苦悩
夕方になり、十六夜の気配が居間の方にし、維月は奥の間から居間へと出て来た。
十六夜は維月を見ると微笑んだ。
「よう、維月。維心はどうしてる?あいつが神を何人か殺したのは感じ取ったが、その後ヤツも、かなり気が乱れてたようだったじゃねぇか。」
維月は困ったように笑った。やはり、十六夜にはわかるのだ。
「…維心様には、ああいうことは向かないと思うの…。本当はとても優しいかただから、耐えられないのよ。でも、龍の血と力はそれを許してくれなくて。」
十六夜は頷いた。
「まあ、本来は残虐な性質を持ってるからな、龍ってのは。それを知で抑えてるのが龍なんでぇ。オレも彎の所で山ほど文献を呼んだが、古来龍とは、殺戮の歴史を辿って来てるんだ。王が現れて、一族って認識が出始めた頃、今のように序列が出来て、落ち着いたらしいぞ。これが残虐な王だったなら、きっと今でも龍は殺戮の限りを尽くしていただろうがな。維心の血筋は、幸い力も持ってるが、賢かった。だから、地を平定出来た訳だ。」
維月は暗い顔をした。
「確かに神は力社会だから、力で押さえつけなければ今の平穏な世を維持するのは難しいだろうけれど…なんとか出来ないのかしら。人の世のように、皆平等な世に出来たら、こんなことはしなくて良くなるのでないかしら。」
十六夜は、少し考えたが、首を振った。
「…いや、考えてもみろよ。人の世では、人類皆平等を謳ってはいるが、本当にそうなのか?やっぱり力社会だろうが。オレは神の世より人の世の方が知ってるが、この1500年、そんなに変わってはいないぞ?」
維月は側の椅子に座った。十六夜もそれに倣った。
「そんなことはないわ。昔は吉原のように、人権を無視したような行いも平気で行われていたのよ?今は違うじゃない?」
十六夜は苦笑した。
「なあ維月、お綺麗な事言ってたらそうなんだけどよ、人は今だって「金」ってもんに縛られてらあ。あれの為なら人殺しもする。人を痛めつけもするし、自分を売ってしまうヤツもいる。それに、それを持ってて、たくさん動かせる奴ほど力を持ってる。誰も逆らえない。神の世界の能力と、人の世界の金ってのは、同じなんじゃねぇのか?オレは蒼達が人の学校へ通ってる時から見てたが、あいつらの授業を聞いていて、資本主義って奴を知った。経営者が王、労働者は召使い達だ。王は召使い達に生活の糧を与え、その生活を守る。その代わり召使い達は王の命令通り働く。神の世と、いったい何が違うんで?オレはまだ神の世のほうが、王はしっかりしていると思うぞ…命まで支えているからな。神の世に、警察組織はねぇ。王が平等に裁くよりないんだよ。そしてそれこそが、治安を維持するってことなんだ。維心にはそれがわかっているから、自分の手を汚してるんだよ。絶対に逆らえない王でなければ、罰することは出来ねぇんだ。」
維月はため息をついた。確かにそうだ。人の世だって、褒められたものじゃない。神の世界のほうが、まだ清浄で住みやすいのは確かだった。小さな犯罪というものが少ない…追放でもされたら、それで生きて行けなくなるのはわかっているので、自分の属する所から放り出されない為にも、皆慎ましく生きているからだ。それを統べる王も、今は維心に統べられているので、侵略など消される危険のあることはしない…この世界の治安を支えている王なのだから、情けなど掛けてはいられないのだ。
「わかってる…維心様もそうだろうし、地が維心様も寿命を決めないのも、そのせいだってことも。でも、あれではおかわいそうよ。」
十六夜は維月の肩を抱いた。
「わかってるさ。だから、オレだってお前をそうそう連れ出したりしねぇだろうが。お前は維心を楽にしてやるために傍にいるんじゃねぇのか。オレは気ままにさせてもらってるからな。お礼のつもりさ。神の世にはあいつが必要なんだよ。お前はあいつを、出来る限り楽にしてやるんだ。まあ、言わなくてやってるんだと思うがな。」
維月は十六夜を見て頷くと、微笑んだ。十六夜はその顔を見て、びっくりしたような表情をしたが、微笑んだ。
「困ったな。お前はいつ見てもきれいだ、維月。本当は今すぐにでも連れて帰りたいところだが…」と奥の間の入口辺りを振り返った。「維心、出て来い。」
小さくため息が聞こえたかと思うと、そこの出入り口の布が横へ除けられた。維心が、ずっとそこに居たような様子で出て来た。
「…主達の、話の邪魔はしたくなかったのでな。」
十六夜はふんと鼻を鳴らした。
「それでも、オレが維月にべったりし始めたら、すぐにでも出て来るつもりで見張ってたんだろうが。わかってるよ、オレはお前の部屋で維月になんやかんや考えてねぇから安心しな。」と真面目な顔になった。「オレが見て来たことを、お前に話しに来たんだ、維心。維月を連れに来たんじゃねぇ。」
維心は意外な顔をしたが、頷いて自分の定位置に座った。そして手を差し出して維月を呼んだ。維月はいつものことなので、椅子を立って維心の横へ座った。
「炎翔のことを月から見ていたんだ。」維心は険しい顔をした。十六夜は続けた。「炎覚のことを調べ回っていた。お前から知らせを受けて、それを信じていない訳じゃなかったんだが、何かの間違いだと思いたかったようだな。だがな、そこに突き付けられた事実は、隠しようもなかった。あいつは限りなくクロだったんだ。」
維心は伏し目がちに頷いた。炎翔は、愚かではない。我に逆らわぬだろう。十六夜は心中を察して頷いた。
「ついさっき、炎翔自身がヤツを斬った。そうするしかないのは炎翔にもわかっていたが、臣下の意見も聞いていたよ。が、誰一人として、処刑に反対するものは居なかった。一族のために、奴は弟を斬り捨てたんだ。それが出来るのは、あいつだけだったからな。」
維心は手をグッと握りしめた。維月はその手を優しく撫でた。それに気付いた維心は、維月の手を握った。
「…仕方があるまい。今後二度とこのようなことをしようと誰も思わぬようにしようと思うたら、それしかないゆえの。あやつも王ゆえ、わかっておったのだろう。ヤツが斬らねば、我が斬った。どちらにしても命がないのなら、せめて自分の手でと思うたのではないか。」
十六夜は頷いた。
「確かにそうだな。今は炎翔も奥へ引っ込んで出て来なくなってるから、明日にでもここへ報告に来るんじゃねぇか。ほんとに、今度の件は、誰にも重い事になっちまったじゃねぇか。…で、元凶はどうするつもりだ?」
維心は十六夜を見た。
「殺すつもりでいるが、我はヤツのことを皆目知らぬ。というのも、人の世で暮らす半神や神については、我にも把握出来ておらぬのだ。ゆえに、今調べさせているところよ。殺すのは、ここに座っていても我には出来る。だがな、相手の事も把握出来ておらぬのに、簡単に殺したりはせぬ。わからなんだら、心を取るという方法もあるのよ…あまりやりたくはないがな。」
十六夜は、興味深げに眉を上げた。
「へぇ、お前は読むだけでなく、相手の心を奪う事も出来るのか?」
維心は頷いた。
「記憶を抜き去るのは、お前も地にされたから分かるだろう。我には限定的なことは出来ぬが、全てを奪うなら出来る。それを玉にして、見るのだ。一度父の記憶を見たことがあったであろうが。あれはただのコピーだが、あんな感じよ。」
十六夜は腕を組んだ。
「だったらそんな調べさせるなんて回りくどい事せずに、さっさととればいいじゃないか。」
維心はため息を付いて首を振った。
「…一度取ると、元に戻せぬ事がある。特にそれがつらい記憶であれば、無意識に拒絶して、受け入れない事があるのだ。そうなると赤子のようなものよ。また、一から生きなおさねばならぬ。我はそれで、後悔したくはないしの。」
十六夜は考え込んだ。確かにそれで相手が悪くないということにでもなれば、後味の悪い事になりそうだ。維心はそれを案じているのか。
「…だが、お前も知らない半神のことなんて、ほかの龍が調べて来れるのか?第一、人の世の興信所で調べたって、そいつの実情なんて、そいつの心の中にしかないもんだしよ。」
維心は眉を寄せた。
「興信所とはなんだ?まあ話の流れから行って、何かを調べるのを生業としている場所であろうことは分かるが。お前の言うことは最もだ。ただ、我はあれを殺すための裏付けが欲しいだけなのかもしれぬな。何もわからなかったのなら、見たままが全て。殺しても良いだろうという。」
王であろうとも、間違いを犯すことはある。だからと言って、王が誰かに訊くわけにはいかぬ。自分が間違っていないと、言ってくれる材料が欲しいわけなのだろう。維心は、自嘲気味に笑った。
十六夜は考え込むような顔をした。
「…だったら、あいつの記憶を取って来ねぇか?今回はオレも行く。お前が決めたんじゃねぇ。だから、もし記憶を戻せなかったとしても、お前のせいじゃねぇ。」
維心は目を上げた。
「なぜにそれほど、あやつにこだわるのだ?確かに維月を売るとは許しがたいやつではあるが…。」
十六夜は、眉を寄せて首を振った。
「オレにもわからねぇんだよ。だが、なんだが見覚えがあるような気がしてならねぇのよ。」
維心は驚いたように両眉を寄せた。
「…なんだって?」
十六夜は慌てて手を振った。
「オレは月だ。いろんなものが見えてるから、片隅に見たことを忘れちゃいないだろうが、記憶の整理が付いてない場所にある情報は、こんな風に気になる、という程度でしかすぐには出て来ねぇんだよ。なんかやつがもっと若かった時のことのように思うんだが…はっきり出て来ねぇのよ。」
維心は背を後ろへもたせ掛けて考え込んだ。覚醒して意識がはっきりして来た頃からの、十六夜の記憶はとても鮮明だ。それは、維月が十六夜と心をつないだ時に流れ込んだものを、維心と維月が心をつないだ時に間接的に読んだので知っている。ただ、物事を忘れられないだけに、整理が付いていない記憶も確かにあった。そこは我らにも読み取ることが出来なかったのは確かだった。
「では、参るか。」維心は言って、立ち上がった。「主の記憶が鮮明なのは知っておる。我もヤツのことを消す前に、はっきり知っておいても良いだろうしの。」
十六夜も立ち上がって頷いた。
「じゃ、行くか。」と維月を見た。「お前はここに居るか?どうせ記憶を持って、ここへ帰って来るつもりだしよ。」
維月は頷いた。
「私、地下は苦手だから…一度道を間違えて近くまで行ってしまったことがあるの。思わず叫び声をあげてしまって。」
維心が思い出したのか、プッと噴き出した。
「おお、そうよ。こやつはあちらこちら一人でうろうろとしよるので、いつかはと思っておったが、行ったことがない場所を見つけおっての。足を踏み入れた場所がそこだった…まだほんの入り口であったのに、あまりに淀んだ気に飲まれそうになって、宮に響き渡る声で悲鳴を上げたのよ。軍神達が全員地下の入り口に集結しよったわ。」
維月は恥ずかしそうに下を向いた。
「でも…一番早かったのは維心様じゃないですか。湯あみの最中だったのに、着物一枚羽織っただけで飛んで来られて。」
維心はため息をついた。
「あの時どれほどに我が慌てたことか…まさか我の宮の中で、主の悲鳴を聞くとは思ってもいなかったのでの。」
十六夜が声を立てて笑った。
「維月らしいし、維心らしいな。目に浮かぶよ。」と足を出入り口へ向けた。「じゃ、お前は留守番な。オレは人ごみは苦手なんでぇ。軍神に大挙して来られたら困る。」
維月は、ふて腐れて言った。
「もう叫ばないわよ!苦手なだけで。」とこにょごにょと付け足した。「でも、行かないけど。」
維心と十六夜は笑って、顔を見合わせた。
「まあ、何も面白いものはないわ。主は居れば良い。」
維心は言って、十六夜を促して居間を後にした。