王の挙式
その日は、晴れ渡っていた。
十六夜は、迷ったがやっぱり行かないと蒼に言づけて来た。来ても別にやることもないからだと本人は言っていたらしい。
前日、実は維月が早朝より準備に行かねばならないので、自分の部屋で寝ようと侍女達と話していたのだが、維心がなぜわざわざそうする必要があるのだ、自分は朝早く起こされても構わないとゴネたため、結局いつものように維心の奥の間で眠っていた。
やっぱり早朝4時頃に侍女達は維月を呼びに来て、維月はふらふらと起き上がった。維心はまだ寝ていても良かったのに、同じように起き出して、しかし正装をするにはまだ時間も早いので、一人居間に座っていた。
しかし、今日は臣下達も忙しく、王への事前の確認は済んでいたので、時刻になるまでに維心に何か話に来る者も居なかった。あまりに退屈なので、維心はそっと、自分の部屋から維月の部屋の方を伺った。
維月は、こちらに背を向けて、鏡の前に座って、侍女達にせっせと飾り付けられていた。維月の髪はいつも背の真ん中辺りまでの長さなのだが、それをこういった公の場に出る時は結い上げるためにとても長く変える。今日も長くした髪をとても凝った形に結われていて、維心でもあれはどうなっているのか分からないほどであった。
侍女が言った。
「維月様、かんざしとお着物、どちらを先に致しましょうか?」
維月は顔をしかめた。
「そうね。かんざしは首が凝るから、先に着物を着るわ。」
「では、お立ちくださいませ。」
維月は立ち上がった。侍女達がたくさんの厨子を運んで来る。維月は面食らった。
「まあ、いつもの白い着物にあの打掛を着るだけではないの?」
侍女は維月の帯に手を掛けながら言った。
「下に何枚も重ねた上にあの打掛を着るのですわ。この色の付いておりますものを重ねて、あの太い帯を巻きますの。」
維月は指差されるままにそれを見ていた。帯は銀の太い、見るからに重そうなものだった。
「…私、歩けるかしら。」
維月が不安そうに言う。侍女は帯を解いて言った。
「大丈夫でございます。我らもお手伝い致しますし、王が居られるので疲れたらもたれ掛かってしまわれたら。」
維月はフフッと笑った。
「そうね。ああ、維心様運んでくれないかなあ…転んだら恥ずかしいではないの。」
侍女は笑った。
「お式の時はご自分で歩かなければなりませぬが、他は頼んでみられてもよろしいかも。維月様がおっしゃるなら、聞いてくださいまするわ、きっと。」
維月は眉を寄せた。
「そうかなあ…。」
維心がこらえきれずに低く笑い声を立てると、侍女と維月はこちらを向いた。その維月は、化粧をされて、かんざしも何もなく襦袢姿であるのに、とても美しく見えた。
「まあ!」侍女が慌てて維心の所へ飛んで来た。「王!只今お着替え中でございまする。覗かれてはなりません。」
維心は少し拗ねたように言った。
「しかし、我が妃であるのに、着替えておっても…、」
侍女は断固として譲らなかった。
「お式の前に花嫁の着替えを覗くなど、王がなさることではございませぬ。さあ、お戻りくださいませ。」
維心は自分の部屋の方へ侍女達に押し返され、戸を閉められた。維心はそれでも、戸の前を離れられなかった。まだ着飾ってもいないのに、あれほど美しくなっていたのだ。維月を見たくてたまらなかった。
「…いつなら、見ても良いのだ。」
維心は戸板越しに聞いた。侍女が少し戸を開けて、答えた。
「お式が始まる前になりましたら、お会いできまする。それまで、ご辛抱くださいませとの維月様のお言葉でございます。」
戸は、また閉められた。
維心はため息をついて、居間へ戻った。
それから一時間ほどして、やっと自分の着替えを担当する侍女達がやって来て、維心は奥の間へ戻った。
あの日維月が選んだ布地で縫われた打掛を着せられ、維心も髪を結われた。正装なので袴も着せられ、腰にはいつもの刀を差す。足袋を履かされ、銀糸の鼻緒の草履を履かされた。
「王、お仕度整いましてございます。」
維心は不機嫌に頷いた。
「…妃はまだか。」
侍女はためらった。なんだかどんどんと機嫌が悪くなって来るような王に、どうしたものかと思っているのだ。
「では、あちらの侍女に聞いて参りまする。」
その侍女は慌てて出て行った。維心は、居間へと移動しながら、あまりに時間が掛かるので、維月の顔が見たくてイライラしていた。今日は我らの婚儀、一日離れずに居られるはずではなかったか。その不機嫌さが満タンな所へ、洪が入って来た。
「王、本日は誠におめでとうございます。」と深々と頭を下げた。「来客も次々に揃いまして、お待ち申し上げておりまする。もう、そろそろお時刻となっておりますが…」と顔を上げて、維心の不機嫌な様子に驚いた。「王よ。本日はご機嫌も麗しいかと思っておりましたのに。」
維心はむくれていた。
「維月が来ぬ。侍女達が着替えの部屋へ入ってはならぬと我を追い出しおった。あれからもう二時間にもなろうぞ。一体何をしておるのか…」
維心がそこまで言った時、居間の横の布が開かれた。頭からすっぽりと薄い膜のようなほんのり青いベールを被せられた維月が、そこに立っていた。
維心は息を飲んで立ち上がり、目を離せなくなりながら、維月に歩み寄った。
「まあ維心様、とてもご立派でございますこと。」
ベールの中の維月が言う。維心は尚もじっと見つめたまま、やっと言った。
「…主こそ…。なんと美しい事か。」
とベールに手を掛けて除けようとすると、侍女がそれを遮った。
「王…これを取るのはお式が終わった後でございまする。」
維心は眉を寄せた。
「そんなもの、少し見るぐらい良いではないか。」
維月がベールの中で苦笑したのが薄く見えた。
「維心様、本来なら今お顔を初めて見たような感じなのですわ。式も終わらぬのに、いきなり花婿がベールを剥ぐなんて、いけないでしょう?」
維心はため息をついた。
「良いではないか。我はどれほど我慢せねばならぬのよ。」
「本日は、一日でございますわね」と維月が言った。「皆の前に座らされて、夜まで過ごすのでしょう?」
そういえば、そうだ。婚儀とは、これほど面倒なことであったのか。維心は不機嫌に洪を見た。
「では、式場へ参ろうほどに。」
洪は頭を下げた。
「はい。」と居間を出て叫んだ。「王のお出ましである!」
それまでざわついていた宮の中が、シンと静まり返った。維心は維月の手を取った。それもベール越しだ。
「…早よう終わらさねば、我は我慢出来ぬわ。」
維心は維月に小声で囁いた。維月は、大丈夫かしら…と思いながら、維心と共に居間を出て、式が執り行われる東の大広間へと向かった。
そこまでも道すがら、宮の召使い達や侍女達が、回廊の両脇に並んで頭を下げている。いつもはこんなことはないが、多分、これが王の婚儀の祝いを宮を上げてするということなのだろう。
東の大広間は、宮で一番大きな部屋だ。着物もかんざしも、例にもれず重いので、維月はやっとという気持ちで維心と共にその戸の前に立った。維心が言った。
「戸を開けよ!」
両脇の龍が頭を下げて、戸を大きく開ける。
道がずっと玉座の方まで続いていて、その両脇には、今まで見たこともない数の神々が並んでひしめいていた。維月はドキドキした。ああ、着物の裾を踏みませんように…。
式と言っても、維心が一番強い神なので、神に誓うとかそんな形ではなかった。それは蒼の時も見ていたので知っていたが、皆の前で宣言するといった形になるのだ。
玉座の前に並んで立つと、維心が半歩前に進み出て、水を打ったように静かな中、高らかに宣言した。
「我、龍族の王、維心は、我が妃、陰の月である維月を、正妃とすることをここに皆に宣言する。」
皆が一斉に頭を下げた。維月がどうしようと思って見ていると、維心が振り返って維月の手を引いた。
「さあ、やっとそれを取って見せてもらえるぞ、維月よ。」維心は小声で言って、ベールに手を掛けた。「我に見せよ。」
維月は、それをかぶっていることで中がはっきり見えないので、安心感があるなあと思っていた所だった。なので、これを取られると思うと、心細かったが、式の流れなら仕方がない。黙ってされるがままになっていた。ベールが足元に落ちた。
回りを見る勇気がなかった維月は、しばらく伏し目がちにしていたが、おお!とどよめく来客を余所に、維心が全くなんの動きも言葉もない。維月はどうしたのだろうと顔を上げた。
「…維心様?」
維心はハッとしたようにその目を見返した。
「維月…、」
維心は言葉に詰まっている。どこかおかしかったのかしら。洪が小声で横から言った。
「王、もうよろしゅうございますか?」
維心は少し洪を振り返ると、頷いた。洪は声を大きくして言った。
「では、王と王妃は次の間へ移られまして、皆様のご挨拶をお聞きいたしまする。」
召使いの一人が維心と維月の前に来て頭を下げた。付いて来いということだ。尚も黙ったままの維心と、何事かと心配げな維月は、召使いについて、次の間へ歩いて行った。将維を筆頭に明維、晃維、亮維、紫月がその後ろに続く。維月は後ろの将維を振り返って小声で言った。
「ねえ将維、私、どこかおかしいかしら?」
将維は驚いたような顔をして言った。
「いいえ、とてもお綺麗ですが、母上。」と前を促した。「足元にお気を付けください。段差がございまする。」
将維はいつも、母の世話には慣れていた。30歳だが、人の年齢とは違うので、見た目もまだ20代前半ぐらいにしかならない。本当なら神には有りえないほど歳が近接しているので、兄弟は皆同じ見た目になっていた。
大広間を出る時に、洪の声が背後から聞こえた。
「では、只今よりお呼び致しまする順にご案内致します…」
維月はため息をついた。いったい、何時間座っていたらいいのかしら…。
大きなソファのような、広い寝椅子がある。これは居間のいつも維心と座っている物と同じタイプのものだ。維月はホッとした。これなら疲れもいくらかマシだわ。
維心と維月が並んで座っている横から、子達が五人並んで座り、客を迎える準備は整った。出入り口に居る案内の龍が言った。
「月の宮から、王、蒼様、王妃、瑤姫様。」
一番最初に入って来たのは、蒼と瑤姫だった。維月はホッとした。蒼が瑤姫と並んで頭を下げた。
「この度はおめでとうございます、維心様。」と維心の様子を見て、蒼は眉を寄せた。「維心様?」
維心はハッとしたように顔を上げた。
「ああ、蒼、瑤姫、よう来たの。隣りで宴席が設けられてある、寛いでくれ。」
蒼と瑤姫は顔を見合わせた。蒼が小声で瑤姫に言った。
「どうしたんだろ。もしかしたら喜び過ぎて、ハイになってるかもとか思ってたんだよ。なのに、なんだか心ここにあらずじゃないか?」
瑤姫は蒼を見て言った。
「…あれは、蒼様もあんな感じでございましたわよ?私が話し掛けても、他の者が話し掛けても、式の後しばらくはあのように…。」
蒼は思い当たった。ベールを取った瑤姫があまりにも美しかったので、しばらく口がきけなかった…しかもその瑤姫が横に居るのだから、瑤姫のこと以外何も考えられなかったのは事実だ。もしかして、維心様も?でも母さん、確かに今日はきれいだけど、瑤姫の方がもっときれいなんだけどなあ。
蒼は維心に言った。
「維心様…このあとたくさん接見しなければなりませんよ。オレも覚えがあります…瑤姫があまりにもきれいだったから、他は何も頭に入らなくて。確かに今日の母さんはきれいですけど、今日一日は頑張ってください。」
維心は眉を上げた。的を射たようだ。
「…すまぬな、蒼。しかし、我はしばらくは無理よ。」と維月を見た。「このように美しい維月は、今までに見たことはない。この姿ばかりが気になってしもうて、早く済ませてずっと見ていたいと、そればかり…。」
また、維心は言葉を切って、黙って維月を見つめている。蒼はため息をついた。
「とてもよくわかりますが、まだ先は長いですよ。」と将維を見た。「将維、何かあったら頼んだよ。」
将維は頷いた。
「わかった。蒼よ、我も後で主と話したい。残っておってくれよ。」
蒼は頷いて、維心に頭を下げた。
「それでは、失礼致します。」
維心は軽く返礼した。維月はため息をついて苦笑した。
蒼達が出て行くと、また案内の龍が言った。
「西の風の宮より…、」
そうして、それは夕方まで続いた。




