牢獄
維心と義心は地下へ向かって歩いた。龍の宮は岩場の上をくり抜いてその上に作っているので、地下はさらに下へ岩を掘った所に作ってあり、牢は最底の位置にある、暗くてじめじめとした、月の光すら入らない場所であった。そんな所なので、もちろんなんの装飾もなく、また、壁も元の岩場のままゴツゴツと突き出たままになっていた。
その中でも最下層には、封じるより仕方のないような重罪人を入れて封じる牢があった。
そこは、岩をただくり抜いただけで神を封じる格子が嵌められて有り、どの神も人であっても、そこから抜け出すことは困難であった。
維心は端から順番に、その牢を訪ねた。そして、いくつかの牢から、友だった神の断末魔の叫びを聞き、他の神は怯えて縮こまった。
そのうちの一つに、維心は歩み寄った。中では、右腕を失った信黎が、その右腕と共に封じられていた。意識は戻っていたが、ぜいぜいと肩で息をし、岩の床に臥せっていた。しかし、維心の姿を見ると、逃れようと体を引きずって奥へと退いた。
維心は、剣を手に入って来ていた。その剣には、振っても取り切れなかった血の跡がまだ、生々しく残っていた。
「…ふん。我に逆らう度胸もないのであろうが。それでよくあのようなことが出来たものよ。」と格子を手を振って解いて、その牢の中へ足を踏み入れた。「聞きたいことがある。」
信黎はガクガク震えてこちらを見ていた。維心は続けた。
「今、主一人ここで殺されるのと、一族を根絶やしにされるのと、どちらを選ぶ?どちらか選ばせてやろうぞ。」
信黎は震えていた。それは…我の命と一族の命、どちらかを選べと言うことか?維心は不敵に笑った。
「主の代わりに、一族を殺す。我にはそれが一人でも出来る。それは知っておろうが。しかし、主が責を負って死ねば、一族はこのまま残す。あれらに責は負わせぬ。」
不気味なぐらい、維心は冷静だった。信黎は、なけなしの王としての自覚を、振り絞って言った。
「…我を殺せ。あれらは元より何も知らぬ。我が勝手にやったことであるのだ。」
そうだ。我が子はまだ生まれて10年も経っておらぬ。妃も、遊び回る我を咎めもせずに共に居てくれたのだ。我一人のために、臣下も家族も命を落とさせるわけにはいかぬ。確かに、この龍の王はやるだろう。そうやって、何百年も昔、地を平定したのだと聞いた…。
信黎は、その場に体を引きずって座りなおした。
「…もう一人のことは、聞いたか。」
それが仲間の一人のことだと、維心は知って頷いた。
「あれは、我ではなく炎翔に頼んだ。明日にでもここへ、報告に来るであろうて。炎翔の弟なれば、王が裁くのが道理。我としても、友の子を手に掛けるには忍びぬ。炎翔が出来ぬと言うのなら、もちろんその限りではないがな。」
維心が軽く刀を上げた。信黎は思った…そうか、これほど簡単に、我らの命など消されてしまうのか。
信黎が覚悟して頭を下げていると、維心は刀を振り下げ、確かに何かを切った。
…信黎は反動で横へ転がった。右へ倒れた為、手を付くことが出来ず、右頬を切った。そして思った。今度は何を切られたのだろう…ひと思いには殺してもらえぬらしい…。
頭がずきずきと痛む。頭を切られたにしては、変な痛み方だ。
維心を目だけで見上げると、相手は横に控える軍神に何か合図をした。軍神は信黎の横へ進み出て、体を起こして座らせた。
信黎は、どこか切り損ねたのか…とぼんやりと思った。
が、維心は、今度は右手を前に上げ、気を発した。今度は何が来るのかと目をつぶって構えていると、右側の腕のあった辺りがズキンと痛んだ。傷跡を穿り返されるのか!信黎が歯を食いしばって耐えていると、維心は手を降ろし、こちらに背を向けた。
「…では、後は任せる、義心。」
「は!」
軍神が頭を下げてそこを出て行く維心を見送っている。信黎は戸惑って顔を上げた。
「…龍の王!どういう…、」
信黎は自分の右腕を見た。それは、元のようにつながって、まだ痛みはするもののきちんと動いた。維心は立ち止まって、ちらりと振り返った。
「…自分の命を差し出したのは、主だけよ。他は一族を殺せと申した。ゆえに、王たる資格なしとして我が始末した。」
信黎が自分の選択が間違っていなかったのことを知って、ホッとしていると、維心はさらに言った。
「が…安心するのは早いぞ、信黎よ。主の神としての力、消し去った。今の主は人のようなもの。王として、これまでのように君臨することは出来ぬ。しかし、人にしたのではないので、そのまま寿命は全うするであろう。誰かに王座を譲るがよい。もちろん、そんなぐらいなら殺してくれと申すなら、今の主など誰にでも殺せる。誰かに殺させるゆえの。」
信黎は自分の力を試してみた。…全く、気が出ない。それに、気を探ろうとしても、何もわからなかった。
しかし、信黎は維心に膝間付いた。
「…我は、王座を退き、弟に譲ります。そして離れの宮で、過ごしたいと思いまする。」
維心は頷いた。
「不便であろうが、それが主への罰よ。」とまた背を向けた。「妻子が待っておるのだろうが。これに懲りて、もう遊び回らぬことだ。」
維心はそこを出て行った。
維心は、別の軍神に刀を渡すと、自分の居間へ向かった。領黄の事は、まだ処分していなかったが、自分の「気」を押さえるのが難しくなって来て、一度戻ろうと思ったのだ。
軍神はそれを恭しく受け取ると、血糊の付いた刀の手入れに向かった。維心は少しふら付く足取りで、ひたすら足を進めた。ふと見ると、今まで返り血は浴びないように考えて切っていた維心の手に、血のしぶきの跡が点々と残っていた。
やっとの思いで居間に到着した維心を、維月が迎えた。笑顔であったその顔は、維心を見た途端驚きの表情に変わった。
「維心様!どうさなったのでございますか?」
維月が駆け寄って来る。維心は荒々しく維月を抱き寄せた。
「…気が収まらぬ。」維心は息を荒くしながら言った。「三人殺して来たゆえ。多数殺すと昔からこうよ。」
自分を抱く手を見ると、手に血しぶきが見えた。維月は維心を抱きしめると、奥の部屋へといざない、寝台に寝かせて、侍女に湯を持って来させてその手を洗った。維心は黙って目を閉じている。しかし、息苦しそうなのは変わらなかった。きっと「気」を押さえるのに精神をすり減らしているのだろう。
維月は、血を洗い流しながら、心をつないだ時に見えた様々な場面で、維心がたった独り、侍女を使わず返り血を洗い流すのを見たことを思いだした。戦や罰する時に相手を殺した時心ならず返り血を浴びた時、維心はいつも独り、この奥の間でそれを洗い流していた。その時の心は荒み、そして高ぶった気と感情を、必死で抑えようとただ独りきりでここに篭って耐えていた。
洗い流し終えて手をきれいに拭き取り、それを侍女に片付けさせた後、維月はその手を取って自分の頬に当てた。思わず涙が流れて来る。このかたは、本当はこんなことはしたくない、向いていない人なのに。力を持って生まれたばかりに、こんな事をしなければならなくて、その度に心に重荷を負って、そしてまた自分の気が残虐に湧き上るのも抑えなければならず、しかしそれを誰にも言わずに、たった独りで耐えて来たのだ。
維心がうっすらと目を開けた。
「…なぜに泣くのだ、維月。」
維心の指が、維月の涙を拭った。自分も苦しいはずなのに、目は気遣わしげに維月を見ている。維月はその手に口付けた。
「維心様、もうお独りではありませぬゆえ。私に甘えてくださいませ。」
維心は黙って維月を見ていたが、自分の横を示した。
「では、ここへ来るのだ。我をその胸に抱きしめていよ。」
維月は頷いて、寝台に横になると、子供を抱くように維心を胸に抱きしめた。維心は維月に腕を回して抱き寄せると、フッと息を付いた。
「…こうしておると、楽になる…。ほんに主は不思議よ…。」
維月はその髪を撫でた。
「私はずっとお傍におりまする。安心なさってくださいませ。」
維心は、少し黙ってから、維月を見上げた。
「…我が人殺してあろうともか?」
維月は頷いた。
「はい。維心様は理由もなくそのようなことをなさらないのは、分かっておりまするゆえ。」
一瞬、維心は泣きそうな顔をした。
「我は…我はまた、三人の神を消してしもうた。そうせねば示しがつかぬからだ。おそらくその一族も、その理由が納得出来ねば、挙兵するであろう。そうなればまた、1500年前のように、一族ごと殺してしまわねばならぬ。炎翔に、実の弟を罰するよう命じたのも我だ。客の一人が、そうであったのがわかったからだ。おそらく炎翔は対面のために実弟を殺すであろう。炎嘉の子であるというのに…。」
維心の表情は、まるで何かを母に訴えて居る子供のようであった。維月はその頭を撫でた。
「…王は、意に沿わぬこともしなければならないのでしょう。まして維心様は地を平定している王。維心様は誰もがせぬことを、たったお独りで今までして来られたのですわ。ご自分の判断が地を変えるなど、どれほど重い責務でありましたでしょう。維心様は、本当に頑張っておられます。でも、もう独りではないのですわ。私が居ります。なんなりと、こうやっておっしゃってくださいませ。」とその頬に手を掛けた。「心をつないでお見せしましょう。私が維心様をどう思っているのか、わかりますわ。」
維心は素直に従った。口唇が触れて、心が流れ込んだ時、維心は荒れて氷付き掛けていた自分の心が、維月の暖かい愛情に包まれて微睡んで行くのがわかった。
維月は、我が何をしていても、想っていてくれるのだ…。
維心は、そのまま眠りに落ちて行った。
しばらくして目が覚めた維心は、すっかり自分の気が安定しているのを感じ取った。
今まで、こんなに楽に収まったことがなかったので、驚いて頭を上げようとすると、何かが自分をしっかりと抱きしめていて、身動き取れないのを知った。
見ると、維月が維心を抱きしめたまま眠っていた。あの花魁の髪型のまま普通に横になったので、眠りにくそうだが、それでも負けずに寝ている。維心は思った。そうか…維月が助けてくれたのだった…。
維心は改めて維月を抱きしめた。
すると、維月がそれを感じて目を覚ました。
「…維心様?お目が覚めましたか?ご気分はいかがですか?」
維心は微笑んだ。
「良い。」と維月を見上げた。「このように早く、楽に収まったのは初めてよ。主はどのような力を使って、我を治したのかと思う。」
維月はふふっと笑った。
「愛、ですわ。」と維心の手を取った。「時に信じられない力を発揮いたしますの。さあ、もう起き上がりましょうか。お茶でもいかがでございますか?」
維心は起き上がって、頷いた。
「そうよの。まだ、領黄の処分が残っておるが…」と維月が眉をひそめたので、ため息をついた。「明日にしようぞ。今日はもう、ゆっくり過ごすゆえ。」
維月は満足そうに頷いて、維心と共に居間へ出た。侍女が走って来て、維月の崩れた髪型を整えてくれる。維月はお茶を持って来るように他の侍女に頼み、維心といつもの席に並んで腰掛けた。
そうやってしばらくすると、義心がやって来て維心に片膝を付いて礼をした。維心は問うた。
「義心か。何用ぞ。」
義心は頭を下げ直した。
「王、処分についてご報告に参りました。」
維心は先を促した。
「申せ。」
義心はすらすらと言った。
「信黎殿は宮へ送り届けて参りました。他、王の亡骸は各宮へ、王の文書と共に送り返し、処理終わりましてございます。只今は、地下につないでおるのは領黄のみとなっております。」
維心は頷いた。
「して、炎翔殿より報告は参ったか。」
義心は首を振った。
「いいえ、未だ。明日になるのではと思われまする…炎翔殿は事実関係について、かなり念入りにお調べになっておられる由。あちらをうかがう軍神の報告でございまする。」
維心は伏し目がちに頷いた。
「わかった。主は休め。後は明日にする。」
維月はそれを聞いて、思い出した。義心は昨日からずっと休みなしに働きっぱなしだったんだっけ…でも、疲れは見えない。きっと、こんなことには慣れているのだろう。義心は再び頭を下げると、居間を出て行った。
維心は、もの思いに沈んでいるようだった。維月は横からそっと手を握った。
「…さあ、明日まで憂さ事はお忘れになるのですわ、維心様。そのようにいつまでも同じことばかり考えておられたのでは、疲れてしまいまする。」とふて腐れたように横を向いた。「私が横におりますのに…。」
維月はわざとそう言った。維心が少しでも穏やかに過ごせればと思ったのだ。
思った通り、維心は少し慌てたように、維月を見た。
「そのようなつもりはないのよ、維月。我はいつでも、主のことを考えておるぞ。」
「…男のかたの、そういうお言葉は信じられませんわ。」
維月が尚も横を向いていると、維心は気遣わしげに顔をこちらに向かせた。
「維月…我は…」言い訳をしようと、こちらを向かせた維月が微笑んでいるのを見た維心は、察してニッと笑った。「こら、ほんに主は…我は本気でどうしようかと思ったのだぞ。主はへそを曲げると大変であるゆえ。」
維月は維心の着物の前合わせを両手で掴んで、じっと見上げた。
「維心様…」
維心はフッと微笑んだ。
「維月、まだ日は高いとは言わぬのか?」とからかうように言って、抱き寄せて頬を摺り寄せた。「よしよし、奥へ参ろうぞ。主の良いようにしてやるゆえにな。」
維心が穏やかに微笑んでいるので、維月はホッとした。今日、あと残りの時間だけでも、嫌なことを忘れさせてあげられるのなら…。
奥の間に運ばれながら、維月はそう思い、維心に口唇を寄せた。