを私は忘れない。思い出になんて変わらない。死なせてしまったことを私の中で思い出にする事はなくなる」
瞳を震わせて、挙動不審なほどに視線を交わしては逸らす。
「だけど、一年が過ぎて、二年が経って、私の中でナイトのことが思い出に変わり始めました」
辛そうに語る菫ちゃんの言葉は、人間としてなら当たり前の行動でしかない。
いつまでも失くしたことを引き摺ってはいられない。
遺伝子的に人はそうすることで、痛みを軽減できることを知っているからだ。
「でも、そんなことを思う私は本物じゃない。本当の私は、ちゃんとナイトのことを憶えていて、いつまでも思い出になんて変えたりしない」
そんな当たり前の行動を菫ちゃんは否定した。
「だから、今こうして話している私は偽物なんだって思うことにしたんです」
最初から周りの情報に頼っていたことが間違いだった。
なぜなら、菫ちゃんはもう何年も周りに居るすべての人間に対して嘘の自分を演じ続けていたのだから。
否定したことで、菫ちゃんはその瞬間から本音を失くしたのだ。
「でも今日、ナイトのお墓の前に立って気付いちゃったんです」
「もう良い、それ以上は話しちゃダメだ!」
菫ちゃんの過去は、けっして開いてはいけないパンドラの箱だった。
知らなければよかった。
知らなければ、彼女はいつまでも自分自身から目を逸らしていられたはずなんだ。
「戻ろう。寮に戻って、もう寝るんだ。そして、今日のことは全部、悪い夢だったと思って忘れるんだ」
胸がざわめいて、自然と饒舌になってしまう。
知ることや気づくことは、もう無知でいられない事と同じである。
「先輩、私はもうダメなんです。ここでこうして話しているだけで、自分が醜く汚い人間だと知らしめられているみたいで、怖くて堪らないんです」
「違う。菫ちゃんは悪くない。悪くないんだ」
彼女をこんな状態にしてしまったのは、誰でもない俺自身だ。
「私は、私はナイトの死すら、自分の嘘の為に利用した」
そんな状況に俺が追い込んだ。
「だから、もうダメなんです。私は真っ黒で、こんな私は恥ずかしくて人と一緒に居ることなんて出来ないんです」
「ダメだ。それでも死のうとしてはいけないんだ」
力いっぱいに菫ちゃんの手を握り締める。
もう互いに手の感覚は残っていなくて、冷たさも温かさも感じられない。
「俺の両親は十年近く前に交通事故で死んだんだ!」
彼女を死なせてはいけない。
ただそれだけを考えて、俺は口を開く。
「でも俺は、それを悲しいとは思わなかった! もちろん、嬉しいとも思わなかった!」
「と、突然何を言って」
「いいから俺の話を聞けよ!」
この時の俺は、確かに怒っていたのだと思う。
「何も感じなかったんだ。実の両親が亡くなったって言うのに」
「で、でも、それは先輩がまだ小さかったから」
「違うよ。俺はバケモノなんだ。バケモノだから、人の心というものが分からないんだ」
これまでずっと誰にも言わずに隠してきた、言う訳にはいかなかった秘密を気づいたら告白していた。
「だから、本当の意味で俺は菫ちゃんが考えていることは理解出来ないし、多分、考えようともしてない」
その結果が、菫ちゃんを自殺に追い込んだ。
人として未完成だから、今だって脳裏で考えていることは菫ちゃんが自殺をした後のことばかりだ。
「なら、どうして私のことなんて構うんですか! 先輩にとって私は、どうでも良い人間じゃないんですか?」
「菫ちゃんだけじゃないからだ。俺だって誰にも本当のことなんて言えないし、言えるはずがない。これからだって、隠し通して生きて行くつもりだ」
本音を失くした菫ちゃんと本音が言えない俺は、隠しているモノが違うだけで凄く似ている。
似ているからこそ分かる恐怖と羞恥、それこそ死んでしまいたいと思う感情までも理解出来る。
欠けている同士だからこそ、分かるものがある。
だからこそ俺は、菫ちゃんの選択が間違っていると言うしかない。
「菫ちゃん、言ったよね? 恥ずかしくて生きていられないって。俺だって同じだよ。周りに合わせることでしか、俺は自分自身の自尊心を守れない弱い奴なんだ。今だって本当は、菫ちゃんが死んだら、俺が犯人だと噂されるんじゃないかってことを考えてる卑怯者だ」
もう、これ以上の言い訳や嘘は菫ちゃんには通じない。
「内心怖くて堪らない。今日は菫ちゃんを死なせずに済んでも、明日、明後日にまた同じことをするんじゃないか。そうしたら、やっぱり俺が原因じゃないかと疑われるんじゃないかって思ってる」
寒さで手が震えているのか、それとも初めて本当のことを言って怖くなっているのか、自分でも分からない。
こんなこと初めてなのだ。
本気で怒ったことも、偽りでも嘘でもない自分自身の言葉で話すこともこれが初めてなのだ。
「だから、死ぬな。俺は多分、キミが死んだらキミと同じ理由で生きてはいられなくなる。だから、俺の為に死なないで欲しい!」
どこまでいっても結局、自分のことしか考えていない手前勝手な言い分。
他人の目を気にしているだけの最低で、人間になり損ねた俺の本音だった。
「……最低ですね、先輩って」
いつの間に俺の目を見ていた菫ちゃんが続けて話す。
「でも、少しだけ死ぬことが馬鹿らしくなってきちゃいました」
もう片方の手のひらを俺の手の甲に乗せて、初めて見る表情を浮かべる。
「最低最悪の告白です」
それが笑顔だと気づいたのは、菫ちゃんが次の台詞を言い終わった頃だった。
「私は先輩の秘密を知っている。先輩は私の秘密を握っている。だから、お互いに秘密を漏らせない。何だかこれって、お芝居の中の私たちみたいですね」
そして、いつか言えずに終わったツネ子の台詞を菫ちゃんは笑顔で言った。
「『でも、もし死にたくなったら私、貴方と一緒に死にたいと考えているのです』」
「『ああ、分かったよ。だけどね、僕は死にたいとは思わないな』」
皮肉なくらいに今の俺たちにはぴったりな台詞だと思う。
「『そうだろう。たとえ一緒に死んだとしても、僕とあなたとでは死ぬ先が違うのだから』」
この後すぐに二人は入水自殺を図り、ツネ子だけが亡くなる。
だけど、少なくともこの時、葉蔵に自殺を仄めかしたツネ子が笑顔ではとても示しがつかなかったに違いない。
翌日、犬子の代理の飼い主だという人物が演劇部に訪れた。
大よそ部室で推理した通りで、代理の飼い主と話をしたさらに翌日、本物の飼い主である一ノ瀬奈々と前日の友人が謝罪にやって来た。
「ごめんなさい! 不注意とはいえ、こんなことになってしまって」
だけど、先に頭を下げたのは菫ちゃんだった。
「べ、別にいいって。犬が苦手なのにいろいろと心配して、世話をしてくれようとしたんでしょう? 感謝はしても、怒ってないから」
「それでも、ごめんなさい!」
犬子の首を絞めた理由は、俺の証言と咲桜の助言で事故ということになっている。
それに関しては菫ちゃんとも話して決めた事だ。
「だから、いいってば。先生も後二、三日で退院出来るって言っていたし」
「そ、そのことで一つだけ、ちゃんとあの子にも謝りたいですけど、会いに行ってもいいですか?」
「それは構わないけど。大丈夫なの、犬が苦手なんだよね?」
僅かに沈んだ表情を浮かべた菫ちゃんは、小さく首を振って真剣な表情を見せる。
「ちゃんと謝りたいので」
そういって困ったような表情で笑顔を見せる菫ちゃんが、本音を言っているのかは分からない。
そんなことを考えていると、視線だけを俺に向けた菫ちゃんの口元が僅かに上がったように見えた。
「(……そういうことか)」
どうやら彼女は、演劇部のマスコットにしては少し性格が悪くなってしまったようだ。